雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

世界に感謝

精神が狂えば、感謝もできなくなる。


私はなんだが、今のうちに、私を生かしてくれた世界そのものに感謝したい気持ちになった。


ありがたい。


無論これは遺書ではない。が、この頃、精神をおかしくして、こういうことに思い至り易くなっている。正気が残っている内に、私自身の正気の証を遺しておきたい。私がこの世界にともかくも生き、世界に感謝し、世界に何がしかの貢献を少しはした、少なくともしたいと願っている、そのことの証を、何らかの形で遺しておかずにはいられない。




苦痛と虚無感は質的に違うという話を前にした。苦痛には、正気がある。苦痛を苦痛と感じることができるならば、まだ良い。彼は苦痛に感謝すべきである。苦痛そのものから、彼は、今どうすべきなのか、自ずからわかるからである。苦痛はそれ自身が自己否定的に主体を動かす。苦痛は、主体にとっては、幸福への切実な希求というものを伴って現れてくる。


真に病的なのは、虚無感というものである。これは、ただただ気の遠くなって行くような感情であり、あらゆる心の病の源泉ではないかと思う。


虚無感への道とも言うべき感情は恐怖と不安であろう。恐怖と不安とは、耐え難い苦痛を伴ったものであるが、同じ苦痛でも、単なる苦痛が、主体的には幸福への真っ直ぐな希求であるのと違って、そういう求心的なものそのものが薄れて行く方向であり、心の分裂して行く方向である。ただ分裂と言っても、恐怖や不安においては、自分自身の「殻」に固く閉じこもることができる。これは、単なる苦痛と違って、単純に幸福への主体的な求心という形ではないが、精神が分散しそうであっても、尚主体が主体的なものを保とうとして、何がしか心を一つのところに集めようと必死に努力していることの表れである。


この恐怖と不安の耐え難い虚無的苦痛の背後に厳然と横たわってあるのは、憂鬱であろう。が、ここでも、殆ど失われた気力の、わずかに残っている分を掻き集めて、必死に自己自身の内にふさぎ込むことができる。恐怖や不安においては、このふさぎ込み自体が尚主体的であったが、憂鬱の場合は、殆ど受動的で、純粋に本能的な防衛と言えるものであろう。例えば憂鬱の内にある者は、部屋に篭って寝込むことができる。何かやろうと思う、しかしどうしても憂鬱でできない。が、とにかく何かやろうと思うことがあるという点ではやはり主体的なものがしっかり残っている。憂鬱は、何と言っても、仮にそれがいかに長い期間を要するとも、休息によって、確実に回復が可能と、常識的には思われている。


恐怖は発作的なところがある。不安もまたそうである。が、憂鬱はむしろ、これらの背後にいつもくっ付いていたものであり、恐怖や不安の発作が小康状態となるときに現れて来るものであろう。憂鬱には、上にも述べたように、辛うじて主体的なものが残されている。しかし彼が完全に主体性を失ってしまったとすれば、そこにあるのは虚無感であろう。


被害妄想、誇大妄想、多重人格的に豹変する性格、こういうものに完全に囚われている人たちが居る。これらに伴っている感情はおそらくほぼ確実に恐怖や不安というものであろう。では、恐怖や不安が伴っているから、これらは何がしか主体的なものであろうか?しかしこれら精神病患者は、すでに完全に主体性というものを失ってしまっている。いわば精神の分裂状態である。なぜ実際に恐怖が不安という感情がそこに伴うにもかかわらず、それは先に述べたのと違って、幾ばくかは主体的であるということすらないのであるか。


先に恐怖とか不安は、必死に自己に閉じこもろうとするという点で、主体的である、と言った。ここではまだ、閉じこもる自己というものがあるのである。この段階では、まだ恐怖や不安は制御が可能なものであり、恐怖や不安が他ならぬ恐怖や不安として自覚されている。彼はこの状態を一刻も早く脱したいと願う。そしてそう願っているだけそれは主体的なものを持っているのであり、苦痛の一つのバリエーションと言えるものなのだ。


しかし被害妄想とか誇大妄想といった、精神の分裂状態においては、もはや恐怖とか不安といったものは、彼自身にとって、そういうものと理解されてすらいない。彼にとっては、もはやその感情が当たり前の状態になっており、部屋に盗聴器が仕掛けられているのだという思い込みとそれへの恐怖などというものは、全く疑われるべくもない事実なのである。彼にとっては、この恐怖それ自体を何とかしようという意思はない。すでに何かに取り憑かれてしまっている。彼が発作的に起こす、問題解決の行動も、本当に問題解決を願って行動しているわけではない。ただこのわけのわからない、自然状態と化した恐怖という感情それ自体が元々持っているものとして、自動的に機械的に引き起こされる行動に過ぎない。


そういうわけで、こういった精神分裂状態にある人たちの、本当に固有と言える感情には、恐怖や不安といったものとは別の何かが割り当てられねばならぬ。それが虚無感というものなのである。


普通虚無感といっても、単に虚しい気分、といったものが想起されるであろう。しかし単にそういうはっきりと意識される虚無感というものなのであればそこにはまだ救いはあるのである。そもそも虚無感とは、あらゆる否定的感情の背後に横たわったもの、全ての善なる感情を呑み込んでやまない悪魔的なもの、否悪魔的というほど人格的なものでなく、全ての人格的なものを否定したもの、全ての生を否定するもの、絶対の死とも言うべきものである。先に苦痛、恐怖や不安、憂鬱、といった否定的感情を取り上げて、それぞれがとにかく何らかの意味で主体的なものを残しているということを言ったが、虚無感においては主体性の完全なる否定ということになるのである。苦痛、恐怖、不安、憂鬱といったものから、その主体性の一切を奪い取ったとき、そこに顕れるのが虚無感である。


一度この虚無感の闇の向こうへ行ったならば、そこには精神の分裂状態が待っている。虚無感こそが分裂の極みであり、絶対の静止なのであるから。我々は虚無感は虚無感としてまず自覚せねばならない。虚無感を虚無感として感じられるのは幸いなことである。なぜならば、絶対の死を絶対の死として自覚できるということは、すでに絶対の生を掴んでいるということに他ならないのであるから。


精神分裂状態にある人にとっての、恐怖や不安というものは、もはやその人自身にとっての、ある主体的な感情としての恐怖や不安ではない。その感情は、もはや、何者かの感情なのであり、その人自身ではないものによる憑依とか、あるいはその人自身が人格分裂を起こしたものと考えられねばならないであろう。つまり、自己によってではなく、他者によって、強制的に持たされた精神状態であり、こういう分裂状態を、その当人が分裂状態として自覚しなければ、彼はいつまでもこのわけのわからない感情の状態を続けることになる。こういう場合、恐怖や不安は、単に恐怖や不安を取り除くといった方法によるのでは真に取り除かれ得ない。なぜなら、彼の恐怖は、もはや別の人格の恐怖なのであり、彼自身の恐怖ではないからである。


精神分裂状態にあるものにとっての固有の感情というものは、従って、彼自身の主体性を、皮一枚で繋いでいるものは、虚無感というものに他ならないのである。虚無感とは、先に言ったように、主体性そのものの否定である。主体性そのものの否定という段階に、つまり自己自身の死という段階に彼は至ってしまった。これに対して無自覚で居続ければ、要するに彼は、わけのわからない、自動化、自然化した、無限の恐怖や不安の闇を彷徨い続けることになる。が、虚無感は虚無感として、確かに横たわっている。無としてそれは横たわっているのである。彼はこの無を自覚せねばならぬ。それのみが彼を救い出すことができるのである。


では虚無感の自覚とは何であるか。それはまず、自己自身の置かれた状況に対する無限の???状態であろう。彼はなるほど確かに彼自身である。彼自身の主体性というものは、この虚無感の自覚によって、皮一枚で繋がれているのだから。しかし彼の主体性には、完全に中身が無い。無である。彼は彼自身であるのに、彼は全く彼自身として規定できる何ものも持ち合わせない。だから彼はこの状況に無限に???となる以外にない。


しかし虚無感の自覚とは絶対の死の自覚してであり、それは裏面に、絶対の生の自覚である。絶対の生の自覚とは、感謝である。感謝とは、何かへの感謝ではない。それは感謝の本質的なものではない。感謝とは無限に広がるものであり、果てのないものである。愛そのものである。特定の何かへと感謝が向けられるとすれば、その特定の何かは、すでに無限の広がりにおいて、無限の生命との根源的な結び付きにおいて理解されたということである。我と汝とは、一つの根源的生命において、全く一つに結び付けられるのである。否、元々結び付けられていたのを、改めて確認し、讃えるのである。


虚無感には、身体というものがない。身体があっても、ないのである。しかし絶対の死の淵から蘇るとき、我々は身体を身体として取り戻さねばならない。我々は自己の身体に感謝せねばならない。すなわち自己の身体を、無限の生命との根源的繋がりにおいて理解せねばならない。身体とは何であるか。行為するものである。動く機関である。根源的な生命、全体そのものが、部分としてあるものである。部分なのに全体であるものである。虚無感においては、全体は単に全体であり、部分は単に部分である。そこにおいては、全体と部分とは絶対の正確さを以って理解されている。主体的な制約による歪みはない。が、そこから絶対に翻り、絶対の生の面に我々は撞着するのである。部分は部分であって全体であり、全体は全体であって部分である。相互が相互に入り込み、世界は無限に生命と生命との行き来し、出入りする、弥栄の世界と見られる。これこそが世界の実相である。


我々は身体というものを尊ばねばならない。身体は常に環境を持つ。環境とは全体である。身体とは部分でありながら、常に環境を持つものとして、全体ごと動くのである。身体が少し動けば、それは環境ごとが動いたことになるのである。身体というものは部分でありながら、それは単に使用されるというだけで、直ちに根源的生命との結び付きの証となる。まず、我々の主体性そのものを担ってくれている、我々自身の身体に感謝せねばならない。身体こそが、我々の精神と根源的生命との対話機関である。


精神が、純粋の精神となり、肉体から完全に切り離されるとき、そこにあるのは「我思うゆえに我あり」である。しかしこれは、私がここで論じた虚無感である。虚無感は生の否定そのものである。そこに実体としての精神というものを置くことはできない。我々の精神はあくまで肉体的なものでなければならない。精神と物質との綜合として肉体というものがあるのではない。根源的生命の、一つの「弾け出」として、我々の身体的生命というものがあり、身体的生命が他の身体的生命と立体的に、どこまでも相互に出入り行き来しながら重なり合い、働き合う中で、一つの身体的生命自身の持つ両方向として自覚されるのが、精神と肉体である。だから我々の生命そのものが本質的に感謝なのである。身体を使うということは、世界を讃えるということであり、世界に感謝するということであり、また自己を讃えるということであり、自己に感謝するということであり、他者を讃えるということであり、他者に感謝するということである。


私は、私自身の持っている色々のものが失われたとしても、仮に記憶や知能や手足が失われたとしても、そこに残る固有の身体的生命を、生き切りたい。すなわち世界に無限に感謝して生きたい。どこまで行っても、何がし失われても、最後に残るのは感謝のみである。感謝があれば、何が失われようとも、本質的には何も失われていない。それは根源的生命そのものに他ならないのであり、自己自身のほんとうの姿に他ならないのであるから。


人は、とにかく、どんな状況であっても、今置かれたそれを、感謝し切るものであろうと思う。ここにしか生命というものはないのである。だから、とにかく今、全身でこの世界に感謝したい。感謝に感謝したい。感謝が、感謝に、感謝するのだ。怪しい宗教と思われようと気にしない。私は必死であり、本気なのだ。