雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

現れるものは全て元々計画されていたものではないかという話

我々の現在とは、とにかくあらゆる事柄の「最後」と考えられる。現在こそがどんな物事であっても、その最終局面において見られる場所である。途中と考えられるものであっても、その終局が単に未来に見られるというわけではない。そもそも未来というのは、パラレルワールド的に、一つの形が定まらないという意義を持っていなければならない。終局として描くことのできる一つの形は未来には存在しないのである。そして現在から幾つもの未来が分岐するということは、その分岐したものを一まとめにする大きな「統一」が、そもそもこの現在において元々存在するということから可能なのである。だから未来に終局を持つと考えられるものでも、色んな終局の分岐が一まとめになるこの現在においてその終局が見られているということがなければならない。未来もまた未来として見られた現在にほかならない。


さて現在というのは、よく言われるように、始めと終わりとが一になることである。全て現在において在るものの理由は、現在の奥底が自ずから指し示すものである。何となれば現在は単なる時間的には数直線上の一点ではなく、むしろ過去と未来の全てをここにおいて含んだものと考えられねばならないからである。未来の分岐を、その未来よりも未来的な立場から高次にすでに「ここ」において統合しているのが現在であるとともに、過去の諸事実を、その過去よりも過去的な観点からその全ての因って来たるところをすでに「ここ」において包んでいるのが現在である。渦巻きというものを見てみれば良い。それが純粋の渦巻きであればあるほど、周辺的なものは一つの渦の中に呑み込まれる。周辺的なものの内のある一つが中心的統治者となるのではなく、中心はむしろ渦として、あらゆる周辺的なものを平等に廻転させる空洞となる。そしてその極、筋と筋とは一つの廻転の線に重なり、そこに単なる一つの円周が出来上がる。しかしこの円周は元々渦巻きの空洞の中心として、円の中心の意義を持ったものでなければならない。翻って考えれば、元々渦巻きの始めにおいて、周辺的と考えられたもの自体がすでにこのような中心的な意義を持っていたということではなかろうか。ただ周辺的であることによってのみ中心的であることができるというのは、我々の自己が、端的に自己そのものであるのではなく、自己自身の周りを廻り続けることによって自己であることができる(「我思う故に我あり」はすでにこの論理に触れている。我思うがなければ我ありもない。「周辺を廻る」の純粋相が「思う」であるが、そこにおいてはじめて我が出てくる)ものであることと非常に似通っている。しかも廻転される「中心」そのものは、空であり、どこにもないのである。強いてその絶対的中心を絶対的中心として確定しようとすれば、それはより一層大きな渦巻きを形作らねばならない。他の渦巻きをも巻き込んで更にまた別の渦巻きをも巻き込んで、一つの巨大な渦巻きを作るのである。しかしそれでは中心はますます空になるばかりである。実は中心とは実体的にあるものではなく、ただ形と形との渦巻き的な創造的関係において、現在的にのみ確定される無の中心なのである。中心が無ということは至る所が中心となり得るということである。渦巻きが単に一方的に無限大の渦巻きに収斂するというだけであれば、世界はただ無限に多くの電子を含んだ一つの巨大な原子があるばかりということにならざるを得ない、そこにはヘーゲルの「有即無」がなければならない。しかしそれは真に有即無と言うことはできない。その無とは有として見られた無であり、無の無ではない。即とは同一ではなく矛盾的自己同一でなければならない。無の中心とは言わば絶対未来である。絶対未来とは絶対に一として世界の究極の終末であるとともに、しかも無数に開かれたものとして時の始めでなければならない。無数とは無限に大きくした自然数ということではなく、文字通り「無」数であり、本質的に数え得ないもの、無限を無限に無限した数である。絶対に一なるものが無数に開かれたものであるとは、世界の形はただ現在における創造的関係においてただ現在的にのみ確定されるということであり、全ての形は自己自身において中心を見るということである。我々は自己の渦巻きに他の渦巻きを一方的に巻き込んだと思うかもしれない。自己は成長し、究極には全てを自己に従わせることのできる何か無限に高い霊的格とも言うべきものを得るかもしれない。しかしそういう極端な例を考えても、実は自己の渦巻きに他者の渦巻きを巻き込むということは、逆に他者の渦巻きに自己の渦巻きが巻き込まれるということである。中心は無の中心なのだから、そこにおいては自己の中心こそが真の中心でありながら、他者の中心こそがまた真の中心ということになるのであり、自己の形と他者の形の独自性はそのまま保たれるのである。しかもそれは同一の中心と言わねばならない。同一の中心がすでに矛盾的自己同一の中心なのだから、実はそれはすでに分かれたものである。我と汝とは一つの渦巻きを成しながら、しかも別の時に或る彼や別の彼に対するのである。分かれたものはすでに同一であり、同一であるものはすでに分かれたものであるからこそ、我々の世界の形は、ただ形と形との現在における創造的関係によって現在的にのみ決定されるものということになるのである。それは要するに現在が現在の持っているあらゆる事柄に関してのあらゆる根拠を持っているということである。


それでここから何が言いたいかと言うと、上にも同じようなことを言ったが、我々の現実において終局に現れるものの究極的根拠はそれがいかなる事実であるにせよ必ず現在そのものに探し求めることができるということである。現在は無限の過去未来を含んだものなのだから。つまり現実に起こる事柄は、全てそれ相応の意図、計画の元にあるはずであろうということである。ここでの議論の主題はまさにこれである。そしてそれは偶然性と必然性の問題に関わってくる。我々は普通必然的という言葉を正しく理解していない。ここを理解せねば現在は無限の過去未来を含むということを真の意味で理解することはできない。


我々の世界には、例えばこの人間社会における日常的な色々の出来事というものを考えてみればよろしいが、必然的に意図的に起こされる事柄と、逆にただ偶然的に起こる事柄とがあると普通考えられる。またこれについて人はよく、全ての物事は突き詰めて考えれば必然的な事柄である、偶然的に起こされることでもそれは自然法則に従った合理的な現象なのだ、と言う。しかし自然法則に従っていると言っても、そこで起きた現象の内のある種のものが、我々の人間的意識の全く予期のしない出来事であり、全く意思に反するような動きを為し、意思に反する結果をもたらすということは事実である。人間的意識そのものから見れば、そもそも自然法則そのものが偶然的であり、しかもよく考えれば人間的意識そのものが、理性そのものが偶然的なものの極みなのである。人間的意識はそれ自身の必然性の領域を持っているのであり、それは自ずから自然法則の必然性とはレベルが異なる。我々の目にノートと映り、スマホと映り、空と映り、人と映り、道路と映るものは、全て自然法則そのものからすれば単なる同一の物質であり、これらの姿は畢竟偶然的なものに過ぎない。また必然的な事柄と言っても、単に必然的なものはどこにも存在しない。なぜなら、最も人の意思の支配下にあるような営みそのものが、例えば芸術的創作のようなものが、むしろその当人の全く思い通りになるものではなく、神の意思とでも呼ぶほかない力に与るものと考えられるからである。自然法則でも、理性でも、ある一定の角度から物事を眺めるだけの方式では、真の必然性に迫ることはできない。自然法則と理性法則とを、更に高次の立場から統べるものから見れば、自然法則も理性法則も結局一まとめに一つの自然法則ということにならねばならない。むしろ我々の世界において全ての物事が必然的に見られるような法則は創造的法則であり、すなわち法則そのものが自己自身の内から常に刷新され続けるものでなければならない。すなわち形と形との創造的関係によってただ現在的にのみ決定される形の法則でなければならない。法則そのものが自己自身の内から刷新され続ける、というこの在り方の一つの表れは、我々の社会の「法」と言われるものにおいて見ることができる。法は一面超越的に主体と主体とに対するものでありながら、その自己自身の存在の根拠をむしろ個々の主体の内に持つのである。そして法は常に現在的課題に即して更新されるということ自体を始めから伴って存在するものである。ただこの論理は社会における人間的主体と法、あるいはその法を自己駆動機関として使用する国家との関係に限ったものではない。実在そのものの論理である。社会が法的と言うならば、この人間の身体も法的であり、その辺の石ころも法的であり、この部屋の壁も法的であり、野に咲く花も法的であるということでなければならない。超越的なものはむしろ内在的なものでなければならない。例えば自然法則のものであっても、そこに於いて実際に自覚的に働く主体によって、その法則が、あたかも我々人間社会の法におけるように、実際に運営されているのでなければならない。自然法則を、単に理性の未発展なるものと考えてはならない。我々は自然法則の全てをこの理性によって知ったわけではなく、それどころか、おそらく我々は我々が知っていると思っているよりもはるかに自然法則を知らないのである。自然法則はむしろ我々の理性的必然性よりも、大きな深い必然性を指し示しているのではなかろうか。理性がこの自然界の精神現象学的な発展から必然的に生じてきたとすれば、自然法則自体が元々神的理性的なものであるということである。そう考えると、自然法則があって、その上に理性があって、その上に神的理性があると考えるわけにはいかない。それは三位一体ではなくただの三位三体であり、結局のところは単なる一者である。そうではなく自然法則が即神的理性的なものと考えられねばならない、その本質的に埋めることのできない間隙に、無数の形と形との立体的に重なり合い、ただ相互に創造的に現在的に決定されまたそれによって自己を決定する無限に理性的な形がなければならない。だからこの世界に於いて在るものは全て理性的と言い得るし、しかも逆に理性的なものは存在しない、全てのものは神的自然なのだとも、また世界はある盲目的意志の自己実現だとも言い得るのである。花は単に我々が理性的に把握する自然法則と呼ばれる秩序に従って存在する無味乾燥な事物ではない、それは人間的理性を完全に越えて独自の個性を持ったものである。すなわち花は香り、心に感興をもたらす。たったこれだけのことと思われるかもしれないが、しかし人間的理性からはどうしても花の香りや形の美しさは割り出すことはできない、理性はただこれを研究し、これに近づき得るのみである。花は何も言わぬが、人間的理性などよりも高次の理性をすでに持ったものでなければならない。勝手に遺伝子をいじくったり、もぎ取ったりしても、花が何も言わぬのは、彼らが愚かだからではなく、人間などのあずかり知らぬ深い智慧の判断においてただそうしているまでである。


以上から考えれば、要は自然法則に従った現象の持つ必然性は、単なる自然法則的な必然性ではなく、実はすでに神的必然性であるということにならねばならないであろう。我々はこれを信じられない。例えば、私は「偶然」、散歩中に、外で遊んでいる女の子がステップしながら元気よく次のように唱えているのに出くわした。「一歩から、一歩から、千里の道も一歩から」と。これはちょうど個人的なことで悩んでいた私の心に何か光を投げかけるような言葉であった。私はただ散歩するという意図を持ちそれに従って外出して外を歩き、女の子は多分外で遊ぶという意図を持ちそれに従って外で遊んでいただけであり、そしていかめしい言い方をすれば、それはこれら二つの理性的営みが、自然法則に従って偶然的にその時出会ったというだけのことである。しかしそのもたらした結果は、これだけの原因からはとても考えられ得ないような、創造的果実を私にもたらす、ということであった。これを単なる偶然の出来事として片付けるもよろしいが、しかし世界は元々こういう形での偶然を無数に含んで今まで営まれてきたのである。人と人との出会いも偶然であるが、しかし当人同士にとってはとても偶然とは思えないような曰く言い難い結び付きを当初から感じている、ということがしばしばある。それは単に偶然しばしばあるのではなく、そもそもこれからも起こり得るであろうし、こういう事実の無限の集積の上に今の社会があり、しかもこういう偶然とは思えない偶然の無数の関係が、我々の見て触れている形の色々なものを創造的に産み出して来たのである。それもただ人と人との関係だけでなく、あらゆる種類の事物にわたってそういうことがこれまで数多重なって来たのである。人と物とでも運命的な邂逅を果たすことがある。それは実は物から見ても人との出会いが邂逅であるということではなかろうか。私にとっては「信長の野望」というテレビゲームとの出会いが運命的な邂逅であったが、更にこれは「信長の野望」から見ても私との出会いが邂逅であったということではないか。邂逅は単に一方的なものであってはならない、その両者が第三者的方向に形として相互に包み包まれるところに、現実の事実としての邂逅が可能なのである。さて何度も強調したいのだが、こういう邂逅が、そもそも現実の形となって我々の世界の現実そのものを形作っているということが重要である。こういう邂逅の原因を、単に今我々に知られている事柄の内に求めることができないとすれば、そしてまたそれは未来の担い手と考えられる我々人間的主体の豊かな想像力においても不可能であったとすれば、そこにはすでに現在が現在自身を限定するということがなければならないのである。現在が過去未来を越えたものであり、あらゆる形での現実の実在的「底」となっているという意味がなければならない。我々が現実の事実と認めるものは、それがいかなるものであっても、現在の底に根拠を持たねばならない。いかに偶然的な事実と考えられるものであっても、それが一つの「形」としてこの現実に現れて来るということ自体がそもそも大いなる不可思議事なのである。神的な必然性とは、過去の過去がこの現在において新しく生まれるということである。単なる過去から、この現在の不可思議なる邂逅がどうしても考えられないとすれば、そこにはすでに過去の過去の誕生という意味がなければならない。時間は過去から現在に流れるものではなく、また未来から現在に流れるものでもなく、現在から現在へと神的に移行して行くのである。過去から未来へとだけ考えられる時間は単なる科学的な客観的時間であり我々の行為的現実を包む時間ではないことは言うまでもないが、パラレルワールド的主体性の事実からすれば、未来から過去へと流れると考えられる時間もまた、実はそういう仕方での一種の過去から未来への流れと考えられねばならない。未来から過去へ流れる時間においては、未来はある定まったものである、それがどんなに究極的なものと考えられるとしても。未来には真に不定的ということがなければならない。従って過去も実は不定的ということがなければならない。過去もまた現在的に見られる事実だからである。その不定的なものの形が定まるのはただ神的な現在においてのみである。しかもその現在の形とはただ創造的関係において不定的にのみ決定されるものなのである。現在自身の矛盾的自己同一的属性としての確定的と不定的ということ自体に、それぞれ過去と未来という名を与えられているのであって、実在的な形としては、過去と未来とは同一のものである、否、矛盾的自己同一である。


神的必然性ということについて今述べた。それはひとえに現在的であるものなのだから、それはむしろ偶然性の極みである。だからこの神的必然性においては、過去もまた新しく生まれるものであり、逆に未来は完全に不定の混沌となるのである。過去が新しく生まれるといっても、過去は過去なのだからそれは実はすでに在ったものである。ということは具体的にどういうことなのであろうか?ここまでの話は非常に抽象的であったから、もう少し具体的に論じてみたい。


先にただ偶然的と考えられる邂逅から、主体の存在の底への共鳴が生まれることについて述べた。全てこういう創造的意義を持った事実は、言うまでもなく単なる自然法則的に説明される事実であることはできない。創造的意義を持つ事実は、創造的意義ということを離れて存在しない。しかも主体は主体として、常に新しく存在の底から照らされるものであり、存在丸ごとで現在から現在へと進む創造的存在でなければ、始めからその存立そのものが不可能である。同じ朝日でも昨日と今日との別が厳然とあるのはそういうことがあるからである。創造的事実とは、とにかく新しく照らし出されるという意味を必ず持つものであろう。しかもそれがこの現実における事実として、実在的な意義を持つからには、それには無限の過去からの根拠付けがなければならない。なぜなら実在するとは、無限の過去から無限の未来まで余すところなく覆いかぶさる他ならぬこの現実世界に於いて存在する、ということなのだから。しかし創造的事実とは、単なる過去にその根本的な原因を求めることはできない。それは法則的なものであれ、因果律的なものであれ、あるいは形相的なものであれ、単なる必然性の範囲に収まってしまうことになるのだから、創造的という意味そのものが失われてしまう。創造的事実はやはり一面どこまでも無底でなければならない。しかしその無底の事実に、過去的な基礎付けがあるということは、過去そのものがこの現在において新生するということでなければならないであろう。意味もなく新生するのではない。この文の前の文において論じたように、現在とは過去の中へ深く潜り、過去そのものを過去に於いて産み出すことであり、それは要するに「形」を作る行為という意味を持っていなければならない。形を作ることによって過去が新生するとは、我々は現実の形を変えることによって、我々の主体性がすでにそこに含まれていたところの深い意志を自覚するということである。例えば西田幾多郎は、明治維新の記憶新しい近代人として、西洋的文化と正面から対決し、日本人として東洋ならびに日本の文化を背負って、おそらく夢中で格闘している内に、世界的意義を持つ哲学の組織へと自ずから導かれた。彼の哲学はまさしく創造的な営みであり、それによって全く予想もしないところへ彼自身が至ることができたのは、実はそれは世界そのものの深い意志だったからである。こんなことを言うとヘーゲルを想起させるであろうが、私は世界精神というものを根底に置くような考え方は根本的に否定するので、一応それとは切り離して考えられたい。しかしともかく西田が現にこのような創造的意義を持ち、現に人を存在の底から強く動かす仕事を成し遂げることができたというのは、西田自身にとってはそれは偶然切り開いた境地ということだったであろうが、それが現にその現在自身の創造的課題として必要とされた形だったからである。現在が現在を支える過去の尖端において、新たな神の宣託を求めたと言って良い。神の意志というものが仮にセム的一神教において想定されるような世界の原初から我々の現在まで遍く貫いて在り、常に存在し続けたものであると考えたとしても、意志が意志として顕れることのできる形がなければそれは無いも同然である。意志はむしろ現在的に、創造的に、新しく照らすものとして現れてくるのでなければならない。それは何度も言うように、過去を越えた過去として生まれてくるものでなければならない。


私は何を言いたいか。我々現代社会の形を見てみよ。それは近代社会から生まれて来たものであり、現代社会の諸問題もそもそもこの近代社会の在り方からの帰結として生じて来ているものである。だが近代社会もまた問題を持ったものであり、その問題の根源はまた時代を遡って理解されねばならない。そしてそのように遡り切った時、一応歴史時代の最初の時期というところに我々の思考は至るであろう。だがここに至っても、実は現代の諸問題の根本的な原因というものはわからないのである。それではまだこれまでの色々の時代に含まれたものについて十分に考え尽くしていないのかもしれない。そこで、例えば従来注目されていなかった歴史的事実に、現在的な関心から新たな光が投げかけられることになる。例はいますぐ思い浮かばないがそういうことは一般的にあることであり、それだからこそ我々の内のある人達は、単なる事実の記録の収拾にも情熱を注ぐことができるのである。そこには常に現在的な課題の解決という燃料があるのである。そしてそれは最終的に現在の創造的形として全く新たな質を産み出すことになる。哲学で言えばやはり西田の営みが大いに参考になるであろう。西田はおそらく従来全く同じ土俵の上に扱われて来なかったであろう、西洋哲学の伝統と、仏教哲学の伝統を同じ哲学の土俵に上げ、折衷ではなく深い統一を成し遂げたのである。それは例えば、デカルト道元が同じ「場」において時空を超えて結び付けられることによって、デカルトは今までのデカルトでなくなり、道元も今までの道元ではなくなった、ということである。デカルト道元も単にすでに過ぎ去った過去の事実の集積ではない、それは生命でなければならない、彼らの生命は、別の時代において、新たな光に照らし出されるということを元々含んでいたのでなければならない。彼らは単なるこの世界の人間としてではなく、神の言葉の受け手として存在している。そして歴史的事実は全てそういう意義を持ったものでなければならない。歴史とは、過去の新生の尖端において見られるものでなければならない。さて、歴史時代と言われる時代を遍く検討しても、現代的形に説明が付かなかったとしてみると、そこから次に何が考えられねばならないであろうか。それはすでに所謂先史時代において「歴史」を見るということである。例えば縄文時代を、我々の現代的課題に本質的に連なる何かを持ったものとして見ることである。実際この頃、縄文時代ということが非常に注目され出して来ているであろうと思う。梅原猛岡潔と言った学者達も、こういう先史時代と考えられる時代に何か深い歴史的意義を見出しているように思われる。そしていわゆる教派神道などの系列の思想にも縄文的なものを非常に示唆するところがある。更に言えば私は心霊科学の世界で有名な霊存在「シルバーバーチ」が、「霊界の霊媒」としてかつてインディアンであった霊を使役し、しかも自らは「このインディアンよりも古い時代にかつて地上に生を受けた霊である」と称することにも、こういう歴史的という観点から非常に大きな意義があると考える。あるいはもしかすると彼は縄文人であったのではないかとも思うのである。それはともかく先史時代そのものに歴史を見るというのは、明らかに「過去の新生」という意義を持ったものでなければならない。それも全く現在の視点から勝手にそういう意義付けを与えるということではなく、あらゆる歴史と言われるものを隈なく探した結果歴史そのものを越えた歴史をどうしても探し出さねばならないということから、必然的にそういう意義付けが必要とされたのである。


だが、私は「過去が新生する」ということを、そういう天下国家のレベルの話に限って考えているのではない。むしろそれは我々の日常性の事実そのものだということをここで論じたいのである。そもそも天下国家の問題も我々の日常そのものの内に存在するのであって、それ以上のものではない。自然法則が理性法則に対してむしろ神的な深い必然性の意味を持ったように、我々の日常的なものは天下国家の事柄よりも深い世界性を持ったものでなければならない。要するに過去の新生とは、私が先に述べた邂逅というものを本質的に伴ったものである。邂逅には必ずワケがなければならないということを、今壮大な天下国家の話を例に出して論じたというまでである。出会いとは、なるほど一面どこまでも偶然的なものと考えられる、だがその出会いが我々に新たな光を投げかけるということがあるならば、それは単なる偶然的なものではあり得ない。必ず過去を越えた過去の意志が未来に回り込んで我々の心に言葉にならぬ予感を与えるものでなければならない。私がこの文章を書き始めたのも、あるアイデアとの邂逅がきっかけであった。そして言葉にならぬ予感に従って書き進めているのである。ここに書かれた内容は、自分ではしっかりと意味のあるものであると確信している。偶然的か必然的かで言えば必然的な文章であろうと思う。ところが私はここにいかなる形が結実するか、予めその全体を知らないのである。私はただ未来の側に回り込んだ「過去を越えた過去の意志」に従ってひたすらに思索し、書き進むというだけなのである。そしてアイデアはアイデアを生む。邂逅は邂逅を生む。先に邂逅された事実は、この現在においてはまた新たな邂逅を生み出し、そして思索に新たな光を投げかけ続けるのである。それはただひたすら現在的な営みであり、次への動き出しは、ただこの現在自身の創造的関係が決定するものである。しかも現在とは本質的に不決定的なものだから、それは不決定の決定として、一面があるどこまでもパラレルワールド的なものでなければならない。未来がパラレルワールド的であるということは、実在的に矛盾的自己同一的であるところの過去もまたパラレルワールド的であるということである。現在において過去は無限の深さを持ったものであり、過去の果ては常に未来の果てに結び付いたものと考えられる。未来はどこまでも分岐して行くものでありながら主体的として直線的に収斂するものであり、過去は逆にどこまでも一つの原初へと収斂して行くものでありながら環境的として吹き出すように開かれて行くものなのである。だから邂逅は必ず過去の果てと結び付き、必然的な事実として照らされるにもかかわらず、それはそのまま未来の果てとの結び付きにおいて偶然的なものなのである。


そういうわけであるから、我々は日常の気づきというものをとにかく大切にすべきである。現実はこんなものと決めつけていては我々の生活は生命を持ったものであることはできない。邂逅とは偶然的と考えられながら、どこまでも必然的なものとして、過去の果てから計画されていたことでなければならない。だからこそ新たな出会いの喜びは同時に永い年月を経た再開の喜びと非常に通じるものがあるのである。それは魂が知っている、という感覚である。こういう邂逅は我々の主体性を神化するものであり、しかも邂逅が邂逅を、神化が神化を、生命が生命を呼び起こし、生み出し、現実は喜びの渦となって行くのである。現実に喜びの渦というものが全く見当たらないかもしれない。今悲しみに沈んでいるかもしれない。しかし現在は常に邂逅的なものであるから、それはいつでも神化され得るのである。いつでも無限の過去からの意志の実現として、完全に有意義な事実となり得るのである。悲しみも苦しみも、その渦中にありながら、その内から神化されることができる。我々の現実そのものがそうなっているのである。