哲学研究

実在の問題について自我流で好き勝手考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

作用と反作用とドイツ観念論についてのメモ

自然そのものと、それへの理論的知識とは同一でない。言うまでもないことである。たとえ自然そのものが、我々の予想に反した高度に精神的なものであり、実は我々が日常考えているくだらないことなど含めて何でもかんでも「理解」してしまう知性を持ったものであったとしても、我々の自然科学というものは全くブレずに存在するであろう。所詮理論的知識は、人間の理解力に応じてのみ形するものだからである。目を持たないならば、視覚的情報を得ることは原理的にできない。

ところが、我々は自然そのものを見ず、油断すると自然科学の知識をそのまま自然界の実相だとみなして、事足れりとしがちであるから、注意が必要である。自然の事物が力によって運動しているのではなく、自然の事物の活動を力と力とによる運動だと認識する意識があるのである。

実際の自然とは、自然科学も芸術も歴史も社会生活も含めた人間の文化を丸ごと包んだもので、それら以前のものであり、我々の意識もまたそれであるようなものである。しかし「我々の意識もまたそれであるようなものとしての自然」という理屈によって規定されたものが実際の自然ではない。実際の自然は実際の自然である。形である。直観と言うことすらできない。だから我々が物体の運動の背後に無造作に前提する「力」というものも、人間の頭で抽象したものであるということをいつでも思い出す必要がある。作用とか反作用とかいうものがあるかのように思われるのであるが、そんなものはないのである。実際にあるのは、形と形とが形している形であり、すなわちバランスそのものである。


「力」を、人間意志の抽象的合体を自然に投影したものとして理解する

すなわち作用と反作用は、自然界がそのまま客観的に持っているものではなく、自然界に対して人間の意志を映して見たときに現れるのである。力が直線で描かれるとはそういうことであろう。意志の形である。単なる意志は別に直線でもないかもしれぬが、純粋な意志はどうしても直線として表象されねばならないであろう*1。作用、反作用とは、人間の個別の意志を一本化、抽象化して純理論的に見たものと言うことができる。意識一般的な意味での意志が、力学で考えられる「力」ではないかと思う。そうすると自然界を自然界「として」限定しているのも実は人間の意志だということになる。カントはおそらくここに気付いたのではないかと思う。そうすると、文字通り実体として存在しているもの、物自体、実在そのものは実は人間の意志まで含んだものであり、それ自身自然界とも意識界とも言うことのできないものでなければならない。無論それが自然界とも意識界とも言われぬものだからと言って、自然界と意識界とをただ単に高次の立場から包摂するような立場を考えて、それが「物自体」なのだと言うことができるわけではない。そのようにして考えられた物自体も、すでに別の何かの立場に対立するものなのかもしれない。そうすると、真の物自体はすでにその奥に押しやられていることになる。であれば、そもそも理論的立場から物自体なるものを考えること自体に限界があるのであって、これを素直に不可知の物自体とみなしておけば良いではないか。したがって、カントはこれ以上ここに踏み込むのを避けた。哲学そのものは世界を支配することはできない。哲学とは世界を、それも我々の意識一般が認識する限りの世界を説明するものであり、それ以上ではない。彼の超越論的誠実である。

ドイツ観念論の力学的運動

それはそれとして、ドイツロマン主義の時代である。ノヴァーリスベートーヴェンの時代である。やはり哲学によって我々の世界を丸ごと呑み込んで説明する欲求を抑えることはできない。哲学は世界を包んでこれをはみ出す生命である。自然界とも意識界とも言われぬのが物自体だと言ったが、このような意味での物自体が、自己限定的に自然界を作るという構図から世界を考えたのがドイツ観念論であろう。もっともこれだけでは到底語れるものではなかろうが、ひとまずここではそう単純化しておく。まず初めに出てきたのがフィヒテである。フィヒテはこのような物自体を「自我」だとみなした。以上の事情から、フィヒテの言う自我とは我々が心理学的にもしくは常識的に考えるような自我ではないことは言うまでもない。それは意志と自然界とを一つの圧縮体として、やがて理論的知識といわゆる自然とが一体になった形で発現して行くようなものとして考える立場である。それは客観的な自然界と一つになったものでなければならない。自我も客観に照らされた自我である必要がある。

ところが、この意識界でも自然界でもない、自己限定的な「物自体」は、要するに必ずしも意識の方に引き寄せて考えられる必要はない。そう考えられるなら逆に自然界の側からこのような「物自体」を考えられるのではないか、というのがシェリングの同一哲学であろうと思う。無論この場合も、この二つの極の分かれる以前のもの、すなわち主客「同一」であるものを見るところから出発する。シェリングは芸術というものを重んじたが、要するに我々の世界とはただ単に自然界的なものではなく、我々の創造的行為までそこに含まれるものであり、フィヒテは理論的なものに少し偏り過ぎているということになるのだろう。またフィヒテの後期の哲学の発展は、フィヒテ自身が意識の立場への偏りを自覚したところから出てくるものであろう。シェリングの後期哲学の発展は、創造的ということを重点に置いた「自然界」にとどまらず、自己がそこにおいて意志を持って主体的に存在するとはどういうこのであるかを考え、その上で改めて「創造的」とはどういうことかと考えたときに出てくるのではなかろうか。

しかしそのようなシェリング自己批判をまたず、ここにドイツ観念論の集大成と一般に理解されるヘーゲルの哲学が出てくる。ヘーゲルは自然界とか意識界とか以前に、論理そのものから実在を考えた。つまり一が即二であること「自体」から世界の自己形成を考えた。カントはただ論理そのものから我々の知識の成立を明らかにしたのだが、ヘーゲルは実在を論理そのものから考えた。世界の虚数領域に入った。論理学と形而上学とが直結するアリストテレス的な立場である。そうすると、そういう形成のされ方から出てくる世界は原理的には無限に多層的だということになる。それをただ単に意識とか自然とか二つの項だけから考えるのでは我々が現に体験しつつある複雑な形と形とが形している世界を説明することはできない。自然と言っても単一の自然ではない。その内に無数の主体が形している形であり、しかも別々の主体でなく、それまでの観念論の示したようにそれは「この私」と同一の主体であるのでなければならない。人間社会一つとっても、それは一つ一つ労作されて出来た形であり、労作されてできた形がまた別の形と労作をなす。その人間社会だって、人間社会以外の形と弁証法的に労作しながら成り立っているのである。そして人間社会自身にも、この「唯一主体」の自己表現の「形」が表れている。社会が法的であり、また国家的であるとはそういうことである(「一般即個物」の形)。つまり世界は「形」である。「形」としか言いようがない。これを意志とか何とか、そんな類の言葉で説明するとしても、それは我々が無造作に実体的に考えてしまう「意志」のことではなく、このような複雑多様な、豊かな、形と形とを形するということの底に考えられる何かでしかない。「底に考えられる」と言っても、実体的にそう考えられるのではなく、かえって形と形との形がすでにそれ自身であるところのものである。

以上極めてざっくり眺めたように、ドイツ観念論の流れそのものも、作用と反作用とによって出来上がっているものと考えることができる。ドイツ観念論自身が形と形との織りなす豊かな形であることに思いをなせば、自然そのものにおいては作用、反作用なるものがあるのではないことが理解されるであろう。すなわち作用、反作用とは、人間の意志によって、自然における営み(ドイツ観念論という「営み」もそこに含まれる)を抽象的に理論的に切り取ろうとしたときに現れてくるものである。ところが実際の自然は、このようなメタのメタをも更に包んだものでなければならない。と同時に、自然というものは、ただメタの方向の極限に考えられるものではない。それはむしろ純粋意識とか呼ぶべきものであろう。やはり実際の自然は最も低次のものである。ところがその最も低次のものがなぜそれ自身どこまでもメタ的であるのか、ここに含まれた論理は何であるか、これを問うて行くのが哲学であると思う。すなわちひっくり返りがひっくり返りであって、ただの直線的進行である、ということの内にある論理である。それは、単なる直線というものがすでにひっくり返りであるということをも意味しているのではなかろうか。そしてそれは作用でもあり反作用でもあるものである。作用と反作用とが一つのものであるとただ考えられたのが、従来の科学の立場そして突き詰めるとカント哲学の見方であると思う。ところがそれらが一つであるとはどういうことであるかということを真剣に問題とした哲学があったかどうか。寡聞にして私はそうした哲学を知らない。いや、ヘーゲルがすでにそうであったのかも知らぬ。ところがヘーゲル哲学は、社会にとっては、「なんだか方法論的なもの、形式的過ぎるもの」であり、もしくは何だか「偉そうなすごいもの」でしかなく、それが自然科学のこんな足元のところにある物の見方と結び付くとは受け止められなかったのではなかろうか。ところがヘーゲル哲学は、我々の世界における全ての形がそれであるものについて論じたのであるから、我々が無造作に力と考えるものにも当然ヘーゲルの考える「主体」が直接現在していると言わねばならないだろう。私はこうした足元から考えてみたいのである。哲学書を読みたければ窓を開けるのが一番良い。

*1:カントは『道徳形而上学の基礎付け』で意志一般と「純粋な」意志を区別して後者を扱ったが、この区別は大事である。あたかも自然法則であるような道徳法則が目指されるのは、このことに対応しているのであろう