雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

「全体が全体であるためには」補足

前に、形が一つの全体として成り立つためには、実在の根底に結び付かねばならないと言った。つまりある一つのものの「輪郭」が定まるには、それが最終的な根源的な場所そのものに結び付かねばならない。概念的に幾ら形というものを規定しようとしたとしても、せいぜい精巧な模造品という程度である。どんな形でも、それが現実に形である以上、全てこの実在ごと含んだものである必要がある。言ってみれば神の許しがあるから、そのものはそこに存在するのである。


形というものを考えるには、身体というものを考えれば良い。


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止むを得ない事情によって転載が禁止されているから、ご意思を尊重して、このページのメッセージの内容については触れないが、このページにあるメッセージは、身体の緻密さ、微妙さということを考えるのに、非常に参考になるものである。要するに身体とは形として、常に実在ごとのものであるからこそ、実に一々の部分が巧みに働き、部分部分が見事に調和し、全体が一つの生命としてしっかり統一されるのである。身体の輪郭とは、単に外形的に見られるようなああいったものではなく、こういう実に微妙複雑な生命の仕組みそのものを含んだものでなければならない。その輪郭がそういう輪郭として定まること自体が、身体そのものがそういう一つの小宇宙であることを可能しているのである。身体が単に概念上のものではなく、こういう風に真に実在そのものと直に結び付くものであるからこそ、実在そのものの力を自己の内に受けることができる、というわけである。


そして形をしてこういうことを可能ならしめているのが、実在の力である、ということは、むしろ実在そのものが形であるということであろうと思うのだ。それは決して実体として何かしら概念的に語り尽くすことのできるものではない。実体という概念はいくら精巧にしても、実在そのものに辿り着くことができない。しかし形こそは現実に直に触れたものである。しかも形は形に触れたものであり、さらに形とその触れた形を包むものもまた形であり、それに触れるものもまた形であり、それらをまた包むものも、その先もまた形である。形の中に含まれたものも形であり、形ということを完全に越えたもの、純粋に概念的に考えられるものもそういうものとしての一つの形なのである。形は実在なのである。形は全ての全てなのである。


形と言っても、我々が本当にただ主観的に考えるような形を世界に反映させるというだけでは、真に実在的であることはできない。人工知能は所詮、身体の真の生命の根源の理解に至っていない人間のレベルで主観的に考えたものによって作られているから、真の意味で知性を持った生命であることはできない。まず我々はその辺の石ころとか、そういった無機的なものが非生命であるという独断を乗り越える必要があるのである。全て生命でないものは、そもそもこの世界において一つの形として存在しない。神の許しがあるから、そこにその形を持って存在することができるのである。ということはそれは神そのものの宿ったものと考えねばならない。素直に考えればそうならねばならないのである。そして人工知能によって真の身体に辿り着くことができない、ということは、我々が主観的に考える形は、真に実在的な力を持たないということである。形というのは、それくらいの重みを持ったものなのである。我々が頭でこれを理解してどうこうできるものではない。勝手に操作できるものではない。我々が頭で考える概念も実は、実在のレベルで見れば一つの形である。つまりそれもまた真に客観的な生命に属するものであり、我々の主観的な働きによって勝手に操作できるものではない。思索であっても、自分の頭で勝手に考えたように思っていても、その実は自分自身ではどうにもならない何か不可思議力がそこに働くことによって、初めて具体的に動き出すことができるのである。ただ我々はその不可思議力に意識を向け、その力に与ろうとすることができるのみで、その力そのものをどうこうすることはできない。考えが自ずから走り出して行く、ということも、これは自分の思い通りになる事態のようにも考えられるが、むしろ不可思議力そのものに任せ切ったときに初めて可能になる状態である。自分自身がすでに自分の力ではどうにもならないのである。


イメージもまた形の力に与っている。しかしこれは我々の身体と一応切り離した領域に存在するという建前を持つことで(要は本当の意味で身体と切り離すことはできないのだ)、より我々の主観的力で思うままにできるような、そういう働きを他ならぬ「形」によって与えられているのである。だからそれは本当の意味で完全に主観的に勝手にいじくることができるものではない。イメージは個人的領域と考えられるが、その実個人的な領域ではなく、我々の自己とよく調和するような色々の存在と良く溶け合って、その場を共有するからこそ、イメージが事実上ほとんど個人的な領域となることができるのである。そこに他者がないのではなく、他者はよく溶け合ってなかなか目立たないものとなっているのである。こういうところにも霊魂の実在の一つの傍証がある。我々の身体と切り離して考えられるというのは、本当に切り離されるということではなく、むしろ身体の奥深くに潜る時に、更に深く凝縮した緻密な身体がそこにあるということであり、ただ我々はいわゆる肉体の次元に意識の焦点が当てられているからこの微細な次元をよく把握できるわけではないのである。それ故にむしろそれがプライベートな領域と考えられることになるのである。だから私がここであんなことやこんなことを妄想したとしても、はっきり言って全部バレているのである。私はそれを承知でスケベな妄想をしたりしているから、我ながら勇者だと思う。


形というのは実在そのものであり、ごまかしのないものだということである。思考であっても身体であっても、はっきりと輪郭が決まるということは、そこに実在としての権利を与えられた、すなわち神の許しを得たということであり、神の力そのものに与ることになったということである。だから我々は自己自身の意識にも身体にも、深く敬意を抱く必要がある。我々はここから活かされているのである。生かすものも形であるが、生かされるものも形である。自己自身が自己自身であって、すでに他者である。いくら引きこもっても、そこには私の身体という他者がある。全ての存在は社会的であることから逃れることはできないというわけである。