考えるブログ

考えたことを載せます。哲学。関心のあること。

文学的修辞として用いられる通奏低音という語は、バロック音楽のそれではなく、現代音楽のそれ(に相当すると感じられる何か)おいてその実感味を強くするといえるだろう。その本来の意味からすれば、文学的修辞としての用法は誤用だということになるのだが、そもそもそう書いてこれを読む者が「あれのこと」だとわかる、というそのわかり方の方が、文章表現の場では大事であると考えられる。そしてこの観点からまたバロック音楽の演奏形態におけるそれを改めて見直すと、案外この誤用はそこまで誤用でもないのではないかと思えてくる。通奏低音とは、合奏において、通常、異なる楽器がともに一つのバスを担当するということであり、しかしこれはまた合奏全体の伴奏の役目をするのであって、したがってリュートチェンバロ、オルガンといった和音楽器がここに用いられるとき(おそらく大抵は用いられたはずだが)、その譜に記された和音を示す数字記号(後代のコード記号に相当する)に依りながら即興的に伴奏をつけてゆく。すなわち、バスの旋律に上声の和音や旋律が添えられるというような格好になる。独唱においては、その譜は、歌唱パートに数字付きのバスが二声の対位法をなした形になっているが、実際にはこのバスは伴奏者の即興的な上声部を前提しており(あるいはときに単独のバスであったかもしれないが)、それによって後代のふつうにピアノの両手のパートが一音一音全て書き込まれた譜面を伴奏として奏したのと同等と言える和声的充実感が得られることになる。通奏低音としてチェンバロの席に座るのは、その曲の作曲者であることが多く、そもそもこの位置は、合奏そのもののその和声的方面(総体的方面と言えるか)から見た指導的位置と言え、おそらくその旋律的表現の方面における指導的位置であるいわゆるコンサートマスター(第一ヴァイオリンの首席奏者)とは、その意味で対をなすと言っていいだろう。*1この総体的とか指導的という意味を拾うならば、通奏低音は、この音楽そのものの底流にある精神という意味合いを帯びてきそうな雰囲気を醸し出す。バロック音楽においては、何か特定の題材に寄せることによってでなく、諸旋律や和声のひだそのもの(あるいはそれらが自らなす構造)によって精神的なものを直接表現しようとする姿勢は比較的薄い。書かれた楽音の並びだけから様々なものを表現しようとする努力は、まずは劇的表現の深まり、すなわち諸感情を表出できるための表現法の開発から進むことになった。通奏低音が「通奏低音」の意味を帯びるように、今の時代の目からみてなってくるのはどの時点からかを考えてみると、ある特定の曲を超える作曲者らしい特徴というものが、単に作風というレベルを超えて、それ自身がその内的精神そのものの表現であるとみなせるようになった時点であろうが、ただしそれにも個人、地域や流派、時代そのものにおける違いといったことを柔軟に捉えて行く必要があり、通奏低音を書いて行く時点に現れる一音一音のひだに、作曲者自身が自らを精神として認識しているまさにその部分に直結する内的理念が込められているかどうかが、その鍵となる。すなわちしつこいようだが、通奏低音が「通奏低音」であるかどうかが大事である。とはいえ、実際に通奏低音というあり方そのものが、もともと、こうした意味として理解されうる含みを持っているのであり、そのバスベースの指導的地位という意味合いはのちに指揮者という形に昇華されて行くことになるともみることができ(コンサートマスターはやはり、演奏そのものの、比較すれば技術面のひだを主宰する、あるいは導き、その結果として精神的な部分における特に生理面の管理者となる。)、ここまでくれば作曲者・作品の内的本質という側面とかなり深いつながり、すなわち内的理解を介したそれをみることができる。内的な通奏がなぜ、高音でなく、低音であるのか、ということを考えると、この場合は、低音というものが動かないもの、ずっとそこにあるもの、そしてその生命がそこにおいて形する場所、その生命の意志の底そのものとなっている意志されないものの表現として理解されているからである。意志されないが意志はそれと一つであり、それはただ通奏低音として現れることのみできる。

もう一つの観点は、根本的にはこのことに行き着くのだが、低音、特に地の底から響いてくるような重低音が、ある精神の常なる内的本質を表現した何か不思議な不協和音のようなあり方とでも言うべきものを、文学的な仕方で象徴しているようなイメージの響きを持つということである。「一つの楽音」そのものが自然倍音としていくつものより高い音を同時に含んでいて(しかしよく溶け合ってこの和音は和音としてはふつう意識されない)、特に低音を何か鳴らしてみて、耳を凝らすと、その上に「和音」が重なっているのが聴こえてくる。むろん高音域でも同じことなのだが、ただそこに倍音として重なってくる和音が、かなりの程度人間の可聴音域を超えるものになってくるのに対し、低音域におけるある楽音の倍音列は、それがピアノならその中高音域に多くの音を含むものとなっており、そこで実際の手で奏される和音の音の存在する領域にかなりの程度かぶさっている。そこから考えても、低音というものが、音楽的にそれ自体「和音」という意味をもともと強く持っている(とともに、通奏低音の記譜法などを併せて考えればこのことと符合する)。こういう見方からすると、通奏低音とは、内的本質において不可思議に響いているある根源和音が、「地づたいに聞こえてくる」ような有様を言い表わするものとも理解でき、そしてこの不可思議な和音は、実際の「形になった」音楽のなかでは、様々な和音・ハーモニーとして、その豊かなバリエーションとして表現されてくるのだと言えるだろう。



以上のように捉えられてくると、低音というのは、より一般的に言えば、ハーモニーの彩りを「そこ」から顕わにさせる何かである、ということになる。音楽は常に現在に生きたものとしてなければ、実際に響き出しているものとは言えない。そのことと、低音のこのような意味合いを合わせて捉えるときに、また新しい観点が生じてくる。

音楽自身もそうであるが、そもそも実際には全ての点が生命の生まれるところであれば、基底的なものも、全ての点において存在し、これらが並べられるものであったならば、その全体の一貫性は絶えざる変化(あるいはさらに微妙な織り合わせ)として理解されねばならないため、何をもって「バス」と言うかが、まるで変わってくる。バスという特定パートではなく、その全ての点が、その音楽の一貫性の根底にある通奏低音に触れているという意味において持っている「バスさ」について考える必要がある。そこで、旋律の一音一音が、次の一音にとってのバスであるという意味を持っていると言えるのではないか、と考えてみれば、単旋律を全体とする音楽そのもののすでに持ち合わせている精神的全体性が理解できる。*2その精神的全体性といったのは、ここでは一応ハーモニーと言い換えることができる。ハーモニーという言葉自体にも様々な用法があるためである。これはより「止めた」仕方での理解であるが、動いているものを動いているままに掴んでゆくとき、その律動がそのまま不可分にバスと弾み出す声の脈動となる。例えば旋律の一音一音が次の音にとって「バス」になるというのは、ここではさらに「後の方の音」がこの不可分の脈動のまさに脈としての反応点になるとともに、この不可分さのために、この反応の一連そのものが全体としてさらに広い場所への律動的なバスとなるというより有機的な意味を持ってくることになる。「縦」にも様々な意味合いが可能であり、いわゆる和音から考えられるならば、註にも記してある通り、この有機的なあり方は、微妙な色合いの共鳴の時空間として捉えられるが、律動から考えるならば、間断のない相互の多彩な反応として捉えられる。この二つの観点も、実際相互に食い込むことができ、それが現代的音楽そのものの様式的基底の重大な一側面をなしている。

このようにして、どこに「バス」があるか、ということに関しても、その「焦点」の柔軟な当て方、あるいはそれそのものを動かしてゆく律動的な反応によって、あらゆるところに考えることができる。文学的な意味での通奏低音とは、そのような複雑に有機的に織り合わさってゆく様々な焦点の当て方のスタイルの、それぞれの個性的基底となるものであり、それは本来のバロック音楽におけるそれとは意味合いが異なるのではあるが、そもそもそのバロック音楽というものの構造さ、それも人間的なものから独立してではなくむしろこれに近い親しみやすさを持ち合わせたそれという性質から、かえってここでただ特に重い意味なく(要するに形式的に)通用していたそれが、全体ごと素直に「精神化」する形で意味転換するところがあったのではないかと思われる。例えばバッハがしばしば西洋音楽史の文脈で通奏低音的な重みを伴って語られるように。

*1:ここからすると、指揮者とは両者の総合として、虚空に和音を掴み、旋律を織り、むしろ和音を旋律へ、旋律を和音へと満たしてゆくバスのバスと言えるかもしれない。この任務のある面を免除された楽器におけるバスパートは、それによってかえってその旋律的性質をより輝かせることができるようになったとも言えるだろう。この流動において、合奏におけるテナーは、ヴァイオリン属においては、そもそもヴィオラによって請け負われているのか、チェロによって請け負われているのかが実際には判然としないことが多くなったとも言える。コントラバスがそれ自身独立してバスを担当し、チェロが独自の旋律を歌うことができるようになれば、それは合奏におけるテナーでもあれば、あるいは歌唱におけるテナーでもあることができるようになり、その芳醇な音色をのせた旋律を合奏において聴くことができるようになった。一つの楽器においてバスも主旋律も受け持つことができるといえば、それだけではチェンバロのような和音楽器に近いようであるが、しかしそれにおいては伸びのある旋律そのものよりも、いかに減衰音を旋律的表現にまで高めるかという観点からの努力が図られることになり、またピアノという楽器の登場自体もこの観点から理解できる側面を強く持っている。チェロは、こうした合奏形態における流動が起こったときには、すでにその無伴奏における演奏表現の可能性がかなりの程度開発されているはずであり、あるいは時代がこうした表現の幅をチェロという楽器に必要とするようになったということになる。チェロがチェンバロにその表現の総合性という意味で似るようになったと言えるならば、逆にチェンバロがチェロに演奏表現のあり方において似てゆく道はないかということを考えることができる。撥弦という仕組みを持つにしても、その一つ一つの発音を自由にコントロールできた方が、より旋律的である。そこからギター独奏やマンドリン独奏における表現法の発展の一つの大きな動機が理解できる。あるいは、機構の進歩によって打鍵音の減衰そのものにおける芸術的奥行きがより備わってきたピアノを使うならば、この独特の「伸び」を生かしたそれとの内的対話が可能になる。それ自身が合奏に相当する表現力を持つことがそれによって可能になった。あるいは、さらにピアノの打鍵音の「伸び」そのものに、撥弦的閃きを感じることがまた可能であるから、たとえばギターにおいて開発された演奏表現法の拡張がまたピアノのそれに内的に結びつく道ができる。そのギターは、おそらく鍵盤楽器や旋律楽器における表現力のこうした広がりに深く影響される形でその表現の芸術性を高めることになったと考えられる。さらにはマンドリンバラライカやバンドリンのように、旋律楽器そのものが、撥弦を発音の基本としながら、和音的なあり方をあくまでもその従に置く、すなわちヴァイオリンと同等に歌おうとするようなものであったとすれば、他の撥弦楽器における表現法もともに旋律的表現の奥行きのなかに加えられることができ、こうしたあり方を大きくみるならば、こうした音楽史脈絡を全て踏まえた極めてハイブリッド的表現が可能になる。

*2:旋律的なものを一度に縦並びにするとき、全てが全てに対してバスでありうる和音の概念が可能になる。それぞれの楽音の「バスさ」の微妙な度合いは、それがおいてある動く時間の脈絡において、響き合う色合いとして測られる。