雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

信仰とは何であるか(スピリチュアリズムなるものに関連して)

信仰は命がけのものであって、それも命がけと言ったときの、あの青春ドラマ式の「甘ったるい」ものを念頭に置いて言っているのではなく、文字通りの「命賭け」なのであって、人間の生命そのものの根源的な灯火であると思う。我々はこれを死守せねばならぬのである。たとえいかに不合理な現実ばかり目の前に現れてきたとしても、この根源の灯火だけは失われることはない。神とつながる胎盤である。仮に風前の灯火となったとしても、幾ら寒風に吹きまくられても消えることはない。弱々しきものがもっとも強いものなのだ。我々の生命は我々が思っているよりも強いものだ。


もし信仰というものが本当にわかっていれば、安易に布教しようなどとは思わない。ただ自己自身に可能な方法で、自己自身の魂の根源の求める栄養を吸収して行くとともに、現に行いによって示して行くことによって、なるほど事実上布教をするような役目を果たしていることになる、ということはあろう。だが人参は人参の、トマトはトマトの、白樺は白樺の育ち方があり、それぞれ別々の栄養が必要であり、これらの別を良く理解した上でそれぞれに合わせて適切な方法を施して行くのが真の宗教の立場であって、これはいかなる意味においても、何か高尚なる教義を掲げて、そこに凝り固まって良い性質のものではない。馬の身に養生となることが牛の身にも養生となるかはわからない。それよりも、馬は馬の、牛は牛の専門家にそれぞれ任せれば良いではないか。人は単にこの肉体の人ばかりで出来上がっているのではない。何らの意味においても布教とは(と、敢えて言わせていただこう)、まことに人それぞれに付き、彼らをサポートしている「霊」達の存在を無視しているということであり、人が人様を、教義の都合でどうにかできるという実に傲慢極まりない思想がそこに必ずある。我々人間が意図的に人様に何かしようなどと思わなくても、そのサポートの霊たちが、すでに各人に必要なのは、どんなものなのか、全てよく知っている。せめて偉そうに布教するよりも、布教「させていただく」の心を持ち、各人の守護霊の意向をなるべく掴むよう、細心の注意、微細な神経を働かせねばならない。ここが出来ないで、スピチュアリズムなる思想の教義を掲げて人様に何か説くことはできない。それよりも各人が、各人の窓から見えるお天道様をありがたく拝めば宜しいではないか。布教などと畏れ多いことを言わず、隣人に、お天道様がいるよ、とちょっと教えてあげるくらいでいいではないか。


私はこの際言ってしまうが、スピリチュアリストを自認するものにこの「宗教家」の傾向は大きいのではなかろうかと思う。本当に人生に悩み、魂の底から根源の灯火を求めるとき、この灯火には決して名前を付けることのできないということが理解されねばならない。幾らシルバーバーチが「大霊」と言うからといって、何でもかんでも「大霊」で良いのではない。シルバーバーチの霊訓なるものを、「地上人類に与えられた最高の啓示」なるものに祭り上げるのは、当のシルバーバーチが最も迷惑に思うことに違いない。だいたいそんな固定した地位などあり得るはずもないのである。シルバーバーチ自身が何度も注意しているではないか、神の真理は、その時代、その環境、その人に合わせて、その器に見合っただけ入って行くもの、そして時とともにどこまでも進歩して行くものである、と。シルバーバーチは始めから、自己が無限の歴史の流れに埋没する、一つの生命であることを宣言しているのである。もはやこれはスピリチュアリズムとか宗教とか霊的真理なるカテゴリーすら無意味である、根本的にはただ生命と言うべきものとして理解せねばならない。すなわち人参も馬も「それ」であるところのものである。全ての全てが平等なのである。偉そうに見えるのは、単にその時その場所において、そういう役割を、その必要に応じて過不足なく果たしているということに過ぎない。


本来スピリチュアリストたるものもこの自覚がなければならない。スピリチュアリストは言う、「我々スピリチュアリストは宗教などという愚かしい教条主義などとは隔たって、現代スピチュアリズムによる最高の教えの恩恵の元にあり、我々のこの素晴らしい教えを、皆にも広めなければならない、気高きスピリチュアリストとして活動せねばならない」と。それが「宗教家」ではないか。どうも律法学者と呼ばれたくてたまらないようである。理屈では何とでも言えよう。しかし理屈は理屈なのだ。立場を守る前に、その立場そのものを省みることが必要ではないか?


よろしいか。日本には日月神示というものがある。大本神諭などの神示の系統にある一連の(要するに)霊界通信の最も代表的なものである。日本ではこういうものはしばしば宗教(神道系)の形態をとって現れるが、それは日本の宗教というものが、本質において宗教的なものを越えたものであるからであり、本来の姿において、宗教への囚われというものがあり得ないからである。それでその内実を見てみれば、要するに、これはスピリチュアリズムというものと一致する。スピリチュアリズムと称するもののみスピリチュアリズムではない。スピリチュアリズムとは、いわゆるスピリチュアリズムの色々の霊界通信の言う通り、「地球神界の采配によって計画実行されている、人類ならびに地球の大規模進化事業」である。つまり何らかの意味で内実これに該当すると考えられるものは、「すでに」こういう計画のもとにある、と考えられねばならない。それがどこをほじくり回しても、いわゆるスピリチュアリズムと称するものとは無縁のものではあっても。儀文は殺し、霊は生かす。スピリチュアリストと偉そうに自称する者は、(そうでない人も居るが)しばしば「文は殺す」の態度で凝り固まっている。わざわいなるかな、偽善なる学者、スピリチュアリストよ、もっと、スピリチュアリズムと「称さない」スピリチュアリズムに目を向けるべきではなかろうか。あなた方は自分たちで思っているほどスピリチュアリストではない。イエスは宗教を説かなかった、愛を説いた、神を説いた。インペレーターやシルバーバーチスピリチュアリズムを説かなかった、愛を説き、神を説いたのである。




さて、信仰の話であった。信仰は生命の根源的事実であって、地上の生命が、意識していようといまいとお天道様に遍く照らされているのと同じことである。我々はすでにお天道様の恩恵に浴している。ただこれを意識すれば、よりその恩恵の有り難さが身に染み、よりサポートを受けやすくなる、というだけである。別にスピリチュアリズムなる教会の発行する免罪符をいただかんでも、我々はすでに赦されている。ノーセンキュー。


だから、我々はあんまり、何々主義だの何々イズムだの称するものそれ自体に囚われるべきではない。当たり前のことなのだが、人間はどうも縄張りの意識がいつまでも抜けないようで、スピリチュアリストを高らかに名乗るその人達が、その悪しき見本を示しているような有様である。これこそシルバーバーチが散々言う「地上人類の未熟さ」ではないか。始めに言った通り、信仰とは命がけのものである。生まれる時は一人、死ぬときも一人。信仰とは一人なのである。宗派ではない。どんなに辛くとも、どんなに悲しくとも、魂の深き底にあるものである。ここには憂も悲しみの波も届かないのである。ここに目を向けよ。神は必ず、必ず、待っている。どんな不遜なる、不誠実なる輩であっても、彼らをその罪においてではなく、その信仰において神は見つめているのである。罪に苦しむのは神によってではない、その当人が自分自身で苦しむだけなのだ。私はこの頃このことをよく実感した。私はハッキリ言って、神に見放されたと思っていた、結構本気で。しかしもう仕方ないから祈った。底からわけのわからぬ奮起の心が沸き起こる。これは理屈で説明できるものではない、名付けることができるものでもない。ただ心のちょっとした向け方らしいのである。これで、身体にたとえどんな毒が回ったとしても、それ相応の必要の援助が得られるようになっているらしい。もしそれでどうにもならず、この身体が死んでしまうことがあっても、それはそれで救われているのだ。また霊魂になって、そこからやり直せば宜しい。苦しくても、それは自分で苦しんでいるだけであって、自己が自己を苦しめたからその分が時間差で返って来ているだけだ。始めから神は恩恵しか与えていない。このことを、私はスピリチュアリズムなる偉そうな「宗教的縄張り」の立場から、シルバーバーチなりインペレーターなりの虎の威を借って述べるのではなく、個人的な実感として述べるのである。