哲学研究

三木清や西田幾多郎が好きです。

デカルトの「物質」「精神」「神」という分析の意義

私自身のためのメモ。

哲学的分析の在り方。分かれる以前の「自体」から自ずから分かれるところを捉える

デカルト哲学での「物質」と「精神」との区別の意義は、アリストテレスの「質料」「形相」というのを、そのまさに分かれるところにおいて見たということであり、その分かれるところそのものへの反省が徹底的であったという点にあると私は考える。無論それはあくまでもヨーロッパの近代的精神という枠の内での「徹底的」ではあるが。

どんな物事も、たとえそれがいかに複雑に精密に分析され得るとしても、その分析を可能にする諸々の概念の分かれる「以前」の直接のそれ自体というものがそこにある。概念の分かれる以前の自体というものが、哲学の永遠の対象でもある。そしてその直接の自体が、自体であるままに、自ずから分かれるところを捉えるのが、哲学的分析であると思うし、そうでなければならないと思う。そうでなければ、その分析は、ある立場の都合による主観的分析であるに過ぎない。分析そのものではなく分析の始まるところがかえって分析の全てである。

分析されて出てくる諸概念の名は、実際のところ全て便宜上のものに過ぎず、その哲学的議論が目的としているある必要性に応じて適当な名が与えられるのである。そうであるから実は、それらの概念には、それぞれそこに全く別の名が与えられる可能性が常にあるということである。そしてそのことを常に念頭に置いていないと、概念の名が直ちに我々の現実世界そのものの有り様を忠実に表現しているかのように錯覚されてしまう。概念が実体化し人々の精神を蝕むことになる。そして学者という人たちはほぼ必ずこの錯覚の中に大なり小なり生きている。ああいう閉鎖的な社会が成り立つためにはむしろ是非とも集団的にそういう錯覚の中に入り込まねばならないからである。そればかりでなく、今の社会の構造そのものの不自然さも、概念の実体化に根を持っているのだと思う。理屈そのものは正しいとしか言えない原理によって貫かれていても、人々の苦痛苦悩は絶えない。しかし何度でも強調したいが、はっきりと言葉で表現された分析そのものは、哲学の本質では決してあり得ない。アリストテレスデカルトとカントとヘーゲルベルクソンとは言うまでもなくそれぞれの独創的な分析法をもち独創的に我々の現実を分析していった哲学者達であるが、彼らの分析法それぞれの独自性は、決して分析そのものにおいて彼らが異なる概念の名を使ったという点にあるのではない。分析そのものにおいて言葉が異なってくるのは、むしろ分析の開始ところにおいて、現実そのものの切り取り方に独特の着眼点があるからである。この直接の「自体」の取り出し方から、自ずから分析の言葉も決定してくるわけであるから、結果として分析の中身においてもそれぞれの特色を持ったものとなるのである。この「順」が大事である。

全ての分析は根本的には同じ構造を持つ(多分)

また全ての分析は必ず根本的には同じ構造を持ち、それは「一をニとして見る」ことであり、「三で締める」ことであると言うことができるのではないかと思う。この「二」を「多」に置き換えても良いが、それがいくら複雑になったとしても、それが分析と言うに値するものである限り、必ず「二つ」のグループや原理によって「一つの自体」を説明するという構図になると思う。そして一が二になった上で、その二をもう一度一に戻してくることを「三」と言うのである。だから、それぞれの哲学者、いや哲学に限らず、あらゆる種類の「分析」において、必ずそれがいかなる「一二三」を持つか、という点に注目せねばならないと思う。どこにその分析の出発点があるか、それはどういう二者に分析されるか、この分析はどうまとめられるか、である。それを掴めば、ある人の分析を応用して、それらの要素に別の言葉をあてはめることも可能になってくる。

もっともそれを見極めるのは容易ではない。そして安易に「一二三」を捕まえたと思ってもならない。分析とは本来言葉にはならないものであり、言葉以前の「概念」がそこに動いているのを無理やり言葉によって捉えるという試みである。「一」にしても、一が一として形が定まるまでに、零コンマ幾つ費やさねばならないであろうか。我々は一より前に、形より前に、零が、形以前のものがあり、全ての形は常に同時に形以前のものに抱かれて存在しているということを忘れがちである。だからこそ尚更、分析というものに接する時、どこにその人の「一」があるか、心を研ぎ澄ませて感じる必要がある。一が決まれば二三は自ずから出て来る。



次の論文予告のつもり(だった)

そういうわけで、これは次の論文予告のようなものであるが、デカルトの物質と精神と神とは、この直接の「自体」が分析されて自ずから出てくる機能的な三者だと私は考えているのである。つまり、有名な『省察』などで出てくるような、いわゆる「方法的懐疑」によって、考えられる限りのあらゆる事柄の真実性を疑い、疑っても疑い得ない直接の「自体」に到達する時、そこに直ちに見えてくるものが、この三者なのである。そしてそれぞれなぜこのような名が与えられているかと言うと、デカルトはあくまでも人間理性を使用して主体的に世界を認識し世界に働きかけてゆくという近代ヨーロッパの精神を基礎付けるという大きな目的が(デカルト自身がはっきりそう考えていたかはわからないが客観的に見て)あったからであり、これらの概念はそのために必要十分であるものであった。

しかしデカルトと同じイデーを持ち合わせない現代の我々は、また別の観点が必要である。それで、デカルトのこの懐疑的自覚的な思考法そのものを活かし、我々は我々の立場から見えて来る現実を分析すれば良いのである。このような方法は、西田幾多郎がまさに実践してみせたことであり、そして方法論として彼自身強調したことでもあった(西田「デカルト哲学について」)。西田は「歴史的」ということを我々の世界の本質だと考えていて、我々の世界と自己は歴史的形成的に成立するのだと言うが、これはどういうことかと言うと、上に私が説明したように、それぞれの存在にそれぞれの観点からの「一」があるということであり、この時間空間地域時代をまたいで存在する無数の個性的な「一」を包む「零」によって全ては生命を与えられる。それぞれの存在に、それぞれの歴史的背景があって、それぞれの個はその独特の歴史的背景ごとの個でしかあり得ない。西田は、「一二三」の背後に「零」を見ていたのである。デカルトの「一二三」は「一二三」で止まっていて、そしてカントもヘーゲルもまた同様であるが、西田は明らかに無数の個性的な「一二三」を包む「零」を意識していた。それを彼の概念で「場所」と言うし、零ということを強調するとそれは「絶対無」になる。

そして私はこれを応用して「四」に進むことができるのではないかというアイデアを、前から持っている。「意志と生命のはずみと他己同一と(人間的自由の本質?)」で論じた四元的な見方は、実は、この「四」の論理、つまり「一二三」が「零」を通って「四」に行くというアイデアの一つの実践であった。そして四まで行くと、今度は更に大きな綜合的原理としての「五」に行くことができる。こうしてまたこの世界に存在する色々な世界観にもつながってくるというわけである。私としては、この先どんな思想に展開して行くか、自分自身で楽しみである。