素人哲学研究

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

理念的形式と現実的形式

形とは、個性的なものが個性的なままに一般的となることである。だから形というのは、各々の形を持つのである。単に個性的なだけでは、形ではない、生命であり、現に生きられたもの、形のないもの、純粋にエロス的なもの、ただ働きであるものである。しかし単なる一般的なものもまた何ものでもない。単なる何かでしかないものは、実は何ものでもない。一般の特殊とは、要するに単なる一般に過ぎない。形とは、我々の世界においてあり得る唯一の現実的な形式である。単に一般的なものも、単に個性的なものも、現実的な形式ではなく、あくまで理念的な形式に過ぎない。しかも実際には理念的な形式それ自体も一つの現実的形式と考えられねばならない。純粋に一般的なものを追求するような、純学問的立場というものを考えても、それはどこまでも、実際の人間、主体的存在によって、主体的に運営されるからこそ、この世界における一つの現実として成り立つのである。逆に純粋に個性的なものを追求する、純芸術的立場というものも、実際に、芸術作品という形で、一般的なところに降りてくるものであるからこそ、現実の事実として成り立つのである。現実の世界は一般即個性であり、形でなければならない。形という現実的形式は、理念的形式においては、一方が裏に他方を含むという仕方において表れるのである。純粋に一般的であることの裏には、むしろそれによって個性的なものの裾野を押し拡げるということが伴っている。同様に、純粋に個性的であることの裏には、一般性の認識そのものを深めるということが伴っている。一般論として、偉大なる理論的発見は、我々の見方を広くする、現実世界への個性的働きかけの可能性を拡げるものであり、逆に、偉大なる創作物は、それを認識する理性の水準の深化を人に要求する。一般性の発展はかえって裏に個性の発展であり、個性の発展はかえって裏に一般性の発展である。ということは、一般性が、自己自身を深めるということは、個性を媒介にして、自己超越的に深まるということであり、個性が自己自身を深めるということは、一般性を媒介にして自己超越的に深まるということである。学問が個性の裾野を押し拡げるからといって、学問が個性的となって己の立場を失うというのではなく、むしろ逆にそれによって益々自己自身を発展させるのである。このような相互循環的な二者の一つの円環(しかもそれは二者がそれぞれに持つものであるから、二つの円環なのである。しかもそれはあくまで二者が一になった一つの円環である)というものが形である。形とは自己自身の内に他者を包むということである。学問は自己自身の内に芸術を含み得るから自律的であり、芸術は自己自身の内に学問を含み得るから自律的であり、それぞれ独立した領域であることができるのである。相互が自律的であるもの同士の関わりは、常に現れない一点においてでなければならない。この現れない一点において、一つの円環が同時に二つの円環であり、二つの円環が同時に一つの円環なのである。



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この構図が世界のあらゆる形に行き渡っている。それはそもそも世界そのものの成り立ち方なのであるから。例えば学問と芸術、神と人、環境と主体、感性と悟性。学問と芸術との二つの理念的形式を一つの営みと見て、一つの大きな理念的形式と考えるならば、これもまた、裏に他方の理念的形式を持つものと考えることができる。芸術と学問とを一つの枠として見たとき、これに対応する他方の理念的形式は何であろうか。それは日常生活というものではなかろうか。日常生活とは、芸術、学問の営みとの対比で考えるならば単に実践的なものである。しかしそれは単に実践的なものであろうか。実践的な立場はそもそも内に、理論的な立場そのものを含むことによって、真に実践的であり得る。それが現実的な形式なのである。つまり芸術、学問、というものも、実は現実的形式としては、日常生活の内に含まれた一つの営みとして見ることができるし、逆に、芸術、学問もまたそれが日常生活ということを含むことによって真にその生命を与えられるのである。全て現実的形式、すなわち形というものは、このように、相互循環的な一つの円環の内に含まれた対比的な二者、という形で成り立っている(しかも一つの円環はこの二者それぞれにおいて持たれる。根本的には現在即実在なのであるから。)。つまり重要なのは、この二者の対比ということであり、対比を為すものならば、何であっても、それは一つの現実的形式に含まれた二つの理念的形式なのである。対比しているものが何であるかということにこだわる必要はない。むしろそこに対比があるという事実が重要なのである。今私が目の前のお菓子のカケラにふと目をやるとき、ここに対比の関係が生じる。ここにおいて、私とこのお菓子のカケラは、現実的形式としては、その内に含まれた二つの理念的形式と考えることができる。私がお菓子のカケラを見るそのとき、そこに何らかの意味づけや感情が伴っているであろう。この事実を問題とするとき、私は、ただこのお菓子のカケラに対して、ある独特の意味づけや感情を持つ何かしらとしてのみ問題とされているのであって、それが必ずしも、学問に従事したり、靴職人であったり、寺の坊主であったり、駅で誰かと待ち合わせの約束を持っていたりするような、私である必要性はない。つまり今私というのはただこのお菓子のカケラとの独特の関係において問題とされているのみである。そして私というのが今この独特の関係において問題とされているようなものに過ぎないという制限は、そもそも私がお菓子のカケラを見る、という事実が、一つの現実的な形であり、自己自身によって在るものであるからにほかならない。形というものこそが真に自律的な現実的なものであるからこそ、普通に自律的と考えられているようなもの、ここでは私というものが、むしろ逆に一つの限定された枠においてのみ問題とされているのである。これが現実的形式というものである。全て現実的に在るものは、形という形式によってのみ存在するのである。それはいわゆる形(自己同一的な「物」。それ自身によってあるものであって、いかなる主観性も排した純粋に客観的なもの)のことを考えても理解できまい。そうではなく、全て現実的な事実であるものは、いかなるものであっても、いかにいわゆる形ではないものと考えられるものでも、それはすでに一つの形だということである。何度も言うが、一つの形であることによってのみ、それは現実的な事実であることができるのである。そして現実的な事実であるということは、すなわち現実的形式であるということは、それはそれ自身の内に、二つの対比的な、相互循環的な、理念的形式を含むということである。一つのものは単に一つのものではなく、すでにニつものだということである。学問と芸術との対比から見れば、そこに一つの現実的形式、すなわち形というものが現実的の学問ないし芸術の営みという二つの仕方において現れるが、しかしこれらをそもそも一つの理念的形式として見てしまうなら、そこにまた別の理念的形式が現れる、現実的形式のレベルが変わる。この対比とは、個性的なものと一般的なものという対比である。そして、対比するものが何であっても、そこに対比がある限り、そこには個性極と一般極との対比の形式があるのである。この個性極と一般極、西田風に言えば、内在極と超越極というのが、要するに理念的形式ということである。理念的形式とは何か大げさなもののように考える必要はない。そもそも現実的な事実のあるところには、必ずそこにこの二つの理念的形式があるのである(この考えは、言語学における、二叉枝分かれ性という概念からヒントを得ている)。先に例に出したように、私がお菓子のカケラに目をやるということにすでに、二つの理念的形式が見られる。私は、感覚するもの、お菓子は感覚されたもの、という対比を一応ここで見ることができる。この対比に注目する限り、今私というのは一般極であり、お菓子は個性極なのである。単にそれだけの話である。だからこの対比を離れるところでは、すでに私というのは一般極ではないし、お菓子は個性極ではないのである。しかし理念的形式はなくなるのではない、深まるのである。私は、このお菓子との対比を離れても存在し続ける。このお菓子を感覚するものとしてだけでなく、他のものも感覚するものとして、あるいは感覚以上の能力を有するものとして。同時に個性的であったお菓子というものは、今さらに個性を深め、今は別のものとして感覚されている何か、ということになる。例えば横にある本が、今度は個性極の担い手となったり、また別のものに移り変わったりする。つまり理念的形式の自己発展という観点から見るならば、さっき感覚したお菓子も、今感覚しているスマホの画面もまた、一つの個性極の自己発展として見ることができる。つまり「感覚されるもの」という一つの個性極の自己発展として見ることができるから、その裏に、お菓子やスマホや色々のものを感覚する私という一般極が立ち現れてくるのである(話がややこしくなるが、この対比を感覚される「世界」と、その内で感覚活動をする「私」という対比で考えれば、「私」の方が個性極となるのである。これは感覚を感覚という一つの領域を主にして考えるか、それとも世界における事実としての感覚現象として考えるかの違いである。つまり結局、これらの理念的形式がいかなる現実的形式においてあるかという問題である)。そういうことが可能なのは、そもそもこれらの対比を、対比としているところの現実的形式そのものの現実性があるからである。本質的に媒介的であるようなもの、媒介的でしかないものこそが真に現実的なものであるからである。今の例では、感覚的、ということ自体が現実的形式となっているのである、一つの形なのである。二つのものが先にあって、それが関係することによって、ではなく、そういう事実それ自身がまず現実的に先立つのである。かく形というものは、実に不思議なものであり、全ての存在の根源となっているのである。形とはここからここへということである。全て現実的なものはそういう風に考えられねばならない。何らかのものとして現実的であるものは、全てこのような在り方になっている。そして現実的でないものもそういうものとして理念的に非現実的であるに過ぎないので、実際には現実的なのである。いかに小さい事実であっても、あるいはいかに大きい事実であっても、あるいはいかに観念的な事柄と考えられることであっても、あるいはいかに遠いものと考えられるものであっても、それは現実の事実として、一つの形なのである。個性的な一般的なものなのである。これは何度強調してもしすぎることはない。なぜなら、一つの形は、必ず、内に対比的な二つの理念的形式の対を持つからである。そして理念的形式とは、全て他方の理念的形式を内に含みこれを媒介することによって、すなわち現実的形式において媒介することによって自己自身を保つものであるからである。どんなものであっても、一つの事実としてすでに見られてしまったものには、必ず、綺麗なこの対比的な理念的形式の対があるのである。そしてそれは必ず個性極と一般極、別の言い方では、内在極と一般極という対となっているのである。

故に、私は、世界の全ての事実は、「として」の現れであると言う。「として」として見るとき、それはそのように見られたものを内在極として見るということを意味する。つまり生の面として見るということである。普通にどこまでも超越的と考えられるようなもの、あるいは内在即超越などといって、全てこのような内在的とか超越的とかいう見方そのものが跳ね除けられてしまうように思われるものであっても、そういうもの「として」一つの内在極と見ることができるのである。そして内在極があるということはそこに一般極があるということである。ところでどんなものでも一つの内在極として見てしまうなら、このとき一般極というのは、絶対に限定することのできないものということになる。あらゆる限定の根源と考えられるものそのものが限定を離れたものとなる。一般的なものが、個性的にのみ見られるようになる。これがまさしく哲学の立場である。神も「として」によって見るならば、そこには一つの内在極が現れる。ここにはそれを内在極たらしめる一般極がすでになければならない。こういう見方によって哲学は現実的営みとしてあり得るのである。哲学は一般極的なものといっても、単に理性的なものではあり得ない。理性とはあくまで、ある存在者の能力に過ぎない、そういう規定の欠かせないものである。理性もこのような規定のもとにあるものである限り、一つの内在極的なものとして見ることが可能ということである。つまり例えば実際に理性を世界形成の主体として見ることができるのである。しかし哲学は人間から始まるのではない。現実の事実から始まるのである。理性からではなく、一般極からである。だからそれはどこまでも尖端的なものに結びつかねばならない。尖端的として一般的に規定されてしまったもの、例えば純粋持続とかそういうものではなく、真に現実的に尖端的であるところに結びつかねばならない。一片の塵も見逃してはならないのである。西田が言うように、世界は形から形へ、形が形自身を限定するものなのである。それ以外に現実というものはあり得ない。形は唯一なるものであり、無数なるものである。それは結局一々が独我論的自己である無数の個物から成る世界ということである。無数といっても、数えられ得る多数ではなく、「無」数の多数である。個物は独我論的でなければならないのである。それはモナドではない。モナドであって、独我論的自己でなければならない。それであって初めて、形が形自身を限定すると言い得るのである。形はそれぞれに唯一のもの、すなわち個性極即一般極であるものでなければならない。


補論。現実的形式と理念的形式とを区別して考えたが、これらが単に別のものに過ぎないなら、現実には現実的なものと理念的なものとがあるということになる。しかし現実は現実であるから、現実的なものしかないはずである。要するに現実的なものが理念的であり、理念的であるものが現実的であるということが言われねばならない。しかしそう言ったばかりでは、わかるようなわからないような話にしかならないであろう。どう考えれば良いのであろうか。それは現実には理念的形式しかないと考えれば良いのである。こう言えば、現実には現実的なものしかないということと矛盾するように思われるであろう。しかし我々は実際の事実としては理念的形式しか、一つの形として見出すことができないのである。一つであるとは、一方であるということである。一方があるということは他方があるということである。そして一方とその他方とを併せたその全体をまた一つのものと見たとしても、新しく他方が現れるのみである。しかし一方しか我々は見ることができないとしても、必ず他方があるということを伴っているのである。一方のみを見ることができるということと、一方と他方とが一であるということとは、常に同時になければならない。有限と無限とは、常に同時になければならない。我々はよく、有限の領域と無限絶対の領域とを区別するのであるが、そもそもそういう風に二つの領域を区別して別領域と見るとき、この無限絶対というものは、いかに無限絶対と言ってみても、そのようなもの「として」の一つの有限なるものである。だからいかに有限なものを問題とするように思われても、そこには常に無限というものが伴っていなければならない、そして逆もまた然りである。一つの形として見出されるものは、必ず理念的形式であるが、これはそうであるが故にすでに現実的形式においてあるものである。なぜなら、一方しか見ることができないということと、一方と他方は常に一であるということとは常に同時にあらねばならないからである。ということは、一方というものも、それ自身一方と他方から成るということである(これが西田の主体即環境であり、両者は表現的関係であるということである)。つまり形は自己自身の内に他者を含むのである。一方的であるということが完全なのである。一方から更に一方へ深まる無限の過程こそが完全なのである。それ故に、現実においては、我々は理念的形式のみを見ることができる。理念的形式とは現れた形であり、内に他方の理念的形式を含むものであり、そのような理念的形式の存在の仕方そのものが現実的形式なのである。理念的形式の現実的な存在の仕方こそが現実的な形式なのである。それ故に、逆に現実的な形式が自己自身の内に両極として二つの理念的形式を含むと言うことができる。この二つの理念的形式には質的な隔絶がある、大と小との差がある。しかしそれは同時に同じ現実的形式に含まれる二極として対等なのである。それは形は自己自身の内に他者を含むということから考えられねばならない。だから形は無限の多であり、そのことの故に絶対の一であると言わねばならないのである。無数の独我論的自己の現在的関係こそが世界なのである。


補論二。ではこのような形の世界というものは、時間という観点から見ればいかなる世界と考えられねばならないであろうか。私は形というものの本質、つまり一が二であるということ、一が一それ自身の内に傾斜を持つということから考えられると思う。形とは要するに点即円の直線ということである。直線ということは形の根源である。しかもそれは点即円として初めて形と言うことができる。直線は無限に延長できるものと考えられるが、このような無限というのは、延長的な方向に考えることもできるが、むしろ逆に長さを持たぬという意味においても考えることができるのではなかろうか。点から円周なき円の円周へ延びる無数の直線というものを考えよう。この直線の数には限りがない、方向にも限りがない。しかしそれにもかかわらず、これらの直線は全く同一方向を向いていると言わねばならない。これらの直線の始点は全て同じ中心であり、直線の向かう方向は全てこの円の面と垂直の方向なのである。しかし直線の向かう方向は円の面と垂直なのに、彼らが向かう先には何もない。彼らはただ円周へと向かって無限に分散してゆくのみである。しかし単に分散してゆくだけではそれは一つの直線と言うこともできない。本当にただ両端を持たぬものが、現実の事実として直線であることはできない。それには始点がなければならない。無限の分散はただ彼らが常時この根源的始点に結び付けられ続けることによってのみ、解決される。してみるとこの根源的始点は一であり多であると考えられねばならぬであろう。この始点こそ実は直線の全て、形の全てと考えられねばならぬのではなかろうか。円周は全て、この根源的始点によって円周として規定されるのである。始点によって、初めてそれは円であることができる。始点そのものが円周なのである。始点そのものが根源的自己矛盾を持つものなのである。そして一が多であり、多が一であるというのは、要するに直線ということである。直線の無限性とは、それが始点から始点へ、ゼロからゼロへであるところから来るのである。直線的であるものが円環的であるからこそ、直線とは無限に延長することのできるもの、両端を持たないものと考えられるのである。一であり多であると言われねばならぬのは、一方を一方として限定するための多を、一方自身の内に要するからである。時間というのはまず直線的なものと考えられる。しかし単なる直線的な時間には現在というものはない。現在とは時全てを包む一点と考えられねばならない。しかし普通に一点とは一点であり、直線とか面にとってはその内に含まれたものに過ぎない。実在的時は包まれたものが包むものを包むというところから考えられるのである。時は一つのものと考えられる、その全体を持つものと考えられる、始めと終わりがあるものと考えられる。現実にどうであるかは知らないが、とにかく普通にそのように考えられるし、いかに無限というものを考えたとしても、要するにそのような形において時を考えてしまうということが重要なのである。無論時に始めはなく終わりはないとも言われるであろう。しかしとにかく我々が何気なく思いを致す時というものには必ず始めがあり、終わりがあるのである。一つの全体であるものというのは、一つの空間と言えるであろう。我々は大宇宙を一つの全体と考えるが、この大宇宙こそ空間の全体だと我々は普通に思っているのである。一つの空間がそれ自身に時間的傾斜を持つということが時の真相であろうと私は思う。現在が過去未来を包むということはそういう形式においてのみ考えられ得るのである。