雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

絶えざる進歩の過程にあっても付きまとう不安

私は普段から自己自身の向上進歩というものをはっきり意識して生きるように努めている。私には怠惰の傾向、不精の傾向があるのであるが、同時に自己自身の得意なことに関しては、殆ど無限に探求し続けることができる、と自分では思っている。私にとって、学的なことと音楽とはいつでもそういう対象である。しかし日常の色々の社会的な事柄に関しては、私は殆ど無限にナマケモノである。困ったものではあるが、人間どうしても得意不得意というものがあり、社会性ということに関して人並みの能力を持ち合わせない私としては、この側面に関する向上進歩は一旦お預けにして、とにかく伸ばせるところを伸ばせるだけ伸ばそうとしている。色々問題はあるが、ともかくこれが現状の私であり、つまり私というのがこれ以上でもこれ以下でもない、そういうものである。


進歩というのは、我々霊的存在にとっては、はっきり言って唯一の喜びの源泉である。要するに草木がお天道様を仰いで歌っているのと同じことである。彼らもまた霊的存在なのであるから。


喜びと誤解され易いのが、快楽である。快楽は喜びではない。肉体的欲求というのは、肉体という有機体が持っている、生体維持の仕組みに基づいたものなのであって、それ自身別に悪でもなければ善でもない。ただ物体Aの持っている特性というだけである。しかし霊的存在にとっては、身体はあくまで乗り物に過ぎない。なぜか。それは我々の普段の意識を思い起こしてみれば簡単にわかることだが、我々は自己自身の身体を意識するのである。自己がこの身体に在るということがわかるということ、これ自体が実に大いなる不可思議事であることに、なかなか我々は気づかない。しかし冷静に考えれば、単なる有機体Aであるもの、我々の自己の視界の隅にいつもあるこの物体が、自己そのものの存在の単位である、ということ自体おかしなことではないか。物体は客観的世界においてあるものであり、客観的世界そのものというところからは、何かある焦点、中心を持った、自己という存在は出てこない。自己は客観的世界の中に身体としてあるもの、そう考えられるものでありながら、同時にどこまでも客観的世界自体を越えたものでなければならない。ならばむしろ客観的世界の「部分」であるということこそが、客観的世界を越えている、ということではないか。もし我々が単に「意識」としての存在なのだったならば、どうか。意識の純粋な在り方はただ物そのものを「映す鏡」であることなのであるから、実は意識それ自身に深まれば深まるほど、それは単なる「客観的世界」に近づくのである。そして意識が最も意識そのものと言える在り方となったとき、それはもはや客観的世界と区別できるようなものではない、ただそこにあるのは一面の現象であり、現象それ自身が自ずから、現象学で言う「志向的」な仕方で在る、そういうものが見られるのみであろう。だが我々の存在は常に世界そのものを相対化し、世界において行為することによって、実際に世界の形を変えることができるのである。もし世界にある諸々の「形」の有り様が、何か我々のような存在を超越した客観的法則によって支配されているに過ぎないならば、例えば物理法則によって原子と原子とが偶然的に離合集散して見かけ上の色々の「形」が生じるに過ぎないならば、我々が行為する、否、動物が何かを本能的に欲求する、ということすら不可能である。欲求というのは、すでに、その物体が単なる物体ではなくして、世界そのものを越えたものを持っているという証拠である。まして我々社会的存在は、単に欲求的であるばかりではなく、世界そのものを自己において掴み、理解し、その中での自己の立ち位置を自覚した上で、自覚的に創造的に行為し、世界の形を変える存在なのである。だから身体において自己の存在を持つ、客観的世界の部分である、ということはかえって、客観的世界を飛び越えているということでなければならないのである。自己の身体を身体として、つまり物体として認識する、ということは同時にその物体のおいてある法則的全体そのものを引っくるめて認識するということになるのだから、そういう自覚的な存在は始めからいわゆる主体的な存在、つまり世界を越え世界を作るものだということになるであろう。


それで真に喜びと言うべきものとは何であるか。そもそもこれについて論じていたのだ。肉体それ自身が持っている欲求というのは、言ってみればこの客観的世界の普遍的法則に類するものに過ぎないのであって、実際に「自己」を持つ我々のような存在にとっては、単なる対象的なものに過ぎない。我々はむしろ、これに捉えられずに霊的レベルでの欲求を果たすことの内に、つまり世界を超越した立場から世界そのものの形を創造的に作り変えることの内に、真の喜びを持つのである。喜びとは創造の指標なのである。では動物は単に本能的で肉体的欲求に従っているに過ぎないとも考えられるのに、なぜ彼らは彼らなりの喜びを持っているらしいのであろうか?それは動物が単に肉体的欲求的であるという偏見を改めねば理解できない。動物は肉体的欲求と霊的欲求とが一致しているのである。彼らは、基本的に何か人間的なものが絡んで来て彼らの心身に影響したりしない限り、その欲求が狂うことはない。いつも適正なだけ得る、それで満足する。縄張り争いでも、敗者は敗者たる運命を潔く受け入れ、勝者も勝者としての分を得るのみであり、それ以上の貪欲というものはない。動物社会はそれでうまく回るのである。霊的とは、全体的生命と一致するということである。それは私が上に言った「客観的法則」ということとは違う。法則は対象的なものであって、それ自身は生命ではない。生命は全体が全体自身を越えて行くところにある。そしてそれは全体がすでに自己自身の部分となっている、ということである。だから部分と部分との大統一として生命の働きというものがそこに現れて来る。さて人間的存在は、始めから単に肉体的欲求と霊的欲求の一致する立場ではなく、両者が相反する働きをなし得るということが前提となった存在である。動物にとっては肉体的欲求は客観的法則的な意義を持たない、むしろ生命の意義を持つ。だからそれは霊の幼さの反映とも理解できるであろう。人間の霊は成熟しているからこそ、肉体的欲求は法則的なものの意義を持ち、生命そのものは法則自身を越えて創造的に法則を作るところに存するのであるから、ここに肉体的な次元とは隔たった霊的次元の立場がはっきりと出て来なければならない。そしてそれこそが、人間には心、精神があるという我々の当たり前の事実の根拠なのである。だから人間であるという時点で、どこまでも霊的次元は霊的次元としてはっきりあるものなのであり、これからいかに目を背けようとも、あるものはあるのである。肉体的欲求を満たすということそれ自身にのみ魂の満足を感じることのできる段階はもうすでに過ぎているのである。だからここからどうにか逃避しようとして肉体的快楽に溺れるものは、動物的となったのではない、むしろそれはあまりに人間的なことなのである。なぜなら上に言ったように、動物においては霊的と肉体的との両次元の欲求は常に一致している。だから彼らにおいては肉体的であることが即霊的となるのだ。しかし人間においては、どう逃げようと、霊的次元があることは厳然たる事実なので、肉体的に逃げるということは、言わば霊的欲求を「微小」にするという意味を持っていると思う。つまり肉体的快楽をどこまでも求め続けるということ自体が、要するにすでに自覚的な事柄なので、その限りにおいて最小限の観念性がそこに見られる。だが意識的に肉体的快楽へと心を向けることができるものは同時に、霊的喜びに心を向けることができるのでなければならない。そして我々の存在の規定が霊的ということであり、しかもここに忠実になることによってしか真の喜びがないということ、これこそがあらゆる種類の快楽と、真の喜びとを分けるものである。



それで何が言いたいのかということ、ここでまた向上進歩の話が戻ってくるのだ。向上進歩と一口に言っても、果たして自分自身だけで、自己が本当に進歩しているのか、道を踏み外していないか、なかなかわからないものである。それについて私は常々悩んでいる。だから、上に論じたように、喜びと霊的進歩との絶対的な相関関係を明らかにすることによって、ここにこの問題にうまく答えるシンプルな指標が得られることになる。霊的進歩があるところには必ず真の喜びがある、ということは真の喜びがあるならば、その人は間違いなく進歩の道に今いる、ということである。いくら本を読み、いくら色々物を考え、なるほど私もこれで進歩したように思うことが多い。ところが、本当にそうなのか、客観的に確かめる術がない。我々の霊的進歩は数値的に表現できるものでもないのだから。それで私はいつも、一応向上に励もうと努めていながら、いつも退歩しているのではないか、と心配であった。そもそも色々なことを一度学んだとしても、忘れてしまうかもしれない。学んだことを、この一瞬に全部思い出せるわけでもない。だが、よく考えれば、そこに真の喜びさえあれば、いつでも私が学んだものは魂の武器庫にしっかりと保管されていることが保証されるのである。無論それは学んだそのままの形ではない。養分はそのままでは葉っぱや茎や根の形にはならない。しかし草木が喜びから喜びへと進むことによって生長するように、そしてそれによってのみ、全ての吸収した養分を活かしきることが可能であるように、我々もまた生長し続ける霊的存在であるということをよくよく弁えるならば、そう肩肘張っていつも学んだことを覚えていようとする必要もないのである。ただ霊的胃袋の消化に安心して身を委ねればよいのである。現に私はこれを喜びに突き進むことによって書き進めている。喜びにさえ進めば文字は自ずから走り出てくるのだ。喜びが見えなくなれば、また一旦立ち止まればよい。そしてそれでもどうしても見えないならば中断すればよい。ふと空に目をやればお天道様が微笑んでいるかもしれない。それで心が明るくなるならば、それはそれでいいのだ、中断する時であったのだ。また自ずから喜びは湧いてくるものである。喜びは、人間の存在の最も根本的な部分でありながら、人間の都合でどうにかなるものではない。そういうわけで、私は日々勉強に努めるわけであるが、必死に蓄えるように、こぼさないように知識を摂取するのではなく、学んで忘れるということ、これを心に置いてみたいと思う。そしていつでも、心に真に喜びがあるか、これを確認し続けようと思う。喜びは喜びを生む。一度喜べば、揺り戻しの悲しみがやってくるのではない。揺り戻しの来る喜びは喜びではなく、快楽に過ぎない。実にシンプルなのである。