哲学研究

実在の問題について自我流で好き勝手考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

「重ね合わせ」の認識論の試み (2)見ることと感じることとの関係

(1)からの続き。

五感の体系性

(1)で論じたこと、すなわち「重ね合わせ」の理屈にまつわる議論では、「物」の無味乾燥な認識について論じたばかりである。ということは、これだけでは視覚と触覚に限った話であることになってしまう。しかしおそらく聴覚や嗅覚なども同じ論法から考えられるのではないかと思う。なぜなら認識とは視覚的なものでしかないからである。非視覚的な認識も、視覚的に体系付けられる限り認識となるのである。しかし視覚というものが単なる視覚ではなく、むしろ様々な感覚を含んだ身体的なものでしかない、というところに認識の問題の難点が存在する。我々が身体を脱して純粋に見るものすなわち純粋精神となることができないのは、見ることは感じることに即したものでしかないからである。そこで、ここからは視点を転じて、「感覚」を軸にして論じて行こうと思う。今まで論じたことは要するに一つの型、モデルであって、ここからは多少なりとも具体の方に進んでみたい。以下に論じることが「浮き出」「重ね合わせ」とどう関係するか、ということについては、行間に記してあるので心の目にて読まれたい。

さて、認識とは視覚的なものでしかない、と言った。認識とは端的に言うと、物の自己同一性を見るということである。例えば「そ」という平仮名がまさに「そ」という平仮名として自己同一であるというのは、その背後に「く」は「く」として、「ら」は「ら」、「て」は「て」、「す」は「す」、、、、という風に個々の平仮名がそれぞれ自己同一となることを伴っているのであり、すなわち一つの物は、同じ場所にある他の物と上手に「疎外」するということ、更にはそれらをそれらとして「見る」というその視点が、それらに対して「疎外」することである。これは視覚的なものでしかあり得ないであろう。無論認識といっても様々な認識が存在するのだが、全ては単なる物の同一性の認識の上に立ち、また命題なるものも場所を深めた単なる「物」と考えられると思うので、ここに焦点を絞ろうと思う。命題とか判断の真偽などを問うなら、偽とされるもまたある面からは真で、その逆もまた「真」だ、などとややこしい話になるが、そんな複雑な問題は、シンプルな立脚地から順々に考えて行くと追い追いわかってくるものなのだから、とりあえずほっぽり出しておくのが良いのだ。

それで、聴覚的な認識も嗅覚的な認識も、その実視覚的な認識と考えられるのではないか、という論点である。そもそも音とか匂いの同一性というのは、我々がそこから得られた情報を、何らかの形で視覚的に構成した上で成り立つものであろう。*1何か個的なものが個的なものとしてあるというのは、視覚的に構成されるということである。視覚だけは、全く互いに疎外し合うものどうしを同じ場所に存在させることができる。物の自己同一はここにおいて初めて形を持つ。無論目の見えない人もいる。しかし目の見えない人も、その人の周りの世界を一つの世界として構成しているからこそその人は日常を送ることができるのである。とすると、我々が単なる聴覚と考えているもの実はすでに視覚的なものであり(つまり我々が「聴覚」としているのは聴覚「自体」ではなく、かえって感覚を視覚的に体系化したあとに限定されるものだ)、すなわちこれを感覚一般に拡げて考えると、全ての感覚は実は唯一の感覚が自分自身から分かれたものであり、ただそれぞれ視覚的方向、聴覚的方向、触覚的方向などにウェイトが大きく置かれているだけであって、本質的には細胞のいわゆる「分化全能性」のように、全ての感覚は全ての感覚の仕方を含んでいると言えるのではないかと思う。*2すると今度は感覚という言葉の意味そのものを拡げて考えることができるようになる。実際思考的な内容、純精神的な内容はそれ自身感覚として見ることができる。精神的感覚は、視覚を越えた視覚とでも呼ぶべきものではなかろうか。

それで、感覚というのをここまで深く見てみると、感覚とは単なる外界の感覚というのではなく、むしろそれ自身が自覚であるという様子になってくる。浮き出と浮き出とが重なり合って結婚するのである。我ありが、物ありとなり、物が現れたのか、私がそれを現しているのか、区別が付かなくなる。その極、述語となって主語とならない場所に至ると考えられる。しかしそれは特殊の意識状態というのでは無論ない。そのようなものを特殊な意識状態だとするにしても、その「特殊」を包摂する「一般」こそが我々の意識なのであるから、意識が意識であるという時点で、それが今いかに物の無味乾燥な認識にかかずらっていたとしても、この在り方を離れることはない。我が物を見るというより、物を見たその我を見ているということが、そもそも物を見るということであろう。そしてそれはただ「見る」ということからは二つのこととしてしか考えられず、一つのことと考えるには、それはむしろ「感じる」ことと言わねばならないのである。見るとは考えることに結びつくが、聞くとか味わうというのはむしろ感じるということであろう。見るとは平面的だが、感じるとは立体的であろう。すると感じることが見ることの底にあり、見ることが感じることの上にあって、常に回転していると言える。カント哲学に見られる感性と悟性の峻別は、回転の原動力であると考えられ、それ故に経験論にも合理論にもそれぞれの分が認められる必要があった。理性とは回転そのものであって、感性と悟性の媒介力である。もともと外と内とか言う区別が絶対的でないのでなければそうしたことは考えられまいと思う。外界があるためには身体という何か自己の塊となるものがあって、これによって内界と外界とがくっきり分けられねばならないのだが、私がここでくどくど論じているように、そもそも我々が視覚的に物を見るということもすでに私の身体がそこに内側から重ね合わされるということでしかなく、本当にただ私の身体の内と外とがくっきりと区別できるわけではない。単なる見るということ、すなわち身体から離脱した精神というものは、デカルトにおいてすら不可能であった。彼の「見る」とは明晰判明に見るということであり、むしろ感覚的であることを見ても、この点は理解される。このようにただ見ることの内にも「感じる」ことが密輸入しているというのは、実際には感じるということが先にあるのであって、見るということはその後から出てくるものだからである。そしてその「見る」によって私の身体の輪郭は確定し、それによって見かけ上は、はっきりと内と外とが分かれるのである。いわゆる聴覚とか嗅覚などは、実際の感覚そのものでなく、感覚をすでに視覚的に体系付けたものである。すなわち(1)でも言ったことだが、一般化すると、内と外との区別は実体的なものではなくあくまでも表現的なものでしかないのであり、実体的には全てが内界であると同時に外界であるということになるのである。したがって私がここでただ感覚について論じることは、そのまま私の自覚について、また世界の認識について論じることでもある。単なる知覚というものがあるのではなく、感覚そのものが自己であり他者であり、自己と他者との関係であり、行為であり、形であり、世界であり、全てにパラレルなのである。


五感そのものがロゴス的であることについて

さて以上を踏まえ、再び五感というものを考えてみると、ここには先に身体自身がロゴスであると言ったのと、同じような状況が見られることがわかる。すなわち五感そのものも、視覚を中心(と言うよりも「頭」)にして体系付けられたもの、と言うことができるのではないか。また身体そのものがどこまでも立体的であるということから、体系の中心になるものも、自由に上下に動くことになり、そのために例えば「心」が体系の中心に来ることもできるのであるが、これと同じことがまた感覚にも言える。いわゆる第六感、すなわち精神的感覚の最も鋭利なものは、ここで言う「心」に対応するものである。それは心の目と言うべきものであろう。

つまり五感とは、身体という対象的な実体に付属する感覚の五つの在り方なのではない。上に述べたように、「私の身体」の体系の中心は自由に上下し得るということを考えるなら、その時々の体系の中心に即して、機能的に相補い合っている五つの角度とか方向とか色合いと言うべきものではなかろうか。そしてその「体系の中心」が内的に深まって行くにしたがって、五感の諸機能はますます溶け合った有様になると思われ、そこから我々が「直感」と呼ぶ独特の感覚の現象が説明できるであろう。直感とは、直観の一種であるが、単なる五感のいずれかを言うのでもなく、また当然五感を綜合した直観を、もしくはそれに思惟を加えたものを言うのでもなく、我々が普段から慣れ親しんでいる「第六感」という言葉によってしか言い表せないものであろう。

もう一度確認すると、いま感覚の「体系の中心」と言ったものが、この生物的身体の深さのところに即してあるならば、五感はそれぞれ分かれたものとして、例えば目は視覚、耳は聴覚、身体の表面が触覚、などというように認識され、それとともに、あたかも外側の世界にもたくさんの事物が互いにしりぞけ合いながら並んで存在しているように見える。目の前には感情とも形とも我とも他とも言えぬ渾然一体のものがあるのではなく、単なる物と空間と時間とがあり、形と音と触感とがあたかも「合成」されたものとして私の身体に立ち現れてくるかのように思われ、またそれに対して私の感情や思考は私の精神の空間の内にのみ響き渡るものでしかなく、直接そのものが外に出ることはなく、そんなことがあるにしてもせいぜい表情や動作など外的表現を通じて間接的に出てしまうくらいなのだと考えられる。自然科学的に我々の認識の働きを記述しようとすれば、身体や外界の事物を記号の塊のようにみなして、その上でそれらの物理的作用の結果として我々の認識は成り立つのだ、という実に珍妙な説明をしなければならなくなるのだが、それは「感覚の体系の中心」が私のこの生物的身体のところに置かれたままならば自ずからそこに帰結せねばならないという考え方である。だから我々は安易に自然科学によって描き出された世界の姿に基づいた唯物主義的な世界観の非自然的であることを批判すべきでなく、むしろそうした認識の仕方は、我々のごく日常的な認識の在り方をそのまま自然に降下して行ったときに出てくるものである*3ということを理解すべきであって、もしこれを学問的に批判するというなら、感覚の体系の中心ごと動かす必要があり、そこからまた一般的な認識の立場を考えて行く必要がある。すなわち哲学は単に常識を否定するのでなく深い常識へと入って行く必要がある。身体から精神へ、ではなく身体から身体へと深まって行く必要がある。ベルクソンの純粋持続的な認識論や、西田の場所的論理による認識論は、(そして私のここでの身体主義は、)このことを目的としていた。しかしその意義が現代哲学と言われるものにおいてどこまで正当に理解されているか、疑わしい。日本第一の哲学者たる西田先生の絶筆論文は愚痴であった。

(3)に続く。

*1:例えば「あそこ」からの音だとわかったときに我々は安心するし、「あの皿」からの匂いだとわかったときに我々は安心するのである。純粋に音だけによって十分な認識だと言える場合もあるが、それは我々の心の内の聴覚空間とでも言うべき場所において、やはり何らかの形で視覚的に構成されて、全体の内に嵌るということがあるからであり、またそうした認識も実際の視覚的な事物に聴覚が対応しているに越したことはない。音楽などはわかりやすい例であり、それは音自身が視覚的な全体を持っているということによって音の芸術であることができるのである。特に、演奏における暗黙の前提や即興的な要素などをできるだけ排して、純粋に譜面という視覚的情報のみによって音の構築物を作るという理念を持ったいわゆる西洋古典音楽などは、その最も純粋な形態と考えられる。匂いに関しても、匂いだけで事足りるということは、例えば、私が過去の美味しいものを食べた体験に引き寄せて今感じている匂いを認識する、など、やはり何らかの形での視覚的な構成を必要とする。こう考えると、「視覚」というもの自体が、単なる感覚としてのそれよりも深く考えらて行く必要があり、そこに含まれた意味が哲学的に探求される必要があるとわかる。

*2:これは「性覚について」で論じたことである。また(1)で「原始身体」と言っているものは、ここからも考えられる。

*3:ベルクソンはこれを洞察し、『創造的進化』第3章にはこの点が、鮮やかに描き出されている。