雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

好きということ、嫌いということ

好きと言えば、なければならないもの、嫌いと言えば、なくても良いもの、いやない方が良いもの、と考えられる。私はこれは違うと思う。

好きというのは、なくても良いもののことである。実際にそうであろう。本当に好きならば、それに対する熱意などというのは、特に望まなくても止めどなく溢れてくるものであり、しかも熱意が沸き起こらなくなったとしても、実は何ら問題でない。その場合はただそれに対する穏やかな愛情に変わるだけなのだから。好き、愛する、この感情はそういう広い感情であり、鋭いものではない。鋭さがあっても、その鋭さはむしろ広さに抜けて行くための鋭さであり、異次元への扉であり、そういう事態は、そもそもそれまでの自己がそういうものを必要とするくらい狭っ苦しい環境に置かれていたということを意味するのである。その鋭さは愛好そのものの鋭さではない。恋愛は冷めるものとも考えられるが、冷める恋愛は始めから、狭っ苦しい環境からの脱却という意味しか持っていなかったのであろう。真の愛は、鋭さの抜けた後でも、穏やかな愛情として残っているものである。そしてその対象が目の前にあってもなくても、どちらでも構わない。そもそもそれは対象という言い方自体がふさわしくないものであり、むしろただ在ることと言うべきものであろう。それは目によって自己の前に見るものではなく、直接私のこの背中にぴったりと寄り添ったものである。存在そのものへの感謝が好きということである。

本当に好きなものは、ただその時々の必要性に応じて、過不足なく流れて来る。私はこういう文章を今書いているが、要するに本当に好きなことをやっているので、過不足なく、アイデアが連なって来るのである。求めることがそのまま与えられることとなるのである。そして私はアイデアが尽きたとしても、それに何のこだわりも持たないであろう。なぜならそれこそこの文章の結ということであり、無事書き終えたということなのだから。お金が好きという人も居る。お金が好きという人は、お金に対して何のこだわりもないからこそ、次々とお金が流れ込んで来るのである。お金はその人にとって可愛いものであり、世話したいものであるからこそ、流れ込んで来れば、流れ込んで来ただけ、その都度大事に世話してやる。つまり例えば適切にお金を使用して市場に還元するのである。その市場のお金は、また機会があれば私のところに戻って来る、そうわかっているから何の惜しみもなくお金を使うことができるのである。だからただ手元に沢山お金があれば良いと考える人は、そもそもお金に対する感謝の思い、大切に世話してやるという心がないのであり、市場のお金はもう私のところに戻って来ないと思っているから、逆にお金は遠いものとなる。お金はその人にとってなくてはならないものである。そしてできればお金なるものは元々ない方が良い、そういうものが世界に存在すること自体がその人には迷惑である。

そしてそれが、嫌いということであろう。嫌いなものは、なくてはならないものである。お金はなくてはならない。なくてはならないから、いつでも私にとっての重荷として、心を悩ませ続ける。若者達を見る。彼女や彼氏がなければならない。そう考えている時点で、彼女や彼氏のことは嫌いなのである。あるいは恋愛そのものが嫌いなのである。なくてはならないものなのだから。所有しようと必死に努力する。しかしそれに意味はあるのだろうか。もし本当に好きなものならば、それはすでにその人の元にある。所有しようとしないでも、すでに所有している。それは見かけ上は所有という形ではないかもしれない。しかし私は目を高く上げると、すでにあの雲を所有していることを理解するのである。なぜなら私は雲に感謝し、雲とこの同じ場所というものを紛れもなく共有して存在しているのだから。この時を味わっているのだから。

そして人間は単に外形だけの、肉体だけの存在ではない。思えば、いや想えばそこにその人は現れてくる。思うというのは非実在的なものに対することであり、想うというのは逆に実在するものに対するのである。思うは、それ自体が目の前にはないものに対することであり、仮に目の前にあったとしても、態度上はそこから離れて、あるいはそのものにバレないように、隠れて思考することであるが、想う時には、むしろそのものがすでに現前しているのである。だから実際に会う時にでも、その人に対して想いつつ会うのである。想いながら思うことがあるかもしれない。そして恋愛で言えばそれは駆け引きと呼ばれるもののことであろう。しかし本当に真の愛情に支えられた恋愛においては、ただ相手に対して想うことのみ可能である。その相手について何か思うとすれば、それはすでに恋愛という枠を離れて、一個人、いや単なる物として見たときのことであり、しかしそういうこと自体を恋愛という枠そのものの内に入れてしまうならば、駆け引きということになってしまう。想うということは、時間空間その他あらゆる条件を越えて、ただ存在することによって存在するということであり、しかも同時に行為の内にあるということである。存在と行為がそこでは切り離されていない。行為は存在そのものの内にある。だから想うことのできるもの、本当に好きなものは、ここになくても、時空を越えて実在するのである。ただそれが現れていないというだけである。それは現れていないが、私はすでにそれを把握している。そしてそれへ向かって行為している。思うと行うと在るとでは分離があるが、想うことはそのまま行うことになり、そしてそのまま在ることである。

嫌いというのは、行為の内にはない。ただそれ自体として嫌いなのである。その固まった姿が嫌いなのである。好きというのはこれに反して行為の内にあるのである。好きには元々定まった形がない。好きである時には、すでに夢中で行為しているのである。行為の対象は本来そういう無対象の対象でなければならない。対象の形はむしろ最後の最後に決定されるのでなければならない。あるものが好きだと思っていた。それに向かって夢中で行為していた。しかしあるところで、本当は自分はこういうものが好きなのだと気がついた。しかしそれでも彼のその好きという想いは少しも損なわれない。なぜなら元々愛好の対象は無対象の対象であり、むしろ対象の形は私が行為によって形作ることによって定まるのだから。実は好きではないと気づいたそのものに対しても、嫌いになるということではなく、むしろ今ここに現前する一面の「好き」の中に、その一部として取り込まれたに過ぎない。嫌いなものというのは、避けがたいものとして、私の意図に反して、そこにあるものであり、つまり私が生きて行くためにはそれがなければならないというものである。私を行為へと導くのではなく、牢に入れるのである。そこでの行為は、その嫌いなものの存続のための奴隷労働ということになる。嫌いなものは、存在するのではなく、ただ存続するものと言うことができるであろう。嫌いなものであっても、それが存在すると言う時には、むしろそれはすでに好きの内に理解されている。イエスが敵を愛せよというのはまさにこのことを指している。存続から存在へ、思うから想うへ、分離から統合へと導くのが愛であり、愛からの行為である。

嫌いとは、要するに実体性である。存在ではなく、存続において理解される実在である。実体というものがあくまでも実在の概念として西洋哲学の伝統において理解されて来たのは、皆が嫌いなものだからである。ある特定のものが特に嫌われる、皆に平等に嫌われるということによって、かえって世界の事物の平等を保証するのである。あらゆる嫌いを、その実体というものに押し込むのである。実体とは根源嫌悪とも言うべきものである。彼らは何かしらの嫌悪の犠牲がないと、愛好も成り立たないと思っていたのではなかろうか。サタンというものを考えずにはいられなかったのであろう。だからここに引きずられて、彼らの愛好というものも対象的なものであり、理念的と言っても、それはやはり見られたものであった。こういうことがイデアという概念にも、理念という概念にも現れている。それ自身によって在ること、それは具体的存在ではなく、ただ存在を越えて存続するものであり、この根源嫌悪こそが、全ての愛好を包むものであった。全ての愛好の目的であった。しかし全ての愛好の究極の果てが、嫌悪そのものであるとは、何と滑稽なことであろう。存在は本来どこまでも営まれるものでなければならない。営まれるものの根底にあるものも、営まれるものでなければならない。しかし色々と理屈を並べ立てても、彼らの世界観の根底に考えられるのは、営まれるもの全てを包んだ、営まれないものなのである。プラトンヘーゲルも、きっとそういう概念を望んだわけではなかろう。彼らの哲学は、すでに西洋的世界観を越えたものと言わねばならない。ただそれに対する言表が西洋的であったというに過ぎない。

好きということは、これに反してただこの現在の尖端において発見されることである。対象は対象であって対象ではない。それは実体的なものではない。かといって、単に実体的なものを否定するものでもない。実体的なものを否定することによって見られるのは現象であるが、現象という見方はそもそも実体的なものを前提しているのであり、実体性そのものをその底から乗り越えようとする見方ではない。真に好きということの前に現れる現象は、それ自身現象とも実体とも呼べないものであり、それは要するにただ存在するとしか呼ぶことのできないものである。そしてそれはいつも新しく、その都度ごとに姿を変えて現れるのである。嫌いなものは、その好きの中にそのまま包まれて無力化される。嫌いなものを無視するのではなく、嫌いなものが、そのものであるままに好きなものとなるのである。もとより好きとは無対象の対象に対するものであるのだから。あるものが好きであるとは、同時に他の全てのものが好きであるということを意味するのである。



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好きというのは、なくてはならないものに対してのものだ、というのが常識的理解である。これはいかなる意味において考えられるのであろうか。無論ここにいかなる真実性もないならば、始めから常識的理解として成立することもあり得ない。

私は今ここに、なくてはならないということが嫌いというこのなのだ、と規定した。こうしてみると、好きということ自体がそれ自身の内に嫌いを包んでいる、嫌いに即して嫌いを越えたものが好きということだ、という言い方ができる。好きに関する常識的規定は、こんな逆説的な意味を帯びて来ることになるのである。

なくてはならないものが、つまり嫌いなものこそが、好きということのきっかけになるのであって、逆にそういうものがなければ好きということもあり得ないのである。嫌いなものを体験し尽くしてこそ、我々は好きなものを発見することができる。好きだと思っていたものも、また嫌いになることがあるが、それは好きということ自体が元々無対象の対象へと向けられていたものだからである。

常識的思考の範囲では、あまり好きということは突き詰めて考えられない。理由はわからないが、あるものがとにかく好きである、そこから考える。そのあるものが好きであるということの内にこういう論理が含まれているとは考えられない。好きなものがあるのも当たり前、嫌いなものがあるのも当たり前、その両者が互いに関わり合うことによってのみ好きとか嫌いということが存在することまでは考えられない。

嫌いなものはない方が良いものだ、常識的にはこう考えられる。確かにその通りである。しかしそれそのものを取っ払っても、その嫌いなものが存在している根本的な理由が把握されていなければ、嫌いなものは対象を替えてそっくりそのまま体験されることになってしまう。男に縁のない女、などと言う、まさにそれである。どんなに嫌いと思っても、それが現在の自分自身の主体的体験の現実にとって必要なものだから、つまりなくてはならないものだから、現れて来ているのである。嫌いなものと好きなものとが両方あるというならば、その人が好きだと思っているものも実は本当の意味で好きなわけではないのであり、嫌いなものも実は好きなものなのである。酒が好きだと、自他共に認める人がある。しかし彼は上司が嫌いなのである。上司が嫌いだから酒が好きであるのだから、酒が本当に好きなのではない、そしてそれでも酒が好きというのなら、その嫌いという上司が好きなのである。酒という好きなものを体験させてくれる、嫌いな上司が好きなのである。

ここで好きとか嫌いといったことは、対象を越えたところから理解されねばならないということがわかってくる。本当の意味で嫌いとは要するに現実そのものの停滞のことである。酒が好きというのも、その時だけはギャーギャー騒いだり前後不覚になったりして、停滞を逃れられるように思うからであるが、そういう酒を飲むということが習慣化してしまっているならば、結局はその酒を飲むということも停滞である。停滞とは行為を否定するものである。行為を行為であって行為でなくするものであり、その人を牢に入れるものである。こういう状況でいかに自由というものが考えられたとしても、自由ではない、本質的には奴隷労働である。

本当の好きには、いつでも創造がある。その都度ごとの新しい照らし出しがある。親からは、子供がいつも同じようにゲームをやっているようにしか見えない。しかしその同じことを、なぜずっと夢中でやり続けていられるか、そういうことを考えることはない。その子供自身の視点から見ると、そこにはいつも新しい発見があるのである。一度クリアしただけでは満足が行かない、もう一度プレイする。同じことを繰り返すのではなく、やはりそこに新しい発見があるのである。単なる繰り返しというのを、人間は夢中でやり続けられるはずがない。嫌いなもの、なければ良いもの、とは対象ではなく、むしろ主体的体験の現実の停滞そのもののことである。その現実の中で、特にその停滞性を象徴するものとしてその嫌いなものが現実に現れて来るということに過ぎない。その現実にある他のものも、結局はその嫌いということに色付けられたものである。しかし同時に現実はいつでも、創造へと開かれている。どんなに停滞的な現実であっても、必ず創造への扉がある。それが彼には酒として現れる。その酒を単に嫌いなものから逃げるためのものとして見るか、ただそれ自身のために愛好するか、ここに停滞と創造とを分ける何かがある。

それ自身のために求められるということは、実は無対象の対象へと向かっているということである。ここにおいては我々の主体的全体がその対象の中に含まれているのであるから。イデアもイデーも本来ここに存在するものである。ある対象に即して対象性そのものをどこまでも越えたものが志向されている。それが想うということでもある。では志向されたものは何であるか。つまりそれは無対象の対象なのである。無対象の対象などという哲学くさい表現を使うと、すぐにそれが実体化して理解される。無対象の対象なる対象があるわけではないのである。今言ったように、それは主体である我そのものがそこに含まれるということである。対象は創造されるものである。創造的ということを始めから伴って見られる対象こそが真に現実的対象なのである。普通に認識論において対象などと言えば、ある知的なものが考えられる。しかし対象は実際には、我々の主体的現実における対象であり、常に行為的に見られたものでなければならない。だから対象は全て実在として見られる対象であり、創造的なものと考えられねばならない。

対象は停滞であり、行為は創造である。しかし停滞と創造とは常にこの現実そのものに重なって同時存在しているのである。その停滞の方に自己を位置づけるか、創造の方に自己に位置づけるか、これが結局は嫌いと好きということである。ある対象を停滞において見ることもできる。しかしそれも実はそういうものとしての創造的現実と考えることもできるのである。停滞そのものを主体的に選択するならば、それもまた好きの内に入る嫌いなのである。行為は元々自己否定によって自己肯定するものであるが故に、その自己肯定の面を強く意志するか、自己否定の面を強く意志するかということ自体を主体的に決めることができる。停滞より創造の方が良いに決まっている。しかし停滞を離れた創造はないのである。

主体的に停滞を選択するとき、それはひたすら限定された枠の中で、学びを続けるということを意味する。そしてそれはその限定された枠の範囲内でどこまでも深まって行く。停滞といえども創造を離れることはできないのだから、停滞の枠の中で創造がどこまでもぐるぐると廻転し続けるのである。そしてそれが実はあらゆる文化的営みである。例えば哲学という学問がある。そういう極めて限定された枠の中で、限定された概念や論理の仕組みを活用しながら、あくまでも新しい照らし出しを積み重ねて行くのである。その極、嫌悪は単なる対象的嫌悪を越え、根源嫌悪へと深まって行く。停滞は停滞自身の根底を自覚して行くのである。停滞が停滞自身の内から停滞を越えるとは、すでにそれは停滞ではなく創造であるということである。





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思考や文章が停滞して来た。なぜだろう。これは色々と書き出したことによって、この文章そのものの固定した様式が出来てきたからであろう。何が核心なのかわからなくなってくるということも、停滞の特徴であろう。だから本当は好きでないものを好きと思ったりするのである。本質に戻って考えをまとめておこう。

要するに私が言いたいのは、何度も言ったように、好きということは、対象そのものが創造的なものとして見られるということであり、嫌いとは対象が単に対象として見られることだということである。そしてそれはつまり、好き嫌いは、我々の主体的態度の問題であるということである。本当に好きに突き抜けて生きているならば、嫌いなものは嫌いなものであって嫌いなものではなくなる。それはそれとして尊重し、好きの内に見ることができる。単に我々自身が今持っている実体的性質と、この時点ではそぐわないだけだと、相対的に見ることができ、そして棲み分けることができる。相手をどうこうしようなどと思わない。

好きに突き抜けて生きる場合は、本当に好きなものが現れて来る割合が多くなる。今の自己の実体的性質によく合致するものが、多く現れてくることになる。なくてはならないのは対象ではなく、存在である。存在とは私と対象とが行為の中に一如となるということである。私から対象へは直ちに対象から私へということである。対象もそこでは私に対等の主体として見られたものであり、応答し合うものとして見られているのである。だからその関係は創造的な関係だということになる。

何々が好きだということは、それがなくても良いということであり、もっと言えばなくてもあるものだ、ということである。嫌いというのは、それがなければならないということであり、もっと言えばあってもすでにないということである。真にあるというのは、行為において、創造において存在するということなのだから。常識的に、「好き」がなくてはならないものに対するものと考えられるのは、これはむしろ創造という主体的態度に関して言われたものであり、「嫌い」がない方が良い、なくても良いものに対すると考えられるのは、同様に停滞という主体的態度に関して言われたものであろう。主体にとっては創造はなくてはならないもの、停滞はあってはならないものである。主体にとっては、創造的に見ることのできる対象が是非あって欲しいのであるが、それは実は対象それ自身の性質に依るものではなく、むしろ主体の根底的態度自身の問題である。主体はいかなる対象も創造的に見ることができる。なぜなら対象はカントも言うように、認識主観のアプリオリに持つ形式によって限定されることによって認識主観に現れるのだから。わかりやく言えば、主体の内的許しによって存在するのが対象である。しかしアプリオリな形式とは単に知的なものではない。それは主体が自覚的に変えることができるものであり、それこそが「態度」というものなのである。態度によって、対象の現れ方そのものが変わる。それは対象が元々主体として、存在するものだからである。対象は物ではない。対象が物だと言うならば、そういう主体的態度が対象を物にしているのである。塵に語りかけてみよ。それは主体として、我々の態度次第で、全く対等にこの私に応答して来るであろう。そして対象の主体性への尊敬こそが、好きということなのである。