雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

気分とは何であるか

気分とは何であるか、一言で定義できるものではない。しかし私が注目したいのは、哲学における気分の扱いである。哲学において、普通認識と言ったときに、気分というものは単に付属的なものとしてしか理解されないであろうと思う。デカルトの『情念論』などといったものがあるし、フランス哲学においては多分気分の問題についても深く論じられているのであろうと思う。しかしやはりまず「認識」と言ったとき、単に物の知的認識が考えられる、念頭に置かれるということが問題ではないかと思う。私が言いたいのは、認識は常に気分を伴ったものであるということである。気分の色付けを抜かした純粋な知的な認識というものはあり得ないのではなかろうか。カント認識論なども多分あまり気分というものを本質的に考えたわけではなかろうと思う。


だが、物事の認識に、全て気分による色付けということを入れて考えてみると、全ての様子が変わってくる。認識論の伝統そのものが全て崩れてしまうのではないかと思われてしまうほどである。私は気分の影響を受け易いのであるが(一つ前の記事参照)、気分次第で、世界に対する認識そのものがこんなに変わるものか、と思ったのであった。こういうことを今まであまり考えたことはなかったが、何だかいかめしい認識論の議論に入る前に、まずこういう事柄に対する虚心坦懐な反省が必要なのではなかろうかと、ハッと気付いたのである。


気分は我々の主体性に根差したものであり、結局は行為に関わって来るものである。気分によって、我々の認識する物事の色合いそのものが変わる。同じ物と思われたものも、気分の変化によって、すでに別の物となる。我々の認識する物全てに気分の意匠が加わるとともに、単にそういうものが対象に外的に付加されるのではなく、認識される対象そのものが変わって来る。暗い気分のときには、暗いものばかり目に付くものであり、まことにこれは不思議である。ただ我々は自己の認識を離れて対象というものを考えることはできないのだから、我々が対象自体として考えるものは、無色の気分の時に見られた対象のことを言うのではなかろうか。カントは認識主観の側に「理性」を考える。これは当然だろう。カントだけでなく、恐らく「認識」の問題を考える限り、まず理性的なものが考えられねばならないと普通には思われるであろう。ところが今確認したように我々の認識は、まず気分によって色付けされたものであり、その時点ですでに認識というものは単なる理性的なものであることはできない。もし気分ということを離れた純粋の知的な認識(これが普通に我々が認識と考えるものだが)というものを考えるならば、それは気分を気分そのものに即して越えたもの、上に言った「無色の気分」に色付けされたものでなければならないであろう。しかしそういうことは現実に不可能なのである。にもかかわらずそれは実際に「ある」と考えられねばならない。そうでなければ我々が対象と考えるものすらも存在しないことになるからである。要するに我々が客観そのものと結び付くのは、どのレベルでなのか、という問題である。それは主体性そのもの、すなわち行為においてである。行為こそは我々が客観そのものを認識する目なのである。つまり気分を離れた認識はあり得ないということは、我々の認識が本質的に行為的なものだというところにやはり結び付いて来なければならない。


行為はどこまでも認識的なものであり、つまり客観的なものでなければならない。普通に考えられる主観的行為というものは、真に行為の意義を持つことはできない。暗闇の中で体を盲滅法にバタバタさせてもそれは行為ではない。行為はすでに客観的なものなのだから、我々が認識する「物」というものも、単にある一般的な枠組みで考えることはできない。何が言いたいかというと、つまり、カント認識論などは、恐らく認識される一連の色々なものを何となく普遍的なものとして念頭に置いているのではなかろうか。テーブルはテーブルであり、ペンはペンであり、どこの国でも時代でも、理性的存在者である限りは、普遍的に物である。そうでなければ、テーブルをテーブルと、ペンをペンと認識させる認識形式なるものがアプリオリにあるとする議論そのものが成立しないことになる(もっともカントの議論はもっと厳密であり、実体的に認識形式を仮定しているわけではないはずである。しかし私が問題とするのはカントが「何となく」前提にしているものである)。なぜならカントはテーブルをテーブルとして一般的に認識したのであり、ペンをペンとして一般的に認識したのだから。認識ということが、そういう単なる物の知的認識ということを前提として考えられればそういうことにならねばならないのである。しかし理性的存在者であっても、そもそもペンを見せてもペンとして認識しないということがある。これも、彼に時間をかけて説明すれば、ペンをペンとして理解することができるようになる、だからやはりアプリオリにそういう形式が備わっているのだ、と説明することができる。カント哲学は無論単にこんなことで反論されるような屁理屈議論ではないのである。だが、理性的存在者でありペンを元々ペンとして認識しないような彼が、やがてペンだと認識できるようになる、こういうことが考えられるのは、すでに認識論が、単なる知的な立場を越えたものであるということである。この点についてカントは気付いているのかわからない。主体的に呼び起こすことがなければ認識形式も作動しないのである。西田の言うところなどから判断すれば、カントはその点については明らかに意識していたであろう。カントは直観を離れた認識というものはないと考えているのであり、認識はどこまでも経験に即したものでなければならない。だが経験とはあくまで気分的ということを伴ったものである。主体的とは理性的であることにも思われようが、まず気分的ということではないかと私は思う。無論それは単にいわゆる気分というものではない。いわゆる気分はすでに理性的に見られたものである。私が問題とするのはむしろ理性より前にあるものである。

 

ただ私も、もうこれ以上論じる気分にならなかったから、とにかくここで述べた事柄の参考になるであろう著作を紹介して終わることにする。それは、アランの『幸福論』である。まだ読み始めたところだが、アランは実によくわかっている人である。パスカルも、身体が弱かったから、星の数に恐れおののいたのだと言う。情念というのは気分的なもので、気分的とは身体的なものなのだ。こういう感覚がフランス的なのだろうな。私は更に進めて認識論も結局そういうところから出て来ねばならんのではないかと思った。そして更に進んで実在もまた気分的と言わねばならないのではないかとも思う。そこに基礎付けられねば気分主義の認識論も成立できない。いわゆる認識論は言ってみれば知的立場の前提に始めから立ってしまっているのであり、認識は知的なものでなければならないという気分がまず先立っているのものとも言えよう。でも私は認識は知的なものというより気分的なものであり、むしろその中に知的なものが含まれているのだ、という風に思う。そういう気分でしか私は哲学というものができない。