雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

哲学の態度

私は哲学が好きであり、一生勉強し、考え続けたいと思ってるいるが、また哲学という枠に囚われたくもないと思う。私はいわゆる哲学者になりたくない。ただ哲学的実践をどこまでも続けて行きたいと思う。これに哲学という名が与えられなくても良い。要するに私は日々新しく私の目の前に現れて来るものを、全身で愛でたいのである。それができれば私は全身で歓ぶ、ただそれだけなのだ。だから、私はいわゆる「哲学」なる学問についてはおそろしく不勉強であり、読まねばならぬ哲学書もあまり読んでいないのだが、そしてこれから勉強して行くつもりだが、しかしそれとは全く切り離して哲学的実践そのものは可能であり、また可能でなければそれは本当の意味で哲学というものではないと思うのである。


哲学というのは、おそらく学問の中で、公然とその学問の枠の外に出ることのできる唯一のものだと思う。今までの「哲学」という枠で、いかなる形においても問題とされて来なかったものであるとしても、それが何らかの意味で、我々の現実における一事実という意味を持つならば、それ自体が学問の枠組みの根底を揺さぶる、新たな哲学的課題となり得る。自然科学などにおいても、なるほどそういうことはあるであろう。しかし、自然科学において、いかに「枠組みの根底を揺さぶる」としても、その基本的な研究手法そのものは変わるまい。なぜなら、いかに目新しい事柄であっても、自然科学においては、それは何らかの意味で一種の自然現象として理解されるのであって、つまり予め事実そのものを限定するある枠が前提されているのであって、そういうものに対して、これまで蓄積されてきた自然科学的手法そのものは、改良さえ加えれば有効と考えられねばならないからである。しかもそうでなければ、自然科学の学としての同一性は始めから存在し得ない。こんな目新しい現象ごときで、根底から崩れるものならば、始めから学と言うに値しないものであったのである。しかし哲学は、そもそも真に、背後に何らの枠組みをも持たない、根源的に「新しい」事実に出くわす。我々の自己は、物の集積としての一身体ではないし、何か心理学的な実体でもない、つまりある客観的(更にそれ故にむしろ主観的)な枠に当てはめることによって見られるものではない。自己にとって自己とは最も近いものでありながら、そもそも見ることすら不可能でなければならない。自己は常に世界の根源に接する。自己は無限に流動的で一定不変の姿などあり得ない世界そのものを、存在ごとで受け止める。最早汝と呼ぶほかないものに、常に面している。汝はその時々に、絶対の新しさを持ったものである。汝は「誰か」であるのではない。汝は誰でもない。しかし絶対の誰かでなければならない。それでいかなる立場のものであっても、哲学は根本的にこの汝というものに対するという意味がなければならない。汝こそが哲学の理念でなければならない。フッサール現象学というのは、それまでの哲学の伝統を一度全部取っ払って、改めて「事象そのものへ」として出発し、一からその研究手法を開発したことによって生まれたものである。しかもその手法自体、必要があれば、いつでもその根底から突き崩すつもりであったと言う。彼は彼なりの汝に誠実に向き合った時、どうしてもそういう方法を取らざるを得なかったのであろう。この徹底的にラディカルな姿勢こそ、哲学の態度でなければならないであろう。


私は、よく霊界通信だとか神示だとか宇宙人とのチャネリングメッセージだとか、そういう、世間にとっては「怪しい宗教的なもの」としか思われないものを読んでいる。無論ピンからキリまである、といった性質のものであるが、明らかにこれぞホンモノ、というものはやはり何か違うのである。バイブルや哲学書思想書などといったものと何も変わらない。これらもまた怪しい宗教的なものなのであろうか。いくら怪しいと言っても、あるいはそのまま客観的に証明できたりするというようなことではなかったとしても、それらはそれらなりに、その時々の人々、特に哲学者たちにとっての立派な「汝」の役割を果たしたのであって、そういうことがあるからこそ、これらが人類にとっての古典的遺産として現に現在まで伝わって来ているのである。哲学の研究対象となり得るか否かは、そこに汝があるか否かであり、それ以外にあり得ない。哲学の論理も、研究手法も、この汝に従って、その都度適切に組織されるべきであって、決してある枠組みを何か不動のプラットホームのようなものとして見て良いわけではない。プラットホームを改良することによって、新たな事実に対処して行くというやり方は哲学的というよりも、むしろ自然科学なものではなかろうか。


さて従来の哲学という枠組みに囚われていると、こういう事柄を、ある現実そのものを構成する一事実として、誠実に向き合うということをしなくなる。カントはカントなりの「全世界的現実」に立ち向かったのであり、ヘーゲルヘーゲルなりの、フッサールフッサールなりの、アリストテレスアリストテレスなりの、デカルトデカルトなりの、西田幾多郎西田幾多郎なりの、「それ」を持っていたのである。カントの統覚というものは、何か積極的な実体とか、ある定まった何かしらの意義を持つものではなく、むしろ消極的に、全ての「表象に伴い得るもの」として見られるものであり、それ自身は単にある「何ものか」としてしか呼び得ないものであると言う(中島義道『カントの読み方』)。つまりこれはカントがカントなりの汝に誠実に立ち向かった結果、我々の自己は、そういうものとしてひとまずは考えられる、分かるところまで分かった、そういうことなのである。西田も、カントはその末派に比べて直観的なものを大切にしたと言うが、これもそういうことである。カント哲学において色々言われるような形式的な規定は、これはカント自身の汝に立ち向かったやり方ということであって、カントの汝とこの今世界に対する我々の汝とは自ずから違うものである以上、必ずカント哲学の枠組みでは「ある一つの事実」としてさえ認識されない事柄がある、ということを無視すべきではない。霊界通信と言われるものも、心霊科学と称される学的運動の内部に見られるものなのであって、つまり我々の現実を現に形作る一つの形となっているものである。こういったことが現に存在し、しかもそれが従来の哲学の枠組みによっては、ただ何か狂人の閑事業らしきものとしかみなされないということであるならば、これへの哲学的検討の態度そのものが根本的に改められねばならない。哲学の論理は常に現実の事実に即し、現実の事実の内から生じるものでなければならない。哲学の論理も、西田が言うように、物となって見、物となって働くところにあるのである。心霊科学的に、あるいは日本神道的な立場で言う心霊学的に、規定され理解されるような「霊」あるいは「霊界」なるものは、果たして現実に存在し働く「物」の一種ではないのであろうか?しかしこれらもある客観的現象として、実際に物であると言わねばならない。我々肉体的存在が、「世界の個物」となり、創造的世界の創造的要素として働くことが可能なのは、常に内に深く霊的な真実が厳然と横たわってあり、我々の精神や行為が常にこれに根ざすものであるからである。まだ西田の時代においては、この霊的な真実とは、ある「物」としてはっきり理解できるわけではなかった。またそもそも霊的事実は、物に即してどこまでも物を越えたところにあるのであり、いかに心霊科学的に、精密にそういった霊的事象を理解し規定したとしても、その真に霊的な真実そのものはこれを絶対に捉えることはできない、そういう性質のものである。だが、やはり現代においては、昔は単に霊的領域として一まとめに「あちら側」に押し込むほかなかった領域それ自身の内に、より科学的に、客観的に切り込むことが幾らか可能になっている。そして物事が一旦科学化されるとは、それが我々の行為的現実を構成する物となり、我々の行為の内に生きることになる、ということである。すでにギリシャの昔から言われるように、人間はポリス的動物であり、ロゴス的に自己自身の存在をも媒介することによって、世界を形成して行く存在である。この理念は、時代によってその在り方そのものは変わったとしても、常にそれぞれの形で存在していなければならない。さて今までの時代では人はただ霊に使われるだけであったが、これからは人が霊を自覚し、霊そのものを導き、改良して行き、霊と人と一体となってこの現実の世界を作って行くのである。こういう歴史的局面に際して、こういう行為的存在の論理、霊的実在の論理というものが、この現実そのものに即して組織されねばならない。これが現代の「哲学」と称する学問の本来の課題であるはずである。こういう現実に存在している事実をすっ飛ばして、我々の意識の問題とか、存在の根源の問題とか、生死の問題とか、そういうことを考えても、一見ラディカルな思索であるようでも、その実は、従来の認識の枠組みを超え出ないものにならざるを得ないのではないか。そうした思索が無意義というのではないが、それは哲学の最深なる立場となることは始めから不可能であろうと思う。