雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

円に関するちょっとしたメモ。中心と円周との関係について

この前の記事で、一般者ということを論じるのに、円周とか直線的とかそういうことを持ち出した。直線的なものが円環的なものである、ということそれ自体は事実であるが、論じているうちに、なんだか自分でもよくわからなくなってきた。もう少し考えてみたい。


円とか直線とか方形とか、こういう単純な図形というのは、世界そのものの根本原理をよく表現したものであり、これらの図形に含まれたそれぞれの要素について深く検討してみれば、我々の実在世界そのものの自己形成の論理が掴めてくるものだ。


が、いまは、いちいちこれらの図形を細かく取り上げて論じない。これは、円に関して、中心と円周との関係についてのちょっとしたメモである。





普通に円というものには中心があり、円周があり、これら二つの関係は、となれば、それは円周が中心を回るような関係ということになるだろう。円周上に一点があり、中心との一定不変の距離を保った上で、ずっと回り続ける。ここに一つの円を見ることができる。


円というのを、とりあえず、こういう二点の上下の関係、一方は停止し中心にどっかと腰を据え、他方は一定の距離を置いてその回りをどこまでも回り続けるという関係であるとして置こう。


が、これは、空間なるものが、ある固定した静止的なものであるという前提に立つときに言える事実である。円と、円の於いてある空間とが別々に考えられるとき、これら二点はこういう関係を保つことができる。中心なる一点がいつまでも中心として、不動のものとして見ることができるのは、言って見れば、この空間というものの静止に与って、この静止に同調して自らも静止しているからだ、と見ることができる。一点は空間の中で、空間とともに静止し、もう一点は空間の中で、空間上を動いているのである。


しかし円を、こういう固定した空間というものを考えずに、ただ純粋に二点の関係のみにおいて見るならば、どういう事態が生じるか。さっきのは、つまり円そのものと、観察者とが離れていたのであり、観察者は、三次元の立場から、二次元平面に描かれる円を外から見ていたのである。ところが、今、観察者は、二点の内いずれかに置かれる、観察者そのものが関係の内に置かれる。観察者は、なるほどいつでも観察者として第三の立場にあるものだが、今度は、この二点のいずれかの内にあるということをそのまま保った上で、同時に第三の立場に立たねばならない。


こういう風に見るとき、二点とは、互いが互いに向かい合うという関係に立つのであり、両者は常に互いから同じ姿で見えている、と言うべきであろう。常に等しい距離で互いに向かい合っている、それだけの関係である。


もしそれだけなら、それは円ではない、単に二点を両端とする直線があるばかりである。しかし二次元の円ではなく一次元の円とはむしろこういった単なる直線でなければならないであろう。円とはこういう一次元的な、二点の関係に基づいたものと考えられるであろう。何次元の球であろうとも、根本的には、この等距離に保たれた二点の関係に基づいたものであると言えるであろう。


さて、ここから我々の主体的現実とも照らし合わせて考えてみよう。要するに我々の人格としての最も基本的な関係の在り方は、我と汝ということである。我と汝とは、それが我と彼とか、彼と彼ではなく、まさに我と汝である限り、常にお互いが向かい合い、かつ等しいある距離を保った関係であり、「等距離に保たれた二点の関係」すなわち円を成すものと見ることもできるであろう。そもそも我と汝とは、そこに他を一切容れぬ、その両者だけでやり取りされる相互作用の循環があることによって、つまり世界の中にただ我と汝あるのみといった関係になることによって我と汝であるのだから、そこには円ということが何らかの意味で存在していなければならないであろう。


円とは、この二点の関係に加えて、第三の方向が加わってくることによって円なのだと言った。何度も確認するが、円には必ず中心がなければならぬとともに、一定関係にある二点がなければならない。我と汝においてはどこに中心というものを見出すことができようか。もし単に一方が他方を回るというだけの関係なのであれば、それは単なる主従の関係であり、これは我と汝の一面である。キリスト教においては、神はしばしば、汝と呼び掛けられる。汝こそ絶対の神と言うこともできる。一面には、我に対して汝は絶対に主であるということがなければならない。しかし我と汝とは、全く対等の人格的関係とも考えられる。対等でなければ、両者は一定距離で向かい合う関係となることもできず、従って円を描くこと、すなわち我と汝との関係が成立することもできない。一面に我はどこまでも不動であり、汝が無限に廻転する世界というものを考えねばならぬ。目の前に現れる一切が汝であり、我を照らすものとも言える。地動説と天動説とは一体でなければならぬ。地動説が真実であると言っても、地球と太陽とは、始めに天動説的に理解されなければ、ある一定の関係を保った我と汝の関係であると気付かれることもないのである。天動説の陰には地動説が、地動説の陰には天動説があるのである。地動説においては、汝は唯一のものであって、我は単なる被造物の一員としてちっぽけな存在である。天動説においては、我は宇宙の中心であって、我を廻る無限の星々がそこには見られるであろう。しかし真相は、我を廻るものの周りを廻る我、といったものではなかろうか。我と汝とはお互いに廻り合っているのである。我と汝との関係があるとき、これらを一つの円として結ぶ中心は、単に両者の関係の間に消極的に考えることはできない。それは汝が我に絶対に主であるとともに、我が汝に絶対に主であるという相反する両面がそのまま成り立つ主体的一点でなければならぬ。なぜなら我も汝もともに中心でありながら、二つの中心ではなく、あくまで一つの中心でなければならないのだから。それは真に第三者の方向になければならぬ。第三者の方向にある一点は、単に一点というよりも、ある直線的方向というものでなければならぬ。これは二者を綜合するもの、二者の内的自己超越において見られるものである。


ここで我と汝とを結ぶ、円の中心、第三者の方向ということに関して新たな知見が得られた。我々は竜巻とか台風というものがいかなる形をしているか知っている。私は気象学的知識はほぼ持ち合わせないから、確実なことは語れないが、哲学的見地からこれを見るならば、要するにそれは我と汝との円の関係が成す一つの第三者的な方向という見方から考えることができるのではなかろうか。中心の一点はなるほど、何かある一つのものと見ることができるものだ。しかしそれはあくまで動きの中に、動きそのものによって措定される中心なのであり、動的ということを離れた静的一点ではない。静止した一つの図形としての円が、中心と半径と円周という要素の集積から成るように考えられるものであっても、実際の自然界における事実としては、円として見られるものは、常に円が円自身を越え出て行く第三者的な方向への軌道を伴っている何か動的なものでなければならぬ。この動的一点は動的一点であるが故に、常に円周上の一点でありかつ円の中心の一点であるという意味を持たねばならない。


言い方が抽象的過ぎたかもしれない。


台風の形を思い浮かべてみれば、そのことは理解されると思う。台風は無論単なる円ではない。全体として見れば、確かに円のように見えるのであるが、内部を見れば、廻転する幾つもの筋があるということがわかるだろう。台風の中心は、これら無数の筋の交わる一点として考えられる。さて、ここに見られる筋というものは、なるほど、一応円の半径を成す直線に似ている。ところが、実際は直線ではなく、うねる曲線である。この筋一つを取り出して見てみよう。それらの筋は全て、一方が台風の中心であり、他方が台風の周辺である、という関係になっている。台風の中心は中心でありながら、常にある方向に動いて行くものである。静的な円、つまり普通の円とは、二点の主従の関係によって成り立つものであり、中心があくまで不動でもう一方がその周りを廻るといった構造になっている。しかしここでは中心そのものが動いて行くのである。もし周辺の点が一方的に中心を廻るというだけであったならば、台風の筋は曲線になることはなかったに違いない。そう考えると、要するに、台風の中心は、中心でありながら、何かの周りを廻っていることになるであろう。その何かとは、他ならぬ、台風の周辺の一点である。台風の中心は、自己自身を廻るものを廻るのである。ここでは周辺が中心となる。中心は、周辺の一点となる。風は周辺の一点から中心へと吹き込むものも考えられるが、それはそもそも中心そのものが周辺の一点なのであり、中心から中心へと風が流れるからである。絶対に主なるものが、従なるものの存在の根底であるという構造がここにある。しかし主なるものと従なるものは交わるものではない、それはどこまでも第三の方向へと流れて行くのである。この交わらないものの同一ということが、創造的方向への推進力となるのである。廻転とは、同一の関係を表し、直線的推進とは、その関係が上下の関係であることを表す。直線的なるものが円環的であり、円環的なるものが直線的である、と言えるのである。


とりあえず、これはメモなのだから、この辺にしておこう。