哲学研究

おっぱいが大好きです。ガチで実在の問題について考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

他己同一の図形的イメージ

適切に伝えられているか、また理解が正しいか分からぬが、とにかく私が今理解している限りでの図形的イメージを掲げてみる。


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ここからここへ、の図。西田幾多郎の言葉で言うと、主体と環境の矛盾的自己同一の抽象的イメージ、ならびに行為的直観の抽象的イメージ。剣と鏡と玉とも見ることができる。

(小声で言うと、これが性交というものの原イメージなのだと思う。しかもこれは臍の形でもある。結構真面目な話。性器に限らず、身体の形は、全体の造りについても、それぞれの部分についても、必ず天地の摂理の在り方そのものを形象化したものになるのではないかと思う。そして身体には様々な形があるが、その形の成り立ち方によって、その身体を持つ種族が宇宙的な観点から、いわばどのような役割を持って作られているのか、ということが、なんとなく察せられるようになっているのではないかと思う。身体の形は偶然出来上がったものではなく、必ず意味があってそうなっている、ということである。)



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他己同一の関係。一つの流れが出来るということは、二つの渦の回転を伴うということである。そしてこの一つの流れというものも単なる直線ではなく、結局は自己自身の内に渦巻いて還って来る。

(さっきの小声の続き。これは明らかに「おっぱい」である。私はおっぱいが大好きだが、それは天地の道理を、他己同一的な関係を、動物の身体において(多分)形象化したものだから、ということもある。乳児はおっぱいに育まれるが、天地もまた私の言葉で言う他己同一的な道理によって全ての存在を育むものである。)



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太極図に関しては、まだよく考えられていないが、多分深くこれと結びついたものなので、ともに掲げておく。上は、絶対矛盾的自己同一。矛盾的自己同一それ自体のこと。実在そのものの論理としての矛盾的自己同一。パスカルだったかが言っていることで西田もよくこれを引くが、実在は至るところに中心を持つ淵のない無限大の球である。私は、これを無限に自己自身の内に廻り続けるものとして理解する。しかし廻り込む中心というものはないのであるから、逆に全ての点がその中心である。中心から中心へという動きでもあるし、淵から淵へという動きでもある。この図では窪んでいる中心らしきものがあるのだが、これは真ん中とも見得るし、向こう側を向いたドームの頂点とも見得るし、手前側を向いたドームの頂点とも見得るし、球内部のどこか中途半端な場所の点とも見得る。そしてこの点めがけて、グルグルと廻転しながら大小様々な無数の線が廻り込む。廻り込んだ線はまた外に出て円を描いて戻って来る。とするとこの循環は磁場のようなもので、球状なものだということになる。しかし三次元の球というのでは中途半端だから、全ての線は実は無限次元の球を描いて、無限大の円の中心の内に廻り込み続けているということになるであろう。しかも全ての点が中心なのである。

で、この頭ではとても考えられない、無限の循環とは、実は我々が今現に見ている世界そのものなのである。我々の今見ている世界が、「綺麗な」球形そのものではない(もしそうだったら、私という存在もないし何かを見るとかするとかいうこともない)ということ、つまり複雑な形を持っているいびつなものだということは、実は、この無限大の球というものがいびつなものであるということを示してもいる。不思議なことであるが、これは事実である。だから世界にはここで終わりというものはなく、解決は新たな課題を示している、ということにもなる。

(また小声の続き。これは人間の身体で言うと、髪の毛のモジャモジャだと思う。天地の運行が、渦巻き状の運動を基礎にして成り立っているということと、つむじの渦巻きとは、おそらく関係があることだと思う。直毛の人、癖毛の人など居るが、このことにも何かヒントがありそうである。また渦巻きではないが、大事なところを守るモジャモジャの毛一般についても多分同じようなことが言えるであろう。)


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以下の説明は、この図に描いたのとはちょっと違うことであるが、深く関連することである。

水面に何か棒を差し入れて直線の動きを作った時に、当然ながら水流ができる。一つの水流は脇に二つの渦巻きを作るのだが、この棒によって生じた水流の勢いの盛衰によって、渦巻きのでき方にも変化が起こる。二つの渦巻きは、初めは大きく窪んだ形をしていて、大きさそのものは小さい。深く狭くである。これがだんだん水流が弱まるにつれて、浅く狭くなってくる。とともに、観察しているとそれらの渦巻き自身がまた小さな渦巻きを自分自身の渦巻きに隣接して沢山携えているようである。翻って考えると、始めに水流が起こったときから渦巻きは沢山できていたのだが、うまく噛み合った二つの深く狭い渦巻きに気を取られてそれ以外には気が付かなかったのである。そして水面全体に、このような仕方で無数の渦巻きが生じ、それらの渦巻きが相殺することによって、最終的に水流も止まり水面も静かになる。



およそ我々の世界におけるどんな動きも、一つの大きな循環の中の一つの水流に過ぎない。一方的に押すだけの動きというものはこの世界に有り得ない。押すことには必ず押し返しが伴っている。しかしそれは作用に対する単なる反作用というものではない。その概念は、力というものをあらかじめ直線的な一方向的なものだと決め付ける、あるいは便宜上仮定した上で、それに対する自然の循環の摂理に基づく「押し返し」の反応を、無理やりこのような一方向的な直線に合わせた形で、つまり反作用として理解するのである。ところが実際には単なる直線的運動というものはない。直線的と見える運動も、深く見れば、丸い運動でなければならない。そもそも力というものがあるのではなく、力とは、具体的には形と形とが形したものから、人間がその思考活動によって抽象して見たものである。実際に存在するのは、形と形が溶け合い響き合っているということだけである。作用は丸いのであるから、作用に対する反作用というのもまた丸い運動であるはずである。というよりも、突き詰めると作用と反作用の区別はなく、世界には無数の丸い運動が形しているだけなのである。それは一とも多とも言えぬ、また一とも多とも言い得るものでなければならない。

ただここが人間の思考の働きの素晴らしさであるが、実際にはただ形と形とが形しているという在り方の中から、コモンセンス(常識的感覚)を働かせて、一から他への一方的な働きかけ、というものを抽象して見ることができる。自然の働きの内に、意志的なものを見出すことができる。意志とは一方向的なものでありこれが、西洋人が人間を自然から区別する理由であるが、しかし自然界の働きの内にこの「意志」を見るとき、それは直ちに反作用によって打ち消されるものと見られる。これによって自然全体のエネルギーは一定に保たれるからである。これによって意志を、意志そのものとしてでなく、あくまでも自然界の法則の内にあるものとして理解できるのである。このようにして見た意志を「力」と言うのであろう。ところが力というのは、単にエネルギーの総量などという抽象的な概念によって理解できるものであろうか。いや本当の現実の自然界とは、むしろ我々の自己の持つ意志というものまで包んだものであることを考えると、ここから人格性を除外して抽象的に自然を対象的に見るから、力というものをあくまでも抽象的なエネルギー量というところから理解せねばならなくなるのである。ところが現実に存在するのは、何度も確認するが、形と形とが形するということのみであり、そこには響き合い溶け合いがあるのみである。運動というものから抽象される力なるものがあるのではなく、運動も形であり、力も形でなければならないのである。「形」とは全ての抽象を具体において見るということである。抽象的に理解される諸々の量ということも、そのように人間の自然科学という運動において見られ表現された「形」に過ぎず、それ自体が対象的な自然の側にあるのではない。そもそも自然とは人間の人格性そのものを、意志を、思考を含んだものなのである。それで実際に見られる運動、力というものも、繰り返しになるが、それ自身も「形」として、循環の内にあるもの、丸い形をしたものでなければならない。

では運動や力一般はどのような仕方において丸くあるのかと言うと、多分、いま描いたような水流の動き方に大きなヒントがあるのであろうと思う。世界というものは循環によって一つながりなのであり、この在り方によって、一つの形は同時に無数の形を包むものと見ることができるのである。一つの形がここにあるのは、無数の形と共鳴し融合して、無数の形ごとをそこに照らしているからである。個々別々に形が分かれているように見えるのは、それが実は何か大きな意志の通り道になっているからである。個々の形は、実は、その意志ごとのレベルで動いている。それぞれの形は、それらが別々の物と考えられる限り、大きな意志によってそこにあるのでなければならない。意志と意志とは同居し得ず、強いて同居させようとすればぶつかる。これが個体性である。自然科学者は、意志と意志を衝突させ、意志と意志を人工的に破壊することによって遊んでいる。しかしこの大きな意志と意志との根源を辿ると、結局は意志そのものもまた大きな溶け合いの中にあるものに過ぎない。我々の自己は現にその融合を直覚しているからこそ、それらの形を私の意識という一つのフィールドの内に見ることができ、しかしまた意志と意志とのぶつかりということもまた我々自身の意志つながりで直覚されるから、物と物とが個々別々の物として現れるのである。

それで、一つの流れが二つの、そして無数の渦巻きを作り、それによって水面全体がバランスする、という在り方に含まれた哲学的論理というものを明らかにしたいのであるが、なんだかまだうまく説明できそうにないので、とにかくここにヒントのみ図として乗っけておくことにしたのである。

ついでにもう少しヒントを出しておくと、先の描写では、始めに水流を人為的に起こしたわけであるが、この時の私の腕の動きというものもまた、一つの渦巻きである、ということである。腕の場合は、人間身体の一部として、もともと円を描いた動きをするものとして作られている。そして身体そのものもまた一つの円環である。野球のピッチングがムチの動きを模するということも、また身体そのものが波打つ運動すなわち循環的な運動という有り様を原型にして作られたことの一つの証左である。こういうことからも、全ての動きがそもそも渦巻き運動、波打つ運動であるということが言えそうである。この水流の描写では、要するに棒による動きだけが、水面上の諸々の渦巻き運動から隔たった純粋な直線的運動の地位を持っていたのであるが、しかし視野を拡げると、その動き自体が実は腕による渦巻き運動であったのである。我々の頭には単に直線的にしか見えぬことも、こんな具合に、必ず大きな円環の内にある、ということを忘れてはならぬ。

そして大事と思われるいま一つの点は、私が何度も繰り返すように、一は即二だということである。一は即二であるから、二は即四ということになり、ここから無数の質と質、形と形とが形する世界を考えることができる。自己同一即他己同一即矛盾的自己同一というのは、この水流の運動の有り様から考えると、一つの円環はもう片方の円環を前提していなければならないということである。














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壁ドン。