雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

未来について(時間論)

                                       一


動物には未来というものがない。人間には未来がある。未来という概念がある積極的なものとして考えられる。実際の事実として未来というものはない、未来というものを見ることはできない、またそれは現実に起こった過去の事実として見ることもできない。しかしその無いものが、人間社会においては、実際に現実的な事実としてあるかのような振る舞いをしているのである。なぜか、それは人間が行為的存在だからである。自己自身の存在の規定の内に、すでに社会的ということが含まれているからである。人間的存在は自己自身をすでに越えているのである。人間的存在として生まれて、そこから、自己自身を越えるのではない。すでに越えているのである。それは身体的であるということである。客観的世界に於いて在り、しかも客観的世界そのものを包む存在である。自覚的存在である。人間的存在には常に「これから」との結び付きが前提されている。


人間的存在というものを考えるには、他の種類の存在と対比してみるのが良いと思う。今未来ということについて言ったが、これも動物的存在と対比したときにはっきりと判明したものである。そもそも人間的生命の中には、物理学的なもの、有機物的なもの、植物的なもの、動物的なもの、全てが含まれている。単一の人間的身体というものでありながら、それ自身の内に、こういう歴史的「作り作られる」の過程が詰まっている。その「上」に、人間的身体が重なっているのである。人間的身体は一面に、ただ物理学的物質の偶然的結合に過ぎないものであり、また有機物の集合に過ぎないものであり、あるいは動物の一種であるに過ぎないとも考えられるのは、このためである。実際にそれは物理学的であり、化学的であり、生物学的であるような存在なのである。我々の精神なるものも、これらと離れて存在するのではない。我々は常に社会的存在として、かえって客観的世界にその存在固有の内容を投影することによって、自己自身の存在を知るのである(あらゆるロゴス的内容のことである)。それで、人間的身体というものは、どこまでもある現在的な存在でありながら、同時に歴史そのものを包んだ存在としてあるということになる。人間的存在の固有の生命を世界に投影するとき、必ずこういう歴史的生命全てを内に予め含んだ、という意味が含まれているのである(トーテミズムなどにはその示唆がある。またこれに関して、「ゆるキャラ」は、一種のトーテムと考えられるのではないかと思う。ただ日本という国のあまりのゆるさに力が抜ける思いがする。平和なのはいいことだ)。これは何も特別なことではない。歯を磨く、人と会話する、こういう何でもない人間的行動は、全て、こういった物理学的、化学的、生物学的、といった歴史的内容を含んで、その上に立ったもの、という意義を持っているのである。人はよく、自己自身を、単に偶然的にここに存在する生物に過ぎず、ある時何だか知らんが生まれ、何十年か生きて、何だか知らんが死ぬ、そして永遠にこの世界の内に消えて行くもの、そういうものと思っている。だが、そういう風に、時を包んだ広い視点から自己自身を見ている、その自分とは何であるか。自己自身がただこういう何十年かで死ぬ生命に過ぎないと考えるならば、その時を越えたものが、はじめからこの生命には含まれているということである。物質はすでに西田幾多郎の言う歴史的生命的なものである。


ここでは自己の身体は自己の駒となっているとも言えるだろう。自己自身の生命が実は見かけ上のものであり、実際は物理学的なものである、物質の偶然的結合に依るものであると見ることができるのは、まず自己自身の身体が、或る物体として見られるということがあるからである。自己自身の身体が、例えば感情を感じているとか、何かを考えているとか、そういうことではなしに、もっと無機的に、ある物体的なものとして捉えられるということがある。そうしてこういう見方を通して、自己自身の身体を「駒」として彼は行為するのである。それは単に動物的生命の立場からは不可能である。自己自身をロゴス的に媒介する社会的存在にして初めて可能である。人間は、自己自身の生命をその生きられたままにではなく、その死において見ることができるのである。人間は生まれたときから、すでに死した存在である。時を越えた存在である。そして自己自身の生命そのものを越えて、その死から見るということにおいて、生命そのものを更新するということが伴わねばならない。なぜなら、言うまでもなく、生命の死とは単なる死なのであり、また人間的存在は単なる死ではなくやはり生命なのだから。だが、人間的生命は、常に死を媒介にしたものでなければならない。常に創造的意義を持ったものでなければならない。人間がこうした存在であるからこそ、逆に、自己自身の身体をある無機的なものとして、見ることが可能であり、そこからその同じ「本質」を持ったものとして、物理学的世界観を持つことが可能になる。物理学的世界は、我々人間的身体や生物的身体などが存在する「前」に、まず在ったものであり、そこからだんだんと進化論的に、我々の今あるような身体的生命の姿が生じていったと普通考えられる。しかしそういう自覚そのものは、この人間的生命に於いて初めて可能であったことではなかろうか。もしこういう人間的生命がそこに存在せず、ただ我々が物理学的世界観において考えるような、物質的なものばかりがそこにある世界があると考えれば、そこからいかにして今のような生命が形作られることが可能なのであろうか。物質的結合がいかに今ある我々の世界と姿と同じような姿をとったとしても、我々のこのような世界を、このようなものとして認識するものがそこになければならない。単なる物質的結合ということから、我々が形相と呼ぶようなものはいかにしても出て来ることはできない。形相は超時間的なものとして、一面イデア的なものでなければならない。実は単に物質ばかりと考えられる世界においても、そこにすでに人間的生命があったのでなければならない。地球にそういうものがあったと考えられない、人間的生命はこの「ヒト」によって初めて現れてきたものだというならば、何か我々が未だはっきりと知ることのできない「未確認人間的生命」がそこにあったのでなければならない。誰であったか、イギリス経験論哲学者の言葉で、「自己の今見ないものは、神が見ているから存在しているのだ」というものがあったはずである(今ネットで調べたらバークリーだった。「神の知覚」によって物質は存在するのだ)。こういう具合に、常に何か人間的、自覚的知性がそこに在り、実際に自覚的にそういったものが把握されていない限り、物理学的な物質も存在することはできないと思う。デカルトも、我思う故に我あり、のみでは満足せぬ、精神と物体との背後にある超越的原因すなわち神というものを考えねばならなかったのである。客観的実在性というものは誠に不思議なものであり、常にそこに自覚的知性を前提しなければならない。西田が、世界の形は作り作られるものだ、というとき、無論主に念頭に置かれているのは人間的社会におけるそれであるが、その内実はもっと広い意味が含まれている。こういう物理学的世界もまた、作られた形としてあるのであり、物理学的世界「として」在らしめられるということなくして存在できない。そして物理学的世界を物理学的世界「として」自覚できるのは、自己の身体を「駒」として、すなわち自己の存在の単位そのものを客観的に無機的に把握できる存在のみである。


ここに不思議な問題が生じる。時というものは進めば進むほど、元に戻るのである。我々のずっと前にあったと考えられる、純粋の物理学的運動の世界(例えばビッグバン直後などはそこに生命などないと考えられる)、こういうものは原初の原初にあるものと考えられるのだが、それはむしろ我々のような人間的生命において初めて自覚されるものであって、しかも世界の全ては自覚的に存在するものなのだから、ビッグバン直後的な世界においてむしろすでにこのような人間的知性の存在を前提とせねばならない。より原始的であるほど、そこにはより高次の知性が前提されねばならない。なぜなら、自己自身が、その「中」に駒として存在することによって、初めてそうした原始的世界は原始的世界として存在することができるのだから。自覚的に把握されることなくして、いかなる物理学的物質も(すなわち素粒子や原子などといったもの)、具体的に世界の形を作るものとして、それぞれの具体的座標を持って相互作用し合うことはできない、つまり現実的に世界が展開して行くことはできない、そしてその展開した事実が、現に我々のこの人間的現実に、現実の事実として結び付くこともない(動物的生命もまた人間的知性が介在せねばならぬ、これは類魂の考え方から説明できる)。物理法則というものが純粋に超越的に元から存在するならば別だが、物理法則なるものも、物理法則として自覚されたものに過ぎない。超越的なものとしてあるように考えられるのも、そもそもそういう風に考える存在が、元々超越的存在だからである。あらゆる生命の存在しないと考えられるビッグバンにおいて、すでに最も微小なる要素(一応それを素粒子であるとしておこう)の内に、こういう自覚的、人間的知性がなければならない。こういう自覚的知性がその要素に存在丸ごと入っていて、法則を自覚的に行為的に把握するのでなければ、要素は要素と作用し合うことも不可能である(ここにも西田の言う行為的直観的なものがなければならない)。そして人間的知性なるものは、何かよく分からぬ仕方で始めから存在する絶対精神的なものではなく、それもまた「作られたもの」「具体的歴史的過程を経たもの」でなければならない。つまりビッグバン以前に、ビッグバンから人間的生命に至る一式の歴史的生命の進化の過程が前提されねばならないのである。しかしそのビッグバン以前の、ビッグバンから人間的生命までの過程そのものも、またそれ以前に同じような歴史的生命の過程を前提せねばならない。こうやって無限に遡って行った先に、何か究極的な根源に行き着くかと言えば、決してそうではない。なぜならば、どんなに遡っても、我々はそこに過去の果てではなく、未来の果てを見なければならないからである。時というものはまことに不思議なものである。それは直線的なものと考えられながら、突き詰めて考えれば、むしろどこまでも同じところをぐるぐると回り続ける、しかもどこにもその始原をそして終末を見ることができないものと考えられる。なぜなら、未来の果ては、また過去の果てになるからである。ひとまずこういう時の在り方から言えるのは、我々のような人間的生命の行き着くところは、再び、ビッグバン的なものであるということである。我々人間的生命はその進化の果てに、素粒子的に高度化された知性的身体を持つようになるのであろう(おそらく他の天体の人間的生命と呼応したりして)。だが、そこに本質的な意味での進化というものはあり得るのであろうか。こういう無限の廻転を直観して、ニーチェ永劫回帰などと言ったのであろうと思う。しかしやはり時は、廻転を越えて進化するものと言わねばならない。我々は現にここからここへと進行して居るのであり、この直証の事実がすでにそれを物語っているのである。ただ、以上から生命の進化というものを、単にこういう風に、物理学的、生物学的、人間的、という風に、生命の担うある「意味内容」の直線的進化として見ることはできないであろう。そこには常に新たに生まれてくる課題に面するという意味がなければならない。課題は課題を生む。課題に何かしら一般的な解決があると考えられる(そしてそれが、物質から人間への進化と考えられる過程において生命のはずみが直面した「課題」の有り様である)内は、結局幾ら直線的進化の過程を考えてみた所で、必ず、こういう無限に廻転し続けるだけの永劫回帰的世界というものを考えねばならない。我々がこの永劫回帰的な在り方そのものを自覚し、その「外」に出るとき、初めて我々は真の直線的世界、すなわち真に現在自身の課題を持ち、現在自身の解決策を持ち、自己自身から作り作られて行く創造的世界というものを考えることができる。全ての時を越えた場所は、他ならぬこの「現在」なのである。我々の主体的視点は、宇宙が宇宙の全歴史を回顧したものとして存在するのであり、その過去の記憶を塗り替えるために存在しているのである。過去の内容が塗り替えられるという意味を持つとき、これが現在というものなのである。過去から単に直線的系列的に、時間的に延長した先にいわゆる現在とか未来が並列的にあるのではなく、そもそもいわゆる過去は元々無限の未来の果てまでを含んだある内容であり、この過去の果てから未来の果てまでの一つの「円環」の外に出るために、過去の記憶の内容そのものの「中」に入って行って、新たに真の未来を生み出すのである。だから現在というものはどこまでも超越的なものと考えられねばならない。単なる意味といったものを越えていなければならない。どこまで無限に深い「意味」をそこに込めても、純粋に尖端的であるところの「現在」の内にあるものに過ぎない。現在から現在へ、とは質的な断絶であるが、現在における無限の歴史的内容(無限の未来をも含んだそれ)は、現在から見て単に量的なものに過ぎない。



                                      二


さて、我々人間的生命においては、なぜ未来というものが存在するのか。今論じたところからまた新たに答えを与えられるであろう。それは上にも言ったように、我々は過去の記憶の「中」に、身体的に入り込んで行き、過去の記憶の内容そのものを新たに塗り替えるからである。時を越え、全てが現在であるはずの自己が、宇宙的過去を回顧し、その中に駒として入って行くからである。つまりすでに未来を前提した過去に入って行くからである。時というのは、過去から未来まで、どこまでも直線的であり、無限の内容を含んだ、大なる系列と考えられる。そしてそのような系列の優れたモデルとして考えられるのが、進化論的な過程(更に言えばそれをダーウィニズム的にではなく、ベルクソンや西田のように歴史的な生命の過程として把握したもの)である。しかし単にこういう世界観が考えられ、しかも西田において言われるようにそれが、常に現在自身の課題を持って、主体的に作り作られる無限の過程の結果であると考えられるものであっても、厳密に考えれば、上に言ったビッグバン以前というものが考えられねばならず、しかも時は無限に永劫回帰的に廻転し続けるものということにならねばならない。西田も、物質がすでに歴史的生命なものであり、意識を含んだものでなければならない、ということを論じているが、しかしそういう歴史的生命的なものが物質に含まれるとしても、歴史的生命的なものはやはり作り作られる過程の結果として我々の人間的生命において見られるようなものとしてあるのでなければならない。そういう風に、物質に元々含まれるという歴史的生命を、やはりそれ自身も歴史的に作られたものとして見ないならば、そこには結局ヘーゲル的な絶対精神的なものが考えられることになってしまうのである。しかしそういう何か観念的な究極的なものというものを考えるのは、西田の本意ではないであろう。我々においては、もっとその先に進んで、西田の明らかにした歴史的世界の論理の内実を、特に「時」というものの本質を明らかにすることによって、より精密に明らかにして行く必要があると思う。


それは我々の主体性というものを厳密に明らかにすることによって可能である。西田もしばしば、我々の歴史的世界は、無限の過去と無限の未来との矛盾的自己同一として現在から現在へと動いて行くものである、ということを言っている。現在というものは、すでに過去の果てと、未来の果てに触れたものと考えられるのである。しかし過去と未来とは、現在に質的に断絶したものとも考えられる。過去も未来も言ってみれば全てそれ自身の視点からは現在であるものなのである。しかし同時に、過去と未来とは、この現在において見られたものでなければならない。ある一つの具体的な直線的系列として考えられねばならない。そこで、どこまでも進化論的な系列、時の始めから終わりまでを含んだものが、この主体的現在そのものの内容として考えられねばならない。我々は大宇宙の終末に際して、宇宙的自己として、自己自身の記憶の内に潜り込んで、その宇宙の全過程を自己の記憶を背景にして、再びこの「人間的生」を生きているのでなければならない。だが、我々の自己とは単なる宇宙的自己であろうか。無論そうではなく、やはりこの自己、つまりある人間的身体を持ったものであり、地球の歴史にその創造的要素として参与し、地上のこの時に、何がしかの位置を持った存在である。我々は単に時というものを越え出て宇宙的自己であることはできない。しかし時というものが考えられるには、この人間的身体的自己であるとともに、同時に宇宙的自己である、ということがなければならない。この身体的現在において、真に全宇宙の歴史を含まねばならない。ここから考えれば、我々の主体と主体との相互作用は、全て全宇宙の歴史と、全宇宙の歴史との関係と考えられねばならぬのではなかろうか。我々の主体と主体との関係は真に創造的関係と言わねばならないのである。主体とは単にいわゆる人間的主体と考えられるものだけではない。我々の現実に現れる全てが「汝」の意義を持たねばならない(ブーバー「我と汝」にも、ある樹木を我々が理解するのは、それを色々な性質の綜合としてではなく、端的に「汝」として直接の関係に入り、その全体を直接掴むからだと言う)。例えば目の前の机が、文字が、画面が、すでに汝として、主体である。しかし我々人間的主体として考えられるものは、特に自己の存在をこの世界において自覚するものとして、特別に主体的意義を持つのである。そしてこれら主体と主体の相互限定によって一つの形が作られるその現実は、それが全宇宙の歴史と全宇宙の歴史との無限の関係であるが故に、全ての時を作り替える意義を持つ。ある宇宙とある宇宙はその終末において「反りの合わぬ」関係であったかもしれない。しかし、宇宙的記憶の中の、「今ここ」において、再びその関係の建設的な修復を行うことができる。我々個人と個人との関係は、単に個人と個人との関係といったことを越えて、すでに宇宙的意志と宇宙的意志との関係であるとも言える。我々はいついかなる場所で、いかなる人に出会うか、知らない。人と人との出会いは偶然、一期一会とも言われる。しかし、或る人は私にとって、初めて会うのにまるで百年昔からの友人であるかの如くであり、或る人は逆に百年昔からの仇敵であるかの如くである。この不思議は、我々の個人と個人との関係にすでに、それよりも深いある宇宙的意志が絡んでいるからと考えねばならないであろう。


話がポエムになりかけている。ここでの主題は、我々の主体性が全時空を含んだものだということであり、過去の果てと未来の果てを常に内に含んだものだということである。宇宙的主体性と、時というものの本質を考えるために、いますこし議論を進めよう。


さてここで、上に少し精神現象学的に描いた、宇宙の永劫回帰的な在り方を思い起こしてみよう。今未来の果てに立っている。そこでは、我々の存在はビッグバン的に高度化された知性である。最も原始的にして最も高度化された知性である。さて、変な問いであるが、ビッグバンとは単一なものであろうか、それとも多数であるものであろうか。我々の世界の当たり前な現実を振り返ってみれば、それは次の通りである。まず、客観的世界、あるいは客観的事物なるものがあって、それに対して、これを部分的に切り取る無数の観点が前提される(中島義道は、『不在の哲学』において、この有り様から深く時の性質を明らかにしようとした。今ここには触れない)。それは人間的主体において可能なことであるが、しかしまた全ての時においてそういう在り方になっていると言わねばなるまい。つまり全ては歴史的事物なのであり、世界はモナドジー的に存在するものと言わねばならない。世界は常に、あるパースペクティブから見られたものとしてあり、しかもやはり一つの全体であらねばならない。部分が全体であり、全体が部分でなければならない。多において一が、一において多が表現されねばならない。つまり「世界全体」として考えられるものは、常にある「部分的観点」という意味を持たねばならないのである。その論理を今ここでビッグバン的世界に適用してみればどうなるであろうか。それは宇宙の全てが収束する絶対的一点として、世界のある絶対的な統一である。しかしそれは同時に無数の観点を含んでいる。しかもその無数の観点は、要するにその一々が世界全体でなければならない。そしてビッグバン的世界は、世界の終局としてそこに全時空的な歴史的過程の全てを包んだものなのであるから、実はビッグバン的世界とは、全時空と全時空との関係と考えられねばならない。先に我々の主体性が全歴史と全歴史との関係であると言ったが、その如くに、それは全時空と全時空との関係でなければならない。そこにもはや直線的なものを見ることはできない、円環的なものを見ることもできない、ただ絶対の虚の一点、しかも絶対の淵なき拡がりとして、真に絶対無と考えられるものでなければならない。世界の全ての時はそこに消える。何も無い。私はこれがブラックホールだと思う。我々の宇宙において普通ブラックホールと言われるものは、要するに世界ののの本質的な「時の歪み」を、もう少し程度を落とした仕方で表現したものであろうと思う。そもそも我々の世界がその根源においてブラックホールなのである。


だが、これは主体性というものをその極限相において見たものであって、実際に我々の目の前にある主体的現実はそのようなものではない。それは形と形との世界である。ブラックホール的世界は、実はこの世界そのものの在り方なのであるが、実はここには創造的ということが、その具体相において考えられていない。創造的ということを、その純粋に尖端的な局面において見たとき、そこにブラックホール的絶対無が見られるのでなければならない。つまり我々の主体は一々創造的で行為的なのであるが、それは一々の存在がブラックホール的に行為するものである、ということである。だから各人が各人の絶対の内的空間を持つものと考えられるのである。全ての時空を超越した「現在」なるものを内に持つと考えられるのである。しかし今言ったように、実際に現実にあるのは、形と形なのである。いかに考えられねばならないか。形と形とが世界の相なのであれば、それは究極的には、世界の根本的な在り方が、ある観念的なものといったものとして形相的に説明できてしまうであろう。つまり世界はある無限に深い「意味内容」の映像ということに過ぎない。そこにいかなる実在性もあり得ない、現在というものもない、ただ世界はある究極的な一般的なものである。しかし実際にそうではあり得ない。我々の現実に面する「形」の世界は、やはり行為的尖端的な創造的世界であり、実在的世界と言わねばならない。それは、一面どこまでも意味内容的に考えられる「形」というものが、それ自身の内に全時空を持った、真に主体的なものと考えられるのとによって初めて説明可能な世界である。形は、いかなる形であっても、すなわち我々の妄想でも、抽象的思惟の内容でも、ペンでも、全て、全時空的主体である、宇宙的主体である、ということであり、自己自身に他の一切を包むという意義を持っているということである。我々が「現在」において面するこうしたあらゆる形が、全て全時空、全宇宙的主体だと考えねばならない。そして、こうした具体的関係において常に全時空的内容を作り替え続ける、という意味を持つとき、そこに真の意味で未来を見ることができるのであり、これによって初めて真の創造性というものが明らかになるのである。


さてここから、これを説明するものとして、パラレルワールドというものが考えられねばならないと思う。我々は常に、ある定まった未来の内容を抱えて生きている。なぜなら、我々が今見ているこの人間的社会の現実は、実は「過去の記憶」の中のある一コマなのであり、我々は宇宙の終焉から、その失敗を取り返すために過去に戻ってきているのだから。今、ここに居る「私」は、なるほど、この地球という場所に居て、ある人間的身体を持った存在である。しかしこういう「形」を持ったものとして考えられる限りの「私」とは究極的には、ある形相的なものであり、一般的なものであり、真に尖端的な創造的なものとは考えられない。しかしまた現実の事実として「私」は尖端的な創造的な存在なのである。それは、この同じ私の姿の「形相」を、すでに色々の宇宙的主体が共有して使っているからである。この宇宙的主体性において「私」の根源的な自己同一性はあるのである。同じ映像として同一であるように見えながら、実はそこに幾つもの、未来が重なり合って存在して居る。しかしこれらの色々な「未来」は、実はこの宇宙的主体性からすれば、色々なパターンでのすでに果たされた「過去」の記憶に過ぎないのである。我々が行為する。行為する前に、幾つもの選択肢を思い浮かべる。ここで、私のこの「形相」をそのまま現在と考えるならば、未来は幾つも枝分かれしたものと考えることもできる。しかし、それらは私のこの身体の現在の形相をすでに共有している、無数の宇宙的主体(無論モナドジー的に内的連関を持った)がすでに「過去」に為した色々の選択肢である。過去の記憶である。もしこれらの選択肢に矛盾があり、一方を採ったときに、他方を採らなかった後悔が残り続ける、というならば、これらの宇宙的主体には矛盾があることになる。そのまま進めばその宇宙は、終焉において失敗を迎えた、その宇宙ということになる。彼は失敗したから、またこの「私」の形相のある現在に戻って来たのだ。そして、「私」が、ここで、あらゆる選択肢の内に矛盾が生じないような、そういう行為選択の仕方を考えるならば、それは行為選択そのものに創造的なものが含まれていなければならない。そこに、「私」の形相にまつわる色々な全時空的歴史を統合し、新たに命を吹き込む意義がなければならない。そして、我々はこういう真の創造的選択に、実は日常出会っている。なぜならそこでは純粋に、現在のブラックホールに埋没することによって得られる、魂の底から湧き上がる「喜び」が必ず見られるのであるから。「喜び」は創造の指標である。かくして、先に矛盾を為していた宇宙的主体どうしはここで円満に統合されることになったのである。我々はこの具体的行為的現実において全時空そのものを動かすのである。しかし統合した先にも、またやはり未統合の宇宙的主体が幾つも、この「私」の形相にすでに重なっていると言わねばならない。こうして考えれば、実は全時空的な宇宙的主体とは、その時々に新しく生まれるものであると考えられる。我々の主体的現実は、これら宇宙的主体にとって、無限の未来にあるものと考えられるのだが、しかし宇宙的主体が、現在において新しく生まれ続けるものだ、という観点から見るならば、宇宙的主体的なものはまた未来的なものと言わねばならない。これは全く不思議なことである。


こういう在り方は、つまり「行為的」ということを全ての鍵として理解せねばならない。実はいわゆる過去も、未来も、「現在」において同時存在するものであり、それぞれが独我論的自己としてありしかも相互に行為的に作用し合っている、という論理から理解されねばならないであろう。全ての時はこの現在に同時存在するのである。なぜなら、全ての時は、一々全時空、全宇宙そのものなのだから。一瞬前の「私」と考えられるものはすでに私ではない。それはむしろ、この現在において「私」に対するものとして、実在的他者なのである。しかもその実在的他者なるものは、この絶対的現在における尖端的「私」から、やはり過去として位置付けられるものなのである。しかしこの尖端的「私」から見るとき、この世界の内容は全て「過去」の意義を持たねばならないのである。絶対に尖端的なものが真の「私」であり、それがいささかも「内容」化するときは、それがいかに未来のものと考えられるものであっても(例えば将来の行為の選択、あるいは未来の想像)、すでにそれは過去の意義を持たねばならない。しかもそれは同時に未来とも言わねばならない。つまり、「私」が、主体性に深く潜れば潜るほど、そこに現れて来るのは、人格的他者的な意義を持ったもの、すなわちそれぞれがそれぞれの履歴を持ち、またそれぞれがそれぞれの意志を持つ存在、過去的と未来的とを併せ持つ存在、ということになる。そして究極的には、この「私」と考えられるものが、すでに「私」に対する人格的他者なのである。


それで全ての存在が全時空的主体、宇宙的主体だ、と言うならば、なぜ、この私が、このような姿で、このような場所に、こうして在るのか、これはまことに謎と言わねばならないのである。しかし私はただ、この「形相」的な存在は、実は全時空的主体なのだ、と言うことができるのみである。何かそこに深い深い意味があり、今こうしてあるのにもちゃんと意義があるのだ、そういうところまでしかわからない。私がその最も深い意義を発見する、ということも、また私自身の行為によって創造される真の未来へと託された仕事である。しかし創造はまた新たな謎を生み、謎が謎を生み、、、頭が痛くなる。


随分形而上学的な、変な話になり、私自身もよくわからなくなってきたが、実際パラレルワールドとは、「変な」話なのではない。また変な話であるにしても、今はそういった超絶形而上学深みに嵌って行く意味はない。私はただ我々の現実における主体的現実というものに関連付けて、「未来」の概念を手がかりにして、時間の本質を明らかにしたいのである。それで、ここに「パラレルワールド」なる概念が導入されねばならないことが明らかになったのである。そしてそれはまことに現実が現実であり得る唯一の仕方である。これに関してもう少しわかりやすい角度から見てみよう。上にも言及したが、我々が行為に際して、行為の姿を思い描いたり、行為を選択したりする、ということは、すでにこのパラレルワールド的主体性を意味しているのである。未来として想像された選択肢の内容は、「色々の、可能な将来の現在」ということなのだから、そこにはつまり同時存在する、しかも相互否定的に、相互並存的に存在する無数の現在というものがそこに前提されているのである。そこでは我々の身体が、文字通り「駒」となるのである。西田の言う「道具的」というもの、すなわち代替可能である、ということである、この身体の「形」が、この特殊な形であるままに、ある一般的なものとなる。しかも代替可能なのは、単にこの駒だけでなく、今実現しようとする「形相」そのものについても同時に言えるのである。なぜなら形相は、その駒自身が内に持っているのだから。しかも形相を代替しても、形相の自己同一性は失われることはない。なぜなら駒はそこに駒として在り続けるのだから。つまり駒にとっては、形相そのものが駒の意義を持つのであり、ここでは駒は形相の形相なのである。それで我々には、未来の複数の可能性を内に思い描「行為選択」なる能力があるのである。右に動かすも良し、左に動かすも良し、である。その行為の結果について言えば、なるほど、ある選択によって著しく不利益を被るかもしれないし、あるいは逆に利益を得るかもしれない。しかしそのいずれにしても、その行為の結果は「世界の結果」として、創造的に反映されるということを含んでいる。それらは本質的に一つのものとして、つまりある独特の新しい主体的状況を作るものとして理解されている。駒が形相の形相である、ということから、実現される形相そのものに、始めから一定の範囲の任意選択の幅がある。パラレルワールドというのは、この「一つ」の主体にとって、ということを含むからこそ意味があるのである。単に同時並存する異なる複数の世界というだけであれば、仮にその様態にいかなる類似性があったとしても、本質的に、これらをある一つの大宇宙の要素をなすそれぞれの部分的宇宙として見ることはできない、従ってこれらの宇宙と宇宙とが関わり合うこともない、単なる没交渉である。もしそうならば、結局は宇宙は単なるこの一つの宇宙だけ、ということになってしまう。パラレルワールドとは、あくまで、ある一つの主体性に統べられるということを前提としなければならない。だから、この現在における行為選択の局面において、パラレルワールドが複数未来において見られるということは、その未来の未来におけるそれらの言わば再統合、大統合を前提している。一から多へ、多から一へ、という図式がここで見られるであろう。この過程を、一から一へにおいて見たならば、それは私という主体がこの過程において創造的に更新するということを意味する。もし始めからこのような未来への行為選択がただ一つのものしかありえないならば、そこにはただある目的的なものがあるのみである。そこにいかに行為らしき格好があろうとも、それは真に行為とは言えないのである。行為は、あくまで複数の選択肢が可能であるということを始めから含んでいなければならない。そしてこれら複数の選択肢が、未来の未来において創造的に統合されるであろうということが、この現在の主体において始めから規定されているのである。現在の主体的「一」は、すでに西田の言葉で言って多と一との矛盾的自己同一の意義を持っていなければならない。行為というものは、この無数の未来(しかもこれを上に論じた全時空的主体性、全宇宙的主体性という観点から見れば、一種の過去である。なぜなら、全ては現在において同時存在なのだから、「私」の現在以外は全て過去と見得るのである)というものを媒介にしてどこまでも自己から自己へと、無限に形を作り続けて行くのである。


こうしたパラレルワールド的主体性という観点からは、「私」なるものが、私であって私でない、すでに無数の他者と自己との関係である、ということがやはり考えられねばならないであろう。我々が記憶というものを持ち、そこにおいて自己の過去の行動を再生したりすることや、また未来の行動を想像したりすることは、尖端的「私」にとって、すでに実在的他者というものがそこに在り、この尖端的現在において相互限定的に、現在の形を作っているのだという論理から理解されねばならない。この時、この唯一の「私の身体」と思われるもの、つまりこの自然において、風土において、また社会的地盤においてあり、この時この場所から行為する人間的身体として今現に見ている自己自身の身体が、実はすでに真に具体的特殊者であることを離れて一般的「形相」の意味を持っていると言わねばならない。そうであって、初めて我々は自己の行為を自己自身によって見る、すなわち自覚的であることができるのである。またそれによって自己の行為を記憶したり、また想像したりすることが可能なのである。そしてこれは要するに身体のロゴス化とも言うべきものである。それはどこまでも特殊なるもの、尖端的、現在的なるものが、そのまま一般化されるということであり、これは真に創造的な存在において初めて可能なことである。自己自身が自己自身であって、すでに無数の他者と自己との関係である、ということ、こうした視点から、また霊的存在といったものについて考えてみなければならないのではないかと思う。上に論じたように、純粋に物理学的物質のみ存在すると考えられる環境であっても、それが歴史的世界の自己形成の過程と考えられるならば、そこにすでに人間的知性というものがなければならないのであって、我々の「この次元」ではそれが考えられないというならば、そこに、同時並列的に重なった他次元の霊的存在、つまり人間的知性の関与があったと考えねばならないのである。我々のこの自己が面する現在も、どこまでも尖端的なものであるが、この身体という形の中に収まった主体的存在が、この立場から、自己自身の形を越えた未来的内容を想像し得るということの不思議を考えるならば、そこには無自覚的ではあっても、霊的存在の関与というものを考える必要があるのではないかと思う。霊的存在といっても、要するにこれもまた一つの形に過ぎないのであり、形と形との相互限定的に形から形へと作り作られて行く世界における一つの相に過ぎないのである。霊的存在というのは、我々にとって何か得体の知れぬものというわけではない。昔はそうであったかも知らぬが、今はいわゆる心霊主義(スピリチュアリズム)なる思想潮流や、日本においては神道系の新宗教などにおいて、こういった事情を強く支持する思想や研究が行われている(またこれに関連して多くの霊媒が活躍している)。しかもそれはこの歴史的世界における自己形成の一局面として、ユング心理学シンクロニシティ的に、何か世界史的に呼応するように必然的に現れてきたと考えざるを得ない、強い内的連関を持っている。霊的存在といった視野は、今や現実的で体系的な社会的事情なのであり、世界の現実を現実に即して説明するということが根本的使命である哲学は、こういった事柄をもはや無視できないであろうと思う。これらの心霊研究は、なるほど確かにその質には未だムラがあるものであると言えよう。しかし実際に哲学的検討に値する多くの研究が遺されているのも事実である。アラン・カルデックや浅野和三郎といった先賢達の優れた研究を、今我々は現に手に取ることができる。西田の言うように、世界は歴史的生命として、その時代時代の課題を持ち、その課題を自己焦点として、形から形へと創造的に動いて行くものなのである。西田の「矛盾的自己同一」の論理から出発して厳密に主体性というものを考えて行けば、やはりどうしてもこういった霊的存在の問題に行き当たらねばならない。また西田自身は、こういった霊的存在の問題にはっきりとは触れなかったが、彼の生きた時代は、まさしく心霊主義教派神道系の新宗教などといった思想潮流の大きく起こった時代であった。また同じくこういった時代に生きたユングシンクロニシティというものをここにも見ることができる。ユング心理学は、西田の言う歴史的生命の、心理学的自覚の形と言うこともできるであろう。現代はこういう時代の延長にあり、我々は一層深い立場から、こういった諸々の思想的立場の真の統合点を見出すべく努力すべきであろうと思う。




                                           結


現実の事実として未来というものはない。しかも未来と呼べるものは、すでに過去の意味を持っている。未来はないのにあるのである。未来は、あくまで形の世界の中の一つの形の有り様として、その現実にある働き、意義というところから理解せねばならない。始めに言ったように、動物のように本能的に活動するものには、未来というものはないが、人間においては未来という概念そのものが積極的な意義を持っているのだが、それは人間的存在が行為的存在であるからだと言うことができる。行為的存在である、ということは簡単に語り尽くせるものではない。しかし本質的なのは、過去現在未来を、同時存在的に、この現在において存在する並列的なものとして見る、ロゴス的に自己自身を媒介する主体性ということである。行為的存在はすでに自己を死において見ている。生まれた時からすでに死した存在である。この生物的身体の死すらも、この行為的存在の「死」から見れば、一種の生の在り方である。行為的存在、主体性といったものを深く考えていけば、そこに含まれた多くの含蓄に我々は驚くことになる。例えばここではパラレルワールドといった考や、霊的存在の問題にどうしても行き当たらねばならなかった。そして結局これら全てはやはり時間、否、「時」というものをいかに考えるか、という問題なのである。「時」こそが生命であり、「時」こそが課題を持った歴史的形なのであり、また主体的行為のそこに存するところなのである。