哲学研究

実在の問題について自我流で好き勝手考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

アイデアノート。「場」と「所」について

哲学というのは、長い文章で説明しなければならんから、あまり読む気のしないものになることが多い。そこで、簡潔に、私の思考法の根底に関わるアイデアを、ノート的に、まとめてみた。今回は、「場」と「所」についてである。



ーーー

はじめに、事場(ことば)があった。事場は、所を生んだ。神は事場であり続けた。神はどこまでも自分の所を創り続ける。これによって逆に事場そのものは、どこまでも新たに生まれ続けるものとなる。神は被造物によって創られ続けるのである。
(エピグラフ的なノリ。)



「場所」という言葉がある。面白い概念構成になっている言葉だ。

「場」は、エネルギーが均衡して、現在的に出来上がっている環境。ギュイーンビヨヨヨヨーっていう感じ。個性よりも、個性と個性とを包む一般の方に重点があり、その一般の持っている独特の色合い、力の形が「場」なのだ。磁場とか、エネルギー場とか。

「所」は、固定した場所。そして「地点」というニュアンスが強い。所を得る、などと言うと、その人や物がその特性を十分に生かして世の中に大きく貢献することができるようになったことを言うであろう。水を得た魚、みたいな。だから、「所」は、まず「場」が出来上がっていることが前提であり、その均衡している「場」に、色々な個性的なものが根を下ろすことができるように、何らかの固定化を施したものを、「所」と言う。

「場」は常に力の均衡の中にある一般的な色合い響き合いであり、「所」は固定して個性と個性とが根付いた、もしくは根付くための大地である。両方、「場所」を表す似たような言葉であるが、このようにその概念の内部構造は対比的なものとなっている。

西田幾多郎の「場所」の論理は、明らかに、まず「場」を見たものであろう。我々の意識の機能には、この「場」を、多次元エレベーターのように行き来するということが含まれている。ギュイーンビヨヨヨヨである。ドラえもんのタイムマシンである。だから、難しい言い方で「判断的一般者」とか、「自覚的一般者」とか、「叡智的一般者」とか言っているが、これは我々の意識の機能を最大限に活用して、多次元エレベーターを行き来するとそこに現れる「場」だというわけである。広い意味での想像力である。無論これらの三つは、単に上下の場の行き来の段階というだけでなく、ちゃんとこれらが区別される論理的な理由があって区別されていて、それが「三」段階である必然的な理由がある。これを理解しなければ哲学的概念としては理解できたことにはならないのであるが、しかし何事も、まず「ノリ」からの理解が大事なのであるから、始めはそんなに気にする必要はない。

「言葉」ということばがある。「事場」と読める。確かに言葉は、事の場を生じさせるものである。詩や唄は、「事」ありきであり、その事の場として機能するものである。それが「響き」である。単なる音響ではなく、心の場にまで作用し共鳴する言波(ことば)でなければならない。単なる語呂遊びのように思えようが、ドイツ神秘主義の思想家ベーメも言っているように、言葉の「響き」というのは、結構大事であり、単なる偶然的なものではなく、世界の本質と深く関わっているものである。日本では言霊学というものがある。

まずは、「場」に注目した方が良さそうである。「場」があって、「所」が出来上がる。「場所」というのは、一つのものであって、すでに二つのものである。一即二である。矛盾的自己同一である。

神と、被造物の関係は、「場」と「所」の関係に当たるだろう。だから、神も、この「場」の意味を離れて、単に超越的な人格として理解することはできない。超越的な人格と言われるのは、そういうものが強く「場」的であるからに過ぎず、西方の世界ではそれ以上の概念が考えられなかったというまでである。超越的な人格とは、むしろ「所」に引きずられた概念である。

形相と質料も、考えてみると、やはり、「場」と「所」であろう。形相は現実には質料と一つのものとして考えられねばならないのに、プラトンのように超越的イデアの体系のようなものが考えられねばならないのは、形相が、形相界として、「場」を為しているとも考えられるからである。質料的なものは、「所」として、むしろ「場」の世界から生み出されて来たものではないか。

他にも、色々とあると思う。西田は、なんとなく「場所」という言葉を選んだのであるが、こう考えてみると、西田が考えていた以上にとてつもない深い示唆があるという次第である。