哲学研究

おっぱいが大好きです。ガチで実在の問題について考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

身体が浸透することによって全てが現れることについて……(1)基本概念

指を動かすとき、私の身体は指になりきっている。この文字打ちに集中するとき、私の身体は指以外のものではない。私の身体の他の部分は、今単なる映像であり、私の身体ではなくなってしまっている。同様に、頭を使うとき、私の身体は頭になりきっている。足を使うとき、私の身体は足になりきっている。全身を使うとき、私の身体は私の全身になりきっている。楽器を弾くとき、私の身体は楽器になりきっている。空を空として感じるとき、私の身体は空になりきっている。空は空自身のペースで動いていると私が理解するとき、さっき指を自分の意志で動かしたときに身体ごと指になりきったのと同じ要領で、私の身体は空になりきるのである。

私の身体は、もともと全ての全てに浸透できる。少なくとも、「この私の世界」に何らかの形で現れてくることのできているものは、その時点で、すでに私の身体の浸透が行き渡っている。結局は浸透の濃淡の具合がその中で変わるだけである。だから空は空自分のペースで空であり、鳥は鳥自身のペースで鳥自身を生き、車は車自身のペースで車として動いているのである。これらは全て同時進行し、並存し、「私の世界」の中で完全にうまく噛み合い、溶け合っている。文字は文字自身のペースで文字としてここに自己を顕し、一つの文章を成立させる。私は一つ一つの文字を、私の指として使うことができ、それによって次々と思考のアウトプットが着実に行われてゆく。私が今現に私自身のペースで私しているのと同時に、私の周りにある一切は、それぞれのペースでそれぞれの自己を生きているのであるが、それらは実は全部私の身体がそれらになりきっているから、そのように認識されることができるのである。それによって初めて「この一続き、一まとまりの私の経験」が成り立つことができる。私の身体は一方で、いつも一貫したもので私自身にとっては不動のものであると考えられながら、他方でいつでも伸縮し、どんな大きさにでもなり得るものである。どんなに伸縮しても全くブレずに自己自身であり続けるのが身体である。

物であれ人であれ空間であれ時間であれ観念であれ、他者が私個人の意思に関わりなく、他者自身のペースで他者である、ということへの信頼は、かえって私の身体がそこに浸透している、というところから来るのではないかと私は思う。他者への不信は、むしろ私の精神の作為によって他者から私への危害を思い描きあるいは思い出し、これを恐れ、憎むところから来るのであり、つまり、私が他者に対して絶望的な隔たりや疎外感を感じるのは、実は私の内に現れる他者が他者になりきっていないからである。こうした場合、他者は他者そのものとしてではなく、私個人の心の奥に存在する、全ての全て(私を含む)への恐怖感・敵対心・憎悪によって勝手に色付けられて変換された形で現れてくる。したがって、他者は私の無意識のそのような意向を汲んで、私に対して意地悪く振舞う。しかし私の身体が彼らに溶け入っていれば、私は彼らの意地悪さをそもそも意地悪さと感じることはない。私と彼とはちゃんとマイペースすることができる。もちろんこれは理想の話である。

他者と私とが観念的に分裂するとき、存在においてはむしろ他者は私とずるずるべったりであるが、他者と私とが存在においてしっかり独立するとき、観念的にはむしろ一切の他者と私とは一つである(実はアリストテレス形而上学の個物的実体の概念はここを捉えたところから出てくるのだ)。観念的に一つであるとは、つまり私の意思があたかも相手の意思であるかのように自然に感じられ、理想的には実際にその通り現実が動くのである。何でもないことのようであるが、腕を動かすと、周りの空気がうまくよけて私の腕の運動を可能にしてくれるということは実に驚くべきことである。このときわざわざ私は空気の存在ということを考えない。ごく自然で当たり前過ぎることだからである。周りの空気のこの自然な運動まで含めて「私の腕の運動」であるとみなされている。ところが空気が、ただ単に、普通に考えられるごとく私に直接属するのでない客観的なものだとするならば、それがこのようにいつでも私の肉体の運動に対応して動くということはあり得ないはずである。しかし私は、腕の運動は、周りの空気の運動まで伴ったものであることを当然に思っている。空気が私に対してよそよそしく、私の言葉に何も反応しないのは、かえって私の肉体と完全に溶け合い噛み合っているからである。私と他者とが完全に独立的であることができるのは、かえって一つになることによってなのである。コミュニケーションの完成形態においては、コミュニケーションすら必要なくなる。

この在り方が徹底するとき、私の身体は全てに浸透しているのであり、私のこの指も、空も、車も、感情も、思考も、他人も、文字も、何もかも対等になる。全ての存在は独立し、意味においては一つとなる。繰り返し言うが、これはあくまでも理想、理念の話であって、私が現実にそういう境地に生きているわけではない。



ところで私のこの指と、あの空と、この文字とが、全く対等のものであるとは、一体どういうことか。私の指は、肉体は、他者なのであるか。私の心というのはどう考えられるのであるか。もう少しこの点について考えてみよう。



自己自身を表現する「形」への尊重ということ。私も他者であるということ

そのことを言うには、普通に、私ではないものと考えられるものだけが「他者」なのではなく、私自身に属すると考えられるものがすでに「他者」であると言えれば良い。

よく考えると、私の身体の部分ですら、私の身体がそれらに「なりきる」という手続きによって初めて自律的に動くものと認識されるのであるから、私のこの肉体というものがすでに、私にとって他者である。私の身体は肉体であるのではなく、肉体になりきるのである。私は肉体になりきるのと同じ資格において、空になりきる。他者であることによって、初めてそれを自律的なものと考えることができる。単なる自己というものには自律とか他律とかいうことすら考えられない。単なる自己には自己というものすらない。我々が、何かが自律的である、何かが「それ自身」である、と考えることができるのは、全て他者に対してである(このために、キリスト教においては、最も主体的であるということは、内なる神に従って行為するということなのである。一度絶対他者としての神を媒介するのである)。私が私自身を自律的なものと考え得るのは、実はその私というものこそが、まず第一に私にとっての他者だからである。私が私自身にとって他者でもあることができるのは、私を「身体」とみなす場合のみであろう。ところが人間であるこの「私」の場合、自律的とはむしろ特に理性や精神に対して言われるものである。ところが、自律的であるためにはそれは他者でなければならぬのだから、私の精神というものはすでに私にとって他者である。上にも言ったように、私が私に対して他者であるとは、身体であるということだから、私の理性、精神は、身体なのである(この点については(2)で、もう少し詳しく論じる)。「心」と言った方が良い。私の感情というものも、意志というものも、理性というものも、思考というものも、その他一切の「心」の働きは、全てすでに私の身体であると言われねばならない。そうであって、初めて、私はそれらの感情を、自律的なものとみなすことができる。私が思わず笑うとき、私は思わず笑っているのであり、世界の謎を考えているとき、世界の謎を考えているのであり、悲しむとき、悲しんでいるのであり、深淵を覗くとき、深淵を覗いているのである。そこに理屈はない。私が無性に悲しく涙が溢れ出てくるということは、これこれの外的な理由があって、これこれの心的機能が作動して、深層心理のこれこれのブロックを解除するために起こったことなのであるのである!と説明することは、なるほどこれは心理学的に見て真実であるかもしれないが、いかにも直接の実感から遠く隔たっている。そうではなく、私が泣くとき、私はただ泣いているのだ。ただ泣くことを泣くことに全ての意味が含まれ、全ての過去と未来とがそこに詰まっているのである。次の現実は泣くことを泣ききることから自ずから生まれてくるのである。

これらの全ての「形」を他者として見るとき、私はそれら全てを存在ごと尊重するのである。それらは全て自己の存在を存在ごと表現している。どんな些細なことがらも、この原理によっては、全て自己自身をまるごと表現したものとして理解され、尊重されることができるのである。絶対に唯一のものとして認められるのである。そして私がそのように尊重することができるのは、それらのものが、存在としては他者であるが、意味においてはどこまでも内的に私と一つであるという場合だけである。他者的であればあるほど、そこに私の心が入っているのである。人は自分自身を最も大切にせねばならないと言われることがあるのは、この私自身が最も他者的なものだからである。私は汝である。私が私自身の最も内的な精神の動きを捉えるとき、私は私を超越している。私が私を超越するとともに、私が私を超越しているから、私は私を包み、逆に私が私を包む。

(西田幾多郎の和歌に

わが心深き底あり喜も憂の波もとゞかじと思ふ

というのがある。シンプルな表現によって私が汝であることをうまく言い表している。)

このように私が汝であるということがあるから、汝がまた私であることができる。窓の外に何となく見えた雲は、すでに私である。

これが、私が何かを経験するということである。また、何かが現実に起こる、ということである。それ以外の在り方は全て非現実であり、すなわち妄想である。観念的に、他者と私とが分裂するとき、私は例えば被害妄想に囚われているのである。しかし私が他己同一を信頼するとき、私の思考と現実とは分裂しない。思考は行為の内にごく自然に溶け入っている。思考を、現実、実在と区別する必要はなくなる。

では、思考が、現実と遊離した観念的活動ではなく、地に直接足に着いた「実在」になるとはどういうことを意味するであろうか。次に論じるのは、その点である。

続く。