雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

創造的実体とパラレルワールドについてのメモ

いずれもっと詳論するかわからないが、私は西田哲学的な意味での実在を、「創造的実体」と言って良いのではないかと思う。今この創造的実体とパラレルワールドというものについてのメモを少しここに記しておきたいと思うのである。無論実在の根底にはいかなる意味においても基底的なものはない、としばしば西田は言う。それが絶対無であり、場所であり、一般者の自己限定であり、行為的直観でなければならないのだから。だから真実在はどこまでも実体性を否定するものでなければならない。ところが単に実体性の否定というのみでは、そこに例えば単なる働きというものが考えられるだけであろう。いかなる意味においても実体性というものを考えないならば、本当に実在するものというものを真に問題として考えることはできない。ただその手前にある現象というものの有り様を精密に明らかにし得るのみであって、そしてここにそれを研究する学としての現象学が考えられるのではないかと思う。言うまでもなく哲学研究にはこういう道が必要とされるものであり、現象そのものがどこまでも深く考えられるものである以上現象学的研究そのものも無限に深まり続けるものでなければならない。しかし真実在の学、形而上学、第一哲学というものがまた哲学そのものの究極の目的であることも事実である。また現象も実在から出てくるのであり、現象から実在が考えられるわけではない。そして実在の概念としてギリシャ以来長らく考えられて来たのが実体概念である。この事実は無視すべきものではないと思うのである。単に実体概念をどこまでも洗練させるというのみでは、なるほど真の実在というものは考えられない。スピノザの実体も、フィヒテの超越我も抽象的であると言えばそれまでである。だがまた実体概念そのものの不完全は真実在そのものに含まれたものと考えられねばならないのではなかろうか。そしてこの不完全そのものを含んだ無限の創造的刷新によってのみ存在し得る完全さこそ真の完全さと言うべきものではなかろうか。とにかく実在そのものを直接規定する概念として実体以上のものを考えることができず、かえって現象学的研究やその他の研究法へと進む他ないように思われてしまうということにも訳があるのであるが、私はしかし尚ここに立ち止まって踏ん張ってみることが可能であり、また哲学としてはどこまでもそれをやらねばならないのではないかと思う。西田哲学の目指したものは真実在であった。おそらく当時の哲学においても現代の哲学においても、私ははなはだ不勉強にして本当のところはよくわからないが、こういう真実在というものをどこまでも突き詰めて考えた哲学者はないのではないかと思う(マルクス・ガブリエルの新実在論というのはまだ勉強していないがこの観点から非常に興味がある)。西田はしかし実体概念そのものを規定しなかった。西田の立場も実体性そのものの否定において考えられるからである。しかし西田も言うように、ヘーゲルも言うように、実在は否定の否定即肯定である。実在は自己自身を対象化することによって自己自身を創造的に形成するものでなければならない。実在が実体概念と切り離せない以上、実体概念そのものが新たにこういう意味を含んだものとして生まれ変わらねばならないとも思うのである。私はそこで西田哲学的な実在の規定、論理学には矛盾的自己同一と言われるもの、また場所的一般者の自己限定と言われるもの、実践的には行為的直観的なもの、これを実体概念としては「創造的実体」と呼ぶことにする。

それで創造的実体の論理学的規定は、今言ったように、矛盾的自己同一というものである。矛盾的自己同一というのを、何か境地的なものとして理解する人も多いようだし、西田もこれを論理学として論じたつもりではあっても、実際の論文においては色々なものと渾然一体となって述べられているから、境地的なものと純粋に論理的なものとの区別が付きにくくなっているということも事実である。しかしともかくも、つもりとしては西田の矛盾的自己同一とは純粋な論理学的なものであり、つまりアリストテレス哲学における自己同一の実体のようなものの延長にあるものと言えるだろう。

たが、矛盾的自己同一というもの自体何なのか、非常に分かりにくい。まずこれは単なる現象的なものではなく、あくまでも実在そのものの規定として理解されねばならないということ、このことをまず第一に押さえておかなければ、トンチンカンなことを考えてしまうことになる。例えば主体と環境という二つのものがあって、これが矛盾的に自己同一するなどというわけではないのである。これは単なる現象的な見方であり、誤った見方である。そうではなく、元々矛盾的自己同一という規定を持った実在的何かがあって、それが「行為」という枠組みの中で見られた時、そこに矛盾的自己同一なる二つのもの、どこまでも交わらないがすでに一である二つのもの、すなわち主体、環境が見られる、そういう見方が正しいのである。実在そのものの規定なのだから。実在そのものは我々人間にはわからないと言えばそれまでであろう。だが、実在そのものを問題とし得るということ自体、すでに実在そのものを何らかの意味で知っているということであり、また我々は実在そのものの内に生きているということである。生きているということはすでに実在的であるということである。実在そのものは理由もなく、どこまでも求め続けられるものでなければならない。恋愛するのに理由は必要であろうか。恋する乙女は誰に言われるとでもなく、化粧やファッションに目覚めるではないか。実在とは実在なのだから現実そのもののことを言うのである。

ところが困ったことに、矛盾的自己同一なる創造的実体は単なる一なるものではないのである。普通に実体と言うときは、ともかく自己同一なる実体を考えればそれで済む。AはAである、単一なるものである、不可分なるものである。だが矛盾的自己同一とは真に創造的な実体を規定する論理であり、普通に自己同一から順々に考えて行くことのできる世界観によっては理解できるものではない。自己同一から考えて行く世界観においては、スピノザのような汎神論や、更にシェリングのような主客合一まで突き詰めて考えてみても、結局はそこで行き止まりになる。もしこれらの世界観を根本的に越える何かしらが世界に出現してしまったならば、もうすでにこれらの哲学の論理は成立しなくなってしまうのである。自己同一ということは、その究極まで考えても、そういうことになってしまう。ならばそこから全てを翻して、そういう究極的な自己同一そのものにおいて、他者、すなわち自己を絶対に越える多数なるものを前提すれば良いのではないか、ということになる。自己同一は自己同一の否定によってのみ自己同一であるということになるのではないか。自己自身によって在るということ、自己自身の存在に他なるものを要さないということ自体の内に、他者が含まれていると考えれば良いのではないか。無論それは創造的なものであるが、かといって何か絶対的に突き抜ける一なる絶対意志的なものが根底に考えられる世界観とも異なる。それは意志的なものというより、この現実そのもの、直接に我々に映じたものでなければならない。突き抜けるものというのは、むしろこの直接肌に触れた現実そのものでなければならない。この太ももの上に乗った塵は無限の深さを持っていると考えられねばならない。全ての点がブラックホールでなければならない。創造者はむしろ創造されたものである。創造されたものであって初めて創造者であることができる。それは質料的なものの極みと考えられねばならない。絶対の死の面そのものでなければならない。絶対に事実的なものそれ自身が無限に意志的なものと考えられねばならない。ここから考えれば、原子や素粒子といったものもすでに抽象的な観念的なものであって、真に現実的なものではないということになる。量子という概念が考えられる所以である。むしろ真の原子、永遠の原子とも言うべきものは、仏教で言う空のようなものでなければならない。無数、すなわち本質的に数えることの不可能な数の空こそが永遠の原子であり、絶対意志でなければならない。現実そのものが絶対無であるからこそ、現在の形は、ただ西田の言う無数の個物の相互限定の形としてのみ考えられ、そこにいかなる意味においても基底的なものを考えることはできないのである。ここに一即多、多即一の絶対矛盾的自己同一というものを考えることができる。要するに創造的実体とは無数の多であり、絶対の一であるものである。これは実体が一なるものと考えられ、多は少なくともこれとは別個に考えられるに過ぎないということとは根本的に異なる(モナドであっても窓がないならば同じことである、モナドが窓無しという自覚はその窓無しのモナドである彼にとってどこから出て来たのか?予定調和はすでに窓の外では?)。普通に考えて不可分なものが、実は可分というならばそれはすでに真の不可分ではないことになるのである。しかし創造者実体は、その自己同一そのものにおいて、無数の個物との無限の創造的関係を含んだものでなければならない。実体は何か硬いものであるが、創造的実体はヌルヌルしたものであり、実は硬いものも、この根源的ヌルヌルの一バリエーションとして考えられる質なのである(男性器の勃起の現象も根本的にはここに基づく)。硬さではなくヌルヌルを考えるならば、一は即多であることが容易にイメージできるであろう。

それで創造的実体の規定は、単に一即多であるなどと言うのでは不十分であるとわかる。一と多の単なる関係が創造的実体であるわけではない。創造的実体はヌルヌルなのである。即の意味がはっきりと規定されねば一と多との関係が真に説明されない。即というものをよく理解するには、我と汝との関係を理解せねばならない。我と汝との関係こそ真に即であるものだからである。一即多とは、一が多でもあるなどということではなく、我と汝との関係であるということである、一に対して多は汝と考えられるものでなければならないということである。我と汝との関係は全ての関係の根本、経験の前にあるものであり、二でありながらどこまでも一と考えられるものでなければならない。ブーバーの『我と汝』においても、根源語〈われーなんじ〉の関係は、元々一体のものとして直接的に成立していて、そこから「われ」と「なんじ」とに分かれるものであるのに対して、根源語〈われーそれ〉の関係は、元々「われ」と「それ」とが分かれているところからこれとの関係から成り立つものであるとされる。一と多とは、それだけ考えるならば、ブーバーの言う根源語〈われーそれ〉の関係である。例えば我々は一人の人間として、社会という形において、多くの他の人間と関係を持つのである。こう言う場合に考えられる我とはすでにある一般的なものとして規定されたものに過ぎない。真に実存する我そのものではない。肉体が魂の乗り物とも考えられるのはここから来るのである。それより前に、実存としての我には、まず絶対の汝との関係がなければならない。そしてそれは我が我であるということ自体に含まれたものでなければならない。無論この場合我が我であるとは、単に一般的に規定された我ではない。この場合の我は、私がここで言う創造的実体でなければならないであろうと思うのである。ではそれは単に一般的ということを離れたものであるか。そうではないのである。ブーバーも言うように、〈われーなんじ〉の関係もただそうであり続けることはできない、それはやがて〈われーそれ〉へと避け難く移り行くものである。一と多とは我と汝として即の関係でありながら、多は一を含むと考えられるように、すでに一般的なものへということを含んだものである。一と多が絶対否定を通じて、我と汝として結び付く、などと西田的表現によって言うこともできる。これはそういう現象が起こるかのような言い方であるが、そうではなく、むしろ実在そのものの規定であり、始めからそういうものがある、ということである。別の言い方で言うと、我と汝との関係、即ち(笑)即の関係はまず自己同一でなければならない。我は実在的にはそのまま汝である、例えば我というものがまずあってそれが環境の内で働くのではなく、我とも環境とも言えないただ一如なる働きそのものが現前していて、そしてその全体そのものが自ずから定めるのが我であり、それ自身は実体的には我とも環境とも名付けることのできるものである。実体としては世界であるものを我と名付けることができるし、またその我であるものを世界と名付けることができるのである。実はどちらでもあるからである。これが即という関係であり、我と汝との関係なのである。

つまり創造的実体とは、まず一即二ということである。一が一であることがすでに二であるということである。例えば実体的には同じであるものを、我とも世界とも名付けることができる。一つの形は、形として同じ形でありながらも、すでに絶対に相反する二つの実在者の身体となっているのである。同じ内容を、我と汝とがそのまま共有しているのである(我と汝の関係の最も象徴的な表現は男女の性交である)。そして即二であるような一とは、要するに第三者であるということである。第一者は、いかなるものであっても、まず第三者として存在しているのでなければならないのである。いかなる第一者も、すなわちいかなる実体も始めから第三者であるということ、これが、〈われーなんじ〉の関係の内に、始めから〈われーそれ〉への傾動が含まれているということである。〈われーなんじ〉が一如であるということは、一如が始めから「それ」であるということである。全てのものは「それ」であって、実在するものは「それ」であり、「それ」がそれぞれ第三者としての第一者なのである。だから全ての「それ」は汝を持たねばならない。存在する全てのものは、全て世界ごとの存在であり、全世界そのものの表現という意味を持たねばならない。全世界というものが始めにあって、そこからその自己表現としての個物が出来てくるのではなく、世界というもの自体が始めから無数の個物の存在すなわち無数のパースペクティブにおける表現ということ自体を前提として成り立つのである。そして表現と別に世界というものがあるのではなく、全ての表現がそのまま全世界そのものなのである。だから無数の全世界と全世界とを統一するものは絶対無と呼ぶほかない。なぜなら統一者が別にあるのではなく、全ての表現が自己自身において全ての形を統一する統一者そのものだからである。同じ形を共有するということ自体が、我即汝であるということであり、これを私は創造的実体と言うのである。我に対する汝を即者と呼ぶことにすれば、即者はそのまま我である。第一者が始めから第三者であるということはまた、無限の質的刷新においてのみ自己自身を保つということである。それは無限に活動的であり、しかも同時に「それ」であるものとして、身体的なものでなければならない。身体というのは、我々のこの肉体というものよりも、ずっと深く考えられねばならないものであって、本質的には全ての形が身体と考えられねばならないのである。全ての全てが身体であるとは、実在は行為的なものであるということである。全ては行為するのである。ここから西田の行為的直観というものが理解できる。この行為的直観の過程を実践的規定として持つものを私は創造的実体と呼ぶのである。





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以下については、以上の規定を念頭に置かれたい。まあ置かれなくとも良いが。ここからは現象学的な視点を取り入れて考えてみよう。元々それのためのメモとしてこの文章を書いているのである。

今私は世界そのものに面している。スマホでこの文章を書いているのであるが、私が真に面しているのはこの文章でもなければ画面でもなければ、また居室でもなければ空気でもない。やはり世界そのものなのである。私が一歩進めば直ちに世界全体が動くのであり、だからこそ私はただ私であるままにすでに創造者と言わねばならない。真の私というのは、例えば生物学的に定義付けられた私でもない、社会学的に定義付けられた私でもない。それがいかに精密なものであるにせよ定義によって在るのが私ではなく、真の私はむしろ現象的私であり、現在的私であり、一歩が即全体である世界ごとの私である。これは我々の日常の経験においても明らかなことであろう。私のこの肉体というものがある前に、まず考えつつある私というものがあるのである。ではそれはデカルトの言うように精神とも言うべきものであるか。だがそれはすでに考えられたものであって、考えつつある私ではない。私は考えつつある私すら疑うことができるのである。考えつつあるということは、考えつつあることを疑うということ自体を含んだものでなければならないであろう。というよりも、疑うということと考えるということの間にそもそも区別がないということが、考えつつある、ということなのではないか。とにかく私はただ世界ごとで在るとしか言いようのないものではないか。ここを厳密に考えて行けば行くほど、自然科学的に、あるいは宗教的に規定されるような私という概念は真の私からどんどん遠ざかって行くように思われる。この肉体をどこまでも越えた霊というものを考えてみるとしよう。そしてそれが輪廻転生やまた更にこれを越えた領域での生活などにおいてどこまでも進歩して行くという魂の無限の旅を考えても、それは真の私の規定としてはまだ究極的なものと言うことはできないであろう。どんなに「高い」霊となったとしても、例えば仮に地球や銀河の守護神クラスの大きな霊となったとしても、やはりそこにあるのは、今私がそれであるのと同じ「世界ごとの私」「現象的私」であるからである。そういう規定は、この真の私そのものを説明したことにはならない。真の私からすれば、そのような「高い」知識もまた単なる一般的な知識ということに過ぎない。だから心霊科学というものが存在するのである。

私の面する世界がどんな様相となっても、そこにあるのは、世界ごとの私と考えられねばならないであろう。我々の内の唯物論者は、この肉体的生活が終われば直ちに無となり、何も無くなると考える。だがその何も無いということも一つの現象である。そして現象であるというのは、そこに世界ごとの私があるということである。私というのは無限に透明なものであって、非実在的であることによって実在するものとも考えられるのである。この真の私にとっては、面する世界の内容が色のあるものであるか、何も無い無であるかは全く問題にならないことである。

だがやはり単なる透明なものを私と言うことはできない。私ということにも、実在そのものとしての私と、私と呼ばれる形としての私と、この二つの意味が含まれていなければならない。確かに真の私、実在的私そのものは、今言ったような透明の私と言う他ないものであろう。しかし実際に我々が普通私というのは、この肉体である私であり、また肉体とそれに結び付けられた色々の意味や思考活動などといった精神的なものの総体としての私である。つまり、ある形を持ったものが私である。そしてこれが現実に行為し、働くものとしての私である。透明なものも形というものを離れて存在しない。形を離れた透明なものは、むしろそれ自身形の一種でなければならない。それ故にそれは真の意味で透明なものと言うことはできない。形は来歴を持ったものであり、作り作られるものである。作るものも形であり、作られるものも形である。主観が客観に働きかけることによって作る、と考えることもできる。しかしそれは主観が元々作られた形の意義を持つからである。単に作られるものを越えた主観的意識は、作るということも不可能であり、ただ知的に認識するということのみ可能である。だが単なる知的な認識というものがあるのではない。認識は全て元々行為的なものとして、この形と形との世界の内部における出来事であるからこそ、この形の世界において何か積極的なものの意味を持つことができるのである。単に作られるものを離れた主観というものが、むしろすでに作られたものとして考えられねば不合理が生じるとすれば、普通にただ作られると考えられるもの自身が元々作るものでもあるということではなかろうか。例えば工業的に何か生産したとする。そこで作られたものは、実は単に作られたのではなく、自己自身を、更に生産者を作ったのではないか。普通にはそういうことは考えにくいのであるが、しかし透明な私は形としての私に即するものであるというようなところから考えれば、全ての形が形でありながらも透明な非実在的実在である、ということが考えられるのではなかろうか。真実在の規定としての創造的実体というものは実はそういうものなのである。西田的な言い方で言えば、作るものはただ作るものなのではなく、元々作られたものから作るものへとして考えられるものなのである。

創造的実体の規定としてここに新たに次のことを付け加えた方が話が分かりやすくなると思われる。それは自己同一は他己同一を前提するということである。矛盾的自己同一とはすなわち他己同一を前提する自己同一ということだと私は考える。自己同一は他己同一の他己同一である。三であることが一である。全ての形は同時に透明であるとは、本質的に全ての形は全ての形に溶け合ったものであり、ただ動的、行為的にのみ、自己の形を決定するということである。全ての形は元々世界全体そのものを自己の輪郭とするのである。この私というものがある。私もまた一つの創造的実体として、すでに無数の創造的実体との創造的関係を前提する。今私として在る形はこの創造的関係において現在的に決定された形である。それで、そういうものとして私は一なるものであって、多なのであるから、その一とは単なる一、単一ではなく、あるまとまりを持った一として考えられねばならない。またこの一とは第三者としての一なのだから、つまりある質としての一であるということである。「ある質、一般的なものとしての特殊者」これが、現実の私の形である。そしてそれは無数のレベルが重なったものでなければならない。例えば私は肉体としてこの地上において形を持ち、その同一の私が実は同時にある霊体として霊界に形を持っているのである。肉体、霊体というものだけではなく、その「於いて在る」色々の領域に応じて、その身体的形というものが考えられねばならない。そしてその無数のレベルの身体的形がこの同一の私において重なっているのである。身体とは全てある一般的な規格のもとにあるものであり、つまり種的なものであるというのは、創造的実体というものが元々単なる〈われーなんじ〉の関係としてあるものではなく、それ自身の内にすでに一般性即ち〈われーそれ〉を含むからである。一般的なものが一般的なところを越えて、真に具体的で直接的な〈われーなんじ〉の現実に至るためには、それ自身の内で無限の質的重なり合いを含まねばならない。そしてそれは同時存在的であるとともに、過程的に体験されて行くものでなければならない。しかもその無限の過程の無限の先に〈われーなんじ〉に到達できるかと言えば、決してそうではなく、それは絶対に辿り着けないものでなければならない。それは絶対に辿り着けないが故にすでに足元にあるもの、ただ理念的であることにおいてのみ現実的であるものでなければならない。だから今述べたように肉体というものには霊体始め、無数のレベルでの身体の重なり合いが始めから含まれていなければならない。それで肉体というものもある一般的な特殊者として考えれば、その同一の肉体に複数の霊体というものが重なったものと考えられねばならない。この一人の肉体として顕現している形は実は多数の霊体の一つの集まりとして成り立つものでなければならない。だから始めからこういう肉体的次元と霊的次元との落差というものを前提として考えるならば、つまり私というものの形をこの二つの次元にまたがるものとして今ここに理解するならば、この肉体的私には常に同時存在的な複数のパラレルワールドが存在しているということにならねばならない。無論霊的私自体は一つのものなのであるが、しかしこの肉体的私には複数の霊体が同時に重なって存在しているとなれば、その肉体的私の現実は、その複数の霊体のせめぎ合いの綜合として決定することになる。そのせめぎ合いにも、例えばどの霊体が優勢に立つかなどによって微妙に色々なパターンの揺れが生じて来る。もし霊体と霊体とが単に一つのものならば、こういうせめぎ合いの揺れというものは存在しないのであるが、しかしそれは実態としては無統一の統一といった有様なので、同一の霊的私において、元々肉体的私における複数のパラレルワールドの存在が前提されるということになるのである。つまり肉体的私から見ればそれは複数の別々のパラレルワールドということになるのであるが、実はこれらは霊的な私の次元から見れば同一のものが自己自身の内に含んだ内容ということになってしまうのである。だからこういう在り方を指して、我々のこの肉体的世界は「現界」などと言ったりする。複数のものは、肉体的次元において、初めて一つの形として現実に決定されるのである。この在り方は考えてみれば何も不思議なことではない。昨日の私と今日の私とは、なるほど肉体的次元の私ということだけ考えれば決して同時存在できないものであるが、それは記憶としてこの私の想像力において同時存在するものなのである。想像力の領域は、実はこの私が単なる肉体的な存在ではなく、すでに霊的な領域にまたがって存在しているということから存在可能なものなのである。肉体的次元がすでに自己自身を越えたものである。この肉体的次元の世界自体が、相互対立的、相互限定的な、同時存在的他者を前提として、その現在的関係においてのみ成り立つのである。世界は世界と世界との関係の中に現在的に決定される形なのである。個物は他の個物に対することによって個物であると言ったとき、普通に肉体として見る他者を考えるだけではその真の意義は理解することはできず、そもそもこの世界と考えられるもの自体が個物であると考えられねばならないのである。自己同一はどこまでも他己同一ということを前提することによってのみ自己同一なのである。




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さて、私は今世界に面している。この文章でもなく、スマホにでもなく、居室にでもなく、空気にでもなく、世界そのものに面しているのである。世界ごとの私こそが真の私なのである。それと同時にこの肉体であるのが私である。肉体的でありながら、透明であるのが私である。肉体だけでなく、無数のレベルでの身体が重なったのが私である。今見ている世界は、この肉体的私に即して見られた私の姿である。ということはここには、同じような、しかし別のものであるパラレルワールドというものが常に無数に重なって、せめぎ合いながら成立しているということである。肉体的私には、想像力というものがある。想像力によって私は肉体的次元をすでに越えていることがわかる。今ここに居る私と、パラレルワールドの私とが霊的には同居していることになる。どんなに調子が悪くとも、何かの拍子にスイッチが入ればそのところだけはうまく行ったりなど、こういうことがあるのは、この肉体的私というのが常に同時並行的なパラレルワールドの私と同居したものだからである。霊的視野で見たパラレルワールドの私というのが、今ここの私の中に飛び出してきたということである。

パラレルワールドが飛び出してくる?その同時存在的な私、この今ここに存在している私とそのパラレルワールド私とは、本当に同じ私と言っても良いものなのだろうか?現にこの今そのパラレルワールド的私はここに居ないではないか。

肉体的私が見ているこの世界は、そのまま現実だと、普通にはそう考えられるだろう。だが、実は同じ映像と考えられるものでも、実は今まで散々述べたように、それはすでに無数の次元の重なったものである。我々が肉体的私として見ている映像は、同時にこの肉体的私に重なっている霊的私の見ているものであり、実はそういう意味ではこれは単なる一般的なものとして、ただ絵のようなものに過ぎない。絵は色々な角度から眺めることができる、ある部分に思いっきり顔を近づけて見てみたり、また薄目にして見てみたり、遠ざかって見たりすることができる。それでもその絵は同じ絵である。どんな見方も、この観察者たる私にとっては、一つの絵の鑑賞という行為に含まれたものに過ぎない。肉体的私と霊的私との関係はちょうどそれである。肉体的私として、ある現在というものを体験する。その現在は肉体的私には単一の映像として感覚されたものであり、それ以外の姿はあり得ないものとして見える。だが実は霊的私にとってはある絵に対する一つの見方ということに過ぎない。例えば今肉体的私が感覚しているこの映像は、霊的私が薄目になって見たものである。そして当たり前のことだが、一つの見方は決して全ての見方であることはできない。我々が肉体的私の感覚として見ている映像は実は霊的私がこの肉体的次元を見る一つのフォーカスの仕方なのであって、実は霊的私の次元からは常に同時並行的な他のパラレルワールドが視界に入っているのである。そして肉体的私のこの現実は、実はその霊的私の視野に入った他の色々な部分ということを含んだ上での一つの映像であるということである。同じ絵の色々の見方を含んだ一つの全体的姿ということでは、そういうパラレルワールドというのは、実は複数のものではなく、単一のものなのである。今見ている現在に占拠されていることによって他のパラレルワールドは今は現実的でないというなら、今この肉体的私が見ているこの現在そのものもまた現実的でないとも言えるのである。これはまことに不思議なことである。だが、やはりこの肉体的私というものに想像力があり、現在の行為に関する主体的選択、判断、そしてそれにまつわる葛藤など、そういったものがあるからには、要するにそういうパラレルワールド的なものが考えられねばならないのである。基本的にはどの順で一つの絵を見て行くか、ということが行為選択ということであろう。

パラレルワールド的なまとまりが一つの絵であり、そしてこれが霊的私の見ている現実だと言ったのだが、この霊的私も実のところ単なる観察者ではない。この霊的私のレベルもまた、眺められた絵であり、更に深い霊的な視点と重なっている。それは絵の見方自体を見る見方としての視点である。それはまた無限に奥に深まる。真の尖端的現在というのは、この底なき底において体験されたものであり、もはや現在とすら言うことのできないものであろう。

だが、今はここまで考える必要はない。なんだか訳がわからないからである。ただ私がここに述べたいのは、想像力というものが現実的であるためには、それが真に実在的であるようなそういう客観的領域が文字通り存在していなければならないということであり、それはつまりパラレルワールド的なものが文字通り実在するということである。それには肉体的私に霊的私がそのまま重なって存在しているというようなことを考えねばならないということである。私は霊界の存在というものを前提してこういうことを述べるのではなく、我々の現実をどこまでも論理的に考えて行くとき、そういうものが考えられねばならないということである。霊的という言葉はこれを説明するのに適当と思われるから使用するのである。

普通想像力などといったものが現実的であるとは、単にこういうものが我々の現実として存在するということだけから考えられるであろう。それ以上深くは考えられない。それはまさか霊的なものとは考えられない。思念が実体的であり、現に働くものであるなどとは考えられない。なんとなく個人的領域の中に閉じ込められたものが、そういう精神的活動だと考えられる。あるいは直接そう考えられなくても、こういうことに関してはあまり深く考えられないで曖昧なままとされている。確かに絶対に他と隔絶した個人的領域というものはなければならない。そうでなければ自己自身に同一であるもの、否、自己自身に「のみ」同一であるものというものは考えられない、つまり自己というもの自体が考えられないであろう。ところがそれはいわゆる精神の活動というもののレベルにおいてそうであるということではない。むしろ全ての形が形であるというそのことにおいて、すなわた創造的実体であるというそのことにおいてなのである。単なる物と考えられいかに精神的なものと隔たったものに思われるものでも創造的実体でなければならない。ここから見れば人間の精神的領域などというのは、まだまだ物質的な領域と言うべきものであり、真に絶対に隔絶した個人的領域と考えられるものではない。人間の精神活動は、実はそれを可能にする客観的な階層というものがあって初めて成立するのであって、だから霊的レベルというものは、我々にとって単に現実の事実である。霊と霊との現実の関係は、我々の肉体的次元におけるパラレルワールドの現実と対応している事柄である。それは肉体的事実としては同時並行不可能であるが、霊的に見れば同じところに存在する事実なのである。