哲学研究

おっぱいが大好きです。ガチで実在の問題について考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

摂食と排泄

具体的生においては、摂食と排泄とは一つのものではないか。二つのものが一つであるから、ここにサイクルが生まれる。呼吸も摂食と排泄との繰り返しであろう。意識においては認識というものは直ちに行為、つまり行為的直観であるから、ここに至って摂食と排泄とは文字通り一である。そしてどこまで行ってもここを離れることはない。想像力をたくましくして、霊の生活などを考えてみても、必ずこのような何らかの摂食、排泄の在り方をしているはずである。本当は我々の直接の経験というものが直ちに摂食・排泄の一つになった形なのである。我々の身体が持つ独特の機能として摂食・排泄というものがある、ということではなく、そもそも実在が元々そういう在り方をしているのである。その一であるものがすでに二であるというところから、無限にこれを綜合し続ける三、無限に形を変え続ける三というものがどうしても必要になる。そこに身体の最も原始的な形が想定できる。この間に挟まった第三のものは、無限に形を洗練させて行く。だからそれ自身が宇宙の縮図のようなものにだんだんなって行く。宇宙は宇宙自身を無限に食し続け、消化し続けて行く。宇宙の糞はまたそこに新たな生命を吹き込むための依り代となるということなのだろう。宇宙そのものにおいては、食うものと食われるものと糞との区別は付かない。我々が今持っている身体の構造が一つの大きな宇宙のようなものになっているのも、このためである。身体という一つの形の内部にも、食物連鎖がある。突き詰めて考えると、各器官は、ただ物質の受け渡しをしているのではない。食い食われながら、ダイナミックに身体を維持しているのである。この複雑な構造そのものが、また地球の歴史の表現にもなっている。私の身体は地球の歴史の表現であるからこそ、この身体を使って新たに地球の歴史を刻み出すことができるのである。身体は、実在が自己自身の内に廻り込み続けることによって自己自身の外へとどこまでも出て行くということを、わかりやすく示しているのである。


身体と機械とマトリックス

私は、身体を「与えられているもの」と思っているが、実は私は身体を作って来た主体でもある。私の意識は、どんな形態において表現されていようとも、それは、全て実在が実在自身を見るということであるのだから、そう考えねばならないと思う。今それをこの表面的な意識では思い出せなくなっているだけである。実際に我々は宇宙ごとの自己であることをやめたことは一度もない。そうすると、地球というものもまた私の身体なのである。実在が元々身体的であるとすると、この構図を一般化できる。つまり、身体は身体自身の内に身体を作るということになる。作られたものに、作ったものが、新しく乗っかり、ついにそれを単位として自己表現して行く。宇宙ごとの私は地球ごとの私となり、ついに人間ごとの私となって今表現されている。小さい身体を駒として使っていても、自己の存在そのものは依然として実在そのものである。このようにして、作られた身体は同時に身体を新しく作るものでもある。

我々が機械を作るというのも、そういう方向にまた我々が向かっていることの表れではないか。もっとも、これは機械だけではなく、人間が作るあらゆる物について言えることであるし、現状とても「身体の内に身体を」というレベルではないのだが、やはり機械というものについて考えるのが一番分かりやすかろう。機械が今人間の作るものの中で最も「身体」に近いのだから。

我々の身体が種的なもの、「型」を持つものとして作られているように、機械というものについてもまた、我々はこれを種的なものとみなして、その「型」を改良しながら保存して行く。そして様々な「型」が存在する。猿も犬もリスも松もある。ただ、機械というものについては少し変なところがある。この人間の肉体というのが、我々の自己を現に存在ごと乗っけるものとしてうまく作られ、現にそう使われているのとは違って、人間身体が作る機械は、未だ我々の自己意識を乗っけることのできるようなものとしては通用しない。それは未だ、我々の自己の生活のごく一部分に利用できるというだけである。しかし、今考えたような理屈から言うと、なんと我々はやがて、自分自身の意識ごとそこに乗っけることのできる機械的なものを作ることができるようになる、ということになる。もっとも現実にそんなことが必要になる時が来るかは分からぬが、地球人類がこの先ずっと続いて行くならば、そういう時が来るのではないかと思う。

まあとにかく仮にそんなことがあったら、として考えてみよう。

機械が人間の意識を乗っけることができるようになるという時、それはまずはマトリックスのようなものかもしれぬ。ただマトリックスマトリックスの外に出ることができぬ。本来外に出ることのできぬ身体というのは、意味のないものであるはずである。我々が身体を持つのは、実在が単なる宇宙ごとの身体であるだけでは決して経験のできない、より広い経験をするためである。大きくなるために、我々は小さくなったのである。小さくなると、余白が出来て、そこにまた別の小さいものが入って来ることができるのである。実体としての大きさは小さくなっても、情報量としては、身体が小さくなろうと全く変わりがないし情報そのものはどこまでも蓄積され続けるので、だからより大きな情報量を得る、つまり沢山の経験をするには、身体がより小さくなり洗練されるだけ得だということになるのである。しかしマトリックスに引きこもるというのは、小さくなって、そのまま小さくなる、ということであり、惰眠に耽るということに他ならない。それは我々が今地球の外の環境というものを知らないということ、地球以外の生命はないとなんとなく思い込んでいること、もっと言うと我々人間が生息する環境と同じような環境でなければ生命は存在し得ないと思い込んでいることと、パラレルである。ここに何かおかしいものがある。我々の機械というものが一向に生命を持つものとならないということも、実は、このところと根本的に関係しているのではなかろうかと思う。

「身体が身体を作る」という意味での機械というのは、まずはマトリックス的なものと考えられるが、しかしいわゆるマトリックスのようなものであってもならない。本当に意味のあるマトリックスというものを作るならば、マトリックスの中に居るものが、マトリックスの外側の記憶を持った状態でなければならないはずである。マトリックスの内部に居る者が、同時にマトリックスそのものの製作者であるのでなければならない。皆一人一人が、自分が元々どういうところに居て、そこからどのような個性や課題を携えて、このマトリックスにやってきたのか、同じマトリックス内部の他の存在と私との立ち位置、などということをマトリックス内部に居ながらにして、ある程度以上は自覚した状態でなければならない(心の奥でわかる、というようなわかり方)。我々の地球というものを、そのような意味でのマトリックスだとすると、我々人間が、この肉体に生まれる前の記憶を持たず、生まれる前から携えてきた個性が分からぬ、ということは本当は極めて不自然なことなのである。我々は、いつでも宇宙ごとの自己であることをやめることがないのであるから、今言ったような状態を持っているのが当たり前であるはずなのである。




この構造が全てにパラレルであるということ

摂食、排泄という話に戻ろう。ここからは、もう少し抽象的にその論理的内実について迫ってみる。

摂食、排泄というものに、それぞれ二種あるということにも意味があろう。つまり飲むと食う、尿と便である。これは私の理屈で言うと、一即二はそのまま二即四だ、ということであろう(「人間的自由の本質もどき」)。二というものは三で完結させることはできず、三はすでに二つに分かれ、四であるのだから、ここに五が出て来る、そしてそこにすでに六があり、従って七が出て来て、、、この無限の繰り返しである。これはつまりこの構造がどこまでもパラレルになっているということである。

飲むというのは、流動的なものあるいは気体的なものを飲むということであり、食うとは固形物を食うということである。認識とは、一面流動的なものであり固形化しないボンヤリしたものであり、それは特に知覚とか感覚とか呼ばれるが、そこからはっきりと主述のような言語の形などにして概念化できた時に、特に認識とか判断と言う。つまり飲むというのは、喉を通せば良いが、食うには咀嚼せねばならない。しかし飲むことも、食うことも、ともに一つの「食う」というカテゴリーにまとめることができる。逆に、ともに一つの「飲む」にまとめることができるかもしれぬ。カレーは飲み物であることと、速読術とは同じようなことである。

このように四であるものは同時に二である。ただその「二」の仕方に、バリエーションがある。「食う・飲む」と「うんこ・おしっこ」という「二」でも良いし、「食う・うんこ」と「飲む・おしっこ」という組み合わせでも良いのである。この二つの組み合わせ方は、観点の違いである。こうして観点によって、様々な形での「一即二」が登場することになり、この組み合わせと組み合わせ自体を対比させることもできることになる。前者の「一即二」は、摂食・排泄という、実在の自己形成のダイナミズムそのものがすでに二であることを形したものであり、後者の「一即二」は、このダイナミズムに与る主体そのものがすでに二つの性質を持つものに分かれていることを形したものであると言える。ダイナミズムそれ自体と、ダイナミズムに与る存在という二つの観点がここに出て来るのである。そしてこの二つ観点同士の対比そのものがまた一つのダイナミズムを為しているということになるのである。ややこしいが、要するに一即二は無限に増幅するということである。

食う・飲むの対比について考えると、質感という観点を導入することによって、単なる摂食は、すでに二つのものだ、ということになり、そして摂食それ自身の内部に、排泄的と摂食的との二つの質が生まれることになる。多分、飲むことは食べることの「地ぢ」になるものであり、食べることが飲むことの中に廻り込み続けるという構図があるのだろう。これを二つの質と見ることもできれば、一つのダイナミズムと見ることも、深く見ると可能になる。これまたややこしいが、要するに観点というものもまた無限に存在し、斜め上を攻めて行けば、そこにまた新たな観点が生まれて来るということである。

同じ「二」であっても、このように観点の違いによって複層的になるのだが、どんな複雑なものも、最終的には、単純な二即一の形にまとまって来るということでもある。二即一そのものが、全ての根底にあるのである。そしてこの構造が全てにパラレルだとすると、食うを越えた食うがあり、飲むを越えた飲むがあるということになる。私は物を食うが、私が物を食うということを食っている何かが居る。私は経験をするが、私の経験そのものを経験する何かが居る。

いまいちまとまらなくなったが、つまり一即二の二自体がすでに一即二になっているということから、つまり四になったことから、今までなかった組み合わせの一即二を考えられ、無限に「質」が拡がって行く、そこから我々の世界のあらゆる働き、カテゴリーが考えられるということなのである。この論理を、私は「人間的自由の本質もどき」で論じたというわけである。もっともそこでは「環境」「場所」という言葉を使っていたが。




では「嘔吐」はどのように考えられるか

私がここでこんなことを書き出すのも、結局は普段頭の胃袋に溜まったものを頭の腸で消化してできた糞尿を排泄しているに過ぎない。しかし出す、ということと、戻す、ということとがある。後者は「吐く」と言われる。消化不十分なものが、糞とも尿とも言えぬ形で、戻される。私の今やっていることはあるいはこの逆流、吐くというやつかもしれぬ。これを考えると、また複雑になる。これは多分、一とかニとか四とかの正の数ではなく、負の数の方向に考えてゆかねばならない問題だと思われる。これはすぐには分からんのであるが、どうもいわゆる「悪」あるいは「不自然」、つまり自然の摂理に逆らっている、ということと関わっていることであろうと思う。ここではとにかくその点だけにしておこう。