雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

真の善が悪であると誤って思わされてしまう、そのロジックについて

部屋の中に居て、ふと手の匂いを嗅ぐ。すると猫の糞の臭いがする。さっき手を洗ったばかりなのに!こはいかに。実は猫の糞の臭いは、さっき猫が猫のトイレにウンコをしたから、その臭いが臭ってきたというだけである。


ただ今までは部屋全体の臭いを気にしていなかった。食事に夢中だったからである。しかし自分の手の匂いを嗅ごうとふと思い、匂いというものがそこで意識されてくることになったわけであるから、そこで、元々部屋全体に漂っていた猫の糞の臭いがはっきりと私の鼻に嗅がれることになる。しかし当の私は、「自分の手」の臭いを嗅いでいるのだから、期せずして他ならぬ自分の手が猫の糞臭いのだ、と思ってしまうことになる。そして我が手の臭さに落胆することになる。


思うに、これが、世の悪人のやり口である。


大体真の善というものは、人にはなかなかわからぬものである。なぜなら、真の善とは、はっきりと自己自身を主張するもの、ある積極的なものではなくして、むしろ、全ての偏りを排した、どこまでも中庸なものにおいて見られるからである。真の善人はあくまで謙虚であり、悪に屈せず、淡々として冷静、霊性であり、日々の己の務めを果たし、日常を平凡に暮らすのである。さっき臭いを嗅いだ私の手は、ここではあくまで平凡なものとして、善人である。つまり、善人と言われたときに想起されがちな、あの積極的善人、押し付けがましい善人ではなく、真の控えめな善人である。


別に部屋の臭いが悪人だと言うのでないが、悪というのは、こういうのを巧みに利用するのである。本当は辺り一面にくまなく広がっていて、誰であってもその影響下にあるようなものであっても、そういう誰しも影響下にあるものであるが故にかえって普段明確に意識されることはない。人間の意識というのは実によくできていて、よっぽどひどい環境であっても、そこで暮らすしかないとなれば、そこに居る人達は、容易にその状況を「甘受」してしまう。そしていつしかそのひどい状況をひどい状況とも思わなくなる。もはやただの空気となる。そんなことよりも、彼らにとっては、日常の色々の関心事の方が重要なのである。しかしほぼ空気と化していたとしても本当になくなったわけではない。それはいつでも意識化され得るのである。


悪は、こういう事情をよく知っておりながら、それを人には言わずに隠しておく。しかも、往々にして、その環境一帯に漂う悪臭は、その悪自身から生まれてきたものである。悪自身がそれを自覚していれば良いが、これも往々にして、都合の良いことに悪臭か他ならぬ自分から生まれてきたものであるとは思わない、あるいはそのことを忘れている。己で己を欺く。それで、悪にとって、まことに目障りなのは、真の善である。なぜなら、誰しもそこらに漂う悪臭の影響を受けて、それなりに悪的になっていて、もはや自ら意識できない状態になっているのに、真の善は、そういうものの影響下に同様にありながらも、己の悪的なものをいつでも恥続けている。気をつけている。無論真の善にとっても悪臭の出どころはよくわからないし、己がそういうものの影響を受けているらしいことはなんとなくわかっていても、どこからどこまで、などといった細かい正確なことはわからない。ただ己の悪的なもの、不合理ながらやはりどうしても幾ばくかは存在する良からぬものを、できるだけ偽りなき目で見つめ、見つけ次第それを正して行こうとする心の傾向を持っている。だからもし己の中に大きな悪があるとわかれば、彼は無限に恥じ、気を落とし、あるいはショックのあまり再起不能となってしまうかもしれない。なぜなら、真の善は、己の中の大きな悪を、もはや己の本性なのではないかと、勢い余って勘違いしてしまうからである。


とにかくショックというのは万病の素であって、それは事実の冷静な認識を狂わせる。悪的なものはより大きな悪として見えてしまうことになる。しかしその作用は同時に善的な方面にも働くのであって、ナイチンゲールの高潔さに感銘を受ければ、その人は高い志を抱いて生涯を送ろうと決心することになる。が、ナイチンゲールとて実際には、己の役目を淡々と、力強く果たしていただけなのである。


それはともかく、善は悪に敏感であり、それも人の悪よりは己の悪に敏感であり、人の悪に対しても己のことのように思い、深い同情を持って眺める。悪にとってはこれはまことに目障りなことである。真の善によって、悪は無効化されてしまう。だからいじめてやろうと思う。


悪は、悪臭が全体に漂っていてしかも空気と化しているという事情を巧みに利用し、善人に対して言う。

「己の臭いを嗅いでみよ、その臭いが己の偽らざる姿だ。己の存在を恥じよ、所詮それがお前の本性なのだ。わかったか。」

その善人は、周りの人達よりもずっと悪に、それも真の悪的なものに対して敏感であり、周りの人達の押し付けがましいあの偽善的正義の態度とは隔たったものを持っている。だからこう言われて、押し付けがましい善人たちはまさか自分のこととはつゆ思いもしないが、真の善人は、本当に文字通りそうだと思って、無限に恥じ、気を落とすことになるのである。なぜなら、「己の臭い」は本当に、嗅いでみると臭くてたまらないのであって、しかも周りの善人()達には全く臭わないらしい、いや臭ったとしてもそれは他人の臭いだろうと思うらしいのであり、だから必然的に、この世界に己ばかり悪なのだと思われてしまうのだから。


だが、その臭いは、実はその場一帯にくまなく広がっているものなのである!皆その影響を被っているのである。しかもその臭いの根源は、「己の臭いを嗅いでみよ」と言った他ならぬ彼なのである。


そういうわけで、真の悪というものは、間違いなく偽善のことである。いわゆる悪というもの、例えば殺人だとか、残虐行為だとか、そういうのは真の悪ではない。それはむしろ動物的であるということだ。人間なのに動物的であるということだ。真の悪は、どこまでも善人の顔を持っている。己を正義と信じて疑わない。何か悪が見出されたとすれば、それは自分ではない、他人だ、と平気で思う。平気で人のせいにできる。そのくせ心のどこかではそのことを全て知っているのである。だから尚更、悪臭を人のせいにして置かずにはいられない。そういう時、一番狙いやすいのは、そして同時に一番狙わ「ねばならない」のは、真の善である。真の善は、積極的に己の善を主張しようとも思わないし、人に悪を見ようとも思わない。むしろ己のの中にある悪を常に意識し、無限に恥じ続けている。だからこそ、悪は、そういう善に対して、周辺に漂うものと、自己自身に固有のものとを混同させるように仕向け、あくどくも狙い撃ちするのである。


悪のやり口は、人に罪悪感を抱かせるということである。己が正義の顔をするのである。


それはけしからんと、真の善が立ち上がることもある。この時、真の善も、悪に対抗すべく、同じように正義の顔をする必要がある。しかし善にとっては、それは偽悪ということであり、本来そうしたいわけではない。本当はただ平凡に、己の務めを一生懸命果たし、穏やかに日々を過ごしたいのである。


だが、真の悪は、まことに狡いことこの上ない。彼は「本当の善は、己を積極的に主張することはない、正義面することはない」ということをずる賢く捉え、これを真の善への攻撃の口実とする。しかし真相は、真の善が、仕方なく偽悪的にそういう態度を取ったというまでである。真の善は、その正義面によって、己の善を積極的に主張しようとしたのではない。真の善は、真の善がまた自ずから別のところにあると知っている。要するにどこにも偏らず中庸であるということである。


真の善は善悪を超越するが故に、時によって悪の顔を持つことができる、時には善の顔を持つことができる。しかし積極的に善の顔を持つということはむしろ悪なのであるから、要するに文字通り真の善は善悪を超越するのである。しかも真の善は、いかなる善にも悪にも内在するものなのである。西田幾多郎の言う、内在的なるものが超越的であり、超越的なるものが内在的である、というものである。


我々は真の善を、すなわち善悪そのものを超越することを目指すべきであろう。否、すでに我々の全ては、意識していようがいまいがそこを目指しているのである。なぜなら、全ての善悪に真の善は内在するのであるから。


真の善は善悪を超越する、ということは、全てのものを、全く曇りない目で、正しく認識できるということである。全てのものが、全く実相そのままの姿で、眺められる。悪がやるように、物事の原因を混同する、させようとするようなことはしない。


物事は裏も表も見なければならない。なぜなら物事は裏と表から成っていて、裏と表とが一であるものがその物の全体なのだから。罪悪感を積極的に抱かせようとするような態度を見出したとき、注意すべきである。そこには裏がある。正義面は、必ず真の原因の取り違えを前提にしている。正義面が偽善であるときも、偽悪であるときも、そこには必ず真の原因の取り違えという事情が潜んでいる。偽悪の裏には善が、偽善の裏には悪がある。しかも偽悪を装い己を真の善と見せる偽善もある。偽善を装い己を真の悪と思い込む偽悪もある。善悪の善、悪善の悪とも言うべきものである。


本質直観とは、単に客観的な物を物として、受け止めるものであってはならぬ。こういう悪善(偽悪)、善悪(偽善)、善悪の善(偽善的偽悪)、悪善の悪(偽悪的偽善)と言った立体的で微妙な事情を深く見つめることこそが真の本質直観でなければならない。こういう意味を持って初めて本質直観は実践的な考え方であることができる。すなわち真の本質は善悪そのものを超越した真の善にあるのであり、全ての善悪に内在するものなのである。本質直観でない直観は存在しない。本質とは、その時々の実践的必要性に応じて、現れてくるものである。偽善の悪もまた真の善への一つの道である。