雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

全体が全体であるためには

あるものがある一つの全体であるためには、そして真に全体であるためには、それは実在そのものの根底に結びつかねばならない。例えばここに一つの形がある。この形の輪郭が定まるのは、その形が於いて在る場所そのものと、存在のレベルではっきりと結ばれたからである。単に概念的にではなく。そしてその場所自体もまた、同じ理屈で、その更に於いて在る場所に結び付くことによって、それがある一つの全体として、それ自身の内にもまた色々な形を含むことができる。そしてその場所の場所は、場所の場所の場所へ、と限りない。最後には実在そのものに到達するのである。しかもその根源的場所と考えられるものもまた輪郭を持った形でなければならない。そしてそれは真に実在そのものと言うこともできない。つまり実在というのは、西田幾多郎の所謂絶対無のことである。根源的場所なるものは存在しない。


包摂関係というのは、単に概念的にも考えられる。しかしabc三者をOが包むとして、単に概念的に考えただけでは、そのabc三者がなぜそのOに包まれているのかわからない。その絶対的な必然性をどこにも認めることができないのである。単にそういう事実があると指摘するのみである。これが概念の内包的な意味を持つとして、Oは元から必然的にabcを包んでいるのだ、と言うとしても、そもそもそれがなぜ必然的にそういう関係にあるのか、ということ自体が偶然的なのである。概念的な関係は、結局最後の最後まで突き詰めたとしても、そういう偶然的なものが残る。真に必然的であることはできない。端的に必然的であると主張されるものは、畢竟ただそういう宣言に過ぎない。概念をどこまでも深めて行くと、なるほどそれは確かに実在そのものをも説明することができそうなものになってくる。元々個物は概念の外に出て、概念にとっては偶然的なものを持っていたのに、個物がその存在の規定として元々概念的な拡がりを包むような方向性が考えられて行く。アリストテレスにおいては、個物的実体に諸々の性質が内属すると考えられ、実在はこの相互に概念的統一を持たない、開かれた独立の個物的実体である、と見られた。しかし開かれたといっても、個物と個物とは、いくら独立的に見られても、そういうものとして我々は現に一括りに出来ている。だからこそ我思う故に我あり、現に考えつつある我以外の一切の物の存在と真実性を疑うことができるのであり、客観的事実もまた我々の主観的表象の一種だと考えられるのである。それで個物を個物として、全体を全体として、概念的に統一する道が考えられねばならない。突き詰めれば、それは個物がどこまでも絶対的なものを持つということである。すなわち実在そのものを統一する概念を自己自身の内に、その存在の規定として持っているということである。個物はただ創造的な関係においてのみ統一されることができる。それによって真に概念というものが具体的な実在的概念であることができる。だがこの根源的な立場を概念と言ってしまうのが誤りである。それは結局無限に大なる、あるいは深なる概念ということであろう。しかし実在とはそういうものではないのである。結局概念というのは、どこまで行っても、ある宣言であり、偶然的なものである。


だから、私はここに形というものを考えるのである。これは私が理解する限りでの西田哲学的な立場である。要素も形、包む全体も形である。部分と全体は一面に対等でなければならない。対等であるからこそ、我々の社会的現実がそうであるように、それらは、常に現在的な、行為的な、相互に自由な関係において、その時々の「形」を持つことができる。互いに互いの分があるということがここでは認められる、互いが互いを尊重し合うとも言える。なぜ互いを尊重し合うのか。それは全ての形が、絶対的一者、否実在そのものの、絶対無そのものの表現であり、何かこれが最高統治者であるというものをどこにも見出すことができないからである。それで形の「形」は、常に今言ったように、現在的にのみ画定されるのでなければならないのである。全てが全ての主であるような、無限の形と形との関係はそういうものでなければならない。一と多の矛盾的自己同一とはこのことを言うのである。全ての多が絶対的一であり、しかも絶対的一はすでに多なのである。個物と概念とは、別々に考えられるのではない。また個物が絶対的概念を内に持つということでもない、それではまだ個物と概念とは別々になっている。そうではなく、この形というものそのものが即絶対的概念でなければならないのである。いかなる形も、そのまま(即)絶対的概念なのである(これは対象的に一であることと本質的に違う)。それは無限の彼方に見られるものでもなく、自己の内奥に見られるものでもなく、自己の形が即それなのである。表面的なものが絶対的な深さを持っている、否、表面的なものが絶対的深さそのものなのである。


以上からして、形とは、要素的なものや、全体的なものが、単に概念的にではなく、真に実在的に考えられ得る唯一の仕方である。形は、まずそれ自身が絶対的一者でなければならない。しかしあらゆる形は、どこまでも要素的なものとして在るのでなければならないのである。こういう事情から、形と形とには必ず上下の関係が生じ、絶対に対等になることはないとともに、しかもすでにこれらは絶対に対等の関係でなければならない。こう表現するとまことに不思議なようだが、本当にその通りなのである。ただ全ての形は、その時々の必要性に応じてその姿を取っているに過ぎない。いかに従なる者であるように見え、全く自主性のないと見えるものでも、実在的観点から見れば、それもまた一つの主体的な決断によるものである。だから身を低くするものは高くされるのである。


形は形なのだから、ごまかしというものがあり得ない。形は本来において誠実なものである。非誠実なものも、その実在のレベルにおいては、そういう形での一つの誠実の在り方である。ということは逆に言えば、端的な誠実というものも決してあり得ない。誠実は常に現在自身の、形と形との具体的関係に即したものでなければならない。常に問われ続け、一歩一歩に修正され、進歩して行くものでなければならない。そしてそこにこそ生命の真の喜びがあるのである。


私は時に、人の、あるいは自己自身の不誠実に対して多いに怒りを露わにする。が、これは形そのものの立場において不誠実を見ているのではない。また形そのものの立場において自己の絶対的誠実を主張するのでもない。私はこの時、ただ不誠実という形において誠実であるものを、誠実という形において誠実である立場から、ある創造的行為として限定しているに過ぎないのである。哲学というものの恐ろしさはここにあり、私個人がいかに個人的なつまらぬものに囚われた人間であり、いわゆる過ちを犯す人間であろうとも、哲学それ自身もまた私とは完全に別個の形として、完全な主体性を持ったものなのであるから、私の人間性とは全く独立にそれ自身の生命を持ち、それ自身によって動いて行くのである。そしてこれが、真実は永遠不滅と考えられることの理由である。真実も、真実としての形において、それ自身の誠実を果たしているに過ぎない。真実もまた一つの理念的形式である。


あらゆる形は生命である。だからこそ、我々はあらゆる死の面の代表とも言える概念というものであっても、これに生命を吹き込むことができ、実際に生命を持って概念は動き出すのである。それも死の面としての一つの生命の在り方だからである。概念においては包摂関係ということが大事である。これは、百聞は一見に如かずといえども、やはり百聞に止まって、その範囲内で最高度に実在に近づこうとするときに有効なやり方である。我々は故あって、この現に触れている現実がそのまま実在であることを忘れてしまっている。中島義道の『不在の哲学』において言われる通り、一旦言語を獲得した有機体は、なぜか自己自身の具体的観点そのものを不在として規定することによってのみ可能な、客観的実在世界というものを考えてしまうのである。身体的なものより概念的なものの方が実在的であると心得てしまう。我々は、現実そのものが現実そのものではなく、笑えるほど概念的なものとして経験されるという「形」を、今主体的に体験しているわけである。だからこそ、我々は概念というものを楽しむことができる。現実そのものが概念的体系に近いものとして経験される。だから実在の根底を概念的に考えることができる。しかし概念は宙ぶらりんなものであって、所詮一見に如かず。一見が即万見なのである。


さて、私は一見ここに取り留めのないような、幾つもの段落を連ねているように見える。哲学論文などとはとても称することのできるものではない。私も哲学論文というものを書く気がないのである。この取り留めのないやり方も、形の論理というものの、一つの型示しの方法である。それぞれの段落が、それぞれの形として、独立した生命を持ち、行為的に相互限定し合っているのである。だから、私は一つの段落を書いている途中に、別の段落の話題を思い付き、そちらの方を書き進めながらまた元に戻ったりして、同時並行のような形で書き進めている。しかもこの書き方であっても、やはり私はこの文章全体に一貫した生命が宿っていると確信しているのであり、単なる取り留めのないものではなく、一つの文章として主張できるものだと確信している。文章というものは、何か書きたい内容があって、上から下まで、完全に順々に議論が発展し、最後に結論に至る、などという直線的なやり方のみ有効なわけではないと思う。そのやり方は、私がここで述べている「概念」的な論じ方であろうと思う。しかし実在は多数の形が相互に限定し合うことによって出来る現在的な関係である。あちらが変わればこちらも変わる。全ての形が自己自身の根源的概念なのである。その都度柔軟に対応すれば良い。それで結構うまく行くのである。大倭教の矢追日聖法主だったかが言っていたと思うが、これすなわち無統一の統一である。


さてここで始めに言ったように、ある一つの全体が真に全体であるためには、実在そのものの根底に結び付かねばならないと言ったことがまた一段とよく理解されるのではないかと思う。それぞれの段落は、その全体に一貫する生命と結ばれ、ここに照らされることによって、初めて自己自身もまた生命を持つことができる、つまり実際に文章が進行することができる。私はこの文章を書くに際して、何を書くかということは具体的に決めなかったが、全体を一貫する生命そのものを始めに予感的に掴んで、それに忠実に書き進めているのである。これすなわち無計画の計画である。私は部分が単なる全体に従属する要素だとは思わない。また文章それ自体を、筆者に従属するものであるとも思わない。文章はそれ自身の生命を持ち、また段落もそれ自身の生命を持ち、一文一句に至ってそうであり、この私に語りかけ、働きかけて来るのである。だから私一人の勝手な意思では、この文章は書き進まない。相手の言うことをよくよく聞きながら、丁寧に応答して行かねばならない。文章を書くときの私は、差し当たりソクラテスの言うような、助産師である。ただこの場合相手が文章そのものなのである。文章の個々が真に実在そのものと結びつくからこそ、これが現実の一事実として私の目の前に現れて来るわけであり、私はこれらと対話しながら己の歩を進めることが可能なわけであり、またこの行為的連関の自ずからの帰結として、私が文章の主導者たる地位を得ることができるのである。それは私が単に元々そういう地位にあったということではなく、この現在的な必要性から、流動的に、そういう地位に自ずから担ぎ上げられるということであり、この文章全体におけるある一つの特殊的役割というのを果たしているに過ぎない。


全て一つの全体であるものは、このように形という在り方でなければならない。全ての形は、言い方が難しいが、何か「ぬるっと」した感じでひとつながりになっているのである。概念なるものはそんなのではなく、コチコチのものか、あるいはペラペラのものと考えられる。しかしペラペラの写真であっても、やはりぬるっとしたところから生まれてくるものであろう。原子だって物質を構成する最終的なものではなかった、素粒子でもない、結局量子なる「ぬるっと」したものを考えねばならなかったのである。量子はそれ自身無限定の概念である。これは今後の科学の発展に従って明らかにされて行くであろう。科学の発展は、人間を、天地が混沌として未だ固まっていないところにまた戻したのである。ここから一歩進むためには、まず哲学的に、そういうものが本当に実在を構成する要素として考えられるものであると主張できるだけの論理を掴まねばならない。これが私は西田哲学によって初めて明らかにされた形の論理であると思うのである。もっともこれは誰かの専売特許ではない。論理そのものもまた形として、それ自身の生命を持つのであるから。それで何が言いたいかというと、あらゆるコチコチとしたもの、ペラペラとしたもの、その他色んな様態のものも、結局全て「形」であり、根本的にはぬるっとしたもののバリエーションなのである。ぬるっとしたものが、ぬるっとしたままに、何か輪郭を持っている、もはや無輪郭の輪郭とも言うべき流動状態、これが形というものの言わば原始態である。ヒルコというのは、その形態があまりに原始的過ぎたから逆に流されたのではなかろうか。そしてヒルコはいつまで流れても、生命そのものの根源形態であるが故に、いくら時を過ごしても、自己自身の形を失うことはない。そしてそれは科学的には量子の概念によって再び発見されることになったのではないか。わからないが、ともかく形の論理というものが、次の時代の科学に行くための、哲学的関所であるように思う。この単純至極にして複雑怪奇な論理、全てが可能であり、全てが必然であるような論理の理解を、どうにか私は人々とシェアしたいと思っている。