雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

ブロッコリーと物理学的原子

晩飯に出てきたブロッコリーを見て気づいたことがある。ブロッコリーがどういう形になっているか、よく見てみると良い。


これは木などもそうなっているのだが、まず太い幹的な部分があって、そこから枝的なものが順々に分かれて行って、木で言えば葉っぱのようなフサフサした部分に到達するのだが、これがブロッコリーでは、何だかよくわからないツブツブなのである。


幹から枝分かれていって、粒へ。これを眺めていたら、ふと閃いた。いかに独立にあるように見える粒子的なものも、実はよくよく検討すれば、全てこういう具合に何か大きな幹的なところに行き着くのではあるまいか、と。実際人間ほど、個人と個人とが別個のものとして意識されるような存在であっても、個人的であるほどかえって宗教的となるのであり、どこまでも神を求めるという傾向がある、というのは不思議なことではないか。この辺に何か大きなヒントがあるに違いない。


我々の世界は一面どこまでも物理学的なものと考えられている。量子論などになるとまた違う話になってくるが、かつては、どこまでも微小へと行く方向の極限に、どんなに組み合わせが変わってもそれ自身は一定不変の最小単位である「原子」というものがある、と考えられた。そして色々な種類の「原子」が発見されていった。しかし時代が進み、更にその奥に素粒子というものがある、ということになったのだが、そもそも素粒子であっても、こういう意味での最小単位としての粒子という意義を持つものなのだから、それもまた理念的には「原子」なのである。それで私は今、この理念的な原子、ということを問題しているわけである。例えば、素粒子より更に小さい単位が見つかったならば、それがまた理念的な意味で「原子」である、ということになる。


しかしどうもこういう最小粒子的な考え方自体に限界があるらしく、私は物理学のことなど全然よくわからないが、実際にはどこまでも微小である方向へと深く深く潜って行くとき、どうしても粒子が波であり、波が粒子である、こういう相反する両方の性質を持ったものに行き当たらねばならない、ということになるのだと思う(違うかもしれない)。例えば光の性質などといったものである。


さて、そういう物理学的世界観そのものに見られる矛盾的性質は、そもそも世界が絶対矛盾的自己同一的に主体が環境を、環境が主体を作ることによって、形から形へと無限に創造的に形成されて行くものである、というところから来るのだ、こういう立場から説明したのが西田幾多郎の「知識の客観性について」という論文である(無論この論文はそれだけのものではないが)。ここでも量子論ということについて触れられている。今この論文の中には入って行かない。ただ要するに、私のここで問題とする「原子」なるものも、結局はこういう世界そのものの本質的な主体性というところから考えねば、理解できないであろうということ言いたいのである。


さて原子的なものについて少し考えてみよう。ヒントはさっきのブロッコリーのたとえである。


原子的なものというのも、結局は現に行為的に見られたものであり、そこを離れない。行為的に見られるということ抜きに、それ自身としてあるように考えるのは独断である。我々「見るもの」もまたその存在の根底を探って行くと結局それは世界そのものである。世界の外に我々の存在を考えることはできない。じつに当たり前過ぎる事実である。問題は、その世界の中にあるものが、なぜ世界の中にあるものを見ることが、つまり世界の中にあるものの「外」に立って超越的な立場を保つことが可能なのか、ということだ。単に唯物論的に考えれば、我々の「見る」という働きも実は見かけのものであり、実際にはそこには物理学的な法則に従った、物質と物質との離合集散があるのみである、と説明されるであろう。だが、我々の「見る」ということを「見かけ」だとしてすでに「見て」いるのである。物理学的な法則なるものも、まず「見る」ということが先にあって、その見るということそれ自身の内に深まって行った結果、物理学的法則として「見られた」、ある一定不変と「見られる」法則的関係に過ぎないのである。見るということそのものを否定することはできない。見ることを否定すること自体が、そういう意味で一つの「見る」ということになるからである。


世界の内にあるものが、世界の内にあるものを「見る」。これが成立するには、世界というものが、世界自身の内に、質的な差異を持ち、この質的な差異自体をまた量的に引き戻して、これによって世界自身が自己形成する、こういう論理が考えられねばならない。が、ここではそういう論理にまつわるややこしい話がしたいのではない。もっと、あのブロッコリーの形のように直観的にわかりやすいものに、重大なヒントが隠されているのである。見るものと、見られるもの、物理学的原子の話で言えば、観察者と、観察される原子、こういう差異は、全く内と外の関係、内在と超越の関係、つまり互いに質的に断絶した関係と考えられる。しかしそれは、この同一の世界の内においての話なのである。内と外、という事態そのものが「内」である、というのが世界そのものの立場である。見るものと見られるものとは、全く大と小、外と内でありながら、実は根のところで「一つつながり」になっているのである。なるほど、そうやって考えれば、確かに、植物が成長するのであってもそういう構図が容易に見て取れることに気付く。木でいうならば、根と葉とは、互いに呼応し合い、全体にエネルギーが循環する、という関係になっている。根は養分を吸い、葉では光合成によって栄養分を作る、エネルギーのやり取りがされ、根から葉へ、葉から根へ、と常に応答し合っているのである。葉から見れば、根は自分自身の一部であり、逆に根から見ても葉は自分自身の一部である。なぜなら、「自分自身」とは、その「木」全体、という一つの生命、身体なのだから。


観察される原子と、観察者とも、結局裏側ではこういう風に一つつながりになっているのであり、互いに呼応する関係となっているのだろう。呼応する関係は我と汝である。我が汝を見るということを離れて見るということもあり得ない。単に物質的対象を一方的に見るということはあり得ない。我がAを見れば、Aはまた我を見るのでなければならない。我はAの内にあり、Aは我の内にあり、しかもそれは第三者的な形そのものにおいてある、ということである。つまり私と原子とは、この「観察」という形において、一つの生命であり、原子は私の一部、私は原子の一部という関係になっているはずで、それは原子の自己も、私の自己も、この「形」において在るものだからである。


またややこしい話が出てきてしまった。とにかく、原子というものも、ブロッコリーのように、その奥を見てみれば、枝から出た粒なのであり、枝はその更に奥の枝から出たものであり、更に進めば幹に行き着くのであろう。そして更に進んでいけば、直接土と触れる根っこに行き着く。末端の根と末端の葉とは、ともに末端の関係として、お互いに呼応し合う二極となる。男が女に生き、女が男に生きるように、根は葉に生、葉は根に生きるのであろう。大きな一つの形、生命を為すものは、かえって、こういう風に、末端の両極がお互いの内に呼応し合うことによって成り立つのである。この両極は文字通り対極的な存在であり、片方が欠ければもう片方の存在もないことになる。なぜならば、一つの「生命」において、両極は自己自身を持つのだから。


一つの生命は、なるほど外から見れば、一見、ただある一つの方向へ伸びて行く、ある単一なもののようである。植物は根から太陽へと一心に伸びて行くのである。しかし一つの生命が一つの生命として、大きく真っ直ぐ、一つの方向へ伸びようとすればするほど、彼は自己自身を振り返る必要がある。葉は根を省み、根は葉を支え、互いが互いを必要とし、エネルギーを循環させることによって、大きな全体の一つの生命はかえって一つの方向に伸び続けることが可能なのである。大きな生命の進む一つの方向は、こうして、実は向かい合う両極の相互循環の方向を、第三者的に綜合する方向となっている。一は三なのである。一は二となり、二が一となるから、そこに三が出て来るのである。


粒が粒となり、末端的となればなるほど、それはかえって、根っこへの強い憧れを生み出す。我々が原子を原子と見て、これをどこまでも末端なものとして捉えるのは、実はそれ自体、原子が我々に「求めてきた」ことなのである。我々はこれに気づかず、ただ世界が形から形へと無限に発展して行く営みの中で、大きな生命の中で、知らず知らずその自己形成に寄与する行為をしてしまっていたのである。末端と根っことが強く応答し合えばし合うほど、生命そのものは強く輝かしく生長して行くのである。


量子論におけるように、粒子が波、波が粒子であることの自覚は、こういう論理そのものの自覚として考えられないであろうか。単に葉っぱは葉っぱとして、根っこは根っことしてあり、両者が応答し、第三者的に大きな生命に包摂される、というだけではなく、そのこと自体が、応答する両極の内に自覚されているのである。両極がともに第三者的な意義を持つ、こういう事態になったとき、第三者と第三者との呼応の関係は、単に二ではなくすでに四であり、第三者と第三者とを更に綜合する大生命はもはや第五者と言わねばならない。


思うに、これからの時代は、人々はこの第五者に生きることになるのであろう。それは人々が、創造的世界の創造的要素として、末端的なものでありながら、第三者そのものにおいて自己自身を自覚に持つことによって、第五者の方向へ己の生命を弥栄させて行くのであろう。部分は全体であり、全体は部分である、と真に言うことのできる時代である。


それはともかく、ブロッコリーなどのような植物、あるいは自然界にある様々な事物は、それ自身が深い真理を含んでいるのであるから、我々は日常よくこれらのものに注意し、耳を澄ます必要があるであろう。