雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

使命という言葉の魔力

これは、一つ前の記事、自己顕示欲といわゆる「スピリチュアル」との関係の話の続きである。

スピリチュアルなどにおいては、しばしば、「使命」などという概念を吹き込むことによって、自己顕示欲を肥大化させ、それでこれに引っかかった人達を自分達の派閥に引き込むというやり方が行われる。

なるほど、確かに世界に存在する全ては、必ずそれ自身の絶対的座標を持っている、「今ここ」に、他ならぬ「それ」として存在するのである。そして自己自身の絶対的座標を持っているということが、要するに「使命を持つ」ということである。全ての存在は使命を持つのである。それが生きているということである。だが、スピリチュアルでは、しばしば、「特別な存在である貴方に与えられた特別な使命」というような意味で使命という言葉が使われる。これが問題なのである。

本来使命などとは、地に足着けて生きることによって、自ずから判じて来るものであるし、しかも我々の環境というのは常に形が変わって行くものなのだから、使命そのものも、その時々の状況によって違った形になってくる。ことさら使命などと大げさに捉える必要はないはずである。使命などという抽象的な理念よりも、現実にどこからともなく自然に沸き起こって来る「使命感」の方が大事である。使命感こそは、我々の足が直接触れる「大地」から自ずから与えられたものであり、またそれ故にことさら固執するものでもないことは容易に理解されよう。使命感は、すでに使命の中にあって現実に働きつつある者にとってのものなのだから、そういう人達は目の前の仕事が忙しく、使命だとか何だとか考えてられる余裕はないに違いない。

私は、スピリチュアル的指導者(あるいは霊能者でも、宗教的指導者でも、何らかの意味で霊的な指導者である人)に、「使命」を授けられそうになったら、あるいは授けられてしまったなら、まずそこで立ち止まって、よくよく考えてみて欲しいと願うのである。使命は誰かに与えられるものではなく、自ずから掴まれるものである。一方的に人から与えられる使命については、まずこれを冷静に疑ってみるということが、実はその人にとっての今現実に与えられた「使命」である。もし仮に言われたことが本当にその人にとっての使命であったとしても、状況が変わればいつでもそれは変わり得るもの、また無くなりさえするもの、完全に別のものに取り替えられさえするものであること、このことを常に踏まえておくべきである。使命は常に現実の自己の状況に即して、自ずから与えられるものなのだから。使命が取り替えになったところで、この「自分」が無くなるわけではあるまい。安心したまえ。

使命を授けられたとき、いかに処すべきか。使命という言葉に、自己顕示欲を刺激されるのを感じるか、それとも腑に落ちるものを感じるか、まずこの違いである。己の心によく問うて確かめてみるがよろしい。本当の使命は、すでに我々の目の前にあるものであるのだから。ところが、自己顕示欲の闇にはまり込む人間というのは、実際にはただ自己顕示欲の闇にはまっているだけなのに、「私は、この使命に腑に落ちるものを覚えました」などと平気で言う。そう信じ込んでしまうのである。特に女性に多かろう。スピリチュアルとしてマーケットに売りに出されるものも、主として女性を対象にしているように思われる。

大まかな傾向として女性は結構こういう「貴方には何々の使命があります」系の言葉にコロッと行ってしまいがちなのではないか。これはなぜかわからないが、おそらく男性ならば、ガリ勉のような具合に、泥臭く努力し続けることによって、未開の原野を開墾して行くように一歩ずつ堅実に地を固めることによってのみ使命は成し遂げられるのだ!という信念が元々浸透している場合が多いのに対し、女性においては、何か女性性それ自身が持っている神秘的不可思議力によって一足跳びに物事が成し遂げられるという観念が深く浸透しているということ、ここにヒントがあるのではないかと思う。例えば女子高校生のあの輝きには、努力だとかそんなものを飛び越えた神秘的なものがあることは事実である。恋愛に目覚めた乙女の努力というのは、ただ自己自身の元々「持っている」神秘的原石に磨きをかけるということであり、決して未開の荒地を一からえっさほいさと切り開いて行くようなそれではない。無論現代における働く女性達には単にそれだけでない開拓的「努力」の概念はおなじみのものであるが、その場合むしろこの男性社会における男性的女性としての努力なのであり、本来の女性性そのものにおける努力ではないであろう。仕事と恋愛は別、スイーツは別腹である。しかし武骨なる男どもにとっては、本質的には恋愛は仕事の一部であり仕事は恋愛の一部である。恋愛と仕事が別々であったとしても、単に種類の違う二つの仕事、もしくは種類の違う二つの恋愛という感じであろう。

スピリチュアルでもやたらに「女性性の時代」などと言われるのだが、女性は確かに元々己の持っている神秘的不可思議力を直観し、それを恋愛を中心にごく自然に日常的に行使しているようであるから、こういう言葉もそれと同じようなノリで理解するのであろう。化粧で化けるの延長線上に彼女らは、何か特別な力が、ちょっとした心がけと努力で、使えそうな気がしてくるのである。無論普段から自己実現できていたならばこんな特別なものをわざわざ求める必要もない。しかし現代は特に女性そのものが社会的には男性的な在り方であることを求められる時代である。女性の男性的努力は、なかなか報われない。馬に犬の役はできない。しかしそれは強要される。色々とストレスが多い。だがそれでも女性性的な神秘的不可思議力自体は厳然と存在している。新しい商品を売りに出すとき、まず主婦たちの反応をよくよく確かめたりするということが一般的に行われる。男性同士の間でも、理屈はよくわからなくても、何となく女性に好かれる人や物は、何かと得をすることが多いのは何となくわかっているから女性を無視できない。私にはこれが理不尽に思われるがでもそういうものなのだろう。口コミの力も女性力である。だからこういう社会における色々なストレス、苦悩に板挟みになりつつも未だ魂の底に残れる神秘的女性力の存在を照らし出すものとして、スピリチュアル的なものが大きな威力を発揮するというわけである。

だが、私は立ち止まれと言いたいのである。貴方方の辛い状況はよくわかったが、貴方方の頼りとするスピリチュアルの業界も、所詮この「男性的社会」の枠組みの中で展開されたれっきとしたビジネス的活動によって成り立っているということを忘れてはならない。始めはそのつもりはない人でも、いつの間にか、男性的社会の枠組みに引きずられて、何だかよくわからないことになって来る。この辺の事情から、スピリチュアル業界にはやたらセミナーやワークショップといったものが開催されることになる。無論これらの活動は結構である。だが、本質的に女性性はセミナーなどによって開花されるようなものではない、やはり開花させるのは自分なのだ。恋愛に目覚めた時、貴方はおそらく何も考えず自分の力で努力したに違いない。それである。その感覚が大事である。使命というのはそんなものなのだ。これが「腑に落ちる」ということである。自己顕示欲などとは質的に隔たっていることが理解されよう。





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さてスピリチュアルの世界を覗いてみよう。「ライトワーカー(光の使者)」、「スターシード」、「貴方の今生の使命は何々」、「貴方は愛と調和をこの地球にもたらす平和の使者です」などなど、キラキラした言葉に溢れている。彼らによれば地球は波動の低い悪しき星だそうである。だから、「光の波動」をこの波動の低い地球に固定することによって、この「アセンション」の大使命を果たすのである。

私は実のところ、これは歴史的に見ても真実であると思う。この現代の歴史的脈絡を深く見て行けば、要するにそういう時代であることがわかる。そもそもスピリチュアルや心霊科学といった精神世界的な領域がこの社会において一大勢力となっていること自体がそれを物語っているのである。そうなるだけの理由がなければならない。

だが、それは「貴方が使命を持っていること」とは切り離して考えられねばならない。確かにスピリチュアルで言う「アセンション」、つまりこの世界を根本的に、特に霊的な意味において質的に刷新するということは、現代における大きな「使命」である。しかし、こう言ってみることによってすぐわかるように、使命とは実のところ、事業的なものなのであって、それ以上ではない。事業というのは、主体的なものであって、つまり「今この時、主体としての私がこれに参加するかしないか」という意思のみが大事なのである。決して私が、ただ私であるというだけで、意味もなくその事業の参加者であるわけではない。事業に参加する者は、事業の内容に対して真摯に理解しようと努めるとともに、自己自身の立脚地からどのような仕事ができるのかを慎重に見極め、そして身の丈に合った仕事のみ引き受けるであろう。全く筋肉がなく運動も全然していないようなヒョロヒョロの兄さんが、ハードな土木工事の作業員として仕事に従事することはあるまい。かくして、まず我々がどこまでも押さえておかねばならぬのは、「事業そのものは、我々の自己とは離れて存在している」ということであり、また「事業の参加者であるかどうかは、ただ己の力量や事業内容などを考慮した上での、現在の意思決定次第である」ということである。

ただアセンションの大事業は人間の頭で理解できるものではないということが問題を難しくしている。我々が普通に目にする事業とはまた訳が違う。我々はこの肉体人としての決断を持つとともに、魂としての決断を持っている。魂の決断は、肉体的なレベルではよくわからない。頭ではさからっても、心ではどうしてもそちらへと進んでしまうということがある。頭から見ると、コロコロと立場を変え、何だか支離滅裂な動きをしているようでも、心そのものはむしろ安心仕切っているということがある。こういうのが魂の決断の特徴である。アセンションというのは、この魂のレベルで同意しているものであり、それだからこそそういう情報がこの肉体的レベルでも目に入って来るのは確かである。しかしそれはまた魂のレベルでの決断であるが故に、肉体レベルであれこれ考えてもどうしてもこれを左右することはできない。はっきり言ってアセンションなどについて全く知らなくても、魂レベルで決断しているならば、すでに彼はその事業に参加しているのである。それは魂レベルでの主体的決断なのである。

よろしいか、魂レベルでアセンション事業に参加することを決定しているからと言って、私がただ私であるだけでアセンションの使命を任されているわけではないのである。求めたのはこちらで、あちらは受け入れ側である。魂の意思だって変わり得る。あんまりアセンションとは違う方向に向かっていたならば、肉体レベルではアセンションアセンションなどと言っていても、実はすでに魂レベルでは、アセンションを妨害する事業に参加することを決定してしまっているかもしれないのである。

「ライトワーカー」にまつわる情報を目にする、あるいは人に聞くとする。実はこの「私」がライトワーカーがであるかどうかなど問うても仕方がないことなのだ。魂レベルの私はこの肉体レベルの私にとっては他者だと思ってよろしい。親や教師といったところである。こういう情報に触れて、底から湧き上がる希望のようなものを感じるならば、それはなるほど魂レベルでの決断をよく物語っているであろう。だからと言って、その魂レベルでの決断を、肉体レベルの意識が「所有」することはできないのである。鬼の首取ったように、私はライトワーカーなり、とはしゃいではならない。あくまでも霊が主であり、体が従である。霊主体従の意味を、スピリチュアルの内部にいる人達は一体どれだけ本当に理解しているのだろうか?彼らは霊主と言いながらその実は体主なのかもしれない。もし貴方がライトワーカーだなどと言われて希望を感じるならば、肉体人としての貴方が考えるべきことは、ライトワーカーとして恥じないような心がけを持つということである。そしていつでも仕事は取り替えられ得るもの、取り替えられたらまた心がけと順を踏んだ努力によって元の仕事に戻ることができること、こういうことを知っていなければならない。肉体の私は、魂の私に感謝し、そしてその役に立てるようにあくまでも謙虚に、水が高きより低きに流れるように、いつでも心の準備をして置くことである。




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まとめておこう。スピリチュアルで、自己顕示欲をこれでもかと掻き立てんばかりのキラキラワードに出会ったら、こういう物事の道理によく立ち返って、そこから冷静に判断する必要がある。まずそれが何を目的としているのか、これをよくよく自問自答してみるのが良い。先にも言ったようにそのこと自体が今の貴方の「使命」である。

アセンションの使命は事業であり、事業そのものはどこまでも果たされねばならないが、「この私」がそれを果たすかどうか、またどこまで果たすかどうか、は私の主体的決断にかかっている。私がやらなくても別の人がやるのである。私がやるとしても、常に「同業者」との緊密な連携がなければならない。少なくとも霊的な意味においてはそうでなければならない。そして事業は世界規模の大なる事業なのだから、同業者といっても、肉体レベルでは普通に同業と考えられないような隔たった領域に存在する人達でも、実際は同業者であったりする。出会いに出会いが繋がって来る。始めは苦しくとも、進むにつれてどんどん開けてくるものであるから、決してある小さい領域に固まって閉鎖的な村のようなものを形成するということにはならない。スピリチュアルなどという狭い枠の中に留まり続ける人達に関しては、まずそういう事態そのものから何かを察するべきである。本来自己に深まることはむしろ外に拡がることである。我々は他の主体に対することによって自己を知るのである。哲学の世界を例に挙げれば、哲学という枠に深くはまり込む人であっても、それによってかえって世界そのものへの知見を深めるか、単に哲学畑という小社会の中での地位獲得にあくせくするか、これは一見傍目からは似ているようでも本質的に全く異なるのである。特に真の影響力が違う。深まることによって拡がるやり方を突き進んだ場合、哲学などというジャンルを越えた普遍的な影響力を持つに至るようになる。巷のスピリチュアルティーチャーは果たしてスピリチュアルを越えた影響力を持っていると言えるだろうか。

どうせ魂レベルでの決断など肉体レベルには簡単に理解できるのではないのだから、我々が使命として従事すべきは、ただ日常の目の前にあること、この他ならぬ私に与えられた環境そのものに即して、徐々にこれを向上させて行くということである。一生懸命目の前の仕事をこなすことである。その内に使命はすでに与えられているのである。貴方の使命がその環境を与えたのである。使命はバシャールの言う「ワクワク」である。シンプルであるがやはりこれが真実だろうと思う。