哲学研究

おっぱいが大好きです。ガチで実在の問題について考えています。三木清や西田幾多郎が好きです。

主体と環境の関係についてのメモ

哲学においては結局のところは主体(主観)あるいは主体的なものだけから物事が考えられて行くことが多い。いわゆる実在論も、独我論を根底から論駁することはできない。一種の信仰という域を出ない。しかし主体には必ず環境が伴うということを忘れてはならない。主体を越えるものを肯定するものも否定するものも、神を考えるものも、物質を考えるものも、絶対自我を考えるものも、ともかく主体が存在する環境というものを何らかの意味ですでに前提しているということには異論の余地がない。主体は我々の存在が絶対に外に出ることのできない限界と考えられながら、それは常に環境における主体として考えられるのでなければ主体としてあることすら不可能である。どう考えるにしても、主体のあるところにはすでに、主体をどこまでも越えた環境というものが前提されねばならない。絶対自我とはそれ自身が環境の意味を持っているのである。
(環境のこの意義に注目し、重視したのは西田幾多郎であった。)

では環境とはどういうものであるか。単に非主体的なものとして、物質のようなものが考えられたとしても、真に環境を規定することはできない。なぜなら単なる物質とはすでに主体によって考えられたものに過ぎず、断じて主体が身体によって直に触れるもの、存在ごと包まれているところ、現に働くところではないからである。だから環境が主体を越えたものだということの意味は、我々の主体の主体性を更に一段深めた主体性に求められねばならないであろう。こうであって初めて、例えばある行為は単なる物質的運動ではなく、その行為そのもの「として」はっきりと世界にその表現が刻まれることになる。しかしそれが単に主体の優れたものなのであれば、ただ神あるいはそれに準じた何かが考えられるだけであり、環境にいくら引き寄せてみても結局は汎神論のような立場とならざるを得ない。しかし汎神論は独我論を根底から否定することはできない。従って環境とは、どこまでも主体性を深めて行くという構図からは決して考えられない。かといって、単に主体性否定からは考えられないとすれば、発想を根本的に転換せねばならない。元々、主体性を否定するものが、実は主体性をどこまでも深く持つものであり、しかも主体性そのものとは絶対に隔たりを持つものとして理解されればこの問題は解決する。そしてそれが場所とか環境という言葉によって我々が理解するものでもある。主体性をどこまでも肯定して行くことが可能であるとはすでに主体性の絶対否定の立場にあることを意味するのである。


❇︎ 環境の性質と「前世、来世」

環境の概念がこういうものであるということは、主体はどこまでも自己自身の形を変えて行くということでもある。つまり主体には、どんな形態もあり得るということである(哲学で言われる「主体」は殆ど人間のことのみを意味するわけであるから私はこれに反論したいのだ)。分かりやすく言うと主体の存在論的規定において前世や来世が前提されているということである。無限の過去には我々はあるいは草であったかもしれないし、無限の未来には銀河を司る神のような存在となっているかもしれない。なぜなら主体である我々を真に肯定するものは、ただ環境という主体の絶対否定者のみだからである。世界の一部として形を持つことは、我々の主体性がその存在自体を否定されることであるが、しかしこれこそが主体を存在させる唯一の仕方なのである。主体は形を作るものとして無形でなければならないが、しかし形の世界において形を作るものとしてどこまでも有形でなければならない。ならば元々無形と有形とが別にあるのではなく、実在レベルでは、無形こそが有形の本質であり有形こそが無形の本質であるということになるはずではないか。そうであれば、主体にとっては、その存在のいかなる否定も、実は更なる深い肯定を意味するということになるのである(睡眠や肉体の死や呼吸のみならず、認識活動自体が存在の自己否定である)。しかしここで否定と肯定とがそのまま同居するということを言っているのではない。否定と肯定とは矛盾的関係でなければならない。だから矛盾的関係がそのまま一つであるとは、次のことから理解されねばならない。すなわち、我々の現実そのものがその都度その都度の絶対の自己表現を持ち、決して同じ瞬間はないと考えられるということ、瞬間のみが真に永遠であること、そしてこの事実が指し示す実在そのもののある絶対的性質である。つまりいかなるものも、実在としては「形」であることである。私は「形」を、哲学的概念としては創造的実体と呼ぶことにしている。形は自己自身の内に環境を持つということのみを前提条件としている。あるXが「形(創造的実体)」である資格はこれだけなのであるが、しかしこれこそが全ての実在にとって本質的なことなのである。全ての形は常に環境というパスポートを携えてこの実在的世界に存在していなければならない。環境というパスポートを携えるとは、要するに常に絶対否定に晒されているということである。絶対否定とは何かある現象のことを言うのではない。あるものがこの世界に何らかの意味で存在すると言うことができる時、それはすでに絶対否定の印を押されているということを言っているのである。絶対否定とは分かりやすく言えば現在的なもの、絶対に二度と来ぬものである。だから純粋に観念的なものとして、どこまでも時を越えたもの、あるいは逆に物質的なもの、あるいは何らかの意味で思考活動やあらゆる行為や現象を越えたものと考えられるものであっても、実のところは必ずこのパスポートを携えているのである。そうでなければそういったものがこの世界に在ると何らかの意味で認知されることは不可能であろう。それで環境というパスポートは全ての存在に対して、「形」として、常に絶対に新しい姿を現在ごとに与え続けているものだということになるのである。このパスポートがあるからこそ、肯定と否定とは全く一つのものであることができるのである。なぜなら存在の肯定の根拠はただ絶対否定のみにあるからである。

実に単純明快ではなかろうか。一瞬の形と引き換えに永遠の国へと入ることができるのである。モナドは今生まれ、今死ぬのである。しかしその今が永遠の表現なのであるから、そのモナドは無限の過去と無限の未来を自分自身の内に包含したものとして、創造者として存在するのである。

それで、これではまだ主体が存在論的規定として「前世や来世を前提する」ということ、つまりどこまでも形を変えて無限の過去から無限の未来へと永遠に生き続けるということを説明したことにはならない。そして私はこれをある信仰として主張するのではない。無論私は個人的にもある種の信仰として、そういった事実を信じるものである。しかし哲学の議論としてはあくまでもこの結論を、ただ疑うにも疑いようのない絶対の前提と、純粋な論理の形式のみから導いて来なければならない。まず以上から前提として確定されたのは、およそ存在するものは、環境というパスポートを携えたものであり、つまり「形」でなければならないということである。「形」は何度も言ったように、絶対否定に晒され続けている。現在から次の現在へと行くことが絶対否定である。無論現在から現在へということの間には連続があるのみで絶対の断絶はないと考えられるであろう。しかしそれは「形」としてはどこまでも絶対に自己自身を表現するもの、つまり他の何かしらを表現したものではないものであり、その背後に何も持たないものと考えられねばならない。単にスクリーンに映せるものではなく、現実に在るものでなければならない。我々は自己の身体とその外側との絶対の区別を付けることは(意識スクリーン上では)どうしてもできないのに、しかしその絶対の区別が実際にあることを前提とせねば、主体として存在することすら不可能である。この同じイマージュを共有しつつも全く断絶する二者としてこの私と向こうの世界とが考えられねば、こうやってスマホに文字を打ち込むことすら不可能なのである。これは不可思議なことであるが、しかしこの不可思議こそが「形(創造的実体)」の本質であるということである。そして全ての存在が平等に絶対否定に媒介させられることによってのみ存在するということは、そしてそれのみが肯定の在り方であるということは、それは必然的に絶対に孤独なものとして、全ての時と空間を越えているということである。なぜなら全ての形はすでに絶対否定を越えて存在しているのだから。ここで理解しなければならないのは、私はこういうことを何か素晴らしい哲学的直観で捉えたイマージュによって主張しているのではなく、ただ純粋に論理的帰結として主張しているのだということである。私だってそれは頭では考えられないことである。しかし論理的に、全ての形は(本当に「全て」のである)、絶対の独我論的自己であり、時空を完全に越えたものであるということが真なのである。

それが具体的にどういう「仕組み」でそうなっているのかは全く分からない。私は難しく言うと環境の他己同一性への信頼というところにヒントがあると思っている。だがとにかく、私は「今在る形は、今在るというそのことの故に、無限の過去から無限の未来まで変化しながら存在する」と言いたいだけである。

それで私は、全ての形についてそうであれば、当然我々にとって身近な形「人間」もそうであるとして進めようと思う。

さて、これが真であるとすれば、我々が寿命のあるものだと理解しているこの身体というものも、実は永遠のものであるということである。これだけを言っても意味不明である。最後には土に還るではないか、と言われそうである。ではこれはどう考えるべきか。

普通永遠の生命と言えば、身体が無くなっても存在し続ける永遠の霊魂というものが考えられる。それはこの身体とは別のものと考えられ、ただこの今においては身体に「宿っているもの」としてあるのである。つまりそれは身体の「内側」に考えられるのである。だが、霊魂とは何であろうか。第一、それを実際に見た人はいるのであろうか。見たとして、それがある他人についてだけではなく、間違いなくこの自己についても同じような霊魂があると言うことのできる人はいるだろうか。もしこの自己自身の視点のみから自己の霊魂について考えるならば、それは身体に宿った身体とは別の実体のようなものとして考えるのではなく、まずこの足元にあるもの、つまり特にそれ自身は色を持たない「意識」というものを考えねばならないのではあるまいか。この「意識」をとりあえず霊魂だとしてみると、実は霊魂というのは身体に宿るものではなく、むしろ身体を包んでいるものであろう。自己の身体を自己の身体として認識できるのは意識が身体を包んでいるからである。もしこの意識を実体化してみるとすればどうであろうか。意識は実体化してしまえば確かに意識とは呼べないものになる。だが勇気を振り絞って実体視するのである。すると気付くことがある。それは意識は、実体として見ても違和感がないということである。こはいかに。実際意識は身体と一つになって動いているのであり、意識はむしろどこまでも身体に引きずられているのであり、そう簡単に身体の主となることはできないものなのである。意識とはむしろ身体的なものであり、我々が意識と呼ぶものは、実は身体自身が持つ自覚のための「機能」と言うべきではなかろうか。霊魂が別にあってそれが身体に宿るのでもなく、単に実在(つまり「形)としての「身体」の内にあるのである。

我々が身体と呼んで理解するもの(例えばこの理解によって我々は医学的に身体の性質を明らかにしたりするのだが)は、実は「形」としての「身体」に含まれた意識という機能のフィルターを通して光度を落として理解されたものであり、つまり「お前が討ったのは影武者」なのである。「形」とは、実在そのもの、つまり絶対的なものに触れたものである。先に無形こそが有形の本質であり、有形こそが無形の本質と言った通りにである。ところが、我々が普通理解する身体とは精神の下にあるものとしての身体であり、どこまでも科学的に明らかにし得るものであり、「形」としての身体ではないのである。ここでの議論からの帰結として、身体の真のアイデンティティーは実在としての「形」に置かれねばならない。我々の身体は対象の側にあるのではなく、むしろこちら側にあるのであり、頭が痒かったらどうしても掻かずにはいられないのである。痒いという感触と掻くという行為は客観的事実の連なりとしては理解できない、それは「こちら側」にとっては全く切り離せない一つの事実である。だから痒かったら掻かねばならないというその物は、また意識でもあり得ない。意識には意識すること以外の使命はないのであるから。要するにそれは具体的な「形」を持って、時を越えて生きて在るものである。時を越えてとは、むしろ論理的な意味であり、いかなる経験的なものにも先立ってということである。カントのアプリオリということである。経験的なものでしかないはずのもの、現実そのものでしかないはずのものこそが、時を越えたものであるということが「形」である。西田風の言い方をすれば、身体とは、どこまでも時を越えたものの自己限定として考えられねばならない。時を越えたものと時の中にあるものとが別々にあるのではなく、時の中にあるものは、それ自身がどこまでも時を越えたものなのであり、逆にどこまでも時を越えたものと考えられるものも、実のところは時の中にあることによってのみ実在的であるのだから、真相は、ただ「無限に表現的なものの自己限定」ということ自体があるのみだ、ということにならねばならないのである。

「無限に表現的なものの自己限定」のようなただの論理的規定では非常に分かりにくい。それは身体に関して言えば、実は身体のアイデンティティーは、いわゆる(対象的に認識される)身体ではなく、むしろ我々が永遠の霊魂と呼んでいるものの方にあるということである。それは霊魂が身体と別にあるという考え方と真逆のものである。我々は初めから、つまり宇宙の始原から、身体的存在なのであり、ただその表現される形態が無限に変わり行くのである。そして全ての形態は、ただその時々の表現の必要性に応じて変わって行くのである。だから私は前世とか来世の事実を(その内容は詳しくはわからないが、少なくとも形式的には)認めねばならないと考えているのである。我々は今この人間の身体の形に表現されているが、それはそういう必要性が己の存在の内にあるからである。その必要性こそが、今の時点での己の「形」なのである。身体の外形は本質的には自己自身によって作ったものである。くどいようだが、いかなる外見であろうとも、身体の核そのものは、常に「無限に表現的なものの自己限定」それ自体にある。

重要なのは、主体性というのは、特定の様式の形に依拠する必要は何もないということである。我々はとにかく、この人間のみが主体性を持った存在と考えがちである。カントが「理性的存在者」と言って、ある物に付属する特殊な性質に引きずられた理解を避け、純粋に論理的な概念を使ったのも、まさにこのためである。主体性には無限の表現が有り得る。そもそも主体でないものは存在しないのであるから。我々は草であったかもしれないし、神のような存在であることもできる。その全てが平等に主体である。この一字一字もまた平等に主体である。この妄想も主体である。そしてこの無限の表現をそもそも可能しているのは、主体が主体であることの内に、環境が含まれているということである。環境は先にも言ったように絶対否定である。しかし絶対否定でありながら、むしろそのことの故に全てを生かすものであり、あらゆるものを成立させるものなのである。だからこそ環境は「形」を持つ。形として見られた環境はすでに純粋理念としての(つまり絶対否定としての)環境ではないが、しかし形を持たねば環境とも言えない。ということは逆に、全ての形がそれ自身環境であるということである。全ての形が元々創造的実体として、どこまでも形を変えながら、無限の前世と来世とを持ちながら、現在から現在へと環境の絶対否定のパスポートを携えて移行して行くのが実在的世界である。生命はその時々に生まれ、消えて行くものと考えられるが、しかも絶対に永遠のものと考えられる。それは同時に真でなければならない。現実に存在するものは、たとえそれが我々から見てわからなくとも、必ず自己自身の視点を持たねばならないのである。何度も言うように、ただ真に永遠に存在し続けるのは、無限に表現的なものの自己限定ということそれ自体である。




以上は抽象的な議論であり、前世や来世などといっても、環境と主体との関係の本質から論理的に必然的な事実として導き出される帰結について述べただけであるから、その具体的内容などについては、もっと考えを深めねばならない。こういったことについては、心霊科学と呼ばれるものの知識がもっと必要である。ただこの肉体的生と言われるものを越えた領域について徒らに詮索するのが目的ではない。むしろこの生そのものが、永遠の背景を持ったものであり、そしてこの生が於て有る環境こそが、その生の豊かな表現にどこまでも形を与え続けるものだという点が重要なのである。他にも、例えばこういう絶対否定という論理的側面ではなく、実際に具体的形を持ったものとしての環境について、まだまだ考えが深められねばならないであろう。我々の環境はとにかく立体的、多層的であり、複雑多様な色を持ったものである。ここではただ一般論として論じたのみである。