哲学研究

おっぱいが大好きです。ガチで実在の問題について考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

客観的事実というものはなく、実際にはただ神話的事実があるばかりではないか

過去は、全て神話なのではないか。今、ふと気付いた。我々は、いやこの「私」は、かつてアリストテレス西田幾多郎織田信長が、私と同じような具合に地上に肉体人として生活し、何十年か存在したと考え、別に彼らでなくとも良いが、とにかくそういう生活が過去に、絶対に確定した客観的事実として、無数に実在したものと考える。そのことをどうやって知るのであるか。例えば学校で教えられる。本で読んだり、人から聞いたりする。私はそれらの人をこの眼で見たわけではない。会ったことのない親戚でさえ、本当に存在するのか、分からない。ところが、なぜか彼らの実在は、全く疑い得ない事実として、この私に認識されてしまっている。


客観的事実と、神話的事実という区別そのものが実は存在しない

過去に実際にあった「客観的事実」と、主観的真実を過去に投影したものである「神話的事実」というものがあると、私は知っている。ところが、本当にそんな区別はできるのか。初めに言ったように、客観的事実として、この歴史上のある時期に、一定の時間、一定の場所で、肉体人として、ある人が生活した、ということすらも、実は、ただの神話的事実であるかもしれないではないか。

私は例えば、ベルクソン西田幾多郎の著作に触れることができる。彼らが、客観的「過去」に、肉体によって執筆したものが、翻訳されたり、印刷されたり、運ばれたり、様々な仕方で巡り巡って、この私の手元に、時を越えて届いたのだと、考えられる。しかしそういう経巡り経巡りしてやって来るという「客観的事実」ということ自体が、すでに疑うことのできる事実である。ベルクソン西田幾多郎は、実在の人物ではなく、実は、「この私」に現れて来ている神話的実在に過ぎないのではないか、ということになる。テレビの向こうに見えるあのアナウンサーなども、いや外から聞こえて来る会話の主である「おばさん達」でさえも、神話的実在に過ぎないのかもしれない。

神話とは、私個人を越えた事実と考えられるものだが、同時に内的にしか理解できない事実であり、それを外から見るのではなく、実際に私がその中に生きることによってのみ、これを事実として認識することができる、という事実のことを言う。つまり私を包んで私を動かすものである。それは普通には、神々の世界での神々の振る舞いが、ある民族の心を根底から支える普遍的なテーマを照らし出すようなものになっている、などのような事柄について考えられる事柄である。ところが、以上の議論から、単なる神話や英雄譚などではなく、実際の客観的事実とされている彼らの一々の事実についての私の知識というもの自体が、すでに実はこのような神話的認識なのではないか、と考えることができる。これこれの人がこれこれをした、という知識そのものが、実は、私の心がその「内」に生きている、という神話的認識なのではないか。実際に、これらの知識は、単に外から入って来た知識ではない。ただ単に外から入って来る知識ならば、私はその知識の内実、つまりどんな姿を持つか、どんな様子か、どんな景色があるか、ほんのちょっとでも想像することさえできない。ところが普通、これについてどんなに想像できなくても、それが人の形をしたものであることくらいは想像できるものである。西田幾多郎が存在した、というこの一点だけでも、私はそれが人間であり、肉体を持ち、日本に住み、過去のある時期に何十年か生きた、ということを、なんとなくでも「想像する」ことができる。なんで私はそれを想像することができるか。この「私」が、現に、肉体を持つ日本人であり、何十年かは生きて来ているからである。もしこういう私自身の内的体験という参考情報がなければ、私は西田幾多郎という名前とそれに付属するちょっとした情報に対して、なんの想像をも持つこともできないはずである。それが物なのか、ロボットなのか、そもそも個体ではなく土地の名なのか、いや時間の、時代の名前なのか、いや動詞なのか、何も限定できないことになる。今、ロボットとか個体とか土地とか時代とか言ったが、これでさえすでに私の内的体験という参考情報に依存して、初めて、なんとなくでも「想像する」ことのできるものである。

このように、どんなに客観的で外的と考えられる事実でさえも、実は、「この私が、直接肉体人として、この唯一の視点から、世界ごとの自己として、世界を丸ごと内的に体験する」という参考資料がなければ、少しも与えられた情報の意味を理解することができない。とすると、どんなに外的な知識、つまり私がそこに全く主観的な変形を加えることのできない、定まり切った事柄と考えられることでさえも、実は、私自身の内的体験の延長、私の存在の分身と考えることができる。いや、そうとしか考えられない。奇妙な考え方であろうが、しかしここでのアイデアに忠実に考えて行けば、どうしてもそういう結論に至らざるを得ない。

さて、こう考えると、今度は、逆にいわゆる神話的事実というものが、より客観性を帯びたものとなって来る、ということが分かる。つまり客観的事実とされるものすらも実は神話的事実に過ぎないのだから、いわゆる神話的事実というものは、我々が、いやこの「私」が今まで思って来たよりもずっと客観的事実的なものなのではないか、ということである。例えば、アトランティスだとかムーだとか言われるものが、 なぜ、この私の肉体的現実に、或る意味を持った情報として現れて来ているのか。それはまず私にとっては、神話的事実である。それは私にとって、せいぜい私自身の存在を、神話的に意味付けて奮起するためのもの以上のものではなく、それが実在する事実であってもなくても良い、ただ内的に意味を持てば良いのだ、と私は今まで思って来た。しかしここでのアイデアが示すのは、神話的事実は、神話的であるままに、客観性を持ち得る、ということである。なぜなら、絶対に確定した客観的事実とされるものでさえも、すでに神話的事実でしかないのであるから。

神話的事実が神話的事実であるままに、客観性を持つとは、どういうことであろうか。これはすぐには分からんことである。事実とは、それが神話的なものであれ、客観的なものであれ、いずれにせよ客観的事実そのものに最終的には行き着かねばならないものであり、そうでなければ「事実」とは呼ばれない。いかに非現実的なことであっても、それが「事実」と呼ばれるのは、それが客観的時の形式上に何らかの形で想定されるものであるとか、あるいはそういうことを私が頭の中で妄想したという客観的事実がそこにあるとか、必ずそういう理由に依るものなのである。ただ主観的でしかないものは、事実とすら呼ばれない。それはただの観念である。神話的な事柄であっても、その神話が神話として現実にその人達の民族生活の内に生きているとか、受け継がれているとか、そういう客観的事実があったり、あるいは神話そのものの元となる実際に存在した出来事や人などということがあるとされたりすることで、初めて「事実」と呼ばれることが可能になるのである。ところが、ここでのアイデアは、そういう意味での「客観的事実」すらも否定されてしまうのである。客観的事実すらも神話的事実なのである。西田幾多郎が人であると想像することすらも、すでに神話的事実なのである。いや、外に聞こえる会話の主を想像することすらもすでに神話的事実なのである。

(我々が、全ての事物を存在させる、超越的な「時」の形式と考える概念そのものが、実は、諸々の事物、事実についての私の神話的認識に依存して初めて成立できるのである。例えば、物理学的に考えられるような、空虚で直線的な、時それ自体があって、空間があって、そこになんで諸事物が存在するようになったのか、という見方は、そもそもできないのである。時とは、むしろ事物を、事実「としても」見ようとする時に、この二つが合成して出来るものであり、従って時とは事物それ自体を越えてあるのではなく、事物それ自体に付属する性質でしかない。時というものが初めにあるのではない、事物をあるがままにでなく「事実性」によって統一して見ようとした時に、事物に対していわば虚の空間に「時」それ自体というものが現れて来るのである。しかしこの虚の空間は虚の空間に過ぎない。それは私が、「事実性によって事物を統一しよう」と意志するということによって初めて現れて来るものでしかなく、この意志さえ消えればいわゆる「時」の形式は同時に消えてしまう。時「的」ということはそのまま残るが。つまり、測る時間ではなく、体験する時間は依然としてそこにあり、しかも事物は先ほどと何も変わらず今ここにある。

こういう次第であるから、時というものを考える前に、事物、事実の方をよく考えねばならない。我々がそれを時の形式に当てはめて理解する以前に、事物それ自体として何であるかということを、足元に立ち返って、反省してみる必要がある。以上のようなことについては後の方でもまた論じる。)

神話的であるままに客観性を持つとは、これもまた奇妙な考え方であろうが、実は、この「私」がその事実を今ともに生きている、ということである。過去はないのであるから、全部現在だと、考えれば良いではないか。私が内的に理解できる事柄は、全部私自身の分身の体験であると考えて良いのである。そしてそのことは、空間的に隔たったAさんについても、時間的に隔たったBさんについても言えることである。そもそも私が今、空間的隔たりとして理解しているものは、実は時間的隔たりかもしれない。時間的隔たりとして理解しているものは、実は空間的隔たりかもしれないのである。西田幾多郎が過去の日本において存在した、これが時間的隔たりであるが、そうではなく、「過去の日本」という名を付けられた場所が、この現在において、私が今居る場所と、同時並列的に存在しているのである。ちょっと何を言っているのか分からない。では、空間的に隔たって存在している、今ここの私と、あそこの薬缶というものが、実は「時間的隔たり」である、つまり薬缶は私の未来か過去である、とは、一体どのように考えれば良いのか。はてなはてな

ここまで来ると、もう何が何だかわからねえ。だが、とにかく、これは、客観性と時というものの問題であることはわかった。



時とは一体何なのか

時というものは何なのであろうか。上にも少し言ったように、一つの定まった時というものこそが、事実の「客観性」そのものを保証するものである。突き詰めると、客観性は全て、時が唯一であるということに依存するのである。何が起こっても、たとえ宇宙が破滅したとしても、もしくはどんなに主観的な幻想が私の、彼の現実を覆ったとしても、絶対にそれ自身はブレることのないという、唯一の大きなものによって保たれる、ということが客観性である。ところが、今見たように、そのこと自体が疑いに満ちた事実なのである。つまり唯一の時、という観念自体が、実は神話的事実に過ぎない。西田幾多郎は過去の日本のある時期に何十年か肉体人として存在した、ということ自体が神話的事実である。それは私の内的体験によって類推されたものに過ぎない。私が過去に何かを経験した、という記憶でさえも、実は私の今ここの体験の在り方から類推した神話的事実でしかない。私は過去というものを、今の今において、一から意味付け、神話として理解しているのである。

だが、時というものは、ある。つまり、時というものは、あくまでも、今ここ、というところから作られる形式なのである。だから、時の形式というものがないのではなく、それは、「この私」において、今作られているものなのである。しかもそれは今限りの命である。無限の過去から、無限の未来に至るまで、この今この私が作為した形式でしかない。何と不思議なことか。だが、時というものはどこまでもそういうものと考えられねばならないであろう。


時は空間である

この現在から私によって作為されるのが時であるとは、時が空間である、ということであろう。時が空間であると言っても、いわゆる空間ではない。それは永遠の空間と言うべきものである。全ての事実は、すでに起こっている(んだとさ※)。しかしそのすでに全て起こっている事実をそのまま見ることのできる存在はどこにも居ない。永遠の空間そのものを掴むことのできる存在は居ない。神は神としての個物に過ぎない。だからどうしてもある限定された枠を自分で設定して、それを順に歩んで行かねばならない。現在は永遠に現在に達することができないのである。その永遠の空間に並べられているものを順に歩いて行くことが、時なのであろう。

( ※ http://5am5.blog.fc2.com/blog-entry-1738.html?sp

他の註も参照)



時の枠は本来幻想であるのだが、この枠なくして私は存在し得ないので、しかも真の意味で存在すると言うには時の枠を越え真の時に至らねばならないのであるから、ここにはかなりひねくった工夫が必要となる。どうするかと言うと、今まで定めていた時の枠の内に、また新たな時の枠を設定するのであり、それによって元の時の枠をうまくはみ出ることができる。宇宙人アシュタール氏の(正確に言うと彼ら宇宙人とのチャネリングのチームである「ミナミAアシュタール」※の)表現の仕方で言うと、絶対無限の存在は、自己自身の内に小さな絶対無限の存在の分身を無数に作り、そのたくさんの分身が無限の角度から体験することで、大きな絶対無限の存在が自分自身の存在を知って行く、という無限の旅がこの宇宙である。

https://ameblo.jp/kuni-isle/entry-12435406512.html

かくして、根源的な時の枠の中に新たな時の枠が出来、その中にまた新たな時の枠が出来、その中にまた、、、という風に無限に枠が出来て来るのである。その中には、あたかも客観的な時自体というものがあるかのように見える場所があるかもしれない。それは要するに、この根源的な時の枠、つまり全ての時の枠がそれによって成立するところの大元の大枠の、「似せもの」として作られた枠ということである(神人『大日月地神示(おおひつくしんじ)』には、この地球というのは宇宙の雛形として作られているということが述べられているが、それはまさにこのことを指す)。この大元の枠の「似せもの」の枠がなぜ作られたかと言うと、この雛形によって、大元の宇宙そのものの自覚のための原型をうまく作りだすためであると言われる。この神示の語るところに依ると、大元(といっても本当の大元にはどの存在も到達できないが、今の我々から見てほとんど大元)の宇宙がどんどん進行して行くにつれて、色々な「歪み」が出てきて、収拾付かなくなるようになって来てしまった。そこで、その根本的な問題を解決のための「雛形」として、宇宙の片田舎の小さな地球にそのような場所を拵え、そこに様々な宇宙の存在が同居するように仕向け、ここで一旦この問題解決の事業に、多くの存在が関係し奮闘することとなったのである。なるほど、地球というのは元々そういう役割を持った星であるからこそ、我々は、地球外の生命はないと無造作に考えているし、そこまで考えなくとも、地球の尺度での時間や空間の感覚がそのまま大宇宙そのものの普遍的なあり方だと、特に疑うこともなくほとんど無意識に信じてしまっているのである。そう信じてしまうのも無理もなく、地球人は、初めからなるべく地球という枠の中だけで問題を解決するように仕向けられている。宇宙そのものは他の努力を借りることはできない、全て自分の力で問題を解決しなければならない。このことと同様に、地球もまた宇宙の雛形として、なるべく地球の内部に存在するものだけで、最大限努力し、全てのものをうまく調和させるようにしなければならない。そこに大きな意味があるのである。

それはともかく一般論として、私が今時として理解するものは、永遠の空間において、空間そのものを限定してしまったために現れるものである。確かに、「この場所では、この道順に従って行くべし」という規則がある場所であったならば、どうしてもそこはその道順で行くしかない(と思い込まされる)のだから、その規則が、この私に与える規則が、そのままその場所における私の「時」だということになる。だが私自身は、いつだって永遠の空間自身であることをやめない。それさえ思い出せば、私はその道順に逆らうこともできる。もともと、私の実存そのもの以外に、時というものは存在しないのである。

また確認するが、時の固定というのは、それによって私が時の箱の内部に存在することができる、ということである。私は今でも時の外に居るのに、無理やりそのことを忘れることによって、過去や未来というものを、遠い彼方にあるものとして作り出すことができる。本当は全部現在の同時並存の経験なのであるが。順を踏んで経験する、ということをする必要が今の私にあるのは、このあり方で体験することによって、時を越えた時においての進行が、時の内部に被さって来ることができるからである。箱の内部に箱の外部の情報を入力することで、箱そのものを、従って過去未来というものまでも塗り替えることができる(アシュタールは今このとき私が時の箱にいるということを「共振するタイムライン」と言い、箱の外の情報を入力することによって箱の中そのものを変えることを「タイムラインを変える」と言う)。今肉体を持って生まれている人間は、多分そのために生まれてきたのである。私は、この時間の箱の外においても存在しているが、その箱の外というのも、実はそれ自身また一つの箱になっていて、そこでもまた何がしかの時間的経験がある。そしてその箱の外にもまた時間があり、その外の経験が内に流れ込んで来る。このように時というものは、無限に深く考えて行くことができる。箱は無限に重なっているのである。ただ突き詰めると、全ては今すでに起こっているのである。しかし何も起こっていないとも言える。時というのは、一つの永遠の現在というものがあって、これを一つの枠で括ることによって、人為的に生じるものでしかないのである。その枠は、私と離れて超然としてあるのではなく、枠自体私が定めたものなのである。枠で括ることによって、真の現在の方は、その枠の内にあって枠を越えるもの、過去を持って現在から未来へと時を形成して行く主体だということになる。時を枠で括ると、現在というのは、その時そのものをはみ出るものとして現れるのである。これは、かつて「未来について(時間論)」で述べたことであるが、我々のこの肉体的現在というのは、物理学的な宇宙観における宇宙の全歴史を内に含んだものとなっていて、つまり我々が現在肉体によってこの現在を経験するということは、すでに終末を迎えた宇宙そのものの記憶の中に潜って、その中のある一点に入って行ってこれを再経験することで、その記憶そのものを塗り替えて行くというゲームなのである。実は宇宙の終末というのも見せかけで、実は、それは元々時の箱を人為的に限定した上で、その終末ということに過ぎない。この箱の内部に入って体験している時でも、我々はいつでも箱の外にある本当の現在に触れている。箱の内部の現実も、見かけがどうであろうと、この真の現在において私が経験していることに対応するものが現れて来ると考えられる。我々のこの地上的生は、実は物理学的宇宙観において理解される全宇宙史そのものを越えたスケールでの、課題の解決と考えねばならない。

(私は小学校くらいのとき、親に買ってもらったゲームを思い出す。それは鉄腕アトムが主人公のアクションゲームであった。鉄腕アトムが一つの根本的な目的に向かって、一つ一つステージをクリアしながら様々なドラマを経るというものである。人間とロボットとの幸福な共存というのが、根本的なテーマとなっている。シナリオには、色々な手塚治虫作品が使われている。ブラックジャックなども出て来る。例えば時に古代エジプト王国にタイムスリップしたりして、時や地域を越えて、アトムは彼自身に与えられた使命を果たして行く。しかし結局うまく行かず、ざっくり言うと、ロボットの人間不信のために、破滅してしまう。これだけだと、このゲームは悲劇である。しかしここからがすごいのである。アトムが死ぬ時、あの「火の鳥」が現れ、時を戻して、そもそもなんでこんな状況になってしまったのか、もう一度辿ることができるようにしてくれる。そして裏ステージが登場するのである。このような筋書きは、多くのゲームが持っているものかもしれないが、私個人の体験としては、やはりこのゲームの進行の仕方は、非常に心に深い印象を残すものであった。本当の本当のラストというものは覚えていないが、なんだかすごいものだったと記憶している。このゲームの全体の構成が、なんとなく『火の鳥』を下敷きにしているように思われる。私は、この肉体的生というものも、あるいはこのようなやり直しのためにあるものではないかと考えるのである。こういう風に今生きている私は、あるいは全歴史をすでに知っているのかもしれない。何か、どこかで大きな間違いを犯して、それが私自身の全てをダメにしてしまったのかもしれない。それを今、歴史の果てから省みて、またこの箱の中に戻って、どうにか取り返そうとしているとも考えることができる。)







まとめ。四元的構図について

本当に何がなんだかよく分からねえことになった。客観的事実は、全て神話的事実であり、だからこそ神話的事実は全て客観的事実である。ここからいわゆる前世の問題などについても考えることができるのではないかと思う。ここでは時に関する壮大な話にまで発展したが、それによって、普通に神話的と考えられることがらに、現実的な客観性がある、ということを論じたつもりであった。つまり我々のごく日常的な客観性というものが実は、私のこの今現に生きている身体の在り方を基準にした上で成り立つ神話的な客観性に過ぎないのだから、逆に神話的な事実は単なる神話的な事実ではなくなるのである。

日常的な何でもない客観性がすでに私の主観によってよく思考され作為された結果成り立つものに過ぎないのだから(カントもこの点に気づいたのである)、そもそも何ものかが「よく思考される」「心によって構築される」ということ自体が単なる主観的な事実では有り得ないのである。それは深い客観性に支えられたものでなければならない。誰それの主観と言っても結局は集合的な常識的感覚のバリエーションに過ぎないことがよくある。いかに多数に共有されていても、真の客観性とは程遠いというようなことが我々の世界にはたくさんある。たいてい本当に厄介なのは、個人的な独断ではなく、集合的な独断である。全体主義もそこからおこった。しかし独断というものがこのように多数に共有されたものであり得るということは、独断がそれ自身に客観性を持っているということである。独断が現に客観性を持つということは、元々客観性というものが独断的なものでしか有り得ないということであろう。独断的とか客観的とかいうことは直ちに個人的ということでも集合的であるということでもない。よく考えると個人の独断が、より普遍的な、多数に共有される客観性へ上って行くということは、逆に集合的な独断が、より普遍的な個人的な客観性へ上って行くということである。こうやって、単に独断・客観の二項で考えるのではなく、この二項を個人的・集合的の二項と組み合わせて「四元的な構図」から考えると、我々の世界の道理というものはよく掴めて来る。個人から多数へと上って行く道もあれば、多数から個人へと上って行く道もあるのであり、それらは同じ渦巻きの中に廻転し、進むのである。「独断・客観」という尺度は、「個人から多数へ」の方向に接続することもできるし、「多数から個人へ」の方向にも接続することができるのである。つまりこの四元的構図によって、個人と多数とは、単に一方向的なものではなく、互いが互いの「主」に立つことのできる弁証法的な創造的な循環の担い手となることができるのである。そうすると個人は真に自立した存在となり、集団もまた真に自立した存在になる。なぜなら、個人が集団を媒介して自己自身を刷新することは、同時に集団が個人を媒介にして自己自身を刷新することになるからである。個人から集団へ、は集団から個人へ、ということになる。渦巻きは渦巻きを呼ぶのである。ここに、他己同一の関係を見ることができる。

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そしてそれは、四元的構図によって、初めてバランスすることができる。「人間的自由の本質もどき」参照。
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我々の身体というものを見れば、客観性はむしろ深く主観性へと入って行かねば得られないものであることがよくわかる。我々の身体は、四元的構図を踏まえてこれを更に「五」すること、すなわち全体のバランスを踏まえた上で、更に創造的に表現的に世界をはみ出して行く「形」になっている。それ故に「五体」と言うのである。私は、現に普段から生きている「この身体」によって、神話的事実が神話的事実であるままに客観性を持つということと、客観的事実は全て神話的事実であるということを見ることができる。