雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

おにぎりを作っていて思ったこと。円について

この夜、おにぎりを作ることになった。まともに作ったことがないからこれでも大分神経を使う作業である。


正式な作り方というものを知らないから、見知っている完成像と、朧げな記憶と、お「握り」の言葉から作り方を推測して作ったのだが、作っている時に気づいたことがある。


まずラップを拡げて、その上に飯を薄く拡げる。そしてふりかけを満遍なくかける。その上で、ラップを持って全体を閉じる。握る。最後に上手い具合にあの三角っぽい形になるように握って行く。これだけの作業なのであるが、私はここにも「円」が見られることに気が付いたのである。つまりやはり「形」についての話である。要は最終的にはあのカドの取れた三角っぽい形にして行くのであるが、その過程で、まず円的な形に整えるという段階があるのである。あのおにぎりの形にする前にまずこの段階を通らねばならない。通らねばうまくできないのである。


これを自分で作りながら眺めていて、全ての形というのは結局こういう円というものを原型にしているのではないか、と思ったわけである。円は全ての偏りがなくなった形である。形の形とも言えるものであろう。全ての形が持っている形は何かと言えば円だとしか言いようがないであろう。例えば複雑な曲線や直線を持った形であっても、それは円から出来ていると言えるのではなかろうか。どんな形でも円形のバリエーションと言えるのではなかろうか。


それはまず、全体が一つの輪郭を持ったものであるという点において、である。輪郭を持つものが形であり、輪郭を持たない形であっても、何らかの意味でそこに輪郭というものが見出されねば始めから一つの形と言うこともできない。例えば、一部に「口」があって開かれている形だとしても(抽象的な図形もそうだが、人間の身体にも口がある)、その全体の輪郭がまず思い描かれた上で、その欠落としてその口が認識されているからこそ、こういう意味での形はあり得るのである。あるいはその口を欠落として見ない場合でも、その形を作っている輪郭線そのものが一つの「中身」の意味を持つのだから、やはりそこにも輪郭はあるのである。例えば「C」などは、この線自体が「身」になっていて、その両端にほとんど平行に輪郭線が走っていると見ることもできる。だから我々の文字の世界には太字という概念が存在し得るのである。形はまず輪郭を持って、そして中身を持ったものでなければならない。そしてそういう形の原型というのがまさに「円」であろうと思うのである。つまり形を一つの全体として見るとき、それはどんなものであれ、円的ということを伴っているであろうと思うのである。三角形も四角形も楕円形もアメーバも、この観点から見て全て円的なものなのである。


次に、形を構成するものも全て円だという点において。直線であっても、これは無限大の円の円周の一部を取り出したものと見ることができる。無論理屈上は、抽象的に純粋な直線というものが考えられ、その両端が全く閉じないというものを考えることはできる。しかしそれはそう考えられることによって存在することができるのみであって、実際のところはそう考えている、という時点でそれはすでに閉じられたものである。我々の現実の世界には単に開かれたものというものは存在しない。それは全ての物を自己において成立させるこの「世界」のみであり、だからこそ時間というものは世界そのものの本質的な在り方として考えられるのである。個々の物は必ず一つの形として閉じられたものでなければならない。直線が無限に開かれたものとして考えられるのは、むしろ世界そのものの本質的な時間性に即して考えられているのであり、単なる一つの形としての直線において考えられるわけではない。うろ覚えの話だが、我々が宇宙空間を旅し、どこまでも直線的に進んで行くと、最終的にまた出発したところに戻ってくるというのだが、これは我々が純粋な平面だと思っていた地上が実は地球という巨大な球の球面であるようなことであり、三次元と思っていたこの空間も、実はすでに四次元立体の面上にあるということではなかろうか。直線的なものは実はすでに円環的なものなのである。今、世界こそはどこまでも開かれたものだと言ったが、実は世界そのものがむしろ閉じられたものの極みと考えられねばならないであろう。なぜなら、世界こそは現在という一つの全体なのだから。しかし現在は現在でありながら常に現在を越え、どこまでもここからここへと進んで行く創造的なものである。世界そのものが個と考えられるのである。むしろ個は世界そのものであることによって真に個となるのである。つまり直線はどこまでもその立場を極めて行けば結局は純粋の尖端、即ち「点」にならねばならない。点が直線を包むのである。現実の事実としては、直線は元々円環的なものとして考えられるからこそ、直線即円環の純粋相として尖端的な点が考えられる。直線はただ自己自身に還り続けることによって前進し続けるものとして、全体でありながら部分なのである。純粋な点と言っても、これを包む空間を捨象した、抽象的な点のことではない。むしろ真の点においてはどこまでも実在そのものが包まれねばならない。点はむしろ無限大の円でなければならない。真の点は中心であり、半径であり、直径であり、円周であるものでなければならない。真の点は自己自身を廻転し続けるのである。廻転するものが我であるとも、廻転されるものが我であるとも言えぬ。なぜなら円周上の全ての点が中心だからである。そして全ての点が我であるから、点と点とを結ぶ直線は直線であって直線ではなく、半径であり直径であり弧であり弦であり一つの中心でありしかも円周そのものなのである。ということは無限大の円と言っても、それは輪郭を持ったものではなく、絶対に包むもののない絶対無と考えられるものでなければならない。輪郭は永遠に創造され続けるものでなければならない。輪郭は在りかつ無いものである。円は単なる二次元の円ではない。この二次元の円は今論じたところからして、直ちにゼロ次元の点なのであるから、そこから真の無限大の円として無限に創造的な円、すなわち三次元の円、四次元の円、五次元の円、更に無限次元の円というものがどこまでも考えられて行かねばならない。つまりそれらは全てこのゼロ次元において含まれた無限次元なのである。ここから判じるのが、要するに全ての形は円のバリエーションとして考えられるということである。部分というものは何であるか。実は全体なのである。例えば直線と曲線とが複雑に入り組んで一つの輪郭線を為すような図形というものを考えてみよう。直線は実はすでに円周である。曲線にも色々の角度はあるであろうが、要するに部分部分を取り出せば全て何らかの大きさの円の円周を描くものという意味を持たねばならない。この複雑な輪郭線も冷静に見てみれば色々な大きさの円の円周の組み合わせから成ったものと考えられねばならない。そして全体がアメーバのようなあまりはっきりしない輪郭の形であるとしても事情は同じである。全体は一つの円的なものを目指しているのだが、部分部分がこの一つの全体の中心を獲得しようとせめぎあっている、ここに、複雑な輪郭線を持った一つの形というものが考えられるのである。つまり一つの形は必ず一と多の矛盾的自己同一として考えられねばならないのである。


まず形は輪郭と身を持つものであること。そしてその原型が円であること。これについて今論じた。輪郭と身とは一つの形においてはそもそも区別できるものではない。そうであれば、なぜ一つの形において輪郭と身とに分かれねばならないのであろうか。それは身は、元々理念的にどこまでも完全なる「円」という形を持つものだからであり、しかし輪郭は主体的多の争いの、ないし相互限定の場として複雑な線を描き出すからである。それは部分が全体の円を自己自身の円としようとするためである。そしてこういう一と多の矛盾的自己同一の一つの綜合の形として、アメーバの如く、複雑な輪郭線を持ち、しかも身そのものは単一であり、この弁証法的な原理によって自己自身から運動する「形」というものが考えられるのである。「全体」とは何であるか。実は実在的にはそれは部分においてあるものである。それは我々が身体によって行為することによってのみ自己自身を見ることができるようにである。アメーバもまた仮足を伸ばすことによって運動するのである。全体そのものは、実はこういう「手」において自己自身を持つと言って良い。だから我々の身体の形はまず一つの全体として円であり、しかもそこから仮足的に五つの枝が分かれ、しかも手足はまたそれぞれ五つの小枝を持つのである。更に細かく見れば我々は無数の細胞を持ち、この細胞と細胞との相互作用を基にして我々の現実の人間としての経験が成り立つのである。全身がこの「私」の感覚器官であり行為器官であり生体維持器官でなければならない。今そういう機能をある部分が持たないように思われたとしても、それはただその時の必要性によって、ただある機能を休眠状態にさせているだけであり、本質的には全ての部分は全ての機能を持っているのでなければならない。これは一と多の矛盾的自己同一の論理から必然的に真と言われねばならないことである。だから全ての細胞には、全ての機能に分化し得る能力が元々あるのである(「分化全能性」)。更に我々の身体というものも、この身体の環境世界にとっては単なる部分である。我々にとっては環境は環境としか思われないのだが、実はそれは一つの形として生命を持ったものでなければならない。自然とは、自然法則と言われるものに従った諸々の個と個との関係の成す一定の秩序によって成り立つものではない。そうではなくそれ自身が一つの大きな身体であり、自己自身の意識を持ったものでなければならない。神が自然の外に超越的にあってもならないし、かといって単に自然に内在する神が考えられてよいわけではない。神として考えられる限りはそれはどこまでも自然そのものとは対立するものでなければならない。真の神は真横に見られるものであり、足元にあるものでなければならない。自然とはヨーロッパ人の言うネイチャーではなく、むしろ我々東洋人の言う自然、すなわち万物を内から育む母なる大地でなければならない。そうであるからこそ自然という身体は、自己自身を表現する仮足として、我々の身体ならびに諸々の動植物の、そしてあらゆる生物の身体、更に鉱物や岩石などを持つのである。そうであれば我々のそれぞれの細胞にも、細胞として現に生きる一つの意識がなければならない。細胞と細胞とは、単に一つの有機体の有機的秩序に含まれた、機能的な有機物の集まりではなく、むしろ一つの生命として、文字通り主体でなければならない。ただ意識を向けているレベルが、今我々が現に生きているこの主体性のそれと違うというまでであり、それは我々の主体性がまた、この自然というものの主体性のレベルと違うということとパラレルな事柄である。気付かぬ内に我々は世界の細胞として生きているのであり、その働きは知らぬ内に、地球それ自身のホメオスタシスに寄与しているのである。全体は部分であり、部分は全体でなければならない。部分は輪郭の意味を持つ。そして身を、すなわち全体を持たない部分というものは存在しない。輪郭と輪郭とは複雑に入り組み合って、せめぎ合って、世界そのものを自己の輪郭にどこまでも括り入れようとする。全体はむしろ部分的であることによって全体であることができるのである。

(ついでに言えば実はここに「実体」概念の本質を見ることができる。アリストテレスの実体概念におけるように、実体は基体的なものと本質的なものから成らねばならない。輪郭と身とを必要とするのである。そしてアリストテレスはあくまで「個物的」なものを実体とした。個物とは部分でなければならない。しかし身は全体でなければならない。だから身即輪郭ではあるが、それは西田の矛盾的自己同一の意味においてそうでなければならないのであって、アリストテレス的に、というよりギリシャ的に、単に身即輪郭、基体即本質として一に考えられるのでは、実在を説明する論理としては不十分であることになる。それでは実在は真に自己自身によって在り、自己自身によって動くものであることはできないであろう。一と多とは絶対に交わらないが自己同一であるものでなければならない。)


さて、ここまで論じた上でまたおにぎりの話に戻って来る。おにぎりを握る、ということ、これを再び思い出して問題としてみよう。おにぎりは米粒から出来ている。この点が重要なのである。私の手が握ってまず形を円形にする。そしておそらく食べやすさ、持ち易さという事情から三角に形作られる。この過程を米粒という個体に即して考えて見ると、先に言ったように個と個とが、自己において身の全体を掴もうとするような主体のように見えて来る。そして粒と粒は一つの円形の内に理念的には溶け合うことになる。少なくとも、それぞれの粒には、今おにぎりを作る私というエネルギーが入っているのであり、更に一つのおにぎりというイデアがそこに存在しているのであり、そしてまたこの時私は米粒を「仮足」として、おにぎりという一つの形を作っているのであるから、つまりここに「私」を入れて見るならば、実際に米粒と米粒とは一つの形の中に溶け合っているものと言われねばならないのである。形は形の外殻として輪郭を持つのみではない。内側にも輪郭を持つ。中身というものも輪郭と輪郭のせめぎ合いのただ中にのみ存在するのである。これが形の論理というものであり、ただおにぎりを作るという形の中にも表れているのである。


そして今、形が、外にも内にも輪郭を持つと言った、これはいかに考えれば良いであろうか。ここを具体的にしてみよう。我々は二次元平面に描かれた何らかの図形を思い浮かべることができる。そして今その図形の輪郭線の内側に描かれた点に注目してみるとしよう。これはただ二次元的視点から見ると、内側の点ということになるのであるが、この図形そのものを一つの三次元図形として見るならば、輪郭の内側の点もまた輪郭の一部ということにならねばならない。なぜならこの三次元図形は、二次元的な面、つまり平面的な輪郭としての裏表の両面から成っている図形と考えられねばならないのであり、言ってみればこの図形の中に含まれた全てのものが輪郭の一部ということにならねばならないからである。しかもこの輪郭の全体がそのまま中身であるということになるというわけである。だとすれば次元を一つ上げて、三次元の立体についてもこういうことは言えるのではなかろうか。三次元立体の内部にあるものは、それ自身を四次元立体として見たときには、実は単なる表面の一部ということに過ぎない。物理学的に、時間というのが四次元の方向に考えられるのも、そういうことである。四次元の方向から見ると、三次元の全てがただの表面ということになる。世界が一つの映像と考えられるのは、明らかに時間的、かつ四次元的観点からの見方であり、これが一応人間の「意識」の立場であると言うこのができるであろう。時間の視点、即ち主体性の視点からすれば、世界とは実は単なる外殻的なものに過ぎない。原理的には全て透視できるということになるのである。なぜなら、時間は三次元空間の全てを一つの表皮としてしまうのだから。だから時間的視点は常に世界そのものを包んだものでなければならない。我々の主体性も、その主体性そのものに即するならば常に世界そのものを包み、世界の内から世界を創造的に刷新するということがなければならない。


こういう視点から実に示唆深いと思われるのが、『日月神示』「第六巻   日月の巻」より、第二十三帖の中の次の言葉である。「一升桝には一升しか入らぬと臣民思うているが、豆一升入れて粟入れること出来るのざぞ。その上に水ならばまだまだ入るのざぞ。神(註参照)なればその上にまだいくらでも入るのざぞ。神がうつりたら人が思わぬこと出来るのざぞ。今度は千人力与えると申してあろが。」(岡本天明書、中矢伸一校訂『完訳  日月神示』上巻、133頁)   すなわち、神であれば、どんなところにも無限に入って行くことができるのである。神の視点とは、今私が述べたように、あらゆるものを全て輪郭として見ることができるような視点を言うのであろう。我々の世界は形と形とが無限に重なったものだと考えられる。そして形には内部があり、その外殻のみを見ることができるものと考えられる。しかし我々が外殻とか内部構造とかそういう風に分けたりしているもの全部を引っくるめて、神の視点からは表面として見える。こういう観点から見ると、実は多種多様の形と形との折り重なったものと見られる世界は、実は一つの大きなアメーバのようなものとして考えることができるのである。アメーバではまだ立体的過ぎると言うならば、それは自己自身を廻転し続ける円とでも言うべきものであろう。あるいは、ここでの話に即するならばそれは巨大な「おにぎり」と言っても良いのではなかろうか。


従って、世界は一つの巨大なおにぎりなのである。ではおにぎりとは何であるか。まず食べられるものである。そして握って作られたものである。そして人間によって食べられることによって、彼のエネルギー源となり、また新たな「作る」営みの流れへと入って行くのである。世界がおにぎりであるとは、私は単なる比喩としてそう言っているのではない。そもそも比喩が可能なのは、比喩によって結び付けられる両者がともに、ある一つのものの表現として、内的に元々結び付いているからこそである。では世界とおにぎりとは、何を表現していることによって内的に結び付いているのか。それはそれが形として、「円」であることによってである。しかし円とは今私が論じたところからして大いになる不可思議なのである。なぜならそれは直線であり、中心であり、円周であり、輪郭を持たないものであり、しかも輪郭を持つものだからである。それは言ってみれば、自分自身を食べ続けることによってどこまでも生長して行く世界である。それに名を与えることはできない。形を与えることもできない。その形のないものこそが形そのものなのである。これを私は西田の言葉を借りて絶対無と呼びたい。またそれは純粋なブラックホールとも言うべきものである。実在の根底には常にこういうものが横たわっていなければならない。ブラックホールはむしろ無数の形の同時並存の形でなければならない。それ自身形でなければ何もない。そして包む形はむしろ包まれた形である。全体は必ず部分でなければならない。上に言ったように、実在的直線は自己自身を廻転し続ける尖端的点、しかも無限大の円であり、そしてそれはすでに無限次元の円を創造的に含んだものでなければならない。世界そのものがおにぎりであるということは、世界もまた握って作られるものとして、誰かの手の中にあるということでもあろう。そしてその大きな誰かは、我々人間がそうであるように、また社会的主体であるに違いない。神にはそのまた神があり、そのまた神があり、限りないと考えられねばならない。しかもそれは単に大なる方向に考えられるものではなく、むしろ微細なものでなければならない。神は一升桝に豆、粟、水全てぶち込んだ上で、更にいくらでもその内に入ることができるのである。なぜなら神は全てを単なる輪郭線として、表皮として見ることができるのであるから。そして神は神を食べることによってどこまでも生長し続ける。これは言ってみれば神的食物連鎖である。








註。この引用での「神」とは、原文においては、「○」の中に「﹅」の記号で表されているものである。この記号には色々意味があるが、根本的には、全ての全てがそれであるところのもの、という一つのことを表している。文脈によっては、ここでのように「神」の意味となったりする。そして私は全ての全てがそれであるものを、「形」と考えるのであり、しかもここで論じるように、全ての形の原型をこの記号のような円であると考えるのである。『日月神示』は哲学的観点から見ても非常に深いものを持ったものであり、私はこういう視点からも大いに注目している。







(追記)

おにぎりに、塩をまぶすのを忘れていました。おにぎりの具とか塩といったものにも、これもまたそういう「形」の問題として、深い哲学的論理が隠れているかもしれない。面白そうである。