雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

私の文章について

私は一応文章を公開してしまっているが、実際のところこれはそんなに大っぴらにするような性質の文章でもない。まずこれは自分自身のための文章であって、ただ一応公開ということにしておくことによって、人様に読ませるという意識を保った上で文章を書くことができるというメリットがあるわけであり、言ってみれば私自身の修行にもなるというわけである。

私は哲学をやりたいのであるが、誰かに何かを教えてやろうなどという心を持ちたくない。それは恥ずかしいことだからである。しかしそういう自己顕示欲はどうしてもあちこちに顔を出すものであって、自分でも困るものである。まあでもどうせ殆どの人は読んでも分からないという性質の文章を書いているし、かなり長文が多いし、結果として殆どの人の見ることのない、事実上密室の空間が出来上がっているということになるから、この点ではそれなりに安全である。むしろ私は、私のようなタイプの偏屈な人間に読んでもらいたいと思うものである。私のようなタイプの人間ならば、多分私の心はわかるものと思う。公開して人様に見てもらうことで意味があるのは、そういう人に少しばかり役立つ可能性がわずかにあるということだけであろう。

私はまず私自身の一種の思索日記のような形で私自身の哲学ノート的なものをここに垂れ流している。ここに書いている文章は全て私自身の草稿という意味を持ったものであり、それ以上ではない。かといって草稿以上のものを書こうという意思も私は持たないのであるから、草稿なのかそうでないのか、どちらとも言えないということになる。三木清に『哲学ノート』という素晴らしい著作があって、これは彼が主著『構想力の論理』を著すための哲学ノートとして、すなわち多分草稿として書かれたものだと言う。だから序文のなかで、「諸君もこれを完成品として見ないで、ノートとして利用せられたい」などと言われている。面白いと思った。哲学というのはそういう営みなんだろうなと思う。こういう風なものが、しかもちゃんとした哲学的著作としても成り立つというのは、哲学に一面芸術的なところ、文学的なところがあるからなのだろう。完成品は常に同時に草稿の意味をも持っているから、草稿それ自体もまた完成品とも言えるものを持っているのだろう。これが自然科学的研究というならば多分こんなことは難しいに違いない。哲学はこの身体、この自己意識が掴むことのできるありとあらゆるものが対象になるわけであるから、意識の透過力すなわち洞察力さえ磨けば、課題は課題を生み、思索は新たな思索を生み、どんどんと動かずしてアイデアが溢れてくるなどということも理屈上は可能である。無論本当に不動のままにということは不可能であろう。実際に社会の中に入って行ってそこで生きるということがなければ哲学のアイデアなどあり得ない。が、とにかく自然科学など、研究の仕方が、ある一定の設備や研究環境というものに制約される、しかも研究法そのものに制約が大きいという条件での研究と違って、哲学ではこのあたりは非常に柔軟であるということは言えるであろう。三木清っぽいことを言えば、我々の日常もまた常に草稿的なところがあり、また同時にそれは我々の生活がそこからそこへという場として完成品的でもある。

ただやはり哲学は学問である。学問としての分がある。文学や自然科学とも区別されねばならない。私も哲学と言うからにはそういうものをあくまでも目的としてこういう文章を垂れ流しているのである。私の目指すところは、我々の現実そのものを説明するということであり、学問の学問となるということである。現実そのものを説明するといっても、現実をある角度から見て切り出してくる諸科学におけるそれとは違い、むしろ諸科学の基礎付けをするのが哲学でなければならない。近代以降「科学」と名の付くものでは、「心霊科学」というものが勃興して来た。これは我々の歴史的現実において現に起こって来た事実であり、歴史的現実を少なからず動かしてきた潮流であり、無視されてはならないと思う。心霊などと言えばそれだけで心を閉ざす者が多いのであるが、重要なのはこういうことがらをあくまでも科学的に検証し、科学的に基礎付けようとする一連の学的営みが存在するということである。アメリカやイギリスにおける心霊科学の研究というものは、ネットで少し調べても情報を得ることが可能である。これが科学的研究であるということは、要するに理屈上はそれ自身あらゆる思想に対して中立ということであり、全く相反すると思われる唯物論的立場からの吟味なども全く正当のものであるということである。だからこういう心霊科学というものそのものを含み得るような、実在の論理というものが、哲学的には明らかにされねばならないのである。哲学とは上に言ったように諸科学の基礎付けなのだから。

まあそんなところである。色々言ったが、ガチガチに凝り固まって学問をしたいとは私は思えないので、私は私自身のやり方で、日記的なノリで、日々哲学的考察を続けて行こうと思っているのである。ネットというのは便利で、ホンモノを見分ける目さえ磨けば、色々の思ってもみなかった情報などが入って来る。そしてリアルタイムに哲学的考察の中に活かすことができる。結構である。