雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

慢心と日本(日本文化の独特の位置)

慢心はどこの誰にも付き物である、いや憑き物である。自分ではなかなか気づかないから慢心なのだ。


慢心は霊的欲求を装った肉体的欲求から生まれて来るものと言えよう。高尚なスローガンを掲げていても、また綺麗な理屈でそれが正当化されていても、その実は縄張りの意識、所有の意識に基づいたものであることが実に多い。この私だって、偉そうなことを日常的に述べているわけであるから、危ないのである。例えば、これが誰かに見られ、讃えられるかもしれないという気持ちは、あるのだ。誠に馬鹿らしいことではあるが。そしてそこには異様な、そして病的な、偽りの喜悦感がある。この病的な喜悦感は、変態的性癖を持つ人間、火遊び的に不倫交際する人間、こういった類の人達に特徴的に見られるものであろう。またその道の権威などという人種にもそれなりに居るであろうと思う。一旦ある地位を得てしまうというのは危険なことで、それは絶えず地位を失う不安につきまとわれるということであり、純粋に自己の使命を果たすことよりも、保身のために活動することになり兼ねない。何かそれなりに権威的な地位を与えられそうになったならば、それは本当に自己の分に相応であるか、よく考えるべきである。ともかくこれらの色々の形の病的な喜悦感と慢心には近いものがあると思う。そして自分ではしっかりとした理性的欲求に基づいているとさえ思い込んでいる場合が多い。いずれにせよ病的である。




❇︎理性は心であり、心は形であること


問題は、自分ではなかなかわからんということだ。普通に理性と動物的欲求とは全く違うものと考えられる。だからこそ、我々は、本当は慢心と利己主義の産物に過ぎないものをも、美辞麗句と立派な理論によって包み隠すことができるのである。つまり彼らは一旦理論武装してしまえば、それはすでに理性的になったのであるから、動物的欲求を離れた立場に立っているのだと心得違いを起こす。しかし実は動物的欲求と理性とは別々のものではなく、元々動物的欲求が潜在的に理性的なものであったと考えねばならない。


ああ、また理屈っぽくなってきた。


つまり幾ら理性的になったとしても、理性そのものが動物的欲求的なものの必然的な発展としてあるのだから、いつでもこの立場を逃れられないということだ。理性は常に理性的に乗り越えられ続けるということを伴って初めて真に理性と呼ぶにふさわしいものになる。理性は自己自身を省みる目を常に持っている。つまり自己自身を常に越えている。しかし動物的欲求は常に前だけを見ている、自分の根底を省みることはない。それでも動物においては、動物的欲求と理性的欲求そのものが一致している。動物的欲求が暴走することは、基本的にはない。そうでなければ自然界は保たれないであろう。一方的であることそれ自体が、彼らにとっては全方位的であることなのだ。だが人間は頭があるから、何でもかんでも頭で処理しようとする。しかし実際頭は、人間の持つ全エネルギーのお粗末な投影機ぐらいに過ぎないのであって、頭によって自己の有り様を自覚化することはできるが、それも不完全なものだ。部分を全体と思ってはいけない。


我々が理性的であるというのは、頭があるからではない。心が発達しているからだ。心は頭にあるのではない。心は全身的なものだ。この指だって、実は心的なものである。人間の身体の形は、心の発展の表れとしてこうなったというわけであり、決して二足歩行になったからその結果として頭が発達し、それによって心が発達したのではない。心が先である。なぜなら心は全身的なものなのだから。それで頭というものも、その心の発展の一つの形として発達したものに過ぎないのである。全て物事には必然的な原因がある。我々のような唯物論に飼い慣らされた社会に生きる人間は、原因から結果に行くのは必然的だと簡単に理解するが、なぜか原因そのものは偶然のものと考える。ビッグバンがあった、いっぱい原子があった、そこから物理法則に従って現在のような宇宙の姿になった。しかし物質とかビッグバンの起源そのものはよくわからない。それでおしまい。しかし単なる物質から、我々が現実に経験する心というものが生まれるはずはない。元々物質そのものが心を含んでいたのでなければならない。ただそれが始めははっきりとした形で現れることができなかったというまでである。だから物事の結果は、原因からの帰結として必然的であるが、原因そのものも結果からの帰結として必然的なのである(アリストテレスの可能態と現実態の考え方がこれを多分よく言い表している)。結果は始めから形相的に原因の内に含まれているのである。だから、我々が自己自身の心の中でアイデアを思い浮かべ、しかもそれを実行して、世界の中に形として生み出すことができるのである。アイデアがあって、そこから形が生まれるのである。例えば、今これを書いているスマホなども、そうやって生まれたのである。これを、唯物論的に説明することは不可能である。なぜなら、唯物論は「アイデアがあって、それを実行することによって形が生まれる」という我々の世界の現実の在り方そのものを否定するからである。原因から結果への必然性が、逆転して結果から原因へ(アイデア、形相から実現へ)の必然性になる、こういうことが唯物論の世界観からは説明できない。もし我々のような心が、偶然的な身体の変化(つまり二足歩行によって頭が良くなる)によって生じて来たものならば、それはいつでもなくなり得るものであって、それ自身いかなる価値を持つこともできない。唯物論者はしかし、自分は頭が良いと思っていて、しかもそのことに非常に価値があると思っている。慢心もいいところである。彼らは心を否定しておきながら、ちゃっかり心に縋っているのだ。このちゃっかり、非常に嫌いである。なるほど、慢心というのは、自分が恩恵に与っているものを否定しながら、しかもちゃっかりそれにすがっている、こういう所にあるのだろう。


さてアイデア、形相が先か、物質、質料が先か。実はどちらも根底に置くことはできない。むしろ形が先なのである。アイデアも物質も実はそれ自身形である。そしてアイデアと物質との融合で生まれると考えられる形もまた形である。変な言い方だが、形というのはあらゆるものの形なのである。形は形から作られるとともに、形を作るものである。作るものでもある、作られるものである。これから作るものでもあり、すでに作られたものでもある。形は一定の形を持たないが、一定の形を持つものと考えられる。何であっても形である。形は世界の始めからあるものと考えられ、また世界の終わりにおいてもあるものと考えられ、しかも世界の歴史の途中で現れ、消えて行くものと考えられる。単に現れ、消えて行くものならば現象に過ぎない。単に世界の歴史全体を共有するもの、時を超えたものならば、それは超越的イデアか、または物質そのものに過ぎない。しかし現象が現象であって、どこまでも時を越えたものであるとき、それが形である。しかも形とは全ての全てがそれであるものである。あるいは全ての媒質となるものである。しかも媒質が媒質の媒質であるということが形である。最も硬い最も柔らかいものとも言えよう。それで、心は全身的なものといったが、これも人間という「形」において理解されねばならないということである。これが大事なのだ。形はいつでも観念的な方向、物質的な方向、両方への「口」を持っている。行こうと思えば、石ころから宇宙にだって飛んでいける。できないと?それが思い込みである。観念的なものと物質的なものとは、全く違うものに考えられるが、実は両方ともそういう形での「形」であり、やはりこれもまた形なのだから、いつでも両方を行き来することができるのだ。しかも彼らは、両極端の姿を持たされてしまったのだから、バランスを取るために、やはりもう片方への強い欲求を持っている。観念的になればなるほど、それは実現されたくてたまらなくなる。物質的であればあるほど宗教が要求される。物理学がどこまでも物質を突き詰めて行くのは、我々人間のアイデアの裾野が広がって来ているからだ。だからこの「形」の理屈の一つの表れとして、我々が日常恩恵に浴するスマホというのがあるのだ。石ころから宇宙に飛んで行くとはこのことだ。騙されただって?話は最後まで聞くものだ。このスマホなるものは物質に対する人間科学による優れた認識に基づいた技術によって初めて作り得るものであるし、しかもまたそれによって、物でありながら、世界そのものと繋がることができる、極めて観念的なものなのだ。物質と観念というのが、始めから同根のものでなければ、こんな素晴らしい機器が生まれて来ることも不可能である。アイデアがあってもそれが物質の世界そのものの内から生まれてくるものであるからこそ、何らかの形で実現できるのである。それでいかなるものも同根である、ということが「形」ということなのである。普通三角形と象とは関わりがないように思われる。それは概念的に見るからである。しかしそれらを「形」の世界において見るならば直ちに結び付けることが可能である。どうやって?よく考えてみなさい、すでにこの文章において結び付けてしまっているのである。


話を戻そう。頭が先ではなく、心が先と言った。つまり全身的なものが先である。そして単に頭だけの頭ではなく、「心」の表れの一環として見られた「頭」が、理性なのである。心、全身的なものに結び付いた頭こそが理性なのである。頭それだけを取り出し、それもまた人間という動物の器官として見れば、頭の活動もまた動物的本能に基づく活動と見ることができるだろう。だから我々が理性的と称して、ただ頭で考えただけの理屈で自己の行いを飾るのは、むしろ本能の暴走である。それは全然クールではない、頭が良いことではない、むしろ貪りである。本当に大事なのは、心そのものが発達することによって、その中で頭も発達している、この順である。これを抜かした頭の発達は見かけ上のものに過ぎないのであって、本当の意味での発達ではない。理性の発達は、全体の発達ということを常に伴わねばならない。



❇︎「心」の個性と、日本人


心の総合的な発達が大事と言って、その部分の発達に、いかなる偏りがあってもならないのではない。もしいかなる人であっても、全ての部分が完全にバランスよく発達することによって精神的高みを得られるのであるとすれば、聖人なるものは無個性の存在に過ぎなくなってしまう。しかし全体とは部分の集積としてあるのではなく、逆に全体があって部分があるのであり、全体そのものは単一のものなのだから、その単一のものの発達が、ある部分に偏ることもやはりあり得るのである。それでもちゃんと部分と部分とは、一つの全体的発達に統一されていて、齟齬を来すことはない。ちゃんと心が発達しているのに、部分に偏って発達している、という場合、他の部分はいわば休眠気味の状態になっていて、要は全体の調和を崩さないように、うまい具合にできている。しかし頭を心の上に置いて頭のみ発達させるのでは、他の部分も休眠状態にならない、頭の主権に対して周りの部分が納得しないのであるから、その人自身の内でいがみ合いが生じることになる。そしてその極自己が自己を締め付ける、あるいはもっと言って食い荒らすような状態になる。しかし、「頭」が主導的となることをもし全身が納得するならば、それは心から直接権利を認められたということになるので、つまり心の適切な監視下に常にあることになるので、そういう仕方での発達が可能ということになる。


それが人種で言えばヨーロッパ人であろう。だからヨーロッパにおいては、「理性」が発達した。すなわち心の伴った頭が発達した。しかしその過程には、幾多もの、「頭」の暴走による困難があったこと、これを忘れてはならない。頭というのは、頭領などとも言うように、元々部分でありながら諸部分を一応表面的には統括できる働きを持ったものであり、「代表」面し易いのである。だから彼らはその歴史的発展の過程において、自分たちの暴走する頭と頭とで衝突しながら、その調和のさせ方を、体を張って何とか学んできたのだ。それが、例えば自然法と言われる概念であったり、あらゆる形での理性的原理であったりするわけである。こういうものが作られる背景には、彼らの「心」の切実な要求があったのである。


それで他の地域ではどうであるか。まあよくわからんが、色々個性はあるだろう。私は日本人だから、日本人について考えてみよう。日本人は頭というより、腹であろうか。あるいは腰。要するに、胴か。腰が据わることは良いことであり、大将は頭が良いよりも、どっしりと構えていた方が良い。理屈ではなく、オーラで伝える。この感じ、わかるであろう。しかし日本にはなかなか複雑な事情がある。日本に比しては、「頭」への偏りが強い西方の民が、時代時代に色んな形でこの「極東」に渡ってきた結果、この変が色々とごちゃごちゃになっているのである。その結果が、実に腑抜けた根無し草のような現代日本人である。流行に流されるだけで、自己自身の分ということすら意識しない、しかも単なる世間的価値にはやたらこだわる人々。世界の日本としての誇りなどない。しかし世界という「世間様」に褒められようとすることだけは熱心である。この頃のテレビ番組を観てみるがよろしい。なんでわざわざ外国人を引っ張り出して来て、日本の物を(しかも工業製品とか職人の技など誰でもすぐ思い付きそうなことに限って)褒めさせているのであろうか?私は無性に腹が立って観ていられなくなる、日本を堕落させる気か、と。そもそも何でこうなったのか。


日本人においては元々、「腹」が主導的な位置を持って、その方式で全身的な「心」を発達させていた。しかし中国とか西洋の人々は、元々日本に比較して「頭」が主導的になる傾向が強い。それで昔は(そして現代も)まだあまり人間の心そのものが発達していなかったから、皆己が大事にする「主導者」が一番と考えて少しも疑わない。昔中国大陸あたりから日本列島に渡って来た人達も「頭」を一番と信じて疑わなかったであろう。それが彼ら自身の心の個性を色付けるものなのだから、それは仕方ないであろう。しかし日本の民にとっては、元々頭で考えるということ自体よくわからなかった、苦手であった。その苦手であるものが、あちらにとっては、得意なことであり、しかも偉いことなのである。頭は偉い、と強く言われれば日本の民も、そうかな、と思ってしまう。あるいは始めはそう思わなかったかもしれない。縄文人弥生人は全く別の民ではなく、弥生人と言っても血統的に縄文人である人がそれなりに居る。つまり大陸から渡来して来た人達を縄文人は受け入れ、共存しようとしたことの証拠である。「腹」を主とする心を持つ個性がまず取る態度は、とにかく相手が何であっても、受け入れる、ということであろう。自分達を押しのけようとする存在であったとしても。来るもの拒まず、である。例えば胃袋というのは、その人間が何を食ったとしても、とにかく消化するだけはするのである。始めから拒否して受け付けない、という選択肢はない。その人間、つまり主人が何を食うかについては始めから信頼して任せ切っているのである。だが毒を食えば、内臓がやられ、そしてそれが全身に回る。毒を食わなくても、あまりに人工的な食い物を食わされれば、消化不良を起こす。縄文時代の途中くらいから、日本は大陸の民を少しずつ受け入れて言って、それで言わばちょっとずつ人工的なものを食わされることになったのであるから、消化不良を起こし始めた。そして間をすっ飛ばすが、この傾向がずっと続いて、今に至るわけである。


だから、現代日本人を見ているとよくわかるのだが、特に「頭」ということに関してコンプレックスが大きい。我々はそもそも「腹」を主導にして心を発達させる個性を持った民なのに、「頭」こそ一番と思い込まされて今に至るわけだから、しかも頭を使うのは苦手なことなのだから、誠に無理に無理を重ねて今までの歴史を何とか乗り切って来たようなものだ。しかしその割には、日本人というのは実に頭が良い、不思議なくらい聡明なところも持ち合わせている。これはいかに?要するに腹の力である。つまり腹の確かな、どっしりと構えた力を、頭の方にうまく向けてやれば、頭を使わないで頭を使うことができるのである。腹は五体全てに繋がっているから、全身の言わばエネルギー的源泉になるわけである。そしてこの「智」の使い方が日本式の学問のやり方である。私は西田幾多郎がまさしくそういうやり方を体現していると思う。だが腹の力に気づかない、あるいは腹が元々主導であるくせに腹の力を発達させなかった多くの日本人は、未だに頭が偉いという幻想の中に浸かっているようである。少なくとも今の日本社会の価値観はそういう具合になっている。だから、日本的集団主義とか、日本的精神主義(根性主義)とか、世間体をやたら気にするとか、理系と文系の差にやたらこだわり理系は文系を侮蔑し文系は自嘲的になるような傾向、2ちゃんねる冷笑主義旧帝大とか有名私大に行けば勝ち組で大学は就職予備校主義、こういう日本的な独特のいやらしい卑屈な価値観の在り方は、根本的にはこういう歴史の中で溜まりに溜まってもはや腐ってしまったアンバランスに起因するであろうと思う。こんな長い間このアンバランスを自覚もしないで、ずっと我慢に我慢を重ねて来たのだから、この病はなかなか治らない、日本人は最早この状態が正常だと思ってしまっている。この状態が、麗しき、お、も、て、な、し、の国の姿であると心得違いを起こしている。私は喝を入れたい。喝!何というか、日本人が素質的に頭を使うことが苦手であるというのは、元々の個性の問題であり、別にそれ自身劣等とかそういうのではないのであるから、まずここに気付いて欲しいと思う。それに加えて、日本には、西田幾多郎先生などのように頭を使わないで頭を使うという、素晴らしいやり方の伝統が一方で確実に存在する(これが日本文化の独特のクールさの素だと思う。禅者にその傾向は強いのでは)わけであるから、我々がいわゆる「賢く」なりたいのであれば、まずはこういうやり方から始めるべきである。


またまた閑話休題をやらねばならなくなった、やれやれ。それで、また慢心の話に戻るのであるが、元来「腹」を主導とするやり方というものは、慢心を起こしにくいのではないか、と思う。それは腹というのが、全身の中心となる部分であり、言わば全身のバランスを取るオモリの役割を果たすからである。腹だけでは何もできないが、しかし全ての支えとなって、全てにエネルギーを与えることができる。ただ腹はそれ自身「縁の下の力持ち」であって、普通自己を積極的に主張しないから、もしそこにズカズカと他の者がやってきて、「我こそは主なり」と強く主張されてしまえば、そうなのか、と素直に思ってしまう。これが日本の歴史だ。天孫民族は古くは中国大陸からやって来たが、時代を下ってはヨーロッパから、そして近くはアメリカからやって来たというわけである。彼らは頭に優れるが、腹は頭ではないので、上にも言ったが、あたかも自分達が飛び切り劣等であるように思われて来る。卑屈になる。卑屈になったならば、とことん狡くなる。日本人同士の、あのくだらない、学歴とか社会的地位で、人々の価値を見積もり、お互いが人間の本質ではなく、「世間様」の見方のみで対する、こういう在り方が生まれて来る。日本の都会人の田舎人に対する蔑視は、多分どこの国にも増してどぎついものがあるのではなかろうかと思う。それは何度も言うように、日本人が元々「頭」主導でないのにも関わらず、「頭」こそが唯一の価値と強く思い込まされているからである。そしてこういう状況が一旦生まれて来ると、その内部での「慢心」の有り様もまたどぎついものがある。これが日本が世界に恥ずべき、島国根性というものである。日本人の薄っぺらな頭で、全世界を見、薄っぺらな頭で考えた取るに足らない価値を大事に大事に崇める。日本の職人技は、世界が賞賛している!である。日本における島国根性的な慢心の有り様を見ていると、非常に寂しくなる、悲しくなる(岸田國士も、「日本人とは?ーー宛名のない手紙」の中で色々と日本人のこの島国根性的卑劣さについて語っている)。私は日本に強く、強く誇りを持っている。しかしそれは「腹」主導の日本に対してである。道元を、親鸞を、明恵を、織田信長を、葛飾北斎を、鈴木大拙を、西田幾多郎を生み出したこの日本に対してである。そして彼らを真に日本的なものとして誇る時、慢心もあり得ない。頭で割り出した価値ではないからである。


それで、大まかには腹と頭との対比を考えれば、慢心の理屈もわかりやすくなるわけである。頭主導の民は、始めから慢心し易く条件付けられている。しかし彼らもまた自らあちこちぶつかって、失敗しながら学ぶことができる。その結果が理性である。だから彼らが言う「批判」とは、日本において薄っぺらく理解されるような「非難」の意味において理解してはいけない。これは真に理性的に、人々を協和させる在り方なのである。人と人とが、頭と頭とで衝突するのではなく、理性と理性とで分かり合う、そのための創造的な営みが批判である。私も今ここで行いたいのは、その批判なのである。だが、腹の民は、何でも受け入れてしまうため、一度バランスを崩せば、とことんまでおかしくなる。最後の最後まで目覚めない。


あえて単純化して言うと、ヨーロッパ人の「頭」は大人である。日本人の「頭」は子供である。慢心は、始めに言ったように、肉体的欲求を、高尚そうな理屈などで覆い隠す時に生まれるものである。ヨーロッパの理屈はそれでも大人なものであり、それなりに正当性があることが多いからこそ、その分だけ間違いがある時ははっきりと形に顕れ、気付きやすいものである。つまり理屈と理性が近いところにあるのである。日本人の理屈は、実に頭の先っちょで考えたものになりやすいから、なかなか手に負えないのである。日本人が理屈を主にするとき、日本自体元々、どこまでも何でも受け入れて行く「腹」の風土なのだから、とことんまで進んで行ってしまう。そしてぶち壊れても、そもそも何が本質的な原因で間違ったのか、気付かないから、いつまでも幼稚な間違いを繰り返すことになる。それが戦前の軍国主義であって、戦後のよくわからない平和主義もどきである。つまり軍国主義者はそのまま今の平和主義者と称する人たちになっただけであり、本質は同じである。ここに日本的慢心の醜さがあるのである。元々日本人にとっての、日本的理性は、腹を基盤にして初めて可能であり、そういうものはちゃんと日本の歴史の中に顕れて来ている。あとは日本人がしっかり、己の本分を理解できるかどうかにかかっている。そうしなければいつまでも恥ずべき島国根性的慢心を続けることになる。





❇︎慢心についての結論


さていずれにしても、我々は「心」としての存在なのであって、決して頭の存在ではない。頭もまた動物の身体の一器官であり、肉欲の源泉になる。覗き見的な知識欲求もまた肉欲とも言えるのである。そして頭の暴走による不調和を巧みに理屈によって包み隠すとき、ここに慢心が生まれる。しかし理性とは常に全身的「心」に基づくものであるということを忘れてはならない。頭が肉体を従えるところに理性が存在するのではなく、全身が全身ごと常に自己自身を常に省み続けるところに理性があるのである。心に固定した形がないように、これが理性であるという固定した形は存在しない。そして心にさえ誠実であれば、頭は後からいつでも着いて来る。


同じ「心」でも、頭偏重や腹偏重などといった色々の個性があり、それぞれがそれぞれの得意分野を軸に伸ばして行けば、理想的には最終的にあらゆる形での慢心は逃れられるのではないかと思う。それにはまず寝ぼけに寝ぼけている日本人が目を覚ます必要がある。「腹」はやはり、体の中心になければならないのである。そもそも、全てのものをその個性に即して正しく曇りなく評価できていたならば、あらゆる形での慢心はなくなる。西方の民が「頭」によって未だ慢心し続けているということも、実際のところ「腹」が目覚めず、世界の民がそれぞれの個性を正しく発揮する「場」を提供できていないから、そうならざるを得ない、という事情があるのではないか。世界平和、人類皆兄弟、こういう理想は絶対に「頭」で考え出した理屈では達成できない。社会主義で突っ走るとどうなるか、歴史に尋ねてみればよろしい。それよりも、腹は元々心に近いはずのものなのだから、この腹に基づいた日本的理性を自覚することが全ての始まりではないかと思う。頭は、他の要素も均一に「頭化」することしかできないが、腹は頭を頭として、手を手として、足を足として、諸々の器官をそれぞれそのところを得せしめてうまく働かせることができる。大将はどっしりと構え、それぞれの分野が得意な人たちにあとのことはやってもらえば良いのである。そういう世界こそが、無限に形から形へ、形が形を生み、どこまでも創造的に発展して行く、真の平和な世界を体現することができる。がんばれニッポン、と心から言いたい。