素人哲学研究

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

構想力についての哲学ノート

三木清の言うように構想力ということが考えられるが、それは直ちに分析力のことではないか。分析の原動力というものがなければならない。原子は元々在るものと言うよりも、人間の理性によって作られた形と言い得るものであり、分析力によるものである。優れた構想は優れた分析でなければならず、そもそも構成要素というものが実体的にあるわけではないのである。構成要素もまた創造的に発見されるものであり、数における自然数の概念なども実は発明されたものなのである。勿論それは元々在ったものでなければならないとも考えられるであろう。しかしそれも構想されるもの、イデアとして掴まれるものも世界の内に不可思議な仕方で元々存在していたのだというのと同じ意味において元々在ったのであり、決して単に物理学や化学において前提される物質などのような具合に元々在ったということではない。

そしてこの分析力の典型的な例はモナドジーであろう。モナドジーの実体は構想的に発見された構成要素であり、つまり構想力的な分析力によるものである。だからそれら予定調和と一つのものでなければならない。

こういうことは動物的な実存と比べれば理解しやすい。つまり動物では、わざわざ人間が区別する色々のことを区別する必要がない。個体に名は必要ない。だが動物的な実存も実は創造的なのであり、だから人間と同居できるのである。もし精神の単に不完全な顕現に過ぎないならば、人間と動物とが同時に一つの世界を形作る要素として存在することはない。ということは逆に人間的実存も真に創造的ではないということである。人間においては、カテゴリーが新たに創造されるということが自覚されているから、つまり社会的に、事業的に生きる存在であるから、創造的と言うことができるのであるが、しかし単なる人間のレベルで社会そのものを越えるカテゴリーを作ることはできない。それはすでに人間的ということを越えたものであろう。人間が創造的というのは、あくまで限定された枠でのことであり、我々は宗教や芸術や学問など、いわゆる文化という枠の内でしかその創造者の資格を持ち合わせない。日常の何でもないことが創造的と見られることがあるにしても、創造的と見られる時にはそのことはすでに文化の枠に引き上げられて理解されている。創造的か否かは、実体としての存在者の属性というより、結局は「行為がいかなる形で表現されるか」、というその結果の形式から理解せねばならないのであり、つまり「作るもの」からではなく、「作られたもの」から理解せねばならないのである。そもそも「作るもの」としては、この世界に存在するあらゆるもの、この一瞬の下らない妄想でさえも、全て平等に「創造者」の資格を持ち合わせている。だから人間の創造性は人間という存在者の精神的特性よりは、むしろ社会という形から理解される。全てが創造者であるところに、創造的と非創造的の差が生まれるのは、表現されるべきある「形」があって、これを基準にあらゆる形を位置付けるからである。真の創造者は(一応これを「神人」と呼んでおこう)、目の前にあるあらゆる事実を社会的に、文化的に見ることのできる存在であり、それは彼の日常において、その一挙一動がその表現となる、という形において実現される。しかしこれは単なる境地的なものではあり得ない。それならばそれは芸術や宗教など文化的形に表現されて、それでおしまいである。むしろ彼の全ての行為が、直ちに文化的となるのであり、行為そのものが世界への不断の分析となるのである。ここにおいては構想は直ちに分析であり、分析は直ちに構想であるということがなければならない。実はそれが全ての実存の在り方であるのであるが、重要なのは神人においてはそれが直ちに形として表現されるということである。その個体においてはっきりと形としてそれが表現され、そして自覚されるのである。この「形」に生きている存在は、おそらく霊界の高級霊と呼ばれる存在達であろう。そして翻って考えれば、この世界におけるいかなる実存も、内側にこの高級霊とつながっている、というよりも深いアイデンティティーをここに持つからこそ、全て創造的な存在なのである。








分析の力は、つまり一を多へと分けて行く力は、実は多を一にして行く力であり、だからAを分析するとき、すでにAを越えた場所の力がそこに働き、更に深い所からこれを統合する力となっているのである。対象を例えば何かの作品であるとしよう。我々はこれを分析することができるが、それは単にその作品の理解のためではなく、分析者がそれによって何か新しい物を生み出すためであって、対象Aの中に自己自身を発見するためである。Aは単に自己同一的なAにあらず。もしそうならばそれは単なる知的実在である。しかし単なる知的実在として作られ、そう考えられるものでさえ、現実には我々にとってパトス的意味を持って来るというところに、我々の世界そのものの不可思議な性質が在る。Aの中には必ずAを越えたものがある。そしてそれは能動的に、分析によって掴まれるものである。Aの中の要素として、分析者自身の生命を象徴する何かしらが彼の眼前に現れて来る。ふと目にする聖書の内のある文言が、我々の心の深い所に訴えて来るというような状況を想起すればそのことは容易に理解されるであろう。分析は更なる深い表現ということに元々支えられているのでなければ起こり得ないことである。

では構想とは何であるか。対象Aはここでは要素として扱われ、単にAはAである、そのように考えられるであろう。ところが構想ということは、この世界そのものの形を変えること、つまり行為に直結するものとしてのみ意味を持ち得るのであるから、その大なるイデーの要素であるはずのAもすでに単なるAと考えられるものでは有り得ない。そのAを実体とするならば、それは単なる実体ではなく、元々創造的実体であったのでなければならない。イデーの自己同一も、要素であるAやその他のものの他己同一を前提することによって初めて得られるものである。イデーは、要素としてのAを越えてこれを包むものと考えられながらも、実は内在的超越として、Aの内に分析的に含まれていたものでなければならない。例えば我々は環境というものを単なる環境と考え、我々を包む広いものと考える。しかし環境と言っても、我々の自己意識そのものと常に一体となった形で現れるのであるから、それは同時に単なる我々の観念とも考えられる。我々の意識の内に含まれた、意識自身の統一点とも言うべきものを、ただちに環境と名付けることができる。しかし環境は我々自身を越えたものなのである。またイデーは主体的なものとして環境をむしろ包むものとも考えられる。しかしイデーはやはり身体的である我々の内にあるものなのであるから、環境の内に含まれたものなのである。相互に作用し合う者として対立する両者は、結局のところは互いが互いを包むものとも考えられるし、互いが互いに包まれたものとも考えられるのであるが、ただ一つだけこの包む包まれるということを越えたもの、ただ「自己自身であるもの」が存在する。それこそが「形」である。形そのものである。表現そのものである。それはただ自己自身であるものなのだから、何らの仕方によっても一般的に捉えることはできない。この世界に唯一無二の独特のものと考えられる。それは形なのだから。形は現実に存在するものである。そしてそれが実は全ての全てなのである。その形自身が、その形の名になる。それ以外に外的に名付けられる名は、ただ仮設のものに過ぎない。眼前の塵は塵にあらず。ここにおいては包むことは直ちに包まれることであり、全ての自己同一は他己同一を前提することによって自己同一であり得る。従ってこれは無限に創造的なものと考えられねばならない。







環境に対する身体の形というものがすでに環境そのものに対する構想的分析であろう。それで我々は身体を自覚する。身体を相対化して理解できる。人体を単なる物とさえみなして、これに外科手術を加えたり、その物質的組成を分析したりするのである。それは私の見方からすれば身体そのものに対する構想的分析であるわけであるから、これは実は人間が精神的な意識的な存在であるということの証拠なのである。人間的身体は言語を持つ。身体は身体を飛び出、自己自身の表現を外部の形に求める。それが声であり、文字であり、あらゆる形でのロゴス的なもの、社会的なものなのである。そして精神による分析は流動的であり、微細であるために、我々は宇宙というものを、究極には流動的で形のないものと考えられる。こういう性質を持った精神というものを、抽象的に点のように理解するとき、世界の事物を存在させる形式としての時間と空間が現れて来る。ここにおいては無限の多である精神は、それぞれ単なる絶対者であり、ただ直線的に動いて行くものとなる。空間は中心を持たず、また縁も持たない。無論それは実際に考えられないことであり、理解しようのないことであるが、それは精神というものをそもそも抽象化して考えるからである。それでこの場合時間と空間とは理念的形式であると言える。実際には我々の精神にも身体がある。身体とは具体的な形であり、作り作られるの無限の営みの中に存在するものである。こういう具体的形を持つものでなければ世界に具体的存在として働きかけることもできない。しかし我々の自己が、単なる身体を越えた精神を持ち、しかもその精神自体が形を持った身体であるということは、いわゆる霊魂が存在するということである。しかしそれは単なる実体としての霊魂というより形としての霊魂であり、その奥にも、またその奥にも、更に無限の果てにも身体を持つものと考えられねばならない。