素人哲学研究所 「ニート」

正真正銘のニートとなりました。哲学ノートや雑感など。コメントも歓迎です。ガチで実在の問題を考えています。西田幾多郎が好きです。

構想力についての哲学ノート

カントや三木清の言うように構想力ということが考えられるが、それは直ちに分析力のことではないか(※)。分析の原動力というものがなければならない。原子は元々在るものと言うよりも、人間の理性によって作られた形と言い得るものであり、分析力によるものである。優れた構想は優れた分析でなければならず、そもそも構成要素というものが実体的にあるわけではないのである。構成要素もまた創造的に発見されるものであり、数における自然数の概念なども実は発明されたものなのである。勿論それは元々在ったものでなければならないとも考えられるであろう。しかしそれも構想されるもの、イデアとして掴まれるものも世界の内に不可思議な仕方で元々存在していたのだというのと同じ意味において元々在ったのであり、決して単に物理学や化学において前提される物質などのような具合に元々在ったということではない。

そしてこの分析力の典型的な例はモナドジーであろう。モナドジーの実体は構想的に発見された構成要素であり、つまり構想力的な分析力によるものである。だからそれは予定調和と一つのものでなければならない。

こういうことは動物的な実存と比べれば理解しやすい。つまり動物では、わざわざ人間が区別する色々のことを区別する必要がない。個体に名は必要ない。だが動物的な実存も実は創造的なのであり、だから人間と同居できるのである。もし精神の単に不完全な顕現に過ぎないならば、人間と動物とが同時に一つの世界を形作る要素として存在することはない。ということは逆に人間的実存も真に創造的ではないということである。人間においては、カテゴリーが新たに創造されるということが自覚されているから、つまり社会的に、事業的に生きる存在であるから、創造的と言うことができるのであるが、しかし単なる人間のレベルで社会そのものを越えるカテゴリーを作ることはできない。それはすでに人間的ということを越えたものであろう。人間が創造的というのは、あくまで限定された枠でのことであり、我々は宗教や芸術や学問など、いわゆる文化という枠の内でしかその創造者の資格を持ち合わせない。日常の何でもないことが創造的と見られることがあるにしても、創造的と見られる時にはそのことはすでに文化の枠に引き上げられて理解されている。創造的か否かは、実体としての存在者の属性というより、結局は「行為がいかなる形で表現されるか」、というその結果の形式から理解せねばならないのであり、つまり「作るもの」からではなく、「作られたもの」から理解せねばならないのである。そもそも「作るもの」としては、この世界に存在するあらゆるもの、この一瞬の下らない妄想でさえも、全て平等に「創造者」の資格を持ち合わせている。だから人間の創造性は人間という存在者の精神的特性よりは、むしろ社会という形から理解される。全てが創造者であるところに、創造的と非創造的の差が生まれるのは、表現されるべきある「形」があって、これを基準にあらゆる形を位置付けるからである。真の創造者は(一応これを「神人」と呼んでおこう)、目の前にあるあらゆる事実を社会的に、文化的に見ることのできる存在であり、それは彼の日常において、その一挙一動がその表現となる、という形において実現される。しかしこれは単なる境地的なものではあり得ない。それならばそれは芸術や宗教など文化的形に表現されて、それでおしまいである。むしろ彼の全ての行為が、直ちに文化的となるのであり、行為そのものが世界への不断の分析となるのである。ここにおいては構想は直ちに分析であり、分析は直ちに構想であるということがなければならない。実はそれが全ての実存の在り方であるのであるが、重要なのは神人においてはそれが直ちに形として表現されるということである。その個体においてはっきりと形としてそれが表現され、そして自覚されるのである。この「形」に生きている存在は、おそらく霊界の高級霊と呼ばれる存在達であろう。そして翻って考えれば、この世界におけるいかなる実存も、内側にこの高級霊とつながっている、というよりも深いアイデンティティーをここに持つからこそ、全て創造的な存在なのである。






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分析の力は、つまり一を多へと分けて行く力は、実は多を一にして行く力であり、だからAを分析するとき、すでにAを越えた場所の力がそこに働き、更に深い所からこれを統合する力となっているのである。対象を例えば何かの作品であるとしよう。我々はこれを分析することができるが、それは単にその作品の理解のためではなく、分析者がそれによって何か新しい物を生み出すためであって、対象Aの中に自己自身を発見するためである。Aは単に自己同一的なAにあらず。もしそうならばそれは単なる知的実在である。しかし単なる知的実在として作られ、そう考えられるものでさえ、現実には我々にとってパトス的意味を持って来るというところに、我々の世界そのものの不可思議な性質が在る。Aの中には必ずAを越えたものがある。そしてそれは能動的に、分析によって掴まれるものである。Aの中の要素として、分析者自身の生命を象徴する何かしらが彼の眼前に現れて来る。ふと目にするある文言が、我々の心の深い所に訴えて来るというような状況を想起すればそのことは容易に理解されるであろう。分析ということも単なる意識上の事実ではなく、現実に起こる事実である。現実に起こる事実は全て時を改めるという意味を持たねばならない。故に分析は更なる深い表現ということに元々支えられているのでなければ起こり得ないことである。

では構想とは何であるか。対象Aはここでは要素として扱われ、単にAはAである、そのように考えられるであろう。ところが構想ということは、この世界そのものの形を変えること、つまり行為に直結するものとしてのみ意味を持ち得るのであるから、その大なるイデーの要素であるはずのAもすでに単なるAと考えられるものでは有り得ない。そのAを実体とするならば、それは単なる実体ではなく、元々創造的実体であったのでなければならない。イデーの自己同一も、要素であるAやその他のものの他己同一を前提することによって初めて得られるものである。イデーは、要素としてのAを越えてこれを包むものと考えられながらも、実は内在的超越として、Aの内に分析的に含まれていたものでなければならない。例えば我々は環境というものを単なる環境と考え、我々を包む広いものと考える。しかし環境と言っても、我々の自己意識そのものと常に一体となった形で現れるのであるから、それは同時に単なる我々の観念とも考えられる。我々の意識の内に含まれた、意識自身の統一点とも言うべきものを、ただちに環境と名付けることができる。しかし環境は我々自身を越えたものなのである。またイデーは主体的なものとして環境をむしろ包むものとも考えられる。しかしイデーはやはり身体的である我々の内にあるものなのであるから、環境の内に含まれたものなのである。相互に作用し合う者として対立する両者は、結局のところは互いが互いを包むものとも考えられるし、互いが互いに包まれたものとも考えられるのであるが、ただ一つだけこの包む包まれるということを越えたもの、ただ「自己自身であるもの」が存在する。それこそが「形」である。形そのものである。表現そのものである。それはただ自己自身であるものなのだから、何らの仕方によっても一般的に捉えることはできない。この世界に唯一無二の独特のものと考えられる。それは形なのだから。形は現実に存在するものである。そしてそれが実は全ての全てなのである。その形自身が、その形の名になる。それ以外に外的に名付けられる名は、ただ仮設のものに過ぎない。眼前の塵は塵にあらず。ここにおいては包むことは直ちに包まれることであり、全ての自己同一は他己同一を前提することによって自己同一であり得る。従ってこれは無限に創造的なものと考えられねばならない。





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環境に対する身体の形というものがすでに環境そのものに対する構想的分析であろう。それで我々は身体を自覚する。身体を相対化して理解できる。人体を単なる物とさえみなして、これに外科手術を加えたり、その物質的組成を分析したりするのである。それは私の見方からすれば身体そのものに対する構想的分析であるわけであるから、これは実は人間が精神的な意識的な存在であるということの証拠なのである。単に身体であることと、その形を構成する観点からこれを見ることとは質的に異なることであり、動物の身体には胃も細胞も存在しない。人間的身体は言語を持つ。身体は身体を飛び出、自己自身の表現を外部の形に求める。それが声であり、文字であり、あらゆる形でのロゴス的なもの、社会的なものなのである。自己自身の身体をも外的なものとして見、世界の中に物質によって作られた形として、つまりあるロゴス的表現として見てしまうのである。身体そのものが、声のように外に流れ出て形を取った表現として見られてしまうのだから、当然、流れ出て行くものの源として、我々は自己自身には身体から独立した精神があると思っている。実際には身体を離れた精神などというものはないはずなのに、身体そのものがロゴス的に見られてしまったことによって、つまり身体から身体が切り離されてしまったことによって、あたかも精神が全く現実的なものとして、形を持って感じられる。それが心である。ところで精神による分析は流動的であり、微細であるために、逆に我々は宇宙の方を、究極には流動的で形のないものと考える。こういう性質を持った精神というものを、抽象的に点のように理解するとき、世界の事物を存在させる形式としての時間と空間が現れて来る。ここにおいては無限の多である精神は、それぞれモナド的な意味において単なる絶対者であり、ただ直線的に動いて行くものとなる。無論それは外から見て複雑な曲線であるのだが、当の精神にとっては自己自身が神なのだから、自己自身の進む道は完全な直線なのである。これが時間である。こういった神と神とが同居する場所はもはやそれ自身時間的な直線的なものでは有り得ない。それは空間と呼ぶほかないものである。だから空間は中心を持たず、また縁も持たない。無論それは実際に考えられないことであり、理解しようのないことであるが、それは精神というものをそもそも抽象化して考えるからである。それでこの場合時間と空間とは理念的形式であると言える。実際には我々の精神にも身体がある。身体とは具体的な形であり、作り作られるの無限の営みの中に存在するものである。こういう具体的形を持つものでなければ世界に具体的存在として働きかけることもできない。しかも働きかけられる世界の方も、単に縁のない虚の空間であってはならない、それは形を持たねばならない。だから空間はむしろ環境と言うべきものでなければならないのである。我々の自己が、単なる身体を越えたものと考えられる精神を持ち、しかもその精神自体が形を持った身体であるということは、いわゆる霊魂が存在するということである。しかしそれは単なる実体としての霊魂というより形としての霊魂であり、その奥にも、またその奥にも、更に無限の果てにも身体を持つものと考えられねばならない。逆に、環境の方も、無限に深まったものと考えられねばならないのであり、だからこそ地球は太陽系に於いて在り、太陽系はこの銀河に於いて在るのであり、その銀河はまたそれを包む銀河群に於いて、銀河団に於いて、宇宙に於いて在るのである。構想的分析の観点からは以上のことが理解されるのである。








※註。実は、こっちの方が実質的に本論である。でも本当に言いたいことはやはり上の方に書いてある。

分析と対になる概念は綜合である。なぜ私は分析と構想とを対置させたのか。

普通に言う分析も綜合も、ただ命題的なものについてのものでしかない。幾ら外見上は複雑な推論過程を経るとも、最終的には何らかの仕方で「xはwである」と言えてしまえばとりあえずそれで良いのである。これがただ単に「分析」とか「綜合」と言ったときの目的であろう。科学的操作としての分析も綜合も、結局はある命題、すなわち主語は述語であるという結論を得ることが目的なのであり、こういった哲学的な形式によって一般化できるはずである。その述語がxの自己同一性に分析的に含まれていたことであり本質的にはxがそのまま命題自身であるか、またはその自己同一性に分析的には含まれていないが綜合的に関係付けられたものでありxは命題の構成要素に過ぎないか、いずれであるにしても、ある静的な命題によって行き止まりになるのである。勿論、分析や綜合ということを、知的に抽象的につまり形式的に切り取った形としてはそれで良いであろう。

しかし、元来我々の現実の営みに、ただ分析であることとかただ綜合であることは存在しない。例えば実体に対してその属性というのは、分析的に含まれているものと考えられる。しかしそれは「その属性なしにはその実体の存在は成り立たない」という概念上のことであって、我々の実際の思考の営みにおいては、実体の自己同一性を、(zipファイルのように)「解凍」して展開するという手続きを挟まねばならない。端的に実体が属性「である」ことと、実体が実際に属性「としてある」こととは質的に違う。前者はただ仮定的にそう言われるに過ぎず、zipファイルを解凍してみたら中身は空であって有るはずのものが無いことが有り得るように(経験者語る)、実際にはその属性「でない」ことも有り得る。実は現実の事実としては、実体はその属性には依存しないのである。 同一性とは実はかなり緩いものなのである。属性なるものがそもそも何なのか、我々ははっきりと理解できるわけではないから、概念的にただそういうものなのだと考えられているだけなのである。しかし私が問題にしているのは、現実の営みにおいて、現実の認識においてどうであるかということである。実体が属性「としてある」と言われる時、すでにここには現実の思考の営みとしての「分析」の手続きが挟まれている。「としてある」においては、実体と属性は実際に現象界にはっきりと現実的な形を取ったものとして具体的に限定される。単に実体が属性であることと、実体が属性であることが実際に時空の形式に当てはまった上でそうであると言われることとは全く違うことであろう。そして時空の形式に当てはまるということなくして、現実にそれがそれ「である」ことも不可能ではないか。そして端的に「である」ことによっては分からなかったことが「としてある」においては分かったのであるから、これは綜合と見ることができるのである。なぜそう見なければならないか、そもそもの依って来たるところは何であるか。属性とは実は端的に有るものではなく、我々の現実が指し示すように常に形が変わって行くものである。例えば私は大学生であったが、転じてニートとなってしまったのである。だがそれだけでなく、私はこの肉体の死後も、形を変えて生き続けているのである(このことについては、ここでも、前にも、論じた)。くどいが私は概念上の話をしているのではなく、実際の現実ではどうなのかという話をしているのである。哲学的に言われる意味での固有の属性というものは現実にはないのである。実体にただ単に分析的に有るものと考えられる属性というもの自体がすでにこのような綜合的性質を持つということ自体が重要なのである。ここに注目せねばならないのである。

昔考えられたように、本当に実体の自己同一性に必然的に固有の属性が含まれている、ただそれだけであれば実体に本当の意味において行為はない、行為をしてもその実体の自己同一性には全く響かない、従って実体自身にとっては行為の必然性はない、その極、現象界を越えたイデア的なものが仮定されねばならないことになる。行為そのものを否定する観想というものが行為の最も優れたものであり終局であると考えられる。この見方からすると最終的には実体はただ実体である、それ自身に同一である、自己が自己自身の究極の述語である、そう言えば良いだけであって、この「xがx自身である」ということから、わざわざ実体性の領域と属性性の領域の二つが一応質的に区別されるということが出て来るはずはない。つまり存在と姿が分かれるはずはない。それでも区別されると言うならば、その区別はただ偶然的なもの、恣意的なものでしかない。わざわざ実体から属性の概念が分かれるということには、一面属性が必然的なものでなく偶然的である、それでないものがそこに居座り得るということでなければならない。そうすると実際には一つでしかないものに二つの領域があると必然的に考えられるのは、その一つのものが一つであるということ自体の内に、すでに他の存在、それも対等であるものとの創造的で行為的な関係が考えられねばならないということである。これに反して、変化を包む変化しないものを説明するために、何らかの意味で観想的なところを終局においてしまえば、結局はスピノザ的な唯一の根源実体を考える立場に行かねばならず、いわゆる実体として考えられるはずの個々の事物は本当の意味で自己自身「である」ことができなくなる。そうすると、個々の物が持っているはずの自己自身の観点も存在しないことになる。だから単なる自己同一の概念はすでに我々の現実にはそぐわないものであり、何かおかしいのである。

はあ、くどい。

私はこれを「創造的実体」と名付けるのであるが、つまり、その自己同一においてすでに属性がどこまでも変わり行くということ、つまり行為的ということが含まれているという実体概念である。そうすると、そのような実体には、実体性それ自身の領域と属性性の領域とが弁証法的に必然的に分かれることになる。属性性の領域とは実は、行為的な現在における無数の他の存在とのダイナミックな関わりの姿を、一つの「色合い」として見たものに他ならないのである。「汝」を「彼」に降格する時、差し当たりそこにあるのは色とも響きとも言葉とも概念とも感覚とも言えない何かである(ベルクソンは『物質と記憶』の中で「イマージュ」と言っている)。そしてこの属性の領域の中には、我々が自己の身体とみなすもの、否、思考、理性、感情、意志と考えられるものまで含まれるのである。これらも結局は現実に存在する「形」なのであるから、純粋に存在である「私」にとっては、現に行為的にせめぎ合う他者にほかならないのである。普通に単に「私」に属すると考えられるこれらのものが、すでに単なる属性ではなく、行為的に現在的に私とせめぎ合う他者でしかないからこそ、元々属性性の領域自体が、どこまでも行為的に他者と関わり合うことによって形を作り、形を変えて行く領域として考えられるのである。そしてこれは単に「私」について言われるだけではない。実体一般がそうでなければならないのである。なぜなら、実体をこういう風に定義したことによって、「私」の存在そのものも、いわゆるこの身体とか理性などの「属性」的なもの一切から切り離されて純粋にただ実在的なものとして、物自体として理解されたことになるからであり、逆に、実在的なもの一切が、この意味での「私」と全く同様の性質を持つことになるからである。つまりまとめて言うと、「実体の自己同一そのものに無限に行為的ということがすでに前提されていなければならない」ということになるのである。それでは実体性そのものの領域は、物自体の領域は何であるかと問うてみれば、それは属性を「現在の一点に括る」ということであろう。今を今として限定する、今に一つの形を与えることによって、その存在に永遠の背景を直接与えるのである。この一点において括られた永遠の背景の姿という意味を持つからこそ、属性は実体と本質的な関係にあり、それなしには実体自身が理解できず存在せぬと考えられるのである。この創造的実体という実体概念においては、分析的なものはすでに綜合的であり、綜合的なものはすでに分析的であると言わねばならないであろう。命題と言っても、それ自体がどこかに超然としてあるはずはない。あくまで我々の歴史的世界の自己形成の歩みを進めるものとしてのみ、命題は具体的な意味を持つのである。西田幾多郎の概念を使えば、分析と綜合とは矛盾的自己同一なのであり、常に行為的直観的にのみ現実存在し得るのである。

現実においては、我々から見れば、実体とは単に認識されたもののように考えられるかもしれない。しかしそのように認識する我々の存在そのものは実体の外に出るのであろうか。無論実体は実在そのもののレベルの概念であり、実在に現実的な「形」を与える概念であってみれば、実体性とは、認識する我そのものを包んだものでなければならない(「物自体」の概念は、ただその我と実在との関係を不問にした時に出て来る理念的な概念であり、この概念が区別されるそれなりの理由はある。が、ここでは一つのものとして見る)。とすれば、普通に実体として認識される、あれやこれも、実は、こういう認識者としてあらゆる対象を内在化してしまう「私」と同じ性質を持ったものではないかという考えが自ずから出て来よう。認識主観の自己同一もまた他己同一に即するものでしかないはずであろう。つまり全ての実体は、実はこの現実世界に「姿」を持って存在し、しかも同時に、あらゆる対象を内在化する認識者として存在しているということでなければならない。例えば今書いている文字もそれ自身の認識主観を何らかの意味で自己自身に持っていなければならない、そして真に主体的に行為する存在でなければならない。こう言うと、「頭大丈夫?」と言われそうである。しかし私は頭で考えているのではなく、形が形自身を考えているのである。「私は形が形自身を考えている」のである。この言い方は日本語としては一応誤りではない。近代以後の西洋語的感覚に慣らされた日本語話者には理解できまい。が、この「は」のニュアンスが、私が創造的実体と呼ぶもの、第三者としての第一者というもの、媒介者としての被媒介者なのである。「姿」を持ちつつ、かつ認識者であるということは、認識が単に認識であると考えられる限り理解できない、認識は単なる認識ではなく行為であり、形の世界の内に在って形を変えて行くことなのだと理解せねばならない。実はいつでも、全ての「形」は、こういった行為的直観的な現実を生きて在るのであり、それ以外の存在の仕方は有り得ない。だからこそ、いかに質の異なる、また大きさの異なる単位と考えられる事物であっても、一様に「対象」として見ることができるのである。「対象」の前には、私の意識も、私の観念も、私の妄想も、私の感情も、私の身体も、彼の身体も、地球も、文字も、純粋理性批判も、インターネットも、同じものである。それはそれらが全て創造的実体だからである。

であれば、ただ行為的直観的でしかない現実の内に、なぜ分析と綜合という、相反する二観点が存在するかと言うと、行為的直観は自己自身に矛盾するからである。一方向はすでに二方向である。押すと跳ね返って来るのである。行為的直観は営みとしてはどこまでも一であり、認識としてはどこまでも二であり、形としてはどこまでも三でなければならない。行為的直観をこの認識のレベルで見る時、二つの理念的形式が現れる。それが「人間の才能を活かした文化的営み」という形であれば、大まかに「芸術的」と「学問的」の二極となるであろう。芸術的直観の背後には深い学問的直観がなければならない。その逆もまた然りである。「人間の認識」であれば、「認識主観」と「対象」である。そして「命題を形成する観点」であれば「分析」と「綜合」ということになるのではないか。理念的形式とは、どこまでも一方が一方に深まり続け、決して一方が他方に回収されないと理念的には考えられることであり、しかもどこまでも他方を取り込み続けることによって一方は一方へと深まり続けて行くもののことを言うのである。だが無論現実の営みとしては二つのものが単に断絶することは有り得ず、実体的にはむしろ全く同じ形を共有していなければならない。そうであってこそそれらは関係を持って、自覚的に他方と相互作用の内に、自己自身を保つことができるのである。となれば、まず初めに現実に存在しているのは、理念的形式の内のどちらか一方ではなく、その両方を高次の立場において媒介している或る「形」でなければならないということになるのである。いや、形は実は媒介されたものよりも低次的なものとも言えるのである。その全ての「形」そのものを媒介するのが行為的直観であろう。理念的形式とは、単に並べられた秩序のようなものではなく、どこまでも多層的で立体的であり、しかも重なり合ったものであり、溶け合ったものである。だからそれらを低次的に媒介するのは、どこまでも三である「形」であり、高次的に媒介するのがどこまでも一である行為的直観ということになるであろう。

だがこんな複雑な理論的なあれこれはともかく、私が言いたいのはシンプルなことである。分析も綜合も、結局は現実の営みとしては、このように同じ行為的直観的なものでしか有り得ないのであるから、分析はすでに綜合的分析であり、綜合はすでに分析的綜合であるということがなければならないのである。それは行為的直観として「一」ではあるが、同時に形と形との世界における現実として「三」でなければならない。無限に変化し、開いて行く、創造的なものでなければならない。分析とか綜合のように命題を形作る現象において創造的と言えば、我々の「構想力」こそがそのようなものであると言うことができるであろう。単に分析的と考えられる命題がすでに綜合的であると言っても、これら二つを質的に越える別個の立場を導入せずに、単にそれによって分析と綜合との垣根を乗り越えてしまうのでは、分析と綜合との間に本質的な区別はないことになる。それでは分析と綜合との区別は恣意的であり、先に実体が単に自己同一ならば属性の領域は必要ないと言ったのと同じことになるのである。つまり根底に「根源実体」みたいなものを考え、全ての命題を分析命題として一元化したり、その逆に原子論の立場から、全ての命題を綜合命題としてみなしたりするようなことになる。これでは世界の事物は何も説明できないし、そもそも第三の領域つまり「命題」なる領域が存在する意味はない。そうではなく、分析と綜合があくまでも質的な区別を持ち、しかも同時に分析はすでに綜合であり、綜合はすでに分析だと言うならば、これらの二つの立場をともに含んで高次から統合している構想力の立場からこれらが行われているのだと言わねばならない。ある命題が形成されるとしても、その命題は実は更にもっと別の命題を構想するための一過程にすでに位置付けられているのだと考えられるのである。だから構想とは命題の先に向こうに考えられるものであるとともに、命題の足元にも考えられるものである。