雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

後ろを向いて後ろに進む

後ろを向いて、後ろに進んでも、前進はできるのだ。


哲学など理屈ばっかりで、後ろ向いて、同じ所に止まってばかりいるようなものに思われやすい。しかし哲学書を読んでいてもそんな感じはしない。やはり確実に「前進」しているのだ。要するに彼らは後ろ向きで、後ろに進む、ムーンウォークをやっているのだ。


ただ前を向いて前に進むというのでは、少年である。哲学者は、己の足跡、また後からまた前へ前へと進んで行く人たちをしっかりと見据えながら、あるいは彼らの案内者の役割を果たしながら、自らも進んで行く。しかし背後は何も見えない。進んで行く方に何があるか、わからない。哲学者は、ただ後ろを向きながら、その視点から眺められるものを総合的に判断して、我が進まん先が、とにかくいかなる方向であるか、また安全であるかを察するのみである。それだけの洞察力を持っていることが必要とも言えるかもしれない。またその傍らには、ちゃんと前を向いて、危険を追い払ってくれる強力な補佐が付いているかもしれない。


人間的知性は、大なり小なり、この後ろを向いて後ろに進むことによって前進する、という側面を持っているのではなかろうかと思う。


そもそも世界においては、全ての方向が「前」である。全ての方向が前であるのに、人間においては、ある一方が前であり、他方が後ろである。これは、方向そのものへのある反省があって、そこから積極的に前後を設定するという手続きによって初めて可能なことである。例えば、小学校から有名大学まで順調に進み、有名企業に就職、それなりの地位に就き、一応一生安泰、これが人生における前向きであり、中学校あたりで引きこもりになり、部屋にこもって自分のことばっかりやっている、これが後ろ向きなのである。


道とは、地面に引かれた道ばかりを言うのではない。道というのは、人間がそこにおいて具体的に行為して行く場所、まさしく現実的なものでありながら、しかもどこまでも観念的なものである。上に言った人生のコースなどといったものは、人間が勝手に観念的に設定したものでありながら、我々人間にとってはほかならぬ現実的な行為の「於いてある場所」の意味を持っている。獣道には前も後ろもない。人間の道には前と後ろがある。登山と下山の違いがある。公共の道路などは前も後ろもないと言われるであろう。しかし公共の道路は「前でも後ろでもあり得る」のであって、前も後ろもないわけではない。公共とは獣の法のことではない。人間はそれぞれ、自己自身の「前向き」を持っている、それが主体的な存在なのだから。人それぞれ別の前向きがあるということであってみれば、当然ある人の前向きと別の人の前向きとで、衝突することがあり得る。しかし、道路をそのまま十字にぶつけるのではなく、立体にクロスさせる、という巧いやり方がある。あるいは、一つの道に前後ろ両方の機能を持たせると、「取り決め」をしても良い。こうした考え方に基づくのが公共というものである。ユニバーサルデザインなるものも、やはり根本的にはこうした公共なる理念に基づいたものであると言えよう。だから人間には理性なるものがあるのである。


理性とは何であるか。二段階を考えることができる。まず第一には、全ての方向が「前向き」であるはずの世界に、人間的な実践的な必要性から、「前」と「後ろ」とを設定することであろう。そして理性的存在者である彼は、この設定が理性的存在者である限り、普遍的で絶対に妥当的なものであると、一応思い込む。そして我こそ普遍的な理性的存在者なのだと思い込む。我々人間社会に暮らす人々は、大抵自分は理性的だと思っているのである。そしてそういう価値観はなるほど、確かに風土、環境、民族、集団を共にするような人たちの間では概ね共有されるものであり、あまり衝突はないであろう。あるとしても、大きく見て、緩やかにその場の空気を支配した「伝統的世界観」の元に統一されることになるであろう。これに反するものは、単なる犯罪者、あるいは精神異常者に過ぎない。トンガっている不良も、いつしか「人様に迷惑をかけない立派な大人」になる。かく人間の生活は必ず社会的である。いかに非社会的な暮らしも、社会的ということがまずあって、その上で非社会であることが可能であるのみである。以上から「前向き」とは、一応我々が本来そこに進むべき方向、といったものになるであろう。こういう、社会に浸透する支配的な価値観は、一応我々の主体性をその根本から載せてくれる、一つの大きな道と考えられる。だから、この「道」にのって、前進しているか否か、これが第一の関心事項であり、見かけ上、北でも南でも東でも、あまりそれは関係ない、ということになる。そこでは多くの事象が(世界観に合致するという理由で)ひとまとめに「前向き」となり、多くの事象が(世界観に合致しないという理由で)ひとまとめに「後ろ向き」になる。人間的前、後ろ、というのは、実はこれだけの抽象性を持ったものである。


しかしこうやって設定される前、後ろ、とは、「後ろ」というものを積極的に設定することによって初めて可能なことである。後ろを向いた上でなければ前に進むこともできない。そもそも世界においてはどの方向も前なのであるから、その「前」が、主体としての私が真に進む方向としての前なのか、ただ前を向いて前に進んでいるだけではわからない。前を進んでいるつもりが、いつの間にか、自己自身の「理性」の示す道とは違う方向に進んでしまっているかもしれない。人間の世界にはしばしばそういうことがある。それはあらゆる種類の過信、狂信であり、それに基づいた愚行であろう。戦前の日本などはまさしくそういった有り様であった。皆自分が理性的であり、理性の示す正しい「前方」に進んでいると信じ込んでいる。だが、彼ら自身が「理性」だと思っていたものは、実は人間的理性と動物的本能の混合物であったのだ。


理性は、まず世界そのものを一旦省みて、そこから人間的主体の進むべき「前方」を抽象性かつ現実的に設定する、こういう機能が一次的であるが、そうして設定され、また主体的に実行されたものを、さらに省みて、その都度また「前方」に当たるものそのものを修正して行く、こういう二次的機能がなければならない。こういう理性の二次的機能は、残念ながら、我々の社会の「一般常識」なるものの関わるところではない。なぜなら、一般常識の範囲内で生きる人々は、一般常識以上の超越的権威などは考えも及ばないのだから。だから、彼らは、何も考えず、平気で「人様に迷惑をかけるな」などと道徳的なことを言う。彼らにとっては、こういういわゆる道徳なるものが至上命題である。しかし人様に迷惑をかけると言っても、単に無意味で迷惑であるに過ぎないものと、創造的迷惑というものがある。創造的迷惑とは何であるか。例えばキリストや釈迦の如きものである。彼らを迷惑とは我々は思わない。なぜなら、我々は、彼らのもたらした真の果実を、後の時代において、冷静に振り返って見ることができるからである。しかし彼らの態度や行動は、当時のそこに居た人たちにとっては、まったく非道徳的、迷惑千万なものであったに違いない。そういうわけで、物事は裏も表も見なければわからない。元々、我々が一般常識に、一般道徳的に、絶対の「前方」だと思っているものは、主体的に、理性的に、実践上の必要からわざわざ設定した、観念的なものなのである。後ろなるものを積極的に設定することによって、わざわざ前方的なものを限定したのである。しかし主体にとって、自己自身こそが、いつまでもたどり着けない一大不可思議物であるように、絶対の「前方」なるものも、本来蜃気楼のように、どこまでも彼方に求め続けられるものであるはずである。だからこそ、我々はいつでも、「後ろ」を振り返り続ける必要がある。なぜなら、我々が無造作に前方だと思っているものは、すでに後方であるかもしれないからだ。理性の最も本質的な機能は、主体の主体性を発揮させるために、常に前方的なものを正しく設定し続けるということにある。それは要するに、後ろを向きながら、後ろに進むということによって前進するということである。前方は常にある後方的なものである。前方と後方とは矛盾的自己同一の関係においてあるのである。


だから人々は、もっと胸を張って後ろを向くべきであろうと思う。一見社会常識にそぐわないものであっても、それが本当の意味で後ろ向きなのであるか、その実をよくよく見つめてみるが良い。後ろの後ろは前である。彼が後ろを向き、後ろに進んでいるならば、彼は確実に前進している。しかも単に一方的に前進するよりも、着実に、力強く前進している。表面上の後ろ向きに囚われるなかれ。


これが理性である。後進をそのまま前進として見ることができる。創造的後進というものが可能である。世界は作り作られるものだということがここにも現れている。普遍的真理など無いと言っているその当人が、ちゃんと一般道徳には従っている。彼は実に抜け目のないずる賢い人物である。そういう輩が実に沢山居る。普遍的真理は無いのではなく、その都度その都度新しく照らされるものである。その都度その都度問い直されねばならないものである。だからあるともないとも言えない、あるともないとも言える。こういう理性、つまり人間的知性が基となって、あらゆる学的なものが成立する。学は、理念的には普遍的真理を追求するものであるが、しかし追求されるということなくして普遍的真理そののも存在しないわけで、つまり真理そのものには絶対にたどり着けないわけである。