哲学研究

三木清や西田幾多郎が好きです。

「私のこの生きられた身体」が初めに認識されていないと、そもそもあらゆる事柄が意味を持ち得ないことについて

神話的事実論の補論。

「客観的事実というものはなく、実際にはただ神話的事実があるばかりではないか」

この記事では、タイトルにあるようなことを論じた。

これを、ここでは「神話的事実論」と略称することにし、新たに補足的に議論を付け加えようと思う。

対象への意味付与の問題

主体は全ての事実に意味付け、全ての事実に主体的に意味付与するということがあるからこそ、主体における全ての現象は主体自身の「経験」であることができる。

ここまではカント的な考えとして、哲学の世界でも一般的に承認される考えであろう。しかし私が問題にしたいのは、その意味付与ということの内実である。

アプリオリな総合判断だか何だか知らぬが、それでもどんな事象であるにせよAをAと、BをBと、ただ個々別々に意味付与できる、というレベルにとどまって考えるのでは、本当の意味で現実の認識というものは考えることはできないと思う(何か機械のようにカテゴリーを主観に装着させるアイデアは、結局はこういう考えから出てくるのである)。いかに、全ての表象に、我考える、ということが伴い得る、と言ってみたとて、その内実が明らかでない。それによって私にとっての対象は、全て私の内にあるということは言えても、私にとってのそれぞれの対象がそれぞれのようなものである必然性というものはどこから来るのであろうか。認識といっても、すべて私自身の人生の必要性からくるものであり、固有の「私」の内容に対して意味があることだからこそ、認識は認識「として」成立するのである。そして内容を持ったものは全て、対象の側にある、すなわち「認識されるもの」の側にあるのであるから、つまり「私」というのは、認識者でありながら、全ての認識がそこへと行き着かねばならないというもの、「認識されるもの自体」である。ところがカントも、認識というものを、それ自体として成立する事実であるように考えている。対象から離れて対象を限定することを認識だと考えている。彼は、認識というものがまずあるのだ、と前提して、その上で議論しているのである。しかしただそういう意味での認識であるならば、本当に「この私」にとって必要だと言えるものであろうか。私は認識論よりも前に、認識の存在論というものが必要であると思う。我々の現実で特に「認識」と呼ばれるのは、言葉で「表現」された認識である。言葉で認識が表現されることによって認識は正確でまた普遍的に利用できるものになり、それだけ我々の主体的要求を満たすものとなるものであろう。とすれば、認識というもの自体がすでに我々の自己にとって「対象」ではないか。認識というのは、むしろそれ自身が対象であることに意味があるのである。認識自身が対象であるとは、認識とは常に自己自身へ回り込み続ける運動だということであろう。少なくとも、「この私」にとって意味を持つ認識とはそのようなものでなければならない。哲学的に問題とされるべき認識というのはこの意味での認識でなければならない。

ではそのような意味における認識とはどのような構造を持っているのか。

それは対象の認識は、「我」自身への認識を常に伴っているということであるが、それはカントのような意味で考えられるのではない。我というのは自然界と明らかに区別されているあるものであり、しかもそういうものとして我において確かに認識されているもの、対象の側にしっかりと釘付けにされているものなのであり、それは機能的なものに過ぎない空虚な「我」(多分「認識自体」の存在する点)とはまた別ものであるのだから、同じ認識論という土俵において、自然界と我との認識のされ方の本質的な違いが注目される必要があるであろう。というより、自然界と我とは別々に認識されるのではなく(もし別々に認識されるのだったらそれらに本質的な区別はない)、今私が認識しているこのような現実において、全く同時に認識されているものである、ということ、そして同時に認識されているということの内に、認識され方の本質的に異なる二つのものがある、ということ、これが何を意味するのか、ということについて深く迫って行かねばならない。この「二」をいかに考えるか、ということが大事である。

(一つの認識に含まれる二つの認識の内、我への方向を、「内に深まって行く動き」として理解し、外的対象への方向を「外へ広がって行く動き」として理解すればわかりやすくなるだろう。しかも内へは同時に外へであることに大きな意味があるのである。より認識的であるとは、この二方向の開きが大きくなることであり、開きが大きくなることでむしろ体系的になり、統一的になるのである。しかし認識的でない、というのは内にも外にも行かないということであり、我々の現実はただ垂れ流されて行くだけだということになる。例えばナルシストがかえって他人の心をよく解するのは、こういう事情があるからである。)




次に具体的にその内実に迫ってみたい。



全ての認識は、同時に主体自身への「認識」つまり自覚であるということの内実

ここで、神話的事実論において考えたことが大いに参考になる。私が例えばAをAとして見ている時、すでにそこに存在している「主体自身の対象化」とは、どんなものであろうか。繰り返して言うが、それは単に我考えるということではあるまい。それではあまりに抽象的過ぎ、そこから実際にAをこのAとして意味付けるというところまで橋渡しができない(精神を客観的世界から遊離したものとみなすなら、悟性とカテゴリーとを都合良くここに持ち出して来ることができるから、この考えは問題ないのだが)。しかしそこに具体的な橋渡しがあるからこそ、私は、単なる抽象物、理論的仮構物としてではなく、ここに具体的な物として認識されるAに対して、まさにそのようなものとして意味を付与することができるのである。Aが具体的であればあるほど、今全く一緒に認識されている主体自身も、具体的な内容を持つものでなければならない。一つの認識において二つの認識があるといっても、その二つの認識というのが一つの認識であると言われねばならないのだから、二つの関係は、何か同じ構造を持った関係であり、類推の糸によって直接結び付けられているようなものとして想定できると思う。「我」の「我考える」への関係が、「我プラス我考える(つまり我)」の「物」への関係と重なるということが、「認識」であり、それはつまり物において自己を見るということが「認識」である、ということである。

(我が物を見るとき、我から見た「我考える」が物的になっているから物を見ることができ、我が現象を見るとき、我から見た「我考える」が現象的になっているから現象を見ることができ、我が宇宙を見るとき我から見た「我考える」が宇宙的であるから宇宙を見ることができる。どんな対象(物にせよ、判断にせよ、推論にせよ、神話的事実、行為的事実その他いかなるものでも)であっても、必ずそういうパラレルの構図がなければならないと思う。こういう考え方と、後に論じる「身体」とを組み合わせて考えると、西田幾多郎の「歴史的身体」という概念が理解できる。)

ではAをAとして認識している時に必ず伴っていなければならない「我考える」の具体的内容とは何であるか。カント哲学においても考えられていることだと思うが、それは私の「身体」のあり方なのである。現に生きられている、この身体、である。私がほとんど直覚的に認識するこの私の身体は、三次元的なあり方をしていて、現実に体感する空間と時間とがここに直接クロスしている。身体には色々な部位があるが、しかもそれらがうまく噛み合って活動している。三次元的な空間と、それとは別に時間という形式があって、その中に私の身体があるのではない。私が現に直覚的に知り、まさにその内に生きている「この身体」というのが先にあって、そこからこれを軸にして客観的な空間と時間という形式が私の精神において仮構されるのである。なぜなら私の身体はいつでも、私が精神において仮構したこのような形式に従って動いているようにしか見えないからである。そしてその上で初めてAとかBとか諸観念の意味が乗っかることができるのである。この手続きがなされないと、諸観念の現実性ばかりでなく、意味すらも失われてしまうのである。つまり観念が意味を持つことすらできないのである。独我論の馬鹿馬鹿しさはこの辺を突き詰めて考えると見えてくる。

「我考える」とは実は常にこのような在り方の内にのみあるのであり、身体を捨象した抽象的な観念的活動というものがあるはずはない。純粋な観念的活動、例えば妄想というものであっても、私の身体はそこにあって、あの人のおっぱいを揉みしだいているのである。私が普段見ているような身体ではなくても、必ず何らかの世界を映す焦点のようなものが必ずそこにあるはずである。数学の記号の羅列の内にも私の身体は存在し、それによって記号が意味を持つのである。私が文字を書くということも、文字の内に私の身体があるということによって可能なのである。とにかく何らかの形で世界(実物でも記号的でも)というものが、たとえ妄想であっても考えられるとすれば、何らかの意味でそこに、身体的な在り方がなければならない。またパソコンについて考えると、その画面の中にカーソルがあってこれが私の身体となるからこそ、私の道具としてそれを現実に使用することができる。スマホも、指を身体として操作するものであるから我々の現実に意味を持ったものとして現れてくることができるのである。そしてカーソルも指も、私のこの肉体と外的にあるのではなく、一つにつながって私の腕の延長のようになっているのであり、つながることによってこれらは現実的に意味を持つことができるのである。このように身体(的)とは全ての認識の足元なのである。身体というものが、この客観的な宇宙に客観的にあって、我々の精神はそこに入って生きているのではない。我々が客観的な宇宙や客観的な歴史と考えているもの自体が、「この身体」において生きるということがあってその後に出てくるものなのである。いわゆる宇宙や歴史があるのではなく、それらは私のこの身体的生の中で作られていったものでしかない。

そうすると、一般化して、結局はこの身体を我において対象化することによって、他の事物もそこから類推して対象化することができる、という構図が得られる。そもそも「何がしかの事物が、客観的に私の身体とは別に存在する」ということ自体が、私がこの身体において生きるということに依存して初めて生じてくる事態だからである。つまり私がこの身体において生きて「いなければ」、私が私とは別の事物だと思っていた物は、私とは別の物ではなく同一の物だという在り方をしているかもしれないのである。逆に言うと、今私に対して外的に存在していると考えられる一切の事物は、私のこの身体が私に対して外的に存在しているように感じられるということに依存して、同様に外的に存在していると感じられるのである。

(我から「この身体」へ糸を伸ばしたときに、身体は元々他の対象と繋がる糸を持っているので、これによって自動的に他の諸対象も我へと繋がる糸を伸ばす。これによって我々の日常の認識が成り立つのである。このトリックによって、我は対象を対象自体として認識するように錯覚するのであるが、実は全て我は「この身体」というトランスフォーマーを使うことによって、初めてあれはあのようなもの、それはそのようなものとなることができるのである。そうでなければ我々の目の前にあるのは、ただ意味不明な絵の具で塗ったぐったワチャワチャであろう。

それでカント認識論のいわゆる「悟性」、つまり感覚の多様から、形式によって認識を構成して行く能力とは、実は我の「この身体」に含まれているものである。悟性とは、我が身体に糸を伸ばしたときに現れるトランスフォーマーの中身の仕組みと言うべきである。この場合身体というのを極めて広い意味に理解せねばならず、それは後に論じるように「心」もすでに身体である、ということから考えられる。それによって、行為的事実その他深く我々の主体性に響く事実の認識についても考えることができる。)




心はすでに身体である

それで、こういう図式は例えば中島義道氏が『不在の哲学』などで展開している図式(自己中心的な有機体が、言語を習得することによって脱自己中心化して客観的実在としての世界を仮構し、その上で改めて二次的に自己中心化する)であり、私もその基本的な構図には全く異論はないのだが、ただ私がこの神話的事実論において論じたような具合に、なぜ文字とか話で知るだけの歴史的事実その他の客観的事実が、何か具体的な意味を持って私の心に現れて来るのか、というようなことまでは深く考えられていないと思う。

そしてそれは、カント(中島氏の哲学は批判哲学にキルケゴールサルトルなどを混ぜたようなものだ)が「我考える」ということの意味を本当に突き詰めて考えなかったことによるのではないかと思う。いやカントも、中島氏の解説書によれば、身体の感覚ということを基準に我々の客観的自然界と考えられるものが主観において仮構されるのだ、ということを考えている(はず)のだが、しかしカントの認識論は要するにあくまでも「自然界」への認識を明らかにするための認識論であって、彼の倫理学も、我々の自己を「理性的存在者」としてすなわち言ってみれば一種の原子として理解したところから来るものであり、だから我々も理性的存在者として一種の「自然界」に生きているものとしてみなされたのである。自然界への認識を、ただ次元を換えて倫理学にも当てはめたのがカント哲学的な考え方ではないかと思う。本当の意味で、神話的事実が我々の精神にとって持つ意味、歴史的ということ、行為によって世界に自己を「形」として表現するということ、こういう事柄については全く考えられていない(しかしこういう事柄は単なる主観的事実ではなく、客観的事実「として」我々の主観に認識されているのだ)。だからカントの認識論の構図を導き出すための型として想定されている「私のこの身体」(多分中島氏の解釈)というのも、ただ感覚によって自然界を認識するもの、というレベルで考えられた。結局それでは精神というものは、身体とは別にあるものだということになり、つまり世界に即してはいてもそれ自身は自己の殻の中で世界と離れて思考し判断するものだ、ということになってしまう。

しかし神話的事実、歴史的事実、行為的事実の存在するところにおいては、すでに私の心が身体に「なってしまっている」のである。私の心は身体と離れて外にあるのではなく、すでに身体である。我々は不快を感じると思わず足をドンドンしてしまうのであり、アイデアが閃くと思わず「アッ」と言ってしまうのである。不快を感じて、そこから足をドンドンさせようと思って、その上で足をドンドンさせるのではない。思わず足をドンドンさせてしまったことによって、逆に私は不快だったのだな、と初めてそこで気付くことができるのである。身体は心の命令から動くのではなく、身体自身によって動いているのである。このとき、身体の表現から逆算して、「心」があると我々は想定するのであるが、そういう意味での心とは、すでに身体的なものであり、いわゆる対象的な身体ではないがより深い身体なのである。そしてこういう在り方が、そもそも我々の直接の現実であろうと思う。中島哲学的な図式が、「私の身体」の対象化を土台にして成り立つと言うことができるならば、この「私の身体」ということの意味をそのまま深めて、今私の心はそのまま身体なのだと言ったような風に考えて行くと、そこから行為的事実の客観性についても考えることができる。しかも実は行為的事実こそが我々の直接の現実であり、単なる対象的な認識というものは存在しないのである。






まとめ

ということで、問題点は明らかになった。それは、単なる物体の認識ではなく、「何らかの意志を持った主体が、主体的に行為した」というレベルでの客観的事実への認識というのは、どうやって成り立つのか、ということである。これを考えると、単なる「物」の認識についても考え方が根本的に変わって来る。カントが著作を上梓し、それが翻訳なども含めてたくさんコピーされ、経めぐり経めぐりして我が手元にあるのだ、という客観的事実、いやカントが「現在ではなく、二百何十年前の過去という時代に生きた人だ」という事実、いやカントは「人」だという事実そのものが、私にとっては神話的事実でしかないはずなのに、やはり客観的事実として「認識」(単なる思考ではなく認識)されてしまっているのであり、こういう事実の客観性はどこから成り立つのか、という問題である。それはあくまでも「客観性」の問題なのだから、私が主観によって都合良く操作できる領域外の話であり、私が生きてしまっているということの足元から考えられるのでなければならない。したがって、それは観念論だの何だか論だのいかにも高尚そうな形而上学から考えられるのではなく、私が今このような身体において何でもなく生きてしまっている、スマホを見ている、とかそんなレベルの事実において考えねばならない問題なのだ、ということをここで明らかにしたつもりである。くどくなるが、どんな高尚そうな問題にしても、この地上において考えられる問題である限り、全て、「この私」が「この身体において」生きてしまっている、という条件を通した上でしか考えられないことであり、そもそも有意味な事実としてすらも考えられないということなのである。有意味な事実としてすら考えられないとは、問題にすらならないということである。我々は何でもないように「霊魂は存在するか、死後は存在するか」のようなことを問うが、そもそも霊魂という言葉自体、私がこの肉体に現に生きているという事実から、類推して理解されているものに過ぎない。この私の身体がいま三次元的に動き、上下左右の感覚を持ち、心を持っていて、何らかの時間空間の形式に自らを当てはめて生きている、という在り方をそのまま「霊魂」に重ねてみて考えているに過ぎない。本当に未知のものは、我々にとって問題となることすらできない。

そして行為的事実の客観性がこうした事情に基づいて成り立つということは、逆に、単なる物体や客観的事象の認識について考えても理解できる。明らかに、単なる物体Aへの認識と、主体Xが何々をしたという事実への認識とは次元の異なる事実である。しかしそれらはともにこの世界における「事実」として、全く対等の客観性を持ってこの私において認識されているのである。とすれば、「神話的事実論」で考えたように、むしろ単なる物体Aへの意味付与だと考えられること自体が、すでに複層的な認識になっているということではないか。物体を物体と認めた時点で、私の身体はすでにその中に入ってしまっている(デカルトの「物質」の本性である延長というものも、実は私によって生きられているこの身体からの類推なのである)。物体Aへの認識は、すでに私の「行為」である。私が物体Aの形を作るということが私がそれを認識することである。本来、「意味付与」とは、単なる観念的な事実ではなく、行為的な事実、現実の形を変える事実でなければならないであろう。私が私に与えられた現実を、ただ垂れ流すままにしておけずに、積極的に「意味付与」せねばならないのは、私の現実は私の現実であって私自身の「表現」だからであり、全ての形に私自身の形を与える必要があるからである。だからどんな些細なことでも、全て私固有の意味を与えられてそこに存在しているのである。

でも私固有の意味と、全ての理性的存在者に等しく与えられた普遍的意味との違いは確かにあるはずじゃないか、みたいに言われたら、もう分からん。しかしあるとしても、その特殊と普遍の違いというものを、私は「この私」において区別しているのである。そして、誰の意図によっても左右されない普遍的な意味を、普遍的な意味として、この私一個人の内に了解することができるのは、上にもくどくどと論じたように、「生きられた身体」がここにあるからである。どんなくだらない妄想をしていても、私の身体そのものはどうにもできない。身体の形を変えることはできるが、身体そのものが「生きている」ということを主観的にどうこうすることはできない。活動を停止させることはできるが、そもそもどうやって、「この」身体が「生きる」ことができているのか、わからない。自殺したとしても、自殺したあとの視点が彼には残っているであろう。そしてそれはいわゆる肉体ではないが、やはり身体的何かなのである。無というものを考えても、無がそこにあると考えているその思考は、すでに身体的なありかたをしているのである。身体的である限り、無は無意味であり、意味を持った無というものは身体によって初めて可能になるのである。身体的ということを私一個人がどうこうできないからこそ、このどこまでも主観的でしかないものが、ただちに絶対の客観性を持つことになるのである。これが私がここで一番言いたいことである。ここまで頭を柔らかくしていただきとうござる。


だいぶこんがらがってよくわからなくなったし、まとめなのにまとめじゃなくなった。無念。





本当のまとめ

ともかく、カントの超越論的方法というのは、私は複層的に考えられると思う。超越論的というのは、対象認識に必ず認識主観自身の自覚が伴っている(カントでは「伴い得る」だろうが私は上記の事情のため「伴う」でよいと思う)、という図式から考えられるものであるのだから、その自覚される「主観自身」の中身をどこまでも深めて行くことによって、対象の側もまた並行して深まって行くことになる。そうすることで様々なレベルの事実が、単に主観的な事実としてではなく客観的な普遍的な事実として「認識される」その在り方について哲学的に基礎付けることができる。そして「主観自身の中身」とは、身体である。身体と主観それ自身とは違うと言われるであろうが、しかし私が身体というのは「生きられた身体」であり、対象化されたあとの身体ではない。対象化される身体と言われるのも、この生きられた身体が始めにあってそれが対象化されるということであって、対象化された時に「生きられた」の部分は、要するに客観的な時間空間の形式として外にはみ出るのである。それで、主観自身の中身である「身体」というものをどこまでも深く考えて行くことによって、どんどん色んなレベルの客観性へと迫って行くことができるようになるのである。上にも言ったように心も身体なのである。

そしてその複層的な超越論的方法を実践してみせたのが西田幾多郎であると思う(いわゆる「場所の論理」)。ただ西田の文章は漢文読み下し調をもう少し和文らしくしたようなゴツゴツした文章であり、しかも我々一般人にはあまり論理の道筋がはっきりと分からないような書き方になっていて、しかも時々ポエム風に大事な論点を強調してくれるという風であるから、そこから綺麗な「超越論的方法」を整理した形で取り出してくることは極めて難しい。しかしよく読めば、一般に雰囲気的に境地的に理解されるよりも、ずっと彼の考えは論理的であり、そして哲学史の文脈を踏まえたものであることがわかる。私は彼よりも、もう少しくらいは分かりやすい文章が書けると思うので、どうにかうまいこと複層的な超越論的方法を展開できたらいいな、と思っている。まあ哲学というものが権威を持たなくなったこの時代に、そこまで複雑精緻な議論を展開する意味もないと思うが。