哲学研究

実在の問題について自我流で好き勝手考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

「性覚」について。五感でも六感でもなく

(趣旨は、「まとめ」のところに書いてあります。途中の議論はなかなか分かりにくいと思うので、というか私自身がよく分かってないので、ここを読めば何を言わんとしているのかは伝わると思います。伝わるかもしれない。伝わるといいな。)




五感というものがあるのではなく、「性覚」があるのみである

始めに結論を述べる。五感というものがあるように思われているが、五感というものがあるのではない。直接に存在しているのはただ一つの感覚ということだけであって、西田幾多郎はこれを行為的直観と言い、私は以下に論じたように性覚と言おうと思う(「性覚」の概念については以下の議論を参照していただきたい)。五感なるものがあるように思われるのは、我々が「視覚」(というのも見せかけであるが)によって対象的に見た身体を分析すると、感覚の仕方が五つあるように見えるから、そのようなものによって感覚しているのだと我々は考えてしまうということなのである。ところが今現にその五感を五感として感じたその感覚はもう五感ではあるまい。しかし五感を五感として感じるその感覚と、いわゆる五感による感覚とは、その感覚の実態において違いがあるはずはない、感覚は感覚なのである。だからまず直接の感覚そのものとして、性覚的なものが考えられねばならない

視覚や聴覚や触覚などといった部分的な個別的感覚というものがあるのではないし、その部分的感覚の綜合として全体の一つの経験が成り立つのでもない。まず性覚という全体的感覚があって、その性覚全体を、例えば聴覚(先に対象的に分析した身体に見られる対象的な聴覚)にいわば「集中」させて見たときに、それが聴覚という個別的感覚となるに過ぎない。そしてその同じ「全体」を今度は視覚的部分に「集中」させて見ると、これが視覚となる。個別的感覚とは、ただ我々の対象的な身体そのものを一旦平面に写した上で(つまり身体全体を視覚化してしまった上で)、その平面上の一部を為すそれぞれの部分、感覚器官とされるものと、この現実の性覚的な全体的感覚とを結び付けた時に、初めて考えられるものである。だから逆に、我々は全ての器官において、否身体の全ての部分において、直ちに性覚的な全体的感覚を受け取っているのである。この指の皮膚は、直ちに同時に耳なのであり、目なのであり、舌なのである。そんなことは考えられないと言われるかもしれないが、そういう人の考え方は、そもそも身体を平面に対象化した後でのみ可能な考え方なのであり、我々が現に直接感じる感覚そのものはどこにも属していないということを考えれば、私の言うことも何らおかしいことではないということが理解されよう。

もっと突き詰めて考えると、私は今見ている天井を、私の感覚器官として使い、天井によってこの性覚的感覚を受け取っているのである。だからその天井に物が当たれば、「物が当たった」と分かる。それは天井がすでに私の身体の一部だからである。そして物も私の身体の一部なのである。つまり私において、私に何らかの仕方で現れている全てのものが、私の身体であり、その全てが、性覚の器官なのである。身体とは環境の中に溶けることによってこれを包むものと理解でき、包むというのはただ単に包むということではなく、感触を持って包むということであり、もっと小難しく言うと作用的に包むということであり、それでこの在り方こそを私は意識ではなくそもそも身体の本質だと理解するのである。身体は意識である。だからこそ西田も「形が形自身を限定する」と言う。すると、私がこの目で見る他者ではなく、本当の実在の他者とは、絶対に断絶したものであり、我と他者とは全く独我論的自己でなければならないということでもある。我も他者も全宇宙大、全時間大のものである。なぜなら何らかの意味で現れるもの(それがいかに観念的なもの概念的なものであるにせよ)は、全てすでに「私」の身体なのであり、彼の身体と見える物も、いやその心も、私に現れている限りすでに私の身体の一部に過ぎないのであるから。実際この文字と文字も、私の身体であるからこそ、私はこのように一つの言葉が直ちに他の言葉を喚起することによって、文章を書き進めることが可能になる。畢竟能動と受動とは同じものであり、ただあるものが能動であると考えられるのは、そのような在り方の通用する「形」自身の枠の中だけの話に過ぎない。しかし外から物がやって来て私のこの肉体に触れるとしても、その物にとっては私の肉体がその物に触れたということなのである。だから能動と受動とは同じことであり、一面全てが私の身体であるとともに、私の身体はどこにもなく全てはただの映像(視覚・聴覚だけでなく触覚その他全ての感覚を含めて)なのである

「統覚」から「モナドジー」へ。能動は受動であるということ

カントの「統覚」の概念とは、要するに私に現れる一切が私自身の身体であり、性覚の感覚器官である、というところから来るのではなかろうか。そして私に現れる一切が私の身体ならば、私に現れる世界は、その全体そのものについて、私自身がこれを主体的に構成するということが言われ「得る」のでなければならない(しかし能動は受動だから、そう言われ「得ない」見方もできる)。つまり現れる一切が、結局はこの私の身体という一つの体系の下にすでに統一されていると考えられねばならないからである。身体的な統一があって、その大体のまとまりから進んで更に細かく思考が具体化して行く、すなわち意識による構成がある。ここからが想像力、思考力の領域だということになる。意識が私の身体を越えむしろ私の現実を包むものと考えられるのは、そもそも私の現実の一切が私の身体であるからであり、いわゆる身体とは、本当の身体の一部に過ぎず、全体ではないからにほかならない。意識と呼ばれているものは、実は身体である。思考によって認識を形作ると考えられることは、実は大きな身体での感覚内容が小さな身体のレベルの感覚内容にできるほどにまで咀嚼し形を整えるということに過ぎない。私は言語的に事物を把握することによって認識するのではなく、直観は元々言語を包んでいるのであって、言語的(というより知的な)認識というのはその一つの表現の形に過ぎない。言語的な形によって認識を表現することによって、小さな身体と大きな身体とが別のものでなく、小さな身体は同時に大きな身体でもあるということがわかるのである。我々が心・意識が身体に宿る、あるいは身体に即してある、という風に理解していることは、実はこのことなのである。

全ての点が私の性覚の器官であるということを考えれば、どの点にもその具体的な中心はなく、むしろ中心とはこれらの全ての点に内在し、しかも全ての点を越えるものでなければならない。だからこそ意識に映ずるものは、体系的であるとともに非合理的であり、あれはあれ、それはそれとしか言いようがない。統一があるとともに常に混沌に開かれている。認識は意識の作為であるとともに作為でないもの、むしろただ与えられたものである。そしてこの中心なるものを、あえて図形的に表象してみれば、それは全ての背後にあって全てをそこにおいて統一する虚の一点である。それは経験を現に統一している統覚と考えられるものでなければならないであろう。ところが実際にこのような点を見ることはできない。そしてそのような無の一点が「私」そのものならば、今現に経験しているような個性的な具体的な「私」そのもの、というものはどこにも存在しないことになる。現実に統覚を、個としての私そのものとみなして良いわけではない。だからこの統覚というものははあくまでも理念的なものでしかない、統覚は無である。それはそれで良いのである。そういうものなのだから。

「統覚」の絶対の能動性がそのまま絶対の受動性にひっくり返る。「モナド」の誕生

ところが本当にそれが無であるならば、我々は統覚としてみなす何ものも現実に見出せず、統覚という概念が出て来ることもないはずである。現実に何らかの意味で在ると言われるものは、必ず「形」を持ったものでなければならない。統覚はどのような意味において形を持つと言い得るのであるか。ここで、視点を完全にひっくり返してみよう。能動は受動であることを考えると、能動の極限と考えられる統覚(なぜならこの形を持った対象的な身体などは、ある時は能動的、別の時は受動的なのだが、統覚にはそのようなブレはなく、いつでも能動的なはずなのだから)は、翻って受動そのものとならねばならない。能動そのものとは受動そのものである。そうすると今度は、統覚において綜合統一されていた(と思われていた)物達の方が、むしろ自己自身から、綜合統一している側の物達を綜合統一して行くものへと転じて行く。上下の関係が完全にひっくり返る。物は現在に映るもの、ただ自己自身を表現するもの、背後に何もない個性的なものとなる。あれはあれ、それはそれとなるのである。今まで「物」とすら思われなかったものまでも「物」となり、いかに微小なものもそれぞれに輝きを放つ。闇までも光となる。すなわちそれぞれの物は独特の唯一無二の形を持ち、私のつまらぬ妄想までもが純粋に自己自身を表現する形となる。ここでは私に現れたそれぞれの「形」が、それぞれ自己自身から能動的に他を綜合統一するものとなる(プラトンイデアからアリストテレスの個物的実体への転換も実は突き詰めるとこの辺りの事情への直観に基づいているのではなかろうか)。そしてそれぞれの形の綜合統一の究極は、「統覚(この場合全てに内在し全てを覆う無数の点)」なのであり、形によって統覚が綜合されれば、それによって綜合は完了したということになる。「私」は、形と形とが形することによって照らし出されるのである。綜合とは、形相が最低の質料をも形化するということであるから、この時統覚とは、もっとも質料的なもの、というより質料の極限の意味を持つ(虚の一点とは逆に縁のない無限大の円なのである)ことになる。「私」の一点はブラックホールとなり、一点なのに全てを包む無数の点、最も広いものとなるのである。

統覚が質料そのものであるとは、どういうことであろうか。つまりそれは物質そのもの、哲学的概念としての「原子」の意味を持つのである。今の自然科学では無論、原子より先に素粒子があるとか何とか言われるのであるが、その原子ではなく、これ以上突き詰められないという最小の粒子として考えられるもののことであり、概念としての原子である。しかし原子というものは実際には我々の統覚の自覚と一つのものでなければならない。私はこの観点から量子という概念に深く注目している。私は細かいことはよくわからんが、とにかく概念としての原子を現実的に自然科学的に突き詰めていった結果、素粒子でもやはり不完全であるということ、根源的な一つの「質」というものは得られず、もし物質を我々の最小粒子的な現在の科学のモデルで扱おうとすれば、「量」ごとのまとまりを質のようにみなさねばならない、ということであろう。量子論は自然科学的な原子論の破綻ではあるが、しかし原子論的な見方を「人間からの見かけの姿」として意味を転換し、その人間からの見かけと、物質の実際の客観的な在り方との対応点として「量子」の概念を作ることによって、対応したのである。多分ね。これは、統覚というものの能動性とそこから絶対に翻った受動性というものの関係が、そこに密輸入されているからである。

統覚の絶対の能動性は、直ちに絶対の受動性であるからこそ、ライプニッツモナドのような概念が出て来る。ライプニッツにおいてはそれは合理主義的過ぎ、だからこそ逆に予定調和という概念に、そこをはみ出した非合理的なものの一切が押し込められることになったのであるが、ともかく概念としては、ライプニッツモナドジーは我々の現実そのものの本質に深く迫っているのである。そして真にモナドジーを現実的に考えるには、現実の経験が存在する仕方である我々のこの意識的現実というものを考えねばならなず、つまり統覚というものをよくよく考えねばならないのである。そして統覚とは、我々の現実の「能動即受動」性を、意識の側から示したものであるが、私は、量子とはこれを逆に対象の側から示したものではないかと考えるのである。言い換えれば、量子は統覚と矛盾的自己同一でなければならない。

「統覚」と「量子」の自己同一的矛盾から矛盾的自己同一への道。「形」へ

なるほど統覚は理念的には自己自身によって在るものとも考え得るものであるが、ただそれは論理的にそうであるというまでであるので、。つまりこの場合自己自身によって在るとは、ただ機能は機能であるとか、概念は概念であるとか、つまりそれはそれであると言っているだけなのである。従ってフィヒテの自我の概念などは独断的だとも言われるのである。そうではなくて、全く翻って「マイナス」の方向を見てみなければ現実的に「自己自身によって在る」ということを理解することはできない。これを本当に現実的に考えるためには、この統覚という媒介者(矛盾的自己同一、いや自己同一的矛盾なのである)を更に媒介する者がなければならない(自己同一的矛盾から矛盾的自己同一へ)。しかし媒介者はとにかく論理的には以上のような具合に「自己自身によって在る」と考えられるのであるから、媒介者それ自身には対となるものはないはずである。媒介者に並び立つものがあったら、その媒介者はすでに「主」ではない。しかし媒介者は被媒介者の起源まで説明できないのだから、それは絶対の「主」では有り得ない。だから媒介者にはやはり並び立つものがあるのである。それがあるとするならば、それは同じく「媒介者」という意義を持ったものでなければならないであろう。そうすると、この媒介者と媒介者とをまた更に媒介する、ということが考えられねばならない。しかし媒介者は、媒介者の外に出られないのだから、媒介者と媒介者との媒介は、自己自身が媒介する、というところに直接即したものでなければならない。つまり、媒介者も、媒介者の媒介者も、媒介者の媒介者の媒介者も、全く同じ点に重なっているということであり、つまり媒介とは直ちに被媒介のことだということである。媒介が被媒介とは、例えば「私」が物を認識する、ということは、そういう認識という事実において逆に私の方が物の側から照らされることであり、物はまた私を認識するのである。物から認識されるということなくして物を認識することはない。だから単なる一方的な、物から離れたところでの「認識」というものはなく、実は全ての認識は、物に直接影響を与えているのであり、影響を与えるということは物から私が影響を与えられているということでもあるのである。私は私の外に出られないのだが、私の内側に見えている物は全て、単なる「物」ではなく、私と同じく自分の外に出られない一つの個的な「意識」であり、ただ私とそれらの物とは、今行為的な必要性から関わり合っているのである。私の意識の映像は全て私の身体であるが、しかし私のこの身体の全体はまた無限の他者の身体なのである。一時も、我々は全ての存在との全身と全身とのぶつかり合い、というよりべっとりくっ付いた状態を離れることはできないが、しかしただその時々によってその関わり方に濃淡のバリエーションがあるというだけである。私は常に私よりも高次の意識に繋がっているが、私の目の前にあるのが高次の私でもある。私は媒介することにおいて媒介されるのである。高次という場所が高次にあるのではなく、それは目の前にある全てであるからこそ、最高次のものは逆に最低次のものだとも言えるのである。

ここから、統覚がそのまま量子だ、ということが言えるのである。ただいわゆる統覚も量子も、要するに頭で考えた極限概念に過ぎない。本当に実在しているのは、我々が現に経験しているように、形と形とが形している形である。ただ形とは無限に微小のところにもあるのであって、我々が形の全てだと考えるものは、全然形の全てではない。そもそも実在においては大きさというものはなく、ただ私においての「映り方」があるだけなのである。全ての形は言ってみれば全く同じ大きさであり、無限の形がそれぞれ全宇宙大、全時間大なのである。この経験という映像そのものが一つの原子であり、しかも原子は無限の原子を包んでいる。全ての原子は全ての原子に包まれているのである。現実に存在しているのは、単に客観的な「物」ではない。現実には経験というもの以外存在せず、経験に依らず存在しているかのように思われるものも、現に経験し経験されているから存在しているのである。つまり実際にあるのは、「性覚」的なものだけである。今これを書いているのも、読んでいるのも、考えているのも、何をするのも全て性覚的なものである。


まとめ。「性覚」は具体的な形を感覚するということである

「性覚」とは具体的な「形」を感覚するということである。我々が観念的に抽象した形ではなく、現実の直接の形をである。ギリシャ哲学での感覚というものはそういうものであった。しかしそれはあくまでもそれ自身によって統一されたロゴス的な秩序というのを前提していたから、そのロゴス的という方向がどこまでも推し進められ、近代科学的な原子論的な世界観が成立することになったのであるが、量子の概念のような苦しい修正が出てくるようになった現在、そもそも我々の近代科学的な認識というものがどのような立場から出てきて、さらにその元の立場そのものがそれより以前のどのような立場から出てきたか、ということについてよく省みられねばならないと思う(自然科学とロマン主義とが分裂しているのは、こういう反省が真になされなかったからである)。

私はカントの統覚というものを、ごく皮相な意味に理解した上で、そのままひっくり返したら、概念としての「原子」に対応するということ、そして統覚というものを更に突き詰めて考えると「量子」に対応することができる(この転換については「モナドジー」をテコに使う)というようなところに大きなヒントがあるだろうと思って以上のようなことを論じたのである。統覚ということと原子ということとを結びつけると、物質についての概念が、我々の主体性の自覚と軌を一にすることがわかる。統覚という概念は、あまりに「知的」な立場に偏り過ぎであり、それは知的立場に即して考えられた極限であるが、しかし我々の現実というものは実際には豊かな「形」を持ち、その内には我々の豊かな情感も含まれているのであり、時には「ねちょねちょ」しているのであり、頭で決めつけた枠に到底入りきるものではない。そうすると、その具体的な「形」というものを含んだ統覚的な概念を拵えれば良いのである。それが私がここで言う「性覚」である。形を形として直接捉えるということである。知的に捉えるのではなく、西田幾多郎のいわゆる「行為的直観」的に捉える、存在ごと捉えるということである。プラトンイデアというのも、アリストテレスの形相というのも、我々の直観が世界の形を直接捉えるというところから出てくるのであるが、彼らにおいてはその「形」という概念が知的なものであった。しかし我々の現実は、我々の意志や情緒がそこに現に「形」として含まれているのである。これらが形として含まれているから我々は行為し、それによって我々の自己の固有の内容を「形」として世界に刻み出す、すなわち表現することが可能なのである。実際の我々の現実の感覚というものは、全てこういうものまで含んだものでなければならない。自然科学もまた行為的直観的な認識の一つの形である。西田は直観という言葉を使うが、私は感覚という言葉を使ってそのまま行為的直観化してみたいと思う。まだ、あまり考え切れていないが、今後の発展に期待しよう。

それで、なんで「性」覚と言うのか、論じていなかったが、それについては、下のメモに書いてある、はずである。







以下、バラバラのメモ。というか、上の論述を行うためのアイデアノートとして元々書いていたもの。





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五感と言うが、私は性覚もあるのではないかと思う。一応五感と区別されねばならないと思う。例えばこれは性器によって感じる感覚であるが、それは明らかに触覚の一部ではない。性器は性覚の中心であるだけで(しかも中心はここに固定されていない)、実際にはこれを中心に、もっと広がっており、恋愛などに至っては、性覚の器官は全身となり、そして中心は心臓の辺りになって来る。そしてこれは第六感と言われるものに近いのであるが、むしろ五感と第六感の間にあるものと言うべきであろう。第六感は純粋に魂で受け取るものであろうが、性覚は魂と身体の区別以前のところで受け取るものである。そして身体で受け取る感覚でありながら、それは単なる個別の感覚を越えたもので、むしろイデー的なもの、全身を衝動的に動かすものであろう。だから本能的感覚とも言える。反射などというものも実はこの性覚の一つの形ではないかと思う。つまり感覚が直ちに全身的な反応と一致するものであり、言って見れば行為的直観(無論我々は一瞬たりともここを離れないのであるが)を最もその原型的な形で表現する感覚である。

更に考えてみると、五感として表現されている個別の感覚は、全てこの性覚の枝分かれとして理解できるのではないかと思う。五感の綜合は、言語的な知的な表現に帰結すると考えられるが(だから認識は判断の形を基準に考えられる)、それは視覚を主にしているからである。第六感が、五感と別に考えられるというのも、実はそれは視覚を中心に考えたときの見方であり、性覚が頭部を中心として作動しているときに受け取ったものであり、つまり五感が枝分かれた後に尚残っている部分が第六感とされるのであろう。そして性覚とは、この五感をひとところに見、その中心を心臓部か腹部下方に集めた時に見られる感覚であり、むしろ原型的感覚である。とにかく胴体ごとの感覚が性覚なのであろう。

視覚だけが五感の全てを区別するのではないか。聴覚から見れば聴覚はそもそも視覚と一体となった形で理解され、視覚とは、聴覚のそれ自身の立場からは区別されないのではないか。こう考えてみると、色々と面白い。そして性覚に至っては、全ての感覚は区別されないのであり、そこでは衝動的感覚が全てである。





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量子論において、ミクロの世界の物質の性質が明らかにされている。例えば電子は波の性質を持っていると考えられるが、それを見ると粒子となってしまうと言う。しかし色々の客観的な事実からやはり電子は実際に波の性質を持ったものであると考えられねばならない。ところが見るとそのようになってしまうと言う。とすると波としての電子は実在するものなのに、我々にとっては存在しないものと同じだということになってしまう。また一般に波とは「物」ではなく「現象」でしかないと考えられるが、電子においてはその現象そのものを突き詰めて行った先の「物」のレベルにおいて波の性質を持つと考えられねばならないのである。
(『「量子論」を楽しむ本』佐藤勝彦
監修、序章参照)

なぜ電子の波が見えないのかということを考えてみる。我々はミクロの領域を、何か特殊の観測装置あるいはそれに準ずる特別な科学的手続きを経てのみ観察できるものと考えているが、この前提そのものを取っ払わないと理解できないであろうと思う。本来我々の感覚は上に述べたような性覚というものを離れることはない。従って西田が明らかにしたように、我々の全ての感覚、いや思考、意志、行為などといった全ての事柄が、全て行為的直観なのである。行為的直観は全ての認識に行き渡っていなければならないのであるから、すなわち全ての認識は本質的には同じものなのであるから、行為的直観そのものの性質から、このような波であり粒子であるようなよく分からない性質を持った量子の認識というものを考えることができるのではないかと思う。例えば波とは何であるかと言うと、認識するものとされるものが同じ実体を持っているということであろう。ここで実体というのは、いわゆる実体のことではなく、固体的なものではない。私が創造的実体と言っているものは、常に溶け合い響き合ったものであり、軟にも剛にも柔軟に変化するものである。例えば音の波というものを考えよう。これもまた、あらかじめ考えられた時間空間、そして物質的な大気という構図を持ち出して来て考えるから本質が分からなくなってしまうのであるが、実際に音を聞くということは、我とその音を発した物とが実体的に一つになっているということであり、同じ所で響き合っているということである。しかし単に一つのものがあるというのみであれば、そこに響き、すなわち波というものが生まれるはずはない。一つのものが響きを持つには、そもそもそれが異なる二つのものの媒質と考えられねばならない。水は電気を通し、大気は音波を通すと考えられる。