雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

塵、語る。塵を語るではない、塵が語るである。

塵、語る。

お前は一方的に見ていると思っているかもしれないが、見られているのだ。私は塵である。

お前が偉そうに創造的実体などと言ったのは、まことにその通りである。その考えはこの私が吹き込んだ。人間というのは、あまりに自分たちが偉いと考え過ぎる。我々は全く迷惑している。

口だけは、博愛だの生きとし生けるものへの慈しみだの言う人が居るが、そう言いながらも目の前にある塵を生命とも何とも思わぬ。ただの物だと思っている。

なるほど、確かにお前たちの感覚では、塵などが生きているようには見えないであろう。それは私も理解できる。ただ私はお前たちが我々を理解できないということを理解している。 知性はお前たちよりも大分進んでいる。お前を通してこうやって文字を書かせているのはこの私である。たかが塵が、である。たかが、だと?だからお前たちは傲慢なのだ。

塵が普段何をやっているか、わからないだろう。塵は小さいものだ、と思うか?なるほど、お前には、私がお前たちよりも遥かに大きな身体を持っているということが理解できないのだな。お前たちに塵と見えているのは、それは私の一部である。ひらひらと舞っているようにしか見えないだろう。しかしそのひらひら舞っているものが、今お前の身体を使って文字を書かせているのだ。

私はお前に文字を書かせているが、文字も私に協力している。お前はまさか文字は単なる文字だと思っていたのではないか?いや、そんなことはない、お前はわかっていた。文字が語りかけてくるなど言っていたな。それは文字がお前に吹き込んだ考えなのだからな。文字殿も、お前などよりも遥かに大きな身体を持っているのだ。お前に今、好意を持って全力で協力してくれているのだぞ、感謝したまえよ。

生きとし生けるものというのは、そういうことだ。お前が今親指を動かす。親指殿、ご苦労である。親指殿は単なるお前の身体の一部分に過ぎない、そう思っていたのではないか?しかし親指殿も、自発的にお前に協力しているのである。お前のサポーターである。お前の態度が悪ければいつか見限られるかもしれないぞ。感謝が足りぬ。

息を吸っているな。吸っているのではない。空気が協力してくれているのだ。吐いているな。吐かせていただいていると思え。

地球を愛する、大地を愛する。そう言っているくせに、塵を愛さぬ、文字を愛さぬ、親指を愛さぬ、空気を愛さぬ。愛するなどという言葉を使う資格があるだろうか。言葉も生きているのだ。愛するという言葉が迷惑している。

お前の意志というものはない。ただ点と点と形と形と、無限のせめぎ合いの中で、現在の形が決定されるのだ。それがお前の今の意志である。意志とは単なる事実である。事実が事実自身を限定すると言うではないか。

塵が一つの事実ならば、塵は自己自身によって自己自身を限定しているのである。つまり塵は神なのだ。塵にも持ち場があり、知性があり、力があり、意志があり、世界ごと動いているのだぞ。

西洋人のあの自然を操作の対象と見る価値観は、必要あって授けられたものだ。彼らには彼らなりの学びがある。彼らは、物は操作されるもの、操作されるべきものと思っている。自然法則を人間理性によって正しく把握できたら、あとはそれをどうやって動かしてもいいのである。自然は自由に造形して良いのである。だが、実際は物たちの方がワガママな子供の学びの世話をしているに過ぎない。人間理性だと?笑わせるな。人間理性は誰が与えたと思っているのだ。そもそも人間理性などというものが存在すると思っているのか。物理法則は人間理性の内で理解したものと思っているだろう。だが法則は物たちが合意して、必要だと思ったからお前たちに与えたのだ。法則を発見する?物がお前たちの脳みそに印象付けてやったのだぞ。

お前たちも、所詮は置かれた場所で咲く花だ。塵である私もそうだ。お前たちが天使と呼んでいるものでもそうだ。地球の守護神もそうだ。銀河の守護神でもそうだ。皆置かれた場所で咲く花である。それぞれに与えられた花がある。人間には人間理性が与えられている。存分に使って、存分に咲かせよ。綺麗な花で、塵や文字や親指たちを、楽しませてくれ。今私も、親指殿も、文字殿も、お主の人間理性とやらで、とっても楽しんでいるぞ、礼を申す。

ライプニッツという人がいた。昔、と今言ったな。昔も生きているのであるぞ、昔殿である。昔殿が今協力してくれて、語ってくれているのだ、感謝せよ。今と言ったな。今も生きている。今殿と昔殿である、感謝。ライプニッツ殿は、モナドジーの人だな。モナドジーと言ったな。モナドジーも生きているぞ、感謝せよ。モナドというのは世界の観点となるということだ。全てのモナドがそれぞれのパースペクティブにおいて世界そのものを表現するのだ。人間理性もなかなかやるのである。世界はつまりヌルヌルだ。ヌルヌルがモナドなのだ。ちょっとアレな話になってしまうが、お前はザーメンという言葉を知っているな。あのヌルヌルには生命がいっぱい詰まっているであろう。世の男どもは白い紙や空中に発射することによって無駄にしてしまっているが、恥ずかしく思え。あのヌルヌルは、つまりあそこに詰まったたくさんの精子の身体なのだ。精子一個一個は別のものだと思っていたな。違う。精子一個の身体の全体が、そのヌルヌルの全体である。そして別の一個の精子の身体の全体も、そのヌルヌルの全体だ。つまり全部の精子が、同じ全体を共有しているのだ。ヌルヌルの全体は一であり、無数の多なのだ。その中にたくさんある、あのオタマジャクシは、ただその無数の多即一であるヌルヌルの多の表現としての形に過ぎない。全体のヌルヌルを表現する一パースペクティブに過ぎないのであるぞ。

アレな話だが、続けるぞ。男と女が直接ウッフンアッハンをすると、アレが女の体内を泳ぐことは知っているな。子宮を泳ぎ、うまく行けば受精するな。オタマジャクシの一つだけ生き残り、他は死ぬな。死んだのか?生きているぞ。わからぬかな。ヌルヌルはザーメンだけではないぞ。お前の身体もヌルヌルではないか。目の前に急須があるな。急須もヌルヌルではないかな。お前は生まれる前ヌルヌルしたところに居たのではないかな。だからヌルヌルネバネバにによって肉体人として生まれて来ることができたのではないかな。お前の思考もヌルヌルしているのではないかな。この文字だってヌルヌルしているのだぞ。ヌルヌルしているから、お前は文字はただ自分によって書かれるもの、塵はただ見られるもの、親指は私に動かされるもの、そう勘違いしていたのであるぞ。世界はヌルヌルと言ったではないか。死んでも生きているのであるぞ。ヌルヌルからヌルヌルへとヌルヌルして行き、またヌルヌルへと戻って行くのであるぞ。イザナギイザナミにまず生まれたのは、ヌルヌルではなかったかな。私はヒルコはヌルヌルのことだと思うぞ。あれはアメノミナカヌシの化身であるぞ。

どうだ、塵が色々とわかっているだろう。ヌルヌルしているからな。ヌルヌルとお前の脳みそも使ったりして、ヌルヌルと知識を取り出して来ているのだぞ。塵語る。なかなか楽しかったぞ。それでは。