雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

見るもの聞くもの触るもの全て鬱陶しいことについて

今日は何だか精神の調子が非常に悪い。だから見るもの聞くもの触るもの、ことごとく鬱陶しく感じられる。世界が不思議なほど暗く感じられる。世界は同じ世界であるはずなのに。


こういうことから考えると、やはり我々が対象として見るものは、全てそこにおいて自己自身を見るという意味を持っているということがわかる。見る、と言えばその対象に直接関わらないで、外から見る、そう考えられる。しかし我々は単に眼によって見るのではなく、手で触ることによって見るのであり、鼻で嗅ぐことによって見るのであり、心で操作することによって見るのであり、眼で見るといっても眼球が動くことによって見ることが可能なのである。全て見るということは対象と自己との、何らかの意味で形が変化の伴った関係であると言わねばならない。つまり結局は物において自己を見るのである。物自体を見るのではなく、物が自己と触れるところのみ見ることができる。だから認識においては身体が全てであり、思惟もまた身体的なものでなければならない。思惟が単に客観的なものでなく、むしろ優れて主観的と考えられるのは、自己の身体に深く触れているからである。我々はいかなるものであっても身体的に手繰り寄せるもののみ見ることができるのである。身体というものは深く考えられねばならない。生物的身体というものは、すでに対象的に限定されたものであり、つまり我々が自己の生物的身体を見ることによって、かえってそこにおいて自己の身体の表現を見るということになるのである。あたかも単なる物において自己自身を見るように。


世界は我、すなわち内的身体の表現として見られるというわけであるが、しかし一方世界は世界として、単に我を離れたものと考えられる。始めに言ったように、世界は世界としてそのままのはずなのに、見るもの聞くもの触れるもの一切が鬱陶しく感じられるのである。こんなことを言うには、世界が自己の投影とも考えられながら、やはりそこから隔たって我からの超越性を保っているものと考えられねばならない。我はしかしそういう認識すらも我において持つのである。いかに考えるべきか。今全ての対象を鬱陶しくしているものは、他ならぬ内的身体である。しかし世界そのものは内的身体を越えたものでなければならない。しかしその内的身体を越えた世界というものが他ならぬ内的身体によって把握されているのである。これは真の自己は、理性的に自覚されるような内的身体を更に越えたところにあるということであろう。内的身体自身が、自己自身の今の状態の不健全を知っているのでなければならぬ。


ここで言いたいのは、要するに我々はどこまでも超越的なものにおいて自己を持つ、ということである。こういうことが、哲学の文脈の中で言われるとき、読者は思わず襟を正すような厳粛な心持ちになるに違いない。しかしそんな大げさなことではなく、むしろ我々の日常性そのものがそこに根差すところの当たり前の事実である。当たり前過ぎてなかなか気づけないことである。私は私自身の鬱陶しさをどうにかするためにこれを考え、書きながらこういう見解に達したのである。こんなつまらんことにも哲学の鍵があるということでもある。


別の言い方をしよう。我々はどんな瞬間でも、世界ごと生きている。だから気分によって、全てのものがその気分に即して見られるということになる。私の気分は全宇宙を動かすのである。宇宙は単に私の気分と隔たったもの、私の気分の影響に超然とするものではない。一面そうと考えられながら、そのこと自体を自覚するのが当のこの私なのである。私が宇宙であるからこそ、私自身の不調和がわかるのである。常に宇宙の意思を他ならぬこの自己の内に感じ、掴んでいるからこそこんなことが可能なのである。宇宙は我々が思うほど遠いものではなく、むしろ足元のその更に足元にあるものとも言える。


私の気分が悪いとき、私の気分を救うのは当然ながら私自身でなければならない。一面の悪気分に染まっているのはこの私であり、私こそが私の全体を知るのであるから。しかし一面の悪気分に染まる私は、当然ながらそのままでは何もできない。悪気分から為されることは全て悪気分の影響を持ったものであり、全ての結果は悪気分を肯定するものということになろう。しかし私はそもそも、超越的なものにおいて自己を持つのであり、常に宇宙的バランスを自己の内に持っているのであるから、私が私の内深く潜れば、超越的私の視点から、思わぬ解決策が得られるということになる。我々にはこれが偶然のこととしか考えられない。だが超越的世界から偶然のように湧いてくるもの、例えばふと外に聞く小鳥の鳴き声、こういうものは他ならぬ私自身から出てきたものであると言わねばならない。


物において自己を見る、と言った。単に自己を見るというのみならば、個々別々の物が私の前に現れて来ることはない。だからやはり物は自己の表現でありながら、どこまでも自己を越えたものでなければならない。物はそれぞれの独自性を持ったものとして、我から離れたものであるとともに、それによって我をその都度照らすものと考えられるのである。超越とは単なる一重の事実ではない。我と、我に超越的な世界というのがあるだけではない。そもそも超越的な世界そのものにおいて我があるのであるから、この時点で世界は内在化されている。なのにやはり世界はどこまでも超越的でなければならない。それは超越とは常に多層的なもの、また創造的なものだからであり、その都度現在的に生まれ変わるものだからでなければならない。だから世界の側には、個々別々の物があるのである。我も物である。物と物とは全て互いに超越的と考えられる。しかし物と物とを一括りにして、我の対象と見ることも可能である。しかしそれでもすでに物は我を越えているのである。全てが全てを超越している。だからその全てが全てを超越しているその全体はいわゆる絶対無と言うべきものでなければならないのであり、ただ自己自身は現在的に創造的にのみ得られるのである。そして全ての全てを超越するということ自体に「超越」という一つの名を付けるとき、これが我々のいわゆる客観的世界である。全ての超越が含まれた純粋超越と言うべきものであろう。だからそれは実体と実体とを含むとともに、全ての死の面と考えられる。


まあしかしこんな話がしたいのではなかった。とにかく我々に現れる一切のものが我であるとともに我を越えたものである、ということから、我々は例えば人に教えられることによって自己が自己を教えることができるのである。ソクラテスが我は助産師なりと言うのは正にそのためである。ソクラテスは我にとっては偶然的に現れてくる事実であり、我とは別個の個性を持った存在であるが、しかしこれは我が超越的我において我に派遣したものと言うことができるものである。全て現れるものは自己が求めたものと言わねばならない。それなりに意義があることでなければならない。私が一向にこの変な精神状態が治らないのも、また私自身が治ろうと真剣に思えないのも、つまり解決に向かって奮起することができないのも、それなりに意義があることであると信じるのである。解決策らしきものは大体我の思いも寄らぬところから現れて来るのだ。世界の声に耳を澄ませると良い。それは結局自己の内奥からの声なのであるから。


まあ多少気分は回復したかな。今日はこんなところで良いのかもしれないな。