雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

過去とか未来といったものについて考えるヒント。「過去」を手掛かりに

過去というのは、文字通り過去であって、すでに過ぎ去った諸々の事実の集まりと考えられる。しかし単なる部分部分バラバラのものの集まりが、一つの「過去」として、この現在にとって何か積極的な意義を持つことはできない。AとかBとかいった事実が、過去の色んな出来事の内の二つの出来事である、そう言っただけでは、ただ現在とは無関係に考えられるものである。しかし過去とは、ただ現在との関係においてのみ考えられるものであり、しかもそれが現在と対等のある一つの積極的なものという意味を持たねば、「過去」などという名前を持つこともできない。現在は或る全体であるが、全体に対等に対するものはまた全体でなければならない。現在に対する過去もまたある一つの全体でなければならないというわけである。


それでは、その一つの全体であり、現在と対等の存在であるところの「過去」とは、一体どこに存在しているのか?現在は言うまでもなく、この現在に存在している。単に空間上の一点ではなく、むしろ空間全体を包んだ全体として現在が考えられるのである。では過去とは、空間を越えたところに考えられるものであろうか。現在が全空間的なものであるとしたら、それに対等の存在である過去もまた、全空間的なものでなければならない。だから先に言ったように、単なる過去の出来事AとかBは真に過去そのものと言うことはできないのである。しかしこの全空間を越えた全空間とは一体どこにあるのであろうか?空間そのものが、そもそもそれ以上外に出ることのできない「全体」と考えられるのである。その外に出ることのできないものの更に外に出るということを考えねば、過去というものは存在することができない。しかも過去は現に我々の現実の世界の事実として存在するものなのであり、我々はそれを前提としてのみこの世界において行為することが可能なのである。こはいかに。


ここで発想を柔軟にすることが必要である。我々は常識的には空間と時間とは一応別々にあるものと考えるが、実は空間そのものが時間を含んだものであり、また時間そのものが空間を含んだものでなければならない。相互に相互を含むとは、通常の思考では考え難いことであるが、要するに真の「全体」とはそれ自身空間とも時間とも名付けることのできない、絶対の第三者的なものと考えられねばならないということである。この第三者的なものは、無限の変化そのものを内に含んでいる、どんなに形が変わっても、それは「すでに」自己自身の固有の内容として持っているものだ、ということがなければならない。それで私はこの第三者的なものを、「形」と、術語的に名付けているわけである(西田幾多郎三木清から借りたものだが)。そして「形」とは、一つのものでありながら多数のものであると考えられねばならない。それは統一と分化を同時存在させるものでなければならない。つまり一つのものが、始めから無数の角度からの眺めを持つということが前提されている、そしてこの部分的な眺めそのものが全体である、無統一の統一とも言うべきものがそこになければならない。こう言うと、なかなかわかりにくいのであるが、要するに同じ「全体」であるもの、同じ「形」を、空間とも時間とも名付けることができるということである。空間と時間こそは、形の中の最も根本的な形であり、それ故に、それは現実の事物が具体的に(つまりただ観念的にではなく現実的に)存在することのできる、根本的な必要条件と考えられるのである。同じ「形」はそれ自身空間でも時間でもあるものだが、それを固定したフレームに入れてその内で形が色々に万華鏡のように変化するという見方から見てみると、それが空間と言うべきものであり、しかし形の変化そのものを何か連続的な無限に太い線がうねって行くものとして見るならば、それが時間である。無限に太い線とは、実はこの空間の全体そのものなのであるから、それはフレームがフレームごと無限に廻転して行くものとしても見ることができる。そう見ると、そのフレームはもはや固定したものなのか、あるいは無限に廻転しているものなのか、見分けが付かないことになる。そもそもフレームは一であり多であるものなのであり、多は相互にこのフレームにおいてどこまでも溶け合っているとともに、しかもそれぞれが全世界大の存在として独立したものとしてフレームごとうねり続けているのであるから、もう何だかわけのわからないことになる。我々の世界はそのように成り立っているのだ。それはもう「形」としか名付けようのないものなのである。単なる部分的な形というものは存在しない。単に部分的であり、実在の根底そのものと結び付かないものならば、そもそもそこに一つの形としての存在すら許されないはずなのである。部分的と見えるものは、実は「裏」を見れば、ちゃんと全世界大の大きさであることがわかるのである。我々が現実にこの目で見ている形は全て氷山の一角なのである。そして氷山の全体そのものも、実在そのものからすればこれまた氷山の一角に過ぎないのである。万物は流転すると言う。万物は無限に流動して行くものである。しかし流動するには流動する「何か」がなければならない。それが「形」なのである。形は一であり多であるから、その「一(うねり)」に即した方面に時間が考えられ、「多(固定したフレーム)」に即した方面に空間が考えられるというわけである。


それで空間も時間も、「形」としては矛盾的自己同一であるということがわかれば、我々が今立ち向かっている問題について、先に進むことが可能になる。全空間的内容が、その外に飛び出るところに、時間というものが考えられるのであった。全空間は、それ以上外に出ることができないものであるにもかかわず、である。無論同じ空間の中で、無限に変化する内容というものを考えることはできよう。しかし単なる変化というのでは、空間そのものを越え出るということは考えられない。時間は、全空間そのものを否定するのでなければならない。だとすれば空間そのものが、実在のレベルでは、実は時間というものを元々持っているのであり、つまり自己否定そのものを含んだものなのである。空間は実は台風の渦巻きのようなものなのである。それは流動であるとともにうねりであるものである。ここでは空間が空間自身に対してすでに他者であるということが考えられねばならない。なぜなら空間は、実在のレベルでは、時間そのものを包んだものであり、すなわち空間そのものを越え出るものさえもすでに包んだものであるからである。これは無限に創造的な世界、すなわち「形」の世界ということを考えることによって初めて説明できる。だから空間は、自己自身でありながら、まず我と汝の二者である必要がある。それは同じ「形」の内容を共有していながら、すでに二者であるものである。例えば、細胞は一つのものが二つのものへ、という風に細胞分裂するが、見方によれば、それは一つのものが一つのものでありながら「すでに」二者であったからこそ可能であるとも考えられる。ちょうどそのように、空間は一つの形でありながら、すでに二者なのである。


ここで「我と汝」の関係として、現在と過去ないし未来と過去との関係を考えることができる。時間のこの三つの種類の区別は、そもそも時間と空間の矛盾的自己同一というところから来るのである。それでなぜ一者が二者である、という関係の中に過去現在未来の三者を考えねばならないのであろうか?一者が二者である、そしてその二者はそれぞれまた「一者」すなわち統一するものであり、つまり要するに第三者でなければならないからである。一者が二者であり、二者がそれぞれ第三者である、とすれば、ここには無限に創造的な世界、つまり統一と分化が同時存在する世界というものが考えられねばならないであろう。三者とはこういう創造的関係の原型なのである。だが、色々考えるとややこしくなる。まず基本は一者が一者であってすでに二者であること、これである。そして「二者」にあたるものは、そこに対比の関係されあれば良い。現在と過去、未来と過去、未来と現在は対立するものと考えられるし、全てこの一即二の問題として考えられるのである。そして我々が今問題にしているのは「過去」の問題なのだから、差し当たり現在と過去との対比を問題にして説明してみたいと思う。


現在と過去とは、先に言ったように、全体と全体との関係として対等なものである。それは我と汝の関係と言うことができよう。要は同じ形を共有したものが、同じ形でありながら、すでに断絶する二者であるというところから、現在と過去の関係を考えることができる。つまり現在が即過去であると言わねばならない。我々は常に現在の眺めを持つ。それは果たして単に知覚的なものであろうか。つまりこの外的身体に今直接感覚されたものだけが現在の全体なのであろうか。そうではない。我々は片時たりとも、行為する存在であるということを離れることはできない、つまりどこまでも主体的な存在であることを離れることはできない。主体においては、自己に属する一切のものが能動的である。思惟することも、この身体を使って物を作ったり操作したりすることも能動的であるが、外的身体で外界を知覚するということも、夢を見るということも、またそういうものとしての一つの能動的行為でなければならない。もし知覚が単に受動的なものに過ぎないならば、知覚によって得られた情報を基に実際に我々が能動的に行為することもあり得ないであろう。なぜなら、我々が行為するその場所、自己を能動的に投じて行くその場所は、この現に知覚されたものの範囲を超え出たものではあり得ないのだから。もし知覚されたものと関係の無い領域に作用する能動的行為というのがあれば、それは暗闇の中で盲滅法に棒を振り回すようなものであって、行為としての意味を成さないであろう。つまり知覚は、始めから受動的なものとして見られてはいるが、本質的には能動的行為の中にあるものであるという意味を持たねばならない。それは知覚というものが単なる知覚以上の主体的な内容をすでに含んでいるということである。これは時間で言えば、現在が現在自身を越えているということでもある。真の現在とは、純粋の行為的尖端のことでなければならないであろう。我々にとっての現在の形というのは、実は過去の総体、否、過去そのものの姿と言わねばならないであろう。つまり過去の姿が即現在の姿であり、現在の姿が即過去の姿なのである。我々は何かを知覚して、これに関連して何か連想したり、何か思い出したり、その歴史的来歴に思いを馳せたりするかもしれない。それは現在に関連して、その現在とは異なるものである過去の内容想起するというよりも、現在そのものがそのような過去そのものを含んでいるということでなければならない。現在と過去とは形において矛盾的自己同一だということである。現在というものは過去を離れて在ることはできない。現在から現在へとは、むしろ過去へと深く入って行くことでなければならない。過去へ深く入ることによってのみ我々は真に現在を得ることができる。未来は過去よりも過去であるところに存在するとも言えるのである。


過去は常に現在的なものである。現在というものを単なる「時の名前」として内容を捨象したとすれば、その内容に当たるのが過去に他ならない。その内容の世界の中で我々は自己の身体を持つのである。だから現在の立場から行為的に世界の形を作り変えるとは今言ったように、過去へと深く入って行くことである。我々は芸術、学問、その他色々な文化的営みにおいて、自己がその探求を進めれば進めるほど、過去に深く学ばねばならないということが良く理解される。始めの内は名前さえ知らなかった偉大な先賢達の仕事が、だんだんと輝きを持って我々の目の前に現れて来るようになる。過去がもし単なる死物であるとすればそういうことは起こり得ないのである。過去はむしろ優れて現在的なものである。そして過去の中に深く入り、過去として、新たな過去を産み出して行くということが現在の立場である。そして未来というのは現在的に産み出されるものである。未来は過去の内に産み出される過去の意義を持っていなければならない。我々のイメージというのは、それもまた客観的な事実として見るならば一種の過去的内容である。つまりたとえそれが未来の行為にまつわるイメージであったとしても、イメージの世界において実現するという客観的結果がそこに存在している以上は、すでにそれも過去と言わねばならない、純粋の尖端的現在は更にその先に追いやられるということになるのである。



そういうわけで、以上の話を簡単にまとめると、過去とは単に過ぎ去ったものではなく、「形」として、むしろそれ自身創造的なものである。過去が創造的であるとは、それは現在との矛盾的自己同一において考えられる。一者が一者であってすでに二者であるというところから考えられる。過去の中に過去を産み出すというところに現在を見ることができるのである。現在とは過去の中に入って行くことであるとも言えよう。





※「過去」に対する矛盾的自己同一者は、現在であるとも未来であるとも考えられるのだが、「過去」にとっては現在も未来も同一のものである。過去に対比すると考えられる「現在」は、行為的現在なのであって、つまりそれ自身未来的なものであろう。重要なのは創造とは常に第三者への方向の出来事だということである。過去と現在の矛盾的自己同一により産まれる創造的な第三者的な立場がなければならない、そこに未来と呼ばれるものが考えられねばならないのである。ここから見れば、未来が中立ちとなって、過去と現在が媒介されると考えることができる。


未来というのを本当に純粋に創造的に考えるならばそういうことになるのだが、実際我々が普通に「未来」と言う時、むしろあるイメージされたものという意味を持っていることに注目すればこの構図はまた変わってくることになる。イメージされたものとなれば、それはすでに或る内容を持った形である。過去は、行為的尖端を捨象した現在の内容と考えられるから、またこれも内容を持った形である。それでここから、同じ「内容を持った形」として対等でありながら、それらはいわゆる「過去」といわゆる「未来」として相互に排他的と考えられることになる。そして我々の現実がただ現在から現在へと考えられるということからすれば、むしろ真に創造的で第三者的なものは現在であると考えられる。ここからすれば、現在が現在自身を限定するということが中立ちとなって、過去と未来が媒介されると考えられるのである。実は実在のレベルで見れば、全てのものは自己自身を限定するのであるから、過去も過去自身を限定し、未来も未来自身を限定するということが時の実相である。それが可能なのは、過去も未来も、ともにそれ自身が「現在」であるからだ、ということにならねばならない。言葉からすればやはり現在こそが過去と未来とを統べる中心者の地位を持つことになるのであるが、実は全ての時がこの絶対の第三者の意義を持つのである。過去も第三者、現在も第三者、未来も第三者である。「現在」というただ一つの形がすでに矛盾的自己同一的に二であり、しかも二は矛盾的自己同一として直ちに統一されるから、またさらに二は矛盾的自己同一的に絶対に断絶するものであるから、それぞれすでに三なのである。これは元々「一」がすでに絶対無限の多数であると考えられることによってのみ説明可能な論理である。こういうことを考えると、本当に頭が痛くなってくる。


西田幾多郎は「一と多の矛盾的自己同一」と言う。しかし多とは単なる多数ではない。これは「一」と対比されているのだから、またそれ自身一でなければならない、だからまず一即二なのである。順に考えると、まず実体として一即一なるもの(つまり自己自身に同一であるもの、自己同一なるもの)が考えられる。しかし一即一とはすでに一が一であって二であることだから一即二となるのである(「我思う故に我あり」である。我が我にとってすでに超越的事実である)。しかしまた、一とは二ではないものであり、二をその未分化において見るものでなければならないから、創造的一者として三になる、これが二即三である。創造的一者すなわち三は、三であるが、しかし三は三として二に外的に考えられるとともに二のそれぞれがともに三なので、二は、つまり一と一とはすでに三であると考えられねばならない、つまり三においては統一は直ちに分化でなければならない。「二者」として一まとめになった形相は二者のそれぞれにおいて見られなければならない。まとめると一であることが直ちに三である。一即二即三である。一者が即二として矛盾的自己同一であると考えれば、そこから直ちに無限の枝分かれが前提される。しかも枝分かれは過程的に実現して行くものではなく、存在そのものにおいて前提されたものなのである。始めからこれが絶対的中心であるという一者的なものをどこにも考えることはできない。全ての全てが独我論的自己であり世界の創始者であるような世界である。恐ろしく形而上学的な話であるが、これはまた現実そのものの実相なのである。西田も言うように、三者の関係を考えることによって、無限の多数を考えることになるのである。もし単に二者があると言うだけではどうであろうか?二者は二者として異なるものなのだから、そこには何らかの意味で必ず上下の差がある。もしそれらが完全に対等なものならば、それはすでに唯一なる一般に包まれたもので、それ自身の存在を持たない。上下の差があるとして、それは結局は一方が他方を包摂するという関係になる。それで世界はただ唯一なるものの自己実現があるばかりということにならねばならない。そこに真に創造的なものがあることはできない。しかし自己同一の内に他己同一を前提する矛盾的自己同一の論理によって初めて真に創造的世界を説明することができる。なぜならこの論理においては、自己同一もまたすでに他己同一であるものだからである。自己同一が端的な自己同一であることはできないということは創造的であるということである。