素人哲学研究

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

耳鳴りと創造的実体

耳鳴りと言えば、ある時に鳴り、別の時には鳴らないものと考えられる。当たり前である。いつも鳴っているならば、いわゆる耳鳴りなどというものはない。そういう言葉も生まれない。

しかしいわゆる耳鳴りではなくても、常に我々の耳には、あの何とも言えない音が鳴り響き続けている。あの音は一体何なのだろうか。金属音とも自然音とも言えぬ、とにかく微妙な音である。この音は、普段は特に意識されない。常に大体一定に響き続けているものというのは、空気と同じで、無いのとほとんど変わらないのである。だがそれはやはりあるのである。

突飛なようだが、我々の世界における創造、すなわち何らかの意味で新しい形が生まれることというのは、全てこういう風に考えられるのではなかろうか。元々どこにも無かった形と言っても、何らの意味においても存在しないならば、それがそれとして認識されることは不可能であろう。それは元々有ったものでなければならない。しかし元々有ったならば、創造と言うことはできない。無いということも真実でなければならない。

これを考えるには、まず無というのがいかなるものであるか、よく考えられねばならない。純粋な無というものは有るか。それは実は無いのである。なぜなら純粋な無が有るのならば、それはすでに有である。純粋な無の存在を証明しようとすることほど滑稽なことはないであろう。であれば無は純粋な無としてではなく、開き直って、ある仕方での存在としての無として理解されれば良いのではないか、という展望が得られる。実際西田幾多郎などが無と言うとき、そういう意味を含んだものである。どこまでも無限に有なるものを包んで行くのが無である。では存在する無とはいかなるものであるか。

難しく考える必要はないのである。例えば空気である。多分動物にとっては空気というものは存在しない。それが自覚化される必要はないからである。彼らはただ対象的に、輪郭のある事物を見ていれば良いのであり、それで十分生きることができるのである。空気が有となるのは、そこに輪郭が与えられるからである。この肉体によって生きられる世界そのものの外に出るから空気というものが存在するようになるのである。それが精神を自覚する存在、つまり人間であろう。我々の今の視点から見れば空気は元々有ったものとしか考えられない。しかしいかなる有も全て発見という意味を持っていなければならない。天才的な独創といえども、発見ということを離れて存在し得ない。空気も、天才の作品も、同じ「形」という枠で括ることができる。実在としての形とは作られるものであり、しかも作るものである。つまり創造者としてどこまでも元々有ったものと考えられねばならないとともに、被造物としてどこまでも時間上に偶然的に形を成したものと考えられねばならないものである。だから無というのは、有なのである。それはいかなる有なるものも本来無だからである。

耳鳴りが耳鳴りとして存在するのは、耳鳴りの於て有る無、存在する無が、そこに有ったからであろう。あの常時鳴り響く音がそれであるとも考えられる。いわゆる耳鳴りとは、常時鳴り響くその音の、一つの変調とも考えられるものではなかろうか。ある時点で特別に耳鳴りという現象が起こるのではなく、一つの持続の過程の中で起こる歪みというべきものではなかろうか。もしそれを一つの特別な形、つまり何かの変調などではなく、それ自身の形を持つものとして捉えるならば、そのアイデンティティーというのは、単に耳が「鳴る」ということの内にではなく、全く違う何らかの外在的な原因それ自体の方に求められねばならない。その外在的な何かが、この常時鳴り響く耳鳴りとぶつかった時に、いわゆる「耳鳴り」という形で現れるのであって、その「耳鳴り」の自己それ自体は実は別のところにあるのである。

以上から何がわかるか。まず耳に常時鳴り響く音というのが、我々の自己になぞらえることができよう。我々の自己は我々にとって無と言うことができる。それは存在としての無であり、自己の内に表現的に形作られて行くということを元々含んだものでなければならない。耳に常時鳴り響く音は、常にそれが耳鳴りに「なり得る」ということを含んだものでなければならない。逆に耳鳴りとして現れたものは、それが単なる偶然的な現象ではなく、元々そこにそれが有ったということでなければならない。自己の内で起こるいかなる現象も全て自己自身の表現という意味を持たねばならない。それであって初めて現象の底に存在する自己というものに形が与えられるのである。というより自己の存在が知られるのである。現象をただ現象としてのみ見るならば、自己というものが自覚されることはない。自己を自己として自覚するという事実がある、すなわち全ての現象を対象的に見る、現象それ自身とはどこまでも質的に隔たったものとして自己を発見するという事実があるということが、現象は全て自己の表現だということを意味しているのである。だからこれも常識的思考からは変に聞こえるであろうが、現象というのは全て創造的事実の意味を持っていなければならない。創造的でないと考えられることであっても、それは現在的なものである限り、例外なく創造的なものである。全ての物は、しかもそれが概念であっても、生きているのである。アニミズム的思想を唱える人にもこの点の理解が足りないと思う。いかなる抽象的観念であっても、それが生き物だからこの現実の事実として成立することが可能なのである。現実という無は、全ての背景として、いかなる死物にも命を吹き込むものでなければならない。

全ての現象が自己の表現であるとはいかなることであるか。それは全ての現象に、自己と対等の存在を認めるということである。対象は単なる対象ではなく、あくまでも現象的に存在する対象であり、その限りその対象は、いわゆる物ではなく、どこまでも人格的なものとして、我々の自己の存在そのものに対するのでなければならない。これも常識的にはやはり変に思われるであろうが、事実なのである。耳鳴りのように、常時一定のものとして、背景的無として存在するものが、「歪む」ということがあるのは、我々の自己の存在というものが元々自己自身の内に、自己の存在そのものに対する他者を含むからである。自己の内に含むということだけから考えれば、他者ということは考えられないし、逆に自己の存在そのものに対する他者ということだけから考えれば、単に他者は外に出たものとしても良いことになってしまう。しかし他者ということもこの自己における現象である。ところが単に現象的事実としてのみ他者を理解するならば、結局はそういう他者とは、他者の名に値しないもの、要するにそういう名を持った「物」だということになる。独我論というものが存在する所以である。独我論を脱するには、何度も言うように、この自己における現象そのものが、全て自己自身の存在そのものの表現という意味を持っていなければならないのである。そして同時に表現ということを離れて、その外に自己の存在を置いてはならないのである。




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まとめて言うと、自己同一は他己同一を前提することによってのみ自己同一であることが可能であり、それ以外の仕方における自己同一というものはあり得ない。我は汝を前提として我でなければならない。しかし単に我と汝との二者を考え、これだけが実在者だと考えるのでは、世界はそこで行き止まりである。現象とは言うまでもなく多様なものであり、一瞬一瞬に姿を変えるものであるし、しかもその一瞬の中に多くの現象が含まれているのである。現象というものの面白いところは、一つの現象は同時に無数の現象だとも、二つの現象だとも、あるいは別の何かの数の現象だとも言うことができることである。この辺にも今私の論じたいことの大きなヒントが含まれている。単に我と汝というだけを考えるならば、いわゆる現象というのはこれとは別に考えられる何かということになり、結局は、存在それ自身を離れた客観的世界というものを考えねばならないことになる。しかし現象はこの我に即して有るものでしかないのであり、しかも現象の一々は全て我の存在そのものに表現的に対するもの、しかも同時に表現的に我自身であるもの、我がそこに於いて自己を表現するとともに汝がそこに於いて自己を表現するものと考えられるからには、存在というものを単に我と汝だけで考えてはならないことになる。汝は現象なのだからそれはどこまでも多様なものである。現象といってもそれは汝なのだから、どこまでも一なるものである。だから常に一即多、多即一と考えられねばならないのである。それでこの概念を私は創造的実体と呼ぶことにした。これについては前の記事も参照されたい。

創造的実体というのは、他己同一を前提することによってのみ可能な自己同一という規定を持つ実体概念である。自己同一は自己同一だけからは考えられない。耳鳴りのように、ある一つの大きな波の偶然的な歪みということが考えられ、しかもそれによって一つの大きな波はあくまでも自己自身を失わない、自己自身を保つと考えられるのは、存在するものが全て創造的実体的だからだと思う。他己同一を前提する自己同一というのは、西田の矛盾的自己同一のことである。しかし矛盾的自己同一では、西田が批判したヘーゲルの対象的弁証法の構図にまだ引きずられて理解される恐れがある。あるいは煙に巻くような言い方になってしまうが、更に「他己同一即自己同一」即「矛盾的自己同一」と言うことができるであろう。私の言い方では、他己同一即自己同一なのであるが、これに更に即が付くのである。これは単なる言葉の遊びではない。即とはそういう概念なのである。つまり自己自身において無数の他者を包むのである。しかもその他者はあくまでも汝でなければならない。そしてやはりそれは彼でなければならない。彼と考えられるならば、そこにおいて我も実はすでに彼なのである。全ての彼が我即汝なるものでなければならないからこそ、全ての彼は全ての彼にとって汝となり得るのである。他己同一即自己同一と言うとき、他己同一には自己同一が含まれているということになる、他己同一は自己同一「でもある」ということになる。「他己同一即自己同一」に更に即が付くとき、「他己同一即自己同一即矛盾的自己同一」となるのだが、これは順を取り替えて「他己同一即矛盾的自己同一」と言うこともできる。この場合は、他己同一とは自己同一の意味で理解されるのであり、矛盾的自己同一は他己同一の意味で理解されるのである。こういう思考はほとんど一般に理解され難いに違いない。が、つまりその内容がいかなるものであっても、ある二つのものが即として一つの形を成すとき、必ずそこに相反する役割がその時々に設定されるのである。

例えば、常に蟻の群れの何割かは怠けていて仕事をしないのだそうだが、その怠けている蟻を全部退けて働き者だけ残したとしても、その残った中でまた同じ割合の怠け者が生じるのだという。これはそうであることによって、人間の頭では理解できないことだが、ちゃんとバランスが取れているのである。これが実在というものであり、実在そのものの根源的バランスはいかに人為的な操作が加わろうと超然と働いているのである。我々が為し得る人為的な操作は、むしろこのバランスそのものに則って、それをできるだけお気に入りの形で精錬して表現するということだけであろう。それが人間のあらゆる文化的営みなのである。創造的実体というのもこういう概念でなければならない。これは実在の根源的バランスを説明する概念である。