雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

自分自身に教えられる

こうやって、何か文章を書くことによって、自分自身に教えられるということがある。だから、自分の書いたものを、よく読み直す。必死に考え、必死に書いたものほどそうである。無論私個人のつまらない人間的意識が色々に混入していることが多いであろうが、必死に書いたものであるほど、そういう人間的雑音の中に、明らかに自分自身を越えたものの力を感じるのである。襟を正すような心持ちになる。


単に文章を書く、といったことにも、実際のところは何か「他者」の力が働いているに違いないのである。ただ一人で居て、一人で考え、一人で書くように思われても、しかし文章を書くというプロセスは、文字通り対話的なものである。いや、対話「的」ではなく真に「対話」なのだ。


哲学的にはそこに色々ご高尚そうな理屈を考えたり、神秘のヴェールをかけたりと、それらしく説明することができるであろう。私が私自身に他者である、と言えばなんだかそれらしく聞こえるのであるから。しかしその内実の論理は何であるか。私が私自身に他者であるということと、いわゆる他人というものが私にとって他者である、ということ、これに違いはあるのか、それとも本質的には同じことなのか、そういうところまで、おそらく一般に哲学の議論では深くは考えられてはいないのではないかと思う。


哲学では色々とややこしく、派手な議論が展開され、あたかも深い真理に入って行っているかの相貌を呈するのだが、しかし、どんなに素晴らしそうな議論、学説でも、最終的には結局社会的常識レベルの枠組みでの結論に至るということが多くある。大学の哲学科なる場所においても、学部学生などにも、真に深い哲学的結論に至ることではなく、逆に常識的そのものの結論を出すように仕向けているであろう。また己がいかに深い哲理に入っているか、そういう御境地を見せびらかそうとしている人でも、やはり心の底にある小心さというものは隠せないものであり、どこかぶっ飛びきれないものが残り、その非常識的、超常識的な「哲理」に、常識的言い訳を施さざるを得ない。


それもそのはず、哲学は、変なことを言う学問ではなく、常識からより深い常識へと入って行くものなのだから。我々が現実そのものを顧みて、本当にスッと腑に落ちるものがなければ、いかに深い哲理といっても、それは空理空論、空中楼閣といったものに過ぎない。


それで、私は始めに言ったように、こうやって一人で文章を書くということも、実は本当に一人なのではなく、文字通り「他者」がそこに実在している、という風に考えるのであるが、それも何かひねくれた深い哲理らしきものとしてそう主張したいわけではなく、本当にただ現実的な事実として、普段覆い隠されていても本当は常にそこにあるものとして、主張してみたいのである(これがさっき言った「常識的言い訳」である)。


文章を書けば、その書いたものに教えられる。書いた者は自分である。しかし実際に、私は単なる自問自答的なものではなく、本当に文字通り教えられながら書き続けるのである。そして私の意思を越えて文字が走り出す。私自身の単なる一個人的意見というものを越えた新見解がそこに現れて来る。我々の現実にそういうことが当たり前にあり過ぎて、これをおかしいとも思わないのであるが、ちょっと考えてみればこれは実に不思議なことであることがわかるであろう。普通に人と会話するというとき、そこで自分一個の見解からは想像もできない新しい見解が得られることは普通であり、会話はその全体を自分自身でコントロールできないからこそ会話なのである。


しかしこうやって文章を書きながら考えれば、明らかに、そういう他人と会話をするのと、同じ現象が起こる。私自身も、私自身の書いているものをコントロールできない。文章は自ずから走り出し、あるいは逆に思う通りに書き進まない。私はただ己の魂の内に感じる高揚に身を任せるのみである。なぜなのだろうか。


哲学においても、おそらく、自分が自分と対話する、ということはよく言われるであろう。そして我々もそれをもっともらしい真理の託宣として有難く仰がせてもらっているのであるが、くどいようだが、ここでは現実的に、自分が自分と対話する、そこに居る自分が文字通り「実在的他者」なのか、ということを問題にしているのである。聖壇から食卓に引き下ろして、現実的に、この問題を食べてみたい。







まず私の「身体」として認識しているこの形。これは何なのだろうか。それは例えば私が他人と呼ばれる存在と関わるとき、使用されるものである。必ずそうである。LINEで会話するのであっても、絶対にこの身体を使用するのであり、しかもスマホ自体もこの身体と同じ環境世界の中にある一種の身体的なものと言うことができるであろう。重要なのは、身体というものが、他ならぬ私自身のもの、私自身の存在そのものを担ったものであると考えられながら、それが私自身の意思をどこまでも越えたある客観的な場所においてあるものであり、本質的に私自身の意思を越えて働き得るということである。


その客観的な場所は、いかなる人にとっても、いかなる主観にとっても、いかなる意思にとっても、完全に超越的なものを持っている。それ自身の形を持っている。私の身体がバラバラになって、化学的レベルに分解され切ったとしても、この客観的世界そのものはビクともしない、そういうものとして始めから我々自身によっても理解されている。私の身体というものは、こういう超越的な客観的世界においてあると始めから理解されているからこそ、私自身の身体そのものが、ある他者であり、私自身の思い通りにならないものと考えられるのである。こういう了解の元に立ってはじめて我々は自己のこの身体を自己の身体として使用することができるのである。違う言い方をすれば、身体は始めから、やがて分解されるものである、死ぬものである、こういう了解を「通過儀礼」として、私はこの身体を、自己の精神の道具として使わせてもらうことができるようになり、それによって「人間」として生きることができるのである。


では私自身、つまり客観的世界に左右されない本当の私自身とはどこにあるのだろうか。それは私の、言ってみれば純粋に観念的な空間なのであろうか。私がしばしば誰にも見られまいと思ってスケベな妄想などをしている、この「私だけ」の思念空間なのだろうか。しかしそうであるとすれば、思念の現実性というものはどこに求めることができるのであろうか。もし思念空間が純粋に個人的なものなのであれば、それが、客観的世界にある自己自身の身体と結び付いて、何か現実的な働きを為すということすら不可能である。例えば、駅に行こうと思う。支度する。外を歩く。駅に着く。こういうことも、私の思念空間が単に個人的であり他と切り離されたものに過ぎないのならば不可能なことである。無論思念空間と身体とが別々にあって、それがよくわかんが何か一定の仕方で関係しているのだ!と理屈を付けることができる。しかし私の思念空間と私の身体とは本当に、絶対に別々にあるのであろうか。しかしそれらが別々のものと考えられるのも、それらがひとまとめに一つの場所にあって、その一つの場所の中で、それらは別個のものだ、と認識されているからこそなのである。そして私はその別個のものである身体と、思念空間とを、同じ一つの大きな「私」を構成するものとして、すでに一つに見ているのであり、そう現に考えている私そのものがすでにその大きな一つの場所を自己自身の内に持っていると言われねばならぬであろう。もし私が今こうやって考察していることを、ただ私自身の純粋な思念空間において考えているに過ぎないとすれば、では、今ここに現に考えながら文章を「客観的世界」に書き出しているその身体的私とは何なのであるか。そもそも私の思索と、この文章の記述とは別にあるのではなく、一体となった、一つの循環として、ともに私自身の営みの中の一部分として働いているのである。これを書くということと、考えるということは別にあるのではない、現実の営みとしてはそれらはここからここまでと区別できない。こうやって書き出さねばそもそもここまで思考そのものが発展することもなかったであろうに。しかもこれを書き、考える「私そのもの」は、明らかに、思索空間をも、あるいは書き出す身体、書き出される画面をも包んで越えた、一つの「何ものか」なのである。


主観的領域と客観的領域とは別にあるのではない。しかもそれは別のものと考えられねばならない。単に主客合一などといって、一つのものと考えられるならば、それは独我論に過ぎない。ところが現実に、私の身体そのものが思い通りにならない、多数の超越的他者の内の一つと考えられねばならない。しかも思念空間なるものも、この身体と循環を為す、ある一つの高次の身体的なものとして、それもまたこの客観的世界においてある何かしらでなければならない。今これを読むあなたは、エロい妄想をしているかもしれないが、それとても、ある一つの客観的事実なのであり、一見わからなくても、この客観的世界において漏れなく垂れ流されているのである(いや、「漏れなく漏れている」のか)。少しは恥じるが良い。それはともかく、「私自体」というものを考えるならば、そういう超越的他者(私の身体と思念空間がそこにある場)に対して更に超越的に立つ何かしらと考えられねばならないだろう。そしてこの超越的な立場から、私の身体と私の思念空間とを、一つの営みとして媒介しているのである。


この超越的「私」において、客観的世界が内在化されると考えるから独我論になるのであるが、独我論は、何か理論的仮定といったものに過ぎないのであって、それが我々の現実的、常識的実感に全くそぐわないのは事実である。いくら独我論を主張してみたところで、我々が例えばある人に対して「嫌なヤツだな」とか「良いヤツだな」とか、世間様に恥ずかしいとか、そういう気持ちが日常の色んな局面で「自ずから湧き出てくる」ということ、これを否定することはできない。そもそも私のこの身体自体が、超越的他者なのである。


私自身が私自身にとってすでに他者である、ということはもう確実に事実であるということは言えるだろう。ただそうと言ったのみでは、まだ不明瞭であり、なんだかわかったような、わからないような話にしかならない。私が他者である。それはよろしい。しかし、他者といって、普通に想起されるのは、いわゆる他人であったり、あるいは宗教的な神であったり、あるいは家のペットかもしれない、あるいは何か手に取る物といったもの、更には物理学的原子といったものもそれが対象的に眺められる限り「他者」と言うこともできるであろう。今こういう「他者」の面々に、他ならぬ非他者すなわち「私」が加わってしまったのである。他者と私との関係は普通に超越的関係と考えられる。超越的関係と言えば抽象的でわかりにくいが、要するに互いが互いを越えた、独立のものであるという関係である。これと逆の内在的関係とはどちらか一方が他方を本質的には包んでいたり、あるいは両方がある大きな目的的第三者の中の部分であったりして、ともかく何らかの意味で連続的なものであり一つのものであるという関係である。今、私が、私自身に対して、こういう超越的関係に立ってしまったのである。


こういう関係される私の方ではなく、それに真に超越的に立つ「私自体」というものはいかなるものと考えねばならないであろうか。本当にそれがただ超越的なものに過ぎないなら、「私自体」なるものは、もはや私自身と没交渉のものと考えねばならない。ただ超越的である、というものは、何らかの関係というものすら持つことはできない、他の存在と没交渉なものである、それは西田幾多郎が『善の研究』(の多分第四篇)においてすでに超越的絶対神の観念を批判して論じている通りにである


従ってまず論理的に、形式的に規定するならば(つまり抽象的に考え、現実のイメージを考えないならば)、こういう超越的「私自体」は、関係される私の内に、つまり私の身体とか思念がそこおいてある、超越的客観的世界というものの中にある、と言わねばならないであろう。これも西田がよく言うように、超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的である、ということである。内在的なものの極みとして超越的なものが考えられるのである。


では論理的、形式的には、「超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的である」としても、その具体的現実における相は実際どんなものなのだろうか。だいたい超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的である、ということ自体それは、矛盾なのである。論理的には矛盾であるものが、現実においては真である、そういうことが「論理」の枠組みの内で考えられるということ自体が鍵なのである。それは論理そのものの創造的刷新の意義を持たねばならないであろう。つまりここに「創造的」ということがやはり関わって来なければならない。私自身は、何かどこか遠いところにドカと坐っているものではなく、常に働きの内にあるのである。


「私自体」は、全てを包んで越えたある何ものか、であるのだが、「全てを包んで」己の身体と思念空間とを一つの循環として見ることができると言うことができる時点で、私自体はある内在的なものであり、またこの循環的な全体の関係そのものも内在的な関係と言わねばならないであろう。つまり私自体なるものは、どこまでも超越的なものでありながら、私の身体に内在するものである、ということになる。それで思念空間もまた私の身体に内在的に考えられねばならない。というより、思念空間もまた一つの形を持ったものとして考えられねばならない。私のいわゆる身体と、思念空間とを包んだその全体が一つの私の身体と考えられねばならない。そしてこういう意味での身体に、超越的な私自体が内在するのである。私の身体はすでに超越即内在として、自己矛盾的存在なのである。翻って考えれば、一つの身体というもの自体がすでに自己矛盾的に、超越的な私自体を内に含むものなのだという存在論的規定から、「いわゆる身体」と「いわゆる思念空間」との別が、始めから一つの「私」の中に前提されるのである。そして超越的私自体が内在的ということから、私という存在はどこまでも創造的に、常に形を変え続ける存在だということが、これまた存在論的規定として言われねばならない。


また抽象的過ぎる話だが、これは我々の現実の事実を振り返っても、全くその通りだと言えるであろう。難しいことではない。現実は作り、作られるものであり、現実の世界は形の世界なのである。そしてこの世界において在る我々の自己は、日々変わり続けるものであり、それも単に様態Aから様態Bに意味もなく変わるのではなく、その変化は倫理的には「人生の学び」と呼ばれるべきものであり、日常は一歩、また一歩と進歩して行くものであり、ここにおいては退歩や堕落もまた、絶えざる進歩の中の一つの糧となるのである。そして我々の絶えざる進歩の中には、どうしても他者、つまり私に対して超越的に立ち、私自身がコントロールできないものだが、しかし私に対して何か「新しいこと」を教え、私の存在を今まで思ってもみなかった角度から照らし出すものの存在が必要なのである。他者とはいわゆる他人である必要はない。超越的意義を持ち、そして同時にそれが、私が新たに内に取り込み得るものとして、私自身を照らし出すという意義を持っていれば、それは「他者」と言わねばならない。それも単に意味において意義においての他者ではなく、文字通りの「実在的」他者、存在論的他者でなければならない。それがたとえいわゆる私自身であったとしても、例えば、私自身が必死に書くこの文章のようなものであったとしても。


さて私自体というものが、実はどこまでも超越的なものとして、私自身でありながらすでに他者でなければならない、そういうことまでは以上から確実に論理的に明かされたとしよう。ところが、いかに、私自身が私自身を照らす、私の文章に私自身が教えられる、ということであったとしても、やはりそれが単に私自身と考えられる以上は、いくら論理的に、また現実的な現象として、「私は他者なのだ」という風に規定しても、まだ何かしっくり来ないものが残る。大体書いた文章が私を新たに教えるとしても、私と文章とは、それ自身人格と物との関係に過ぎず、質的に異なるものである。所詮神と石とは会話はできないのと同じである。私はこの異質であるものが同一の場所にあり、量的関係にある、ということは創造的関係において理解されねばならないということを論じた(「異質性と同一性について」参照)。それは純粋に行為的尖端的な局面において見られるものであり、この局面においては、確かに異質なるものが、例えば私の人格と、私の書いた文章とが、創造的に矛盾的自己同一の関係にある、ということは事実なのである。しかし一旦そういう局面を離れて、単純に私の人格と、私の文章とは別ものであり異質なものだ、と冷静に見る観点もまた現実に同時に存在するのであり、しかもこういう観点そのものを保った上で、更にやはり「私は私の文章に教えられる」ということを事実と言うためには、また別のぶっとんだ説明が、そこに必要なのである。そして、私が今ここに論じている他者の問題とは、単に行為的尖端的な、主体が現在の尖端に埋もれる創造的行為の問題としてではなく、偏時間的な存在論的な問題として扱っているのであるから、存在即行為と言ってみたとしても、やはり存在論的な観点からの別個の説明が必要であり、また可能でなければならない。存在と行為とは同じ「創造」の両局面であり、純粋に行為的な観点からの論理的説明が可能ならば、逆に純粋に存在論的観点からの説明が可能でなければならない。


非常に抽象的で、なんだかワケワカメな話になってきたかもしれない。しかし私がここで論じたいのは、実はとてもシンプルなことである。私は存在論的な観点から、ここに「霊」の実在というものを認めたいのである。「私が私自身の文章に教えられる」ということを、単に行為的尖端的にではなく、存在論的に説明するためには、霊というものを持ち出して来なければならない。ただ霊的存在と言えば、あるいは宗教的にやたら抽象的に理解されたり、あるいは幽霊のようにおどろおどろしいものとして理解されたりするものであるが、私がここに持ち出したいのは、そういう偏見にまみれたものではない。霊的存在というものも、また我々のこの客観的世界を形成する一員であり、西田の言い方で言えば、「創造的世界の創造的要素」なのである。

(この辺の色々の事情は、近代心霊主義、つまりスピリチュアリズムという思想運動、そこで生み出された数々の「霊界通信」について調べてみれば、よく理解されるものである。『シルバーバーチの霊訓』などといったものが有名である。ただ私はここでは心霊主義そのものからは離れて、哲学的見地からこういったことについて説明してみたいのである。)


私、というものも、単にいわゆる生物的身体的なものとしてあるわけではない。この一つの私の中には、動物としての面と、更にそれに加えて霊としての面があるのである。なぜ「私」に霊的領域があると言えるのであろうか。私が単に有機体として本能的に生活するのみであったならば、それは動物的存在であり、確かにこの面を持っていることは事実であるが、それだけでなく、私はそれを自覚するのである。私の身体を一つの駒として持ち、自覚的に「人間」として生活する。動物も社会らしきものを作るが、動物は社会の根底を問い続け、社会の形をいつでも改良し続けようとは思わない。動物的社会の形が変わることがあっても、それは力関係による偶然的変化ということであり、人間的主体が自覚的に理念的に社会の形を変じて行くということではない。人間においては、一個体が、単なる動物と異なって、すでに超個体的なのである。人間的身体には、そういう超個体的領域というものが備わっていなければならない。それがこれまで思念空間と呼んできた領域である。しかしこれは単に個人的領域なのであろうか?否、それはあくまで人間が動物と違って自覚的に社会を作る存在である、というところから来るのである。単に集団的な個ではなく、集団そのものを作る個としての規定から来るのである。ということは、人間は本質的に、この超個体的領域、一面どこまでも個人的と考えられる思念空間というものにおいて、実際に社会そのものを動かす力を持っているのでなければならない。個人的であればあるほど、真に集団的な力を持たねばならない。


我々にはインターネットというものがある。このインターネットは、我々のこの生物的身体にとっては、単なる画面上の存在に過ぎない。我々がインターネットと聞いて直ちに思い浮かべることのできるあの無限の「広さ」はそこにない。しかも一つの画面ではなく、自宅のパソコンであったり、ポケットに入れているスマホであったり、タブレットであったり、学校や公共施設のパソコンであったりするのであり、従って、インターネットなる存在は生物的身体つまりいわゆる身体のレベルでは、ある一つのものであることすらできない。しかもパソコンやスマホそのものも、多くの用途を持ったものであり、インターネットを利用するということも、それらの持つ一つの機能に過ぎない。にもかかわらず、我々は、インターネットというものを、ある一つの自存する広い空間として理解するのである。そしてその広い一つの空間自身が持っている多くの「窓」「口」として、パソコンやスマホの画面などといったものが存在すると考えられるのである。我々の現実にとっては文字通りインターネットは、我々人間的主体がそこにおいて活動し、全体的な形を作って行くものとして、確かに「実在」するのである。しかし何度も言うように、それは生物的身体的には、何か部分的な多数のものであり、色々の断片的なものの寄せ集めに過ぎないのである。こはいかに?


そもそも我々の思念空間、すなわち人間的主体の固有の活動空間が、真に実在性を持ち、客観的世界であるという意義を始めから持つから、こういうことが可能なのである。思念空間において、実際に我々は身体的に、形を作って行くのである。思念は実在的なものとして、形を持ったものなのである。こう考えれば、形の世界、客観的世界というものは、我々が普通に考えているよりも、質的に拡げて考えられねばならない。我々人間的主体は、生物的身体の領域と、こういう思念空間の領域とにかぶさって存在していると見ることができる。これらの領域は別々にあるのではなく、根本的には一つのものとしてあるのであり、ただその内で、生物的領域にウェイトを大きく持つ「形」や、思念的領域にウェイトを大きく持つ「形」、様々なバリエーションの形があるのである。


そこで、こういう立場から、霊なるものも、単に大きな客観的世界の中に含まれた一つの形として見ることができ、つまり一つの身体として理解することができるのである。それも生物的領域と接点を持たないのではない。ただ生物的領域においては、ほとんどその存在が認知できないくらいな、いわば微細なものであるから、我々はほとんどの場合、いわゆる霊的存在を認知できないのである。しかし彼らもまた形なのであるから、本質的には我々のような生物的身体を持つものも同じような人間的存在であったりその他の存在であったりすると考えられねばならない。彼らは常に、我々人間でいえば、思念空間的な領域に存在していることになる。そして、我々は彼らをはっきりと認知できないとしても、例えば日々受けるふとしたインスピレーションなどといった形で、良きものも良からぬものも、思念的に作用して来るのである。ただ我々はそれとしてはっきりと自覚していないだけである。


さて、我々が自己に超越的な客観的世界というものをこの「自己」において考え得るのは、実は、こういう思念空間の客観的現実性があるからである。思念空間においては、その形である思念と思念、霊と霊とは、渾然一体に溶け合って、微細な神経を使わねばそれぞれの形を区別できない。それだからこそ、「私」の思念空間は、私個人の主観的領域であり、この生物的身体の領域とは隔たった純粋な引きこもり空間として我々は理解し、誰にも見られまいと思ってあんなことやこんなことを妄想するのである。だが、そもそも思念空間においては、主観的なものと客観的なものとの区別があまりなく、全て渾然一体に溶け合っているというのが実相なのであるから、実はどこまでも主観的なものと考えられるものは、全て客観的意義を持つのである。それでこういう思念空間的な意味での、客観性、つまり主客溶け合った客観性というものを、この生物的身体的な領域に投影するとき、我々の身体はあくまで他者的なもの、客観的なものということになる。我々は自己でありながら、すでに他者であるもの、ということになる。くどいようだが、それは思念空間においては個人が全体であり、全体が個人であり、個と個とは溶け合って渾然一体となっているからである。この思念空間的な客観性を、生物的身体的領域に投影することは、世界をロゴス化する、ということであり、世界を世界として自覚化するということであり、こういう手順によって、はじめて人間的主体というものは、社会というものを作ることができるようになるのである。元々霊界における主客合一的な在り方の記憶が、人間には残っているからこそ、物と物とが断絶し、一体性の少ない、この生物的身体的領域においても、世界そのものを一つの世界として個性化、主観化することができる。世界の主観化は要するに世界の客観化ということなのである。







ようやくここで始めの話に戻ってくることができる。純粋に一人で物を考え、書くのであっても、それは単に生物的身体的にそうであるということに過ぎず、実は我々人間的主体は(そして実は全ての存在、形は)、同時に思念的領域にもかぶさって存在しているのだから、はっきりと自覚的に認知できなくても、他の霊的存在と常にやり取りしながらそういうことをやっているのである。動物もまた思念空間にかぶさって存在しているのだが、彼らの意識の焦点は、この生物的身体的領域と非常によく合致していて、特にそこに苦悩を感じることはない。ただ本能的に存在していれば良いのである。しかし我々人間的主体の焦点は、より思念空間に近づいたものとなっているからこそ、我々の生物的身体的領域には、なんだか違和感を感じる。そのままではなんだかいけない気がする。物と物とが分裂しているように見える。世界が重く、鈍いように思われる。元々私が他者であり、他者が私であるということは真実であり、どこに行ってもそのことは変わらないのだが、思念空間に焦点を強く当てていたとき、すなわち霊として生活していたときは、私と他者とは相互によく溶け合っていた。だが、生物的身体的領域においては、私はこの一個の物体に収まって、これを単位として動く存在となっている。他者的なものがより他者として強く意識されるようになる。この自己の身体もまた他者的なものとして、思い通りにならぬものとして強く意識される。内在即超越は、内在的と超越的とがはっきり分離した形で意識される。いつでも本当は私が他者であり、他者が私であるということを離れないのだが、この領域ではほとんど私と他者とは別々のものに見える、だから私が一人で過ごすということは、とても孤独なことであるように思われてしまうのである。だが超越的私自体、つまり真の孤独者としての私は、この身体の見かけの孤独において存在するのではなく、むしろ全体的世界の創造的刷新において存在するのである。つまり私が世界そのものを自己の内に主体的に把握し、これを行為的に変じて行くところに存在するのである。私が世界の個となるところに存在するのである。世界全体を自己に把握するというのは、この生物的身体的領域から考えれば途方もないことのように思われる。しかし、我々は本来霊的存在として、いつでも霊的領域にまたがって存在している。動物とて同じであるが、人間的主体においては霊的領域へのフォーカスはより強いのである。そして霊的領域においては、全体が部分であり、部分が全体であり、相互透入の様相を呈しているのであるから、個が全体を掴むということはそもそも自然なことなのである。だから世界の個となることそれ自体は全く問題なく可能なことなのであるが、これをこの生物的身体的領域ではっきりと形に表して実現する、つまり世界の全体の形を行為的に、創造的に形成する、ということをするには、特別の工夫が必要である。そしてそれが我々人間的主体に固有の、言葉というものである。


言葉、これは実に不思議なものである。私がここに込めたい意味は、単にいわゆる言葉と言われるものだけではない。ロゴス的意義を持ったもの全て、人間的主体に固有の、自覚的、社会的な意味を持ったもの全てである。上にインターネットの例などを出したが、こういったものもまた、私は「言葉」の中に含めたい。言葉というものは、ただ行為的であること、すなわち世界の形を自覚的に創造すること、こういう主体性からのみ理解できるものであり、またその存在の必然性が理解できるのである。


さて、この「言葉」の仕組み、これによって、我々は本来の霊的領域における一体性もいうものを、この生物的身体の領域においても実現できるわけである。それは全て何らかの意味で記号的なあるいは象徴的な仕組みである。我々人間的主体の固有の主体性の表現を担ったこういう「形」の様式があるおかげで、生物的身体的にはバラバラに存在する個々の人間的主体が、その本来の霊的な一体性というものを表現できる。言葉というのは、だから全く常識的な見解の指し示す通り、我々人間的主体の行為の「媒体」となるのである。言葉によって、我々はこの生物的身体的領域にありながらも、常に思念的、霊的領域に直接アクセスすることができるのである。


生物的身体的形においてありながらも、同時に思念的領域において、常に霊的存在として我々人間は存在している。この「言葉」なる媒体を使用するとき、それは見かけ上孤独な行為であったとしても、それはいつでも霊的存在たちとの対話という意味を持っている。個人的思索、個人的執筆なるものも、それが個人的という意味を持てば持つほど、実は優れて社会的な営みなのである。個人的意識があって、その表現のために記号が生まれ、そこからそれを中立ちにして社会というものが作られていったのではない。元々人間的主体はその始めから社会的であったのであり、その本来的な社会性を、この生物的身体的領域でも実現しようとしたときに、必然的に、そういうものを担う独特の形が自ずから生じていったのである。そして我々はこの言葉なる媒体に自己自身を照らされることによって、外から内を知るのである。そうして自己の本来のアイデンティティーをより深く自覚して行くのである。


以上が、「自己自身に教えられる」ということの真相であろうと思う。そして私自身の常識的感覚にも、それが一番しっくりくる説明である。つまり我々はいかに生物的と思われても、すでに霊的であり、どこまで行っても社会的である、ということが根本的な理由である(プラトンイデア論なども結局こういう事情をギリシャ的に描き出したものではないかと思う)。私も、多分、これを書きながら、私自身にはそれとしてはっきり認知することのできない色々の存在に教えられたりしながら、思索を進めているのであろうと思う。彼らが別に見えなくても良い。やはり肉体人には肉体人としての分があり、変に霊的領域というものにこだわっても、ロクなことはない。私はただ人間的主体というものを、それ自身に即してより深く理解するための道筋を示そうとしたのみであって、肉体人であるということから離れて、怪しい宗教に誘い出そうとするのでは決してない。私にとって、霊的領域というのは、単純に現実的な問題なのであり、今までの社会では神聖な祭壇へと押しやられていたものを、食卓に引き下ろして食べてみる必要が私自身の中で生じてきたからこそこんなことを考え、論じることになったというわけである。時代は変わって来ているのである。