考えるブログ

考えたことを載せます。哲学。関心のあること。

虚心に考えると、原子に質量があるならば、たとえそれが乱雑な運動をして他の原子(というよりも分子という単位でということなのだが)と衝突を繰り返し進路を上へ斜めへ横へ下へとそれこそ乱雑に替えることを繰り返しながら空間内に(それを真空と言ってよいかどうかはまた考えるとして)存在しているのだとしても、かなり長い時間が経てば、皆地面に吸い付くように落ちてしまうのではないか、そして地球そのものがただの分厚い何か固体すなわち岩石の塊ということになってしまわないのか、そういう疑問が湧き起こってくる。つまり恒常的に空気をまさに「空気」として保たしめている何かが要因としてなければ、地上にあるものがふだん親しんでいるその空気というものが存在することも不可能であろう。もちろん気体と固体だけが原子というもの(いや分子であるが)のとる状態であるのではなく、とうぜん水のような液体という状態がある。真空内に小さな粒としての原子が(質量を持ちつつ)無数に存在しているとして、これをただ単に球(たま)のようなものが空間で散らばっている様子として理解するならば、これらがともかく一定の距離感を互いに保ちつつ恒常的にこれをずっと大きい視点から見たときに気体といえるような状態であることができるのかすら感覚的にはよくわからないが、それに加えて、液体という独特の球(たま)どうしの「距離感」のあり方がどのように生まれるかということを考えると、よりわからなくなってくる。そこで、これらの粒は単なる「球(たま」ではないという理解の仕方がどうしても必要になってくるのではないかと思われる。すなわちこれらが単に「球(たま)」であることからは、最低限の性質すなわち質量を持つというだけが発想されそうであるが、これらが同時に何か自らの内に磁力のような、離れたものの間に働くことのできる(しかし意志による舵取りによるのではなく、あくまでもそれは触発くらいのことである)独特の力を持っていると発想されることによって、粒どうしの「距離感」の取り方にも、今単純に発想してみたモデルの持つ初歩的な怪しさを乗り越えて、多彩さが加わることが可能になってくる。そこからどの力がどのように働いて、その結果、ふつうに目にすることのできる大気や諸物の様々な通常状態が説明されるのか、ということについては、この観点に粘り強く注目しつつ、物理学や化学の諸理論をこの一つの糸に結びつけながら理解してゆかねば、十分には果たされないだろう。*1

*1:たとえば、このなかで万有引力という言葉で言われるあり方、つまりこの単純なモデルのなかでも粒と粒どうしが引き合っているということが、一体空気の空気らしさ(粒どうしの距離感)を与えるために、どのように役に立っているのか、などといった観点が必要である。