哲学研究

おっぱいが大好きです。ガチで実在の問題について考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

おたまじゃくしの形而上学【閲覧注意】

「化」から実体というものを考える

まず実体についてである。実体と言うと、固体的なものが考えられるのだが、固体は実はいつでも液体であると考えれば良いのではないかと思う。

どんなに固体的なものであっても、それが「成る」ということがなければならない。成るものは必ず滅びるものである。とすれば、それは背景から浮かび上がって来て、また背景へと溶け込んで行くものであろう。その固体は、もともと背景の自己限定として形していたのである。では無から無へと行くのであるから、固体の存在は初めから無意味なのであるか。しかし、「無」とはこの場合、限定された立場、固体の立場からの見方に過ぎない。もともと背景の自己限定として成立するのが固体なのだから、固体としての形が成ったとしても、それ自身が背景であることをやめない。例えば私は一応肉体的存在であるが、同時に背景自身でもあるために、その背景というところから肉体を捨象した残りが「精神」とか「心」とか呼ばれることになるのである。ところが実体としての肉体そのものと別個に精神なるものがあるのではない。別個にあるという見方は、むしろ肉体的な見方に引きずられて、一つの擬似身体を作り出しているに過ぎない。背景自身の立場から見れば、背景から背景へと形が変わって移り行くというだけであり、肉体の形もその移り変わりの中に現れてくるに過ぎない。背景自身がもともと個性を持ったものであることを忘れてはならない。背景に個性がなければ、その背景の中に浮かび上がって来る形が個性的であることはできないであろう。

すると、元々単なる固体というものはないと考えてよいのではないか。何故に固体というものが存在するのであろうか。固体とか液体とか気体というのは質であって、量ではない。従って、一応自然科学的に考えられるように、分子の密集具合(でいいのかな)によって固体、液体、気体を分けるというのでは、本当の意味でこれらを分けたことにはならない。これは量的な尺度による分け方に過ぎないからである。「質」としての固液気を問うならば、その分子というものが、いや素粒子というものが、そもそも「質」として固体なのか、液体なのか、気体なのかが問われねばならないであろう。量子論では波とも粒子とも言えぬ、と来る。この辺のことはよくわからぬが、要するに、世界の物理的な原質は、固体でも液体でも気体でもある、ということで良いと思う。だから私は間を取ってそれは「液体」だとしたい。

「液体」しかないのならば、我々が固体液体気体とみなしているのは、自然科学の示すように、突き詰めると量的な違いに過ぎないことになる。ところがこれらはどうしても質的に異なるものでなければならないのだから、その質的区別の根拠というものがなければならない。質の区別を単に、我々が精神において量に一定の区切りを見出し、意味付与した結果成り立つものと見るのではなく、「液体」の存在そのものにおいて、西田幾多郎のいわゆる矛盾的自己同一的に、これらの質の区別が含まれると考えれば良いのではなかろうか。

実体と観念とを始めに分けて、そこから出発するから、何だかよく分からなくなるのであるが、「一が一であることの内にすでに二である」と考えれば、一はすでに二を一する一すなわち「三」となる。1=1の時点ですでに質的に異なる三者が出揃うのである。一が一であるままに、自ずから三にまで転がる。どうかこれは勢いで理解していただきたい。つまり世界とは、西田の言うように、元々自己限定的に成立するもの、自己自身を対象化して自己形成するものである。一が一である、ゼロからの第一歩が「固体」である。一によってゼロが一を回り込む形で現れてくるのが二であり、これが「気体」である。そして固体と気体とを一つの創造的循環として矛盾的自己同一的に包むのが三であり「液体」である(以上割り当てが間違っているかもしれん)。しかもこれらは別のものではなく、同一なのである。しかし同一でありながら質的に別個でなければならない。この構図は、実は三種の神器の構図、剣と鏡と玉と同じである。しかもこの構図は、混乱させるようだが、どれを「一」の位に置いても良い。一が二を生み出したのか、二が一を生み出したのか。結局卵が先か、鶏が先かという話だからである。本当は卵でも鶏でもあるものが、分化全能性を保ったままに、うまいこと形分けされて、卵となり、鶏となったのである。これを西田は矛盾的自己同一と言うのである。

(液体とは全ての個性の背景となるものであって、こういう見方からすれば、すなわちそれは京都学派の哲学者(田辺元西田幾多郎)の言うところの「種的」というものの原型であると言って良い。)

ここではあんまり細かい話に立ち入らないが、とにかく実在とは、一即ニ即三として、固体液体気体の矛盾的自己同一である、という題目を唱えて一旦の区切りといたそう。そして別の角度から見ると、それは「背景」の自己限定として無限に形して行くものとも言える。





背景の自己限定として形が出て来るの図(使い回している)。
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上の図は部分的な切り取りであるが、もっと具体的にはこんな感じである(使い回し)。うまく描けていないが、あらゆる方向への渦巻きで、本当は全ての点が中心である。そんなの描けねえぜ。
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いわゆる「前世」と「背景」

話が戻る。固体が成り立つには、必ず液体的背景を持たねばならぬ、そして固体はむしろ液体的背景の自己限定として生滅するのであった。では背景が必ず液体かと言うと、そうでもない。ただ固体に比較して液体的というだけであり、我々が「土」と呼ぶものは、その上に育まれる個体にとっては液体的背景と言ってよい。むしろ我々が背景として普段から親しむのは大地である。大地も背景ならば、海も背景であり、大気も背景であり、宇宙空間も背景である。とするならば更に進んで、我々の精神的環境もまた背景と言うことができるのではないか

してみると、前世と言われるものは、我々が元の背景から、この地上へ出て来るために必要な背景「取り」であると言えるのではないかと思う。元の背景そのものの個性では、独特のアクを持ったこの地上世界に生まれることができない。そこで、この地上世界そのものの内に含まれた背景的部分をうまく整形して、これを土としてそこにしっかり根を張ることができるような精神的身体を、肉体人として生まれるときにあらかじめ形作ってやらねばならない。それが前世というものなのである。因縁と言われるものである。つまり、同じ背景から出て来た別の固体の地上的体験がまたこの地球的背景の内に形として刻まれているのであるから、私の固有の背景とうまく調和するように、これらの記憶と私の背景との形を溶け合わせ、それを精神的身体として携えた上で、我々は肉体人としてこの地上に生まれて来るのであろう。環境と言えば普通にただ外面的な環境ばかりが考えられるが、このような精神的身体もまた我々の生活にとって環境と言って良いものであろうと思う。外面的環境は、むしろこの精神的環境がもともとあって、そこからそれに合致するように形作られて行くものではなかろうか。

そして、このために、日月神示では、「借銭済まし」や「因縁」「メグリ」などという言葉を使って、地上生活において我々個々人の置かれた独特の状況の根拠を説明しようとするのである。「磨けば誰でも釈迦キリストだ」と言われるのは、我々の本来の個性は「背景」のところにあるからである。「借銭」とか「メグリ」と言われるのは、実は、上に言ったように、地上にしっかりと根を下ろすためにあらかじめ整形してきた精神的身体に含まれた、独特の地上的しこりである。このしこりが地上生活に適した土となり養分となり、我々の人生をしっかりと根付かせるのである。

(以上のように説明すると、アシュタール氏の説明にも合致する。)




実存のモデルとしての「おたまじゃくし」

さて、今掲げた図は、我々の実存そのものの「形」であると私は考えている。実存とは上に言った「背景の自己限定としての形」である。「私」は、進んで行く私を見つつ、私を見ることによってまた周りを巻き込みつつ進むことができる。道を歩いているときに歩いている自分自身を意識してみると良い。我々はこの形にまとわりつかれているのである。これが身体的な在り方の原型であり、この在り方によって私の経験は他ならぬ「私の経験」となるのである。我々は一時たりともこの形を離れることはない。

この形は角度によって、色々な形として見ることができる。これは多数の渦巻きが中心めがけて回転している様子とも見ることができる。中心の窪みに突っ込んで行く形に注目すれば、それは風を切って行く矢のように表象できる。そしてこの窪みの周りに出来上がるふわっとしたまとまりを頭と見ることができる。そうするとそこには簡易的な動物的身体が出来上がる。矢はこの身体の時間的部分、頭は空間的部分と見ることができるであろう。

要するに、これは「おたまじゃくし」の形である。渦巻きの一つ一つの筋の形を見るとおたまじゃくしの形をしていることがわかる(銀河や太極図の形)。細かい説明は省くが、渦とは、全ての全てがバランスし、生命する原理であり、渦の筋とは、個体性の最も根源的な形であると言って良い。動物の身体は、みなこの根源的おたまじゃくしのバリエーションの形として作られている。

おたまじゃくしとカエル

おたまじゃくしはやがてカエルになるのだが、カエルになっても、おたまじゃくしは依然として実存としての彼の内奥に生きている。だからこそ動物の身体にもおたまじゃくしの宿し場所があるのである(植物は知らん)。例えば我々人間の性交は内奥のおたまじゃくしと外側のおたまじゃくしとの一致である。それは男から見たもので、女の身体はこの場合「場所」になる。むしろ男と女とが合体した形が一つのおたまじゃくしなのである。

音符をおたまじゃくしと言うこと

音符がおたまじゃくしの形で記されることも極めて意味あることで、これは我々の内奥のおたまじゃくしすなわち身体的な在り方そのものを、形象化したものでもあると見ることができる。そしてそれを外側に書き表したのがいわゆる音符である。

音楽は時間に乗って進行する。それは我々の内奥のおたまじゃくしそのものが、時間の進行の唯一の担い手であるのと似ている。時間という客観的な形式があって、そこからその内に我々の自己が活動するのではなく、自己が活動するというところから時間が生まれるのである。これと同じく、(西洋音楽式で記譜された)音楽は実際におたまじゃくしが鳴ることによってのみ具体的に進行して行く。演奏される前の単なる譜面の状態においては、それはただの空間的情報に過ぎない。

ところで、空間的情報として見たときには、おたまじゃくしが沢山並んであるように見えるのだが、これが実際に演奏されるときには、一度に鳴るおたまじゃくしは一つである。和音というものも、実は複数のおたまじゃくしが鳴っているのではなく、それが音楽である限り、一つのおたまじゃくしに合成された響き、色合いと見なければなるまい。そうすると音楽の演奏とは、一つのおたまじゃくしが、進行とともに行為的直観的に、形を変えて行く運動として見ることができる。この在り方はまさしくおたまじゃくしである。

ちなみにおたまじゃくしの棒というのは、本当は時間的方向に伸びたものであろう。だがそれを空間上に表現するために、時間を横にした上で、時間の時間として縦棒が書かれるのである。


音楽というのは、哲学的な観点から非常に興味深い点をいくつも持っている。音楽については今後もまた何らかの形で論じようと思う。




ちょっと何言ってるかわからない

以上の文章を読んでちょっと何言ってるかわからないという人は、修行が足りない。出直して来なさい。ちなみに私自身もわからない。