素人哲学研究

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

創造的実体の形

創造的実体はどんな形をしているか。いや全ての形が創造的実体なのである。どんな形でもそうである。形の中には全ての形が含まれている。しかもそれは外を持つ。常に外に接しているものである。だから無限に広いとともに、無限に狭いものも考えられねばならない。この思考には形があるか。なければ思考ですらない。形のないものというのは、そういう形での形なのであり、つまり「そういう形」なのである。だから創造的実体の形は、形の形である。ちょっと何を言っているかわからない。

全知全能という言い方もできる。しかし対象的に考えられる神とは違う。それは彼方ではなく此方に考えられるものである。ある形は私から離れた形と考えられる。しかしそれは私の元にあるのである。なぜなら私という形がすでに無限の広さを持った形なのだから、その形すらも包んだものでなければならないであろう。

しかし広さとか遠さとかそういう概念自体も、形が作ったものであり、形より先にあるのではない。従って形は真実在であり、あらゆる存在に先立って存在するとともに、あらゆる存在と共に在り、あらゆる存在の後に存在するものである。

だがそれだけでは、まだ神である。此方にある神も、真実在である神も、とにかく考えることはできるが、まだ形そのものではない。

形は、はみ出し、と言うことができるのではないか。はみ出しの収まりである。単なる収まりでもなく、はみ出しでもない。だからこれは生命と言うこともできる。我々の身体には身体をはみ出す生命が溢れているのであるが、身体と別に生命力があるのではなく、むしろ身体が身体であることそれ自体の内に含まれた自己はみ出しである。つまり身体は形だからこそそういうものとなっているのである。そして全ての形は身体的なものだと言うこともできる。神も身体的であり、概念も身体的であり、物も身体的であり、従って種的なものなのである。概念が種的とは?神が種的とは?意味不明である。しかし意味不明でもそれは真実と考えられねばならない。それが真実と考えられるような在り方が実際に存在していなければならない。そしてそういう在り方を発見することができるのは、それらを概念とか神としてではなく、まさに「形」と見るときに可能なのである。我々の思いも寄らないところからその答えは現れる。そしてその思いも寄らなぬところから現れて来る答えも、元々形であるからこそ、そんなことが可能なのである。だから形は創造的実体と言う。あらゆる未知がそこに詰まっているのであり、だからやはり自己はみ出しなのである。

形だけが自己否定そのものを含むことができる。実在は自己否定を含むものとも考えられる。ヘーゲル西田幾多郎など弁証法論者はそのことを論じた。しかしそれもまた実在を実在として見るというより、実在を形として見たからこそ可能な見方なのである。実在概念というものは形の理念的形式とも言える。無形と言われる。その無形なものもそういう形なのである。それも形に含むことができるのである。形の前には無形も形となってしまう。無や有はどうか。有も無を含むもの、無も有を含むもの。自己否定を含んだものと考えられる。しかしそれらもただ無であることによってではなく、また有であることによってでもなく、形であるということに媒介されて初めて自己否定を含んだものとして理解され得るのである。有と無だけ考えるならば、それを矛盾的自己同一だとか即だとか言ってみたところで、この無限に表現的な世界そのものを考えることはできない。世界は姿形を持ったものである。無や有には姿形はない。姿形はこれに伴うものに過ぎない。しかし形は無であり有でありながら、姿形を持ったものなのである。形はあらゆる形なのだから。

だが、形では寂しい。全ての全てなのだから。寂しいということも形である。もっと哲学の概念として使用したい。そのためには既存の形の中に、その表現を求めねばならない。哲学においては、その内で使われるタームというものをうまく再利用しなければならない。だからこれを創造的実体と言う。そうすると哲学という形の中で、形そのものが活力を与えられるようになる。創造的実体の持っている特性は矛盾的自己同一である。かめはめ波と同じである。形はそのままではそのまま過ぎるが、創造的実体と規定することによって、武器となるのである。

ただこのかめはめ波は強過ぎる。何でもありなのである。全ての全てなのだから。だからこの概念は、何か特定の境地とか、思想を積極的に主張するものでは有り得ない。純粋理念とも言うべきものであり、ただ哲学について言えば、その創造的発展の媒介としてのみ生きて来るものである。

何を言いたいのか。私は色々の体験から、いわゆる霊魂の実在だとか死後の生命だとかそういうものを確信している。しかし霊魂だとか死後の生命という見方自体が、この肉体的生に引きずられて見た見方であり、実際はこの肉体的生そのものも、大きな大きな実在的世界の一部をなすものに過ぎないのである。これも形というものを冷静に見極めて行くことによって理解可能であり、この観点から近代における心霊主義などといった思想潮流が理解できる。これらは死後などといった観点からではなく、むしろこれを形として、すなわち霊界として見るものであり、つまり自存し、常に他のものと関わり合うものとして見るものである。こういう発想の転換などは、やはり形の考え方が有効である。形は何よりも、それ自身の立場に即して理解せねばならないのだから。それで、私自身も確信するのであるが、一応公にも、こういうものが大きな実在を構成する一部として、そういう形として理解されるようになったからには、それを説明する概念というものが哲学の方にも作られねばならない。従来の主体の概念が真にこういったものを含む概念でないとすれば、それは単なる補修で済ませるのではなく、根源的なところから刷新されねばならない。かくして世界観そのものの創造的発展によって、概念そのものが創造的に発展して行くのが哲学という学問でなければならないであろう。私は創造的実体と言うが、全ての全ては形として創造的実体なので、この概念はあらかじめこういう概念の創造的発展そのものを含んだものということになる。主体も形であり、概念も形であるのだから。従来主体として理解されて来たものは、何となくこの地上的世界の都合だけで考えられて来た肉体の概念に即したものであった。そこからいかに精神だとか霊ということを考えても、真に霊的世界自身の立場から説明するのではなく、せいぜい肉体において自己表現する主体の内側に持ち合わせる非肉体的領域くらいにしか理解されていない。だから最後の審判などというトンチンカンな世界観が存在するのである。だが、何度も言うように、形は形自身の立場に即して理解されねばならない。形はすべて世界ごとの形である。それは西田幾多郎の言う場所的なものである。霊は、霊そのものの形に即して、霊的世界ごとの霊という形として理解されねばならない。霊界なるものもまた形として、霊界そのものの於いて在る世界というところから考えられねばならない。無論そこまで考えられるものではない。しかしそれは無限の先であったとしても、必ずいつか知り得るということを含んだものでなければならない。なぜなら形は全てを含んだものなのだから。


これが私のかめはめ波である。出発点である。とにかくこのかめはめ波を、わかりやすく自己はみ出しとして規定して置こう。そう考えると万人にとって理解しやすいものとなる。もっとも万人に対して煙を巻くようなものとなっているかもしれない。どの道かめはめ波なのだ。