雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

自己顕示欲がなぜ出てくるか。社会的な観点から。いわゆるスピリチュアルと、スピリチュアリズムとに関して

スピリチュアルというものの様子を眺めていると、人間の恐るべき自己顕示欲の有り様がなんだかよく見えて来るように思われる。

誰だって自己顕示欲というものはある。私も一応こういう形で、読む者皆無に等しい文章ではあるが、公開してしまっている、人に見られる可能性があるのだから、文章を書いていても必ずどこかに自己顕示欲というものが紛れ込む。自己顕示欲というものは危険なものであるが、しかし儒者ぶって幾ら自己の心を励まして謙虚であることに努めてみたところで、やはりそう簡単に一掃できてしまうものではない。そもそもそうやって道徳的であることを心掛けること自体、すでに自己顕示欲への落とし穴の一つである。

だから自己顕示欲に対処する方法は、自己顕示欲にまみれている自分自身を意識しているということである。そして思い切って自分自身を賞賛することだと思う。賞賛されて満たされているところに、新たに何か加える必要はない。動物は必要なだけ食べてそれで満足するのだ。そして自分自身で自分自身の良きところをよく理解しているのに、なぜか満たされないものがある。こういう意識が見られた時、ここに自己顕示欲があるのではないかと思う。我々ができるのはこの不可思議突起物をただ静かに見ていることだけである。

つまり自己顕示欲への対処法は、ただ事実の正しい認識ということだけである。が、事実を正しく認識するといっても、それができればこんなに迷うことはない。難しいことなのだ。だからまずは、実際に失敗して、身体ごと学んだ人たちの体験談に耳を傾けてみるのが良いであろう。

それで、スピリチュアルという世界に私は注目するのである。前の記事にリンクを貼って少し紹介させていただいたものなど、非常に参考になるものである。

スピリチュアルと一般に言われるが、これは元を辿れば、心霊的領域の科学的研究、ならびに思想的研究であるところの「スピリチュアリズム(心霊主義)」なるものに行き着く。少し説明すると、これは近代に米国や英国、フランス(スピリティスム)において勃興したものであり、現代の我々にはもうすでにこの分野に関する古典的著作に触れることができ、優れた訳書や、また日本国内での研究も存在する。有名なところではフランスのアラン・カルデックという教育者、学者による研究、英国のウィリアム・ステイントン・モーゼスが自ら霊媒となって残した霊存在による霊訓をまとめたもの、同じく英国のモーリス・バーバネルが霊媒となった「シルバーバーチ」なる霊存在の一連の霊言を集めたもの、などであり、これらには部分的には日本神霊主義の祖浅野和三郎による古典的抄訳や、近くは近藤千雄(かずお)による優れた訳が存在している。

ただ、私はこれを「布教」したいのではない。重要なのはこれらは「学的」研究であり、またその研究対象であるに値する(少なくともそれを目指した)ある体系的思想であるということである。はっきり言ってこれらの思想が全く虚偽であっても構わないし、そう決めてかかった上で、これらを学問的に研究するのは一向に構わないのである。「シルバーバーチ」なる霊存在自身が霊言の中で、「あくまで理性によって吟味しなさい。理性が拒否するなら容赦なく切り捨てよ」などと言っている。彼ら霊存在も要するにただ一つの見方を提供しているというに過ぎないのであって、結局のところ積極的な一つの思想を打ち出そうとするものですらない。なぜなら人はそれぞれあくまでも自分自身の固有の思想を掴まねばならないのだから。

自分自身の固有の思想を掴むとは、難しい哲学書とか思想書を読むということではない。読みたい人は読めばよろしいが、重要なのはそこではないのである。むしろ自己自身の生活態度に一貫する、そして自分自身でこれは正しいとごく自然に常識的感覚として(一般常識ではなく、自分自身の常識として)身に付いているようなものを言うのである。だから学があるかどうかということは本質的ではない。無学の人にしばしば素晴らしい思想家(などと自分自身ではつゆ思っていないだろうが)が存在している。彼らの思想はあくまで自分自身の人生を誠実に生きる中で、身体ごと掴まれたものであり、仮に特定の宗教思想とか哲学の概念に触れていたとしても、あくまでもそれは自分自身の体験を照らし出すものとしての意味しか持たないのである。例えば、浄土真宗の「妙好人」として有名な浅原才知という人物が居る。全くの無学の職人であるが、まさに優れた霊覚者であった。






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それで主題は、自己顕示欲であった。要するにスピリチュアリズムなる学的立場から、だんだん一般民衆に受け入れられやすいものとしての、俗化した「スピリチュアル」なるものが、いつの間にか出来てくることになったのである。一般民衆向けに俗化すること自体は実に結構であろう。自然な流れである。だが、これはあくまで、人が人それぞれの生き方において、それぞれの固有の思想を掴む、という意義を離れたものであってはならないのであって、何か特定の思想をそれ自体が絶対的に正しいものだという風に考えさせてしまうような流れを起こすというのは断じて間違っている。スピリチュアリズムというのは元々あくまで学的なものとして、どこまでも中立的に見られねばならない。例えば唯物論などをも公平に受け入れるようなものとして元々存在しているのである。だから俗化したスピリチュアルにおいても、まず難しい学問的研究の立場から降りてきて一般向けとなりつつも、どこまでも、中立的に検討され得るものであり、あくまで一つの見方を人々に提供するものである、という態度をそのまま保ったものである必要がある。非信奉者を非難するなど論外である。

難しい話ではない。スピリチュアルと称して、ある特定の思想を掲げることによって(基本的に)商売するなということである。無論これにまつわる金稼ぎ全般を否定するのではない。金を稼ぐかどうかというよりも、何を主目的にするかといったことの方が重要である。あくまで一つの見方を提供し、自分たちの見方が気に入らないものの自由をどこまでも尊重するという態度、「我々の門に入らなくても他の門は幾らでもあるが我々が気に入ったならばそれでも良い、ただ我々にも依存はするな」という態度、これが望ましいであろうと思う。その場合、そこで得られる「報酬」の意義が、違ってくる。自分達の立場を絶対化して、そしてこの絶対的なものが正しいのだから、それを提供することに対して報酬を支払え、というのでは、要するに単なる搾取である。彼らは客から半永久的に金をむしり取ろうとする。教祖はむしろ信者に依存するのであって、だからこそ信者は教祖に依存しなければならないのである。彼らの渦巻きはだんだんと内向きに狭くなって行きやがて中心の一点で動きを止めてしまうことになる。教祖と信者とは共倒れである。しかしあくまで相手の自由意志を尊重した上で、ただ実際にその人の思想形成のお手伝いの仕事をした、その報酬として金銭をいただく、こういう態度が徹底されるとき、これこそがスピリチュアルにおける唯一の正当な「商売法」だと思う。これに接触することにまつわる責任は始めから、「客」の側にある。そもそも思想というのは各人が各人なりに自分で作って行くものなのだから。思想が、超越的にあちら側にあって、スピリチュアル的指導者がその取次をするのではない。スピリチュアル的指導者の門を通さないと知ることのできないような思想など、実際大したものではないだろう。真理は足元にあるものだからである。スピリチュアル的指導者は、ただ足元の上手な見方を教えてくれるというだけであって、彼らがいなくても本質的には全く思想形成には支障はない。いたらより便利、自転車が電動だったらより便利、ただそれだけのことである。それだけのことであるが、確実に何がしかの客観的価値、すなわち技術的価値を持っている。思想そのものには客観的価値を測る統一的な指標がないのと対照的である。

要するに、何に対して「対価」が支払われるか、この違いである。自分たちの思想を絶対視しして、これに対価を支払え、と言うか、思想は各人各様のものだと始めから前提して、ただそのためのお手伝いをする仕事に対して対価を支払え、と言うか、である。この根本的な態度の違いが、いわゆるホンモノとニセモノとを見分ける鍵である。彼らは何を動機にしているか?

無責任なスピリチュアル的指導者は、自分の、あるいは自分達の持っている「思想」こそが素晴らしいものとして、思想それ自体を売りに出す。ある思想が、実際に生きる人々に関係なく、ただ超越的に真実だ、というなら、その思想は、ただ人々の主体性を麻痺させるだけであって、早い話思考停止を奨励することになる。その時点でおかしいではないか。思想は主体に勝ってはならない。主体が自分自身の内から主体的に掴み取るのが思想なのだから、あくまで思想は主体の下になければならない。ということは、こういう態度が見られる時点ですでに、彼らは、どんなに言い訳したとしても完全に誤った思想を人々に広めていることになる。彼らの提唱する思想がいかに優れたものであるにせよ、それがある特殊な人にとって有効であるに過ぎないということが忘れられるならば、そういう思想自体が思想自身を否定していることになる。

さてスピリチュアルの業界を覗いてみれば、日月神示の警告する「霊のおもちゃ」となっているような人達が数多く見られることがすぐにわかる。そして「引き寄せの法則」によって、これらの偽預言者達には、同じような素質を持った人々が引きつけられて行くことになる。かくして共依存関係によって結ばれた無数の教祖、信者、そして教団が跋扈する有様となる。各人各様、好き勝手なことを言う。思想の客観的価値を測る統一的指標はないのである。真実らしいことを言っていても、煎じ詰めればそれはただ当たり前のことに過ぎないのに、それをわざわざ特別ぶって主張し、あまつさえそれで金を取ろうと言うのである。動機が結局自説の保護、強化、自己の利益である。他者の自己形成のお手伝いの報酬ではない。幾ら口で「皆さんの手助け」などと言ってみても、その根本的動機をよく見てみるとよろしい。「私のこの素晴らしい思想、素晴らしい境地に到達する」ための手助けに過ぎない。私、私、オレ、オレ、ああ、自己顕示欲。この状況は、釈迦が出てくる時代のインドの思想的状況に酷似している。そして釈迦が説いた思想は何か。実は釈迦は思想を説かなかったのである。釈迦は、思想は各々が掴み取るものであることを説いたに過ぎない。主体性の自立を説いただけである。だから彼は、弟子達が知りたがっても必要のないことは答えなかったし、人に合わせて柔軟な教えの説き方をしたのであった。釈迦の教えが真理であるとは、ただ無思想の思想という意味においてのみ理解することができる。








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しかしこうやって偽善を告発するも結構であろうが、そもそもなんで現代の世相がこんな有様になったのか、その根の方を見てみる必要がある。世の中に存在する悪というのは、必ず悪それ自身ではなく社会全体の不自然な歪みに原因を持つ。悪それ自身を断っても、その根本的原因を突き止めなければ、また悪は芽生えて来る。告発に意味があるのは、告発によって教祖も信者も、その全体的構造の不自然さ自体に気づくことができるからであって、悪そのものを断ち切るということに本質的な意味があるのではない。これが悪だと一般にみなされるような悪を積極的に否定するというのは、我々の社会においては、むしろ一般社会の常識道徳に媚を売り、善良なる社会人として認められるという状況に導くために用いられる伝統的手法である。殺人鬼を軽々しく「死刑にせよ」などと意見する人達である。小学校などの「道徳」の授業ではそうした態度を推奨される。しかし日月神示では、「悪を悪と見るのが悪」と言う。悪を告発するというだけでこの文を終わらせるなら、それはただ私が私自身の自己顕示欲の充足で満足するということになってしまう。私には多分にそうした傾向があるから注意が必要である。

上に言ったように、釈迦の時代と今の我々が生きる日本社会には類似したところがある。単純に言えば物質的に満たされていることによって、かえって皆が訳のわからない精神的な虚しさに悩まされねばならないという状況である。しかも宗教の権威は失墜してしまった。こういう時、「客観的に正しい」思想が求められる。しかし客観的な正しさの証明されるような思想などない。しかしまた、客観的に共有された価値観がなければ、自己自身の精神的価値も証明されることがない。今までは宗教がその役割を果たしていた。宗教にはなぜ「未知」の聖なる領域が、従って人間的理性の手に届かない領域が必要なのであろうか。それは思想というもの自体が、本質的に、各人各様に掴まれるものであり、どこまでもそのように個別的であることによって真に普遍的であることができるような性質のものだからである。「誠実さ」とはそういう概念である。雑草は雑草に、馬は馬に、人は人に育つということがそれぞれの成長の誠実さである。こういう思想の個別性そのものを包んだ「普遍性」とは、結局は宗教におけるような、人知を越えた「聖なる領域」ということにならねばならないであろう。だから親鸞は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と言うのである。鈴木大拙の『日本的霊性』で言うところの、「超個の個」である。が、この「聖なる領域」については、現代の日本ではもはや宗教がその担い手となることができなくなった。日本人はとにかく無宗教であることを知的とさえ考えるのである。代わりに「聖なる領域」を担うことになったのは何であるか。それがスピリチュアルなのである。スピリチュアリズムから俗化したスピリチュアルは、大衆の、大きな精神的渇望にうまく応え得る条件を持ち合わせている。だが、我々はスピリチュアルにおいて、真の「釈迦」を得ることができたであろうか。

真の釈迦を未だ掴めないが、一応は精神的渇望を中途半端にではあるが充してくれるスピリチュアルなる潮流の起こって来る状況において、深刻な問題となって来るのが自己顕示欲の問題である。元々スピリチュアルに人々が求めているのは、個別的普遍性、主体的普遍性、「超個の個」、要するに真に聖なるものだからである。我々はここにおいて自分自身の確かな精神的価値を普遍的にかつ主体的に見出したいのである。だが今まで論じて来たように、現状スピリチュアルなるものは総体的に見て実に不健全な状況であり、そこにおいては指導者的な地位に立つ人自身も、実は真に聖なるものを、思想を、掴むことができていないで、全く「目隠ししながら目隠しの人々を導く」ような有様となっている(言葉狩りなどというのも、この世相を反映している。客観的な価値そのものがあやふやであり、また病的でいびつになっている)。

だがそれも仕方ないと言える。釈迦の頃などは、一応無思想の思想、主体性の極みにおいて真の普遍性を掴むなどと言っても、やはり人々は、今の時代の人ほど、真に主体的なものを求めていなかった。あくまで世界観は、伝統的な色彩の強い世界観であり、価値観も同様であった。人は自己の共同体の外部というものをあまり知らない。だからそういう時代においては、釈迦のようなずば抜けた指導者が現れれば、それで人々の精神的渇望に応えるためには充分であった。ところが現代においては、人は真に主体的なものをものを求めている。自己は自己自身から存在するとともに、やはりどこまでも客観的なものに基礎付けられている。自己は主体的であるとともに普遍的である。決して宗教的な「聖なる領域」の中に自己を融解させて、単に聖なる個となるだけでは不満足である。我々はどこまでも主体的であり、行為的であり、この身体によって、地に足を着けて、社会に働きかけて行くことを求める。神秘的なものを持っていても、それは上から超越的なるものとしては押し付けられる宗教ではなく、個人としての我々に寄り添ったものであって欲しい。

それでやはりスピリチュアルなのである。しかしそれはおそらく戦後くらいのことで、戦前ではそれはマルクス主義とか教派神道とかそういったものであったろう。マルクス主義などについては三木清に詳しい。現代においてはマルクス主義のような血なまぐささの伴うものは、一応は前面に出て来ない。宗教的立場への反動の極みとしての学的理論的立場の世界観、こういう大きな振子の動きが、あの激しい戦争を経て一応は振り幅を狭くしたものと見える。スピリチュアリズムはすでに勃興していたが、社会を表立って動かすほどの力は未だなかった。それでここに出て来るのはやはりスピリチュアルなのである。スピリチュアルは、スピリチュアリズムの俗化として、一応は学的、宗教的の両側面を持つということになる。学的も宗教的も、ともに普遍性を規定するためのアプローチであろう。大まかに言って、学的とは、主体性から普遍性へと考えて行く立場、逆に宗教的とは、普遍性から主体性へと見て行く立場と言ってよろしいと思う。しかし実際に、真に意味のある「思想」が成立可能であるためには、主体性から普遍性へ、は同時に普遍性から主体性へ、である必要がある。宗教的結論と学的結論は理念的には一致しなければならない。スピリチュアリズムの立場はまさにこの一致を理想とする立場である。だから、理屈上は、ここにおいて我々が「個人としての我々に寄り添った聖なるもの」を得ることができるということになる。

スピリチュアリズムには、はっきり言ってごまかしがない。バーバネルに降りた「シルバーバーチ」やモーゼスに降りた「インペレーター」といった霊存在の態度の気高さ、しかも神秘で覆い隠さない科学性といったものに注目すれば、このことははっきりわかる。要するに一般大衆に適用するには、そのままでは厳し過ぎるということになる。彼らは決して釈迦のように、キリストのようには仰がれない。なぜなら現代人は「自分の頭で理解できるもの」を求めているのであり、古の宗教指導者のような、聖なる神秘的権威というものではもう満足することができなくなっているからである。

ここまで来れば、こういう色々な欲求や事情の微妙なせめぎ合いの中から、現在総体的に大いに問題のあるスピリチュアルというものが世間を賑わせているということは必然の帰結であると理解されるであろう。自己顕示欲というものが問題になるのは、真に統一的な世界観が未だ確立していないということに起因する。自己の存在の在り処が分からなくなっているのである。しかも統一的な世界観といっても、無論旧時代的に、特定の絶対的思想に権威が与えられるという仕方ではなく、あくまでも主体自身の内から求められ、主体自身の内側に納得されるような仕方においてでのそれでなければならない。私はスピリチュアルは、真の無思想の思想の時代に至るための過渡的な現象であると考える。無思想の思想即ち、普遍性即主体性、真の主体性に至るための立場として、宗教的(普遍寄り)と学的(主体寄り)とのアプローチがあったところに、その綜合としてスピリチュアリズムというものができて来たと考えられるのだが、それでもスピリチュアリズムは尚普遍的な色彩が強い。なぜなら宗教的と学的両方がひとまとめの「普遍的」立場として括ることができるのだから。これに対しては主体性とは、学的であることではなく、真に実践的であること、身体的であること、また庶民的であることである。こういう立場からは、またさっきとは別のレベルでの普遍性と主体性との対立として、スピリチュアリズム(普遍寄り)とスピリチュアル(主体寄り)を見ることができる。対立があるのだから、これは更に綜合されねばならないであろう。しかもこのスピリチュアリズムとスピリチュアルとの真の高次の深い綜合こそが、むしろ真に宗教的な立場と言うことのできるものであろう。






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まあでもそんなに難しい理屈で考える必要はないのだ。我々の現今の思想的問題は、要するにスピリチュアルに、そしてそこにおいて病的な仕方で見られる諸々の自己顕示欲によく象徴されている、ということ。今の我々にとって重要なのはとにかくこのことである。

まずスピリチュアルに嵌る人達は、心の拠り所がなくて不安で不安で仕方がないということ。そして宗教などの救いの道も基本的に閉ざされていて、まことに苦しくて辛くて仕方ないということ。しかし宗教的要求そのものはどこまでも正当なものであって、これを唯物論的に否定しても、現代の思想的問題について何も語り得るのではないということ。それで、こういう難しい隙間に、我々民衆に寄り添いつつも、何やら神秘的なものを掲げる、あるいは甘い言葉を囁いて何かスピリチュアル的指導者らしき地位に成り上がろうとする人達が沢山出て来るのである。その実彼ら自身が心の拠り所がなくて不安なのである。しかしスピリチュアル的指導者になる人にはただその自覚がない。それだけである。いずれも自己の真の立脚地の不在の不安から、歪んで出て来る「自己顕示欲」のモンスターをどうにかする場を求めた結果、これを見ないように蓋をして、うまく騙し騙される共依存の仕組みを作り上げることになるのである。自己顕示欲は、元々我々の社会そのものの不完全の歪みから病的に増殖してしまったものなのに!だからまず我々ができるのは、事実の認識である。全体を見て、なんでそもそもこうなってしまっているのか、これを冷静に見極めるということをせねば、いつまで経ってもごまかしにごまかしを続けることになる。

そしてそのためにも、やはり現にそういう病的な構造に巻き込まれつつも、なんとか脱することのできた人達の体験談というものが非常に貴重となる。これは単にカルト的スピリチュアルに対する警告となるばかりでなく、現代人の精神の根本的に充たされなさ全般に対する反省のための有力な材料になる。そしてそれが引いては、宗教、哲学といったものが今直面すべき課題を指し示すことになるだろう。現代の宗教家も哲学者も、おそらく従来の因習的立場に止まって、実際に生きた問題、考えられねばならない問題から目を背けている傾向があるのではないかと思う。見るものを見ないで、いつまでもある立場を守る、というその態度そのものが実にパリサイ派といったところであり、現代的自己顕示欲の闇にすでに呑み込まれていることを自覚する必要がある。スピリチュアルに嵌る人や、彼らから搾取して教祖に成り上がる人達は、まだ一応は現代的な問題に直面しているのであり、それだけ、病的状態からの脱出の見込みもあるということになる。しかし、そもそも現代に生きて居ながら、見るものを見ないで、旧来の狭い社会の中で自己の地位を保とうと努力するのみであり、それでよしとする人達には、真の個人としての苦悩はない。彼らにスピリチュアルの苦悩は理解できない。スピリチュアルなどは彼らの目にはただ愚かな大衆の妄想としか映らない。こういう人達には私は何も言うことができないが、本来ならば、こういった問題に対して、一般大衆よりもより知的な立場から、その本質的な病理を明らかにして行くのが、学者などの立場ではなかろうか。そして真の宗教家とは、旧き御教えを護る人ではなく、彼らにより創造的な解決策を提案することのできる、優れた直観家であり、教師であるのではないか。自己顕示欲というものを一番病的な形で、しかも全く無自覚に、図々しくも保ち続けているのは、他ならぬ因習的立場に固執する彼らであると言わねばならないであろう。

ああ、他を非難することで、やはり私にも自己顕示欲の靄がかかってきたように思われる。こじらせる前に、この文章を終えるとしよう。