雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

実家の猫を見て。「口」の世界と、宗教性について

❇︎「口」の領域


「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:21‬ ‭JA1955‬‬

http://bible.com/81/mat.7.21.ja1955


エスはこう言ったと言う。


人間には口がある。口というものが、独立した領域を持っている。この点が、動物と大いに異なる点である。


動物においては、口は、その本能的行為と一体化して、その有機的な営みの中で使用されるものに過ぎない。つまり、食ったり、噛み付いたりする器官、ということである。口そのものが本能的な領域を離れて自存していない。


が、人間においては、口というものが、単に本能的行為的なものを離れて、別個の領域を持っている。これをロゴス的領域と言って良い。我々は文字を書いたりなどするが、人間固有の記号的世界というものがあるかに思うのは、そもそも口というものが、単なる動物的身体の一器官という意味を離れて、独自の意義を持った特別のものとして機能するからである。我々が日常面している、あらゆロゴス的なもの、例えばここに書く文章のようなものもそうであるが、そういうものは、全て我々の「口」の外部延長と言って良いであろう。


何が言いたいか。「口」の領域が独自のものである、ということは、それ自体が、一つの独立した、自存的な世界であるという意味を持つということである。


口の世界には、あらゆる部分的領域が属している。例えば、文学。文学こそが口の世界、ロゴス的世界の最も基本的なものであるが、ここには真に世界そのものの縮図とも言うべきものが詰まっている。神話や英雄譚、叙事詩などといったものは、その民族の固有の世界観の表現であり、その中に我々の主体性そのものが詰め込まれている。あるいは人文科学的なものもまた一つの文学である。ここに哲学や歴史が属する。歴史というのは、神話的な意味も、事実の記録的な意味も、科学的な意味も持つ。神話とはこの世界を主体性に即して把握したものであり、科学とはこの世界を環境性に即して把握したものと言うことができるだろう。主体と環境によって世界が成り立っているというならば、その両方面をくまなく把握する、ということは、世界そのものを内に詰め込むということになる。

普通に我々が文学と呼ぶのは、いわゆる「文学」であり、坂口安吾であり太宰治であり兼好法師でありシェークスピアである。これは主体が環境において生き抜く、まさにそういう世界の有り様を描くものであって、主体にも環境にも偏ったものでもない。がこれもまた世界そのものを描き出すものと言えるのだ。


このように、口の世界というものは、殆どそれ自身が一つの独立した世界と言って良いし、また現実世界そのものの縮図と言って良いのだが、このために必然的に生じる弊害というものもある。つまり現実から剥離し得るという点である。


ファンタジーなるものはこの性質をうまく利用したものである。それは嘘の世界に、他ならぬ現実世界を読み込ませることができる。環境的には不合理極まりないものであっても、主体的にはどこまでも真実味のあるものなのだ。


早い話、口の世界においては、嘘が付ける、ということだ。嘘と言えば、普通それは単にネガティヴなもの、無意味なものとさえ考えられるが、現に嘘というものが現実世界そのものを左右する大きな事実として存在している以上、そこに積極的な意味を認める必要がある。嘘が悪かどうか、などといったことよりも、それが現にこの世界において何らかの機能を果たしている、何らかの役割を持って働いている、そういう面を見なければならぬ。


嘘が可能なのは、主体というものが、環境から離れて、しかも単に離れるだけでなく、「口」の世界を、ロゴスの世界を内に持つことによって、それ自身また環境的なものの意義を持つことができるからである。短く言えば、主体が環境的になったものが「口」の世界である。主体が、環境そのものから離れて、ミニチュアのように環境を自己自身の内に作り上げる、という言い方もできるか。


嘘は虚の事実でありながらも、元々ロゴス的世界なるもの自体が、真実の環境からすれば虚の環境とも言うべきものなので、逆に虚つながりで、それ自身実体性を持つことができる、というわけなのである。ロゴス的世界に存在する、という規定があるおかげで、嘘というものもまた一つの「実」として、主体を動かすことによって、一つの世界そのものを動かすことができる。


嘘が現実世界を動かした例、これは正直挙げるまでもない。そもそも考えてみよ。この世に嘘でないものなどあるであろうか?しかし嘘であるかもしれないという疑いを常に持ち、一応真実であるとしてロゴス的世界に何か「形」を投じるならば、それは仮説と呼ばれるべきもののことであろう。仮説とは、虚と実との中間者であるとも言えよう。が、我々の世界は、そもそもこういう仮説的な事実によってのみ動かされてきたものなのだ。これを歴史的形成の世界と言う。政治なるものは、まさに仮説的なものによって動かされるものである。その真実性は、結局、それが最終的に現実世界にどのような結果をもたらしたか、ということから知られねばならない。現実の世界が常に、仮説的であるということは、ロゴス的世界と真実の環境的世界とが常に相互循環的に、作用し合っているということを意味するのである。


仮説とは、常に主体性に訴えるものであろう。嘘もまた主体を動かすという意味を持つとき、仮説という意味を持つ。ロゴス的世界は、常に現実の環境への反映を前提にして初めて積極的な意義を持つことができる。嘘がロゴス的世界においては「実」の意味を持つ、というのも、ロゴス的世界なる虚の領域が、現実の環境世界そのものの形成に、より創造的な視野から見て役に立つからである。現実の環境とロゴス的世界との対比は、そのままロゴス的世界自体と仮説的なものとの対比に当てはまる。


嘘が現実に創造的な意義を持つというのは、根本的には、現実そのものが単に現実的なものではなく、それ自身が常に仮説的であり、表現的なものであり、創造的に刷新され続けることによって新たに照らされ続けるものだ、ということから来る。ここから行為的なものが考えられねばならない。行為とは単に主体が一方的に環境へ働きかけるということではない。なるほど、行為というものがあるには、主体が環境を超越したものを持つとともに、環境もまた行為を一つの客観的結果として反映させる役割、つまり主体を超越したものを持っている必要がある。つまり両者は一面互いが互いに完全に独立した超越的関係である必要がある。だから主体が超越的立場から一方的に環境へ働く、こういうことも一面の真実である。が、両者は内在的関係でなければ、そもそも、一つの「世界」なるものが存在することもない。世界は一つのものである、当たり前の真実だ。両者が内在的関係である、というのは、環境が主体内において把握され、また主体が環境的な意味を持つ、ということである。つまり、環境的世界そのものが自己自身の内に自己自身の縮図として持つロゴス的世界なるものが必要なのだ。そして主体はこのロゴス的世界の内に環境を把握することによって行為するのである。超越的なものが内在的であるところに、現実世界の創造性はある、と言える。

(主体が環境を、環境が主体を幾ら内在化しようとしても、両者の根本的な超越性はいつでも保たれるので、両者は結局無限に創造的な関係だということになる。この関係にある両者を私は理念的形式と呼ぶ。)


少し回りくどいが、要するに、ロゴス的世界は、現実世界と、その創造的働きにおいて一であることによってのみ、「実」である、ということである。もし、この意義を理解せずに、ロゴス的世界がそれ自身独立した一つの世界である、という性質のみを捉え、これを悪用したとすれば、そこに嘘なるものが現れてくる。嘘というのは、現実世界とロゴス的世界との間隙に生じるカスのようなものであろう。カスは一つの有機的なものが働くときに必ず生じるものであろう。


こういう立場に立って、ようやく嘘なるものが真に理解されると思う。嘘の反対とは真実、否、誠実と言って良いであろう。嘘は上に述べてきたように、主体性に結び付くということを伴っている。主体性とかそんなことは考えずに、単に事実が誤っているということなら、それは「偽」の命題であり、「真」の命題と対比されるものである。「嘘」にはむしろ、同様に主体的な意味を持つ「誠実」が対するべきであろう。


誠実とは、宗教の問題である。宗教の全てはここにかかっている。何が誠実であるか、いかにして誠実が可能か、そういうことは倫理学の問題であるが、しかし誠実そのものは宗教の問題なのであり、何が誠実であるかなどというよりも、宗教においては、誠実であることが宗教的であり、宗教的であることが誠実であることなのだ。宗教的立場から見れば、誠実なるものの内容には、そして形式には無限にバリエーションがある。宗教においては形式を越えた形式というものがあるのだ。倫理学では形式というものを越えることなできない。


主よ、主よ、と呼ぶ。なるほど、倫理学的に宗教を規定するならば、そういう態度こそが最も誠実ということになるであろう。なぜなら絶対的な存在であるもの、絶対性そのもののにすがること、絶対的なものに与ることこそが、誠実ということに他ならないのだから。しかしそれはあくまで形式的な規定に過ぎない。形式的な規定というのは、本質的に必要条件的なものであり、どこまでも十分条件たり得ない何かがそこに残る。なぜというに、世界が世界であることの十分条件とは、まさに世界が世界であること、現実的であることだからである。形式的な規定というのは、どこまで言っても、私のここで言うロゴス的世界というところを出ることが出来ない。


形式においてでなく、生命において誠実であるということが宗教的な意味での誠実であり、これこそが真の誠実である。これが誠実であることの、真の十分条件であるが、しかしそれは言葉では語り得ないので、沈黙せねばならない、と言わねばならないであろう。が、言葉とは人間的主体に属するものであり、人間的主体それ自身は言葉を越えていなければならない。我々は真の誠実ということを、人間的主体の主体性そのものの根源において見る必要がある。


ともかく誠実の形式的な規定としては、「絶対的なものに与る」という態度を持つ、という規定がふさわしいであろう。これは言わばロゴス的世界の最高位に位置するものである、ロゴス的世界の大中心とも言うべきものである。しかしロゴス的世界は、その根源において、我々の現実的環境において行為する主体の行為的尖端そのものに行き着く。行為的尖端において、ロゴス的世界はロゴス的世界自身を越えるのである。行為は、その結果がそのまま客観的現実に反映する。行為それ自体がロゴス的世界の内容全てを詰め込んだものなのだから、ここではロゴス的世界が、現実の環境世界を媒介にして、自己超越した、という事態が起こっている。行為の結果もまた、更にロゴス的に把握されることになるのだから。そして行為というものはロゴス的世界と現実の環境世界を直接結び付ける、媒介する、否両者をむしろ自己自身の内の両極として見るという意味を持つ。行為的なものこそが、我々の世界のありのままの実相なのである。行為的なものの立場、すなわち真に絶対的な立場それ自身に忠実になるということが、誠実ということであろう。


だから、誠実さとは次のように規定されねばならない。


「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:21‬ ‭JA1955‬‬

http://bible.com/81/mat.7.21.ja1955


天国とは誠実なるもののみが住むことのできる心の王国である。ここにはいかなる外面的なるものも無意味となる。真に霊的生命のみが意味を持つ世界である。


神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。」

‭‭ルカによる福音書‬ ‭17:20-21‬ ‭JA1955‬‬

http://bible.com/81/luk.17.20-21.ja1955


神の国は、あなたがたの「ただ中」にある、と言う。単なる内側ではない、ロゴス的世界の内容ではない。その「内にある」ものとは、神の国であり、絶対の彼方にあると考えられるものである。内即外ということである。


神の国は我々の内にある。つまり、主体の主体性そのものにおいて神の国があるのである。主体性そのものとは、純粋に行為的であるということである。行為的尖端的ということである。神の国とは、どこかに存在する国のことではない。それは常に行為的尖端的に照らされ続けることによって存在する国である。一瞬一瞬新たに神の国が生まれるのである。神の国でない場所はない、場所のみでない、全ての時間、全ての局面、この世界におけるありとあらゆる事象が神の国なのである。


しからばなぜ、我々は「神の国」に到達できないでいるか。それは神の国に「居る」ということだけでは、主体的には不十分だからである。神の国は、何度も言うように、行為的尖端的なものである。これは行為されねばならない、主体的に生きられねばならない。結局我々が神の国を見ることができるかどうか、というのは、天にいます父のみ旨を行うかどうか、にかかっている。


神の国に居る」ということ自体、単なる形式的規定であり、ロゴス的世界的な事実である。つまりそれだけを言うならば、それは「主よ主よ」と呼ぶことである。そうではなく、天にいます父のみ旨を行うこと、これを常に心すべきである。これを誠実と言うのだ。内が外と一体となる。ロゴス的世界と環境世界とが一体となる。曇りなき眼で世界を把握する。己の置かれた座標、歴史的位置、そこに神の配剤を読み取る必要があるのである。


くれぐれも、主よ主よと言うことによって、我は信仰に現に生きているなり、と心得違いを起こさぬことである。文は殺し、霊は活かすのである。


「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」

‭‭コリント人への第二の手紙‬ ‭3:6‬ ‭JA1955‬‬

http://bible.com/81/2co.3.6.ja1955




❇︎依存心について。実家の猫から。


さて、以上はなんだか抽象的な、大原則論の話である。こういう大原則を、偉そうに振りかざしてそれで事足れりと済ますこと自体が、「文字に仕え」ていることになるのだ。もっと、現実的で具体的なことというところで論じてみよう。


我々は、なるほど、宗教的に言えば、神に与ることによってのみ誠実であり得るのは、事実である。しかし、それは神に依存せよ、ということではない。神とは、一切の依存を離れたところに存在するものである。


普通に考えられるように、神こそが依存を離れたもの、真に自己自身によって在るものと考えられる。が、真に依存を離れたものは、他の存在をして依存せしめるものであろうか。しかしそう言うとき、それは他の存在を自己に依存せしめることに「依って」存在するということである。他を依存させる、というのは、その必要があるからではなかろうか?神が、単に被造物をして自己に依存せしめる存在であるとすれば、神と被造物とは結局共依存の関係と言わねばならないであろう。


そうではない、そんなはずはない。神が真に依存を離れたものと言うには、被造物が神そのものにならねばならぬ。しかしそう言うとき、神というのは被造物なのであるから、すでに唯一絶対なる存在ではないことになる。被造物が唯一絶対なる存在となることによって、唯一絶対なる存在は唯一絶対なる存在ではなくなるのである。この矛盾はいかに考えられようか?


否そもそも現実世界の事実がこういうものなのだ。現在は永遠なのである。神は被造物の行為的尖端においてあるものであり、行為的尖端的であることが、真に依存を離れることなのである。無限に行為的で創造的な被造物と被造物との関係それ自体が神である。しかも同時に神は唯一絶対なる存在でなければならない。


行為的尖端とは、現在そのものであり、過去未来が、今ここ、に詰まったものであり、主体の絶対的座標を照らし出すものである。


神と人と溶け合って、一つの姿になること、これが依存を離れることである。


当然、主よ主よと呼び求める、あるいは主に祈る、こういうことも、我々が依存を離れるために必要なことであろう。それは神に依存することではない。己に依存すること、すなわち依存を離れることである。行為することである。


行為的意味を持たないものであれば、祈りなどというのはまことに無意味なものに過ぎない。それはロゴス的世界が現実世界に勝ってしまうことである。しかしロゴス的世界というのは、現実世界そのものを自己の存在の基盤に置いているのだから、ロゴス的世界が現実世界に勝ることは、己自身を殺すことになる。


それでこういうただ祈りだけの祈り、形式的な祈りというものは、神から見れば、単にしつこいものであって、依存心の表れである。


「私はこれこれの事を望みます。主よ、私は主に忠実となりますので、どうか望むを叶えて下さい。」


すぐには叶えられない。そこで、同じような祈りを繰り返し、繰り返し行うことになる。が、これは元にある依存心を脱しない限り、同じ結果となる。しかし、神は絶対に正しい存在に違いなく、私の祈りも、その神に忠実に従うものだから、正しいに違いない。そう考えて、しつこく祈り続けることになる。この辺にキリスト教会の二千年の存続の秘密があるのかもしれない。しかし我々はイエスの精神に立ち返る必要がある。


「神は絶対に正しい存在に違いなく、私の祈りも、その神に忠実に従うものだから、正しいに違いない」、こういう考え方こそが、まさに私が形式的規定に過ぎないとして斥けたものである。それは断じて誠実などではない。


神としては、もっと「上」を見て欲しい、無論、神とてもその願いを叶えてやりたいのだ。ところが、祈りを続ける彼は、真に行為的であろうとはしない。願いは、己が行為的尖端的に掴み取るものであること、神の励ましは、彼自身の行為の内にさりげなく、しかし絶対的な強さを持って現れるものであるということ、これを悟らねばならない。


なるほど願いそのものは正当のものであろう。が、彼の祈りの在り方が間違っている。彼は、願いが叶えられる真の原因を知らない。だから、このしつこい祈りを受けて、本当にその通りにしてしまうと、彼は「私のこの祈りが通じたからだ、祈りが正しかったからだ」と心得違いを起こしてしまう。そうすると、彼は次もまた、同じように、しつこくしつこく、見当違いな態度で色々のことを祈るに違いない。そして彼にとっては、その祈りは、「絶対的善」なのであるから、益々救いようがなくなる。益々依存にはまり込む。


神はこういう事情を全て見通している。だから、絶対に彼の、根本的に間違った態度に由来する祈りは、その通り叶えてはならない。彼が真に行為的に生きるとき、それは予想もしない形で、さりげなく叶えられる。所詮水は高きより低きにしか流れない。逆流させてはならない。逆流がもし起こったならば、そこには何がしか邪な存在の関与があるに違いない。


我々は祈り地獄に落ちないように注意すべきである。我々が、行為的に生きるとき、こういう心配はない。行為的とは創造的ということであり、そのような生き方においては、神は、その都度その都度新しい姿で現れる、常に目の覚めるような発見がそこにはあるであろう。神は真の意味で被造物の友となる。




さて、ここで、なぜ私がこんな文を書くことになったのか、そのことについて話をして、締めくくりとさせていただこう。


実家の猫のことである。猫には時々エサを与えねばならない。ペットを飼うとは、単に可愛がるということだけではない、もっと色々あるのだ。エサ、それだけに思われるかもしれないが、こういう「身体的欲求」の関わることというのは結構厄介なのである。


当然エサの管理は、主人たる家の住人がするのであるから、猫は食ということに関して、完全に人に依存することになる。そして、「人からエサをもらえるか否か」ということが重要な問題となる。


猫がエサを得る道は、あたかも教会が神の独占権を主張し神への道を教会の教義にのみ限定するように、人からもらうという道のしかないので、猫なりにこの道をうまい具合に通ろうと、策を弄するのである。


といっても猫だから、エサを要求して、ニャーニャーと可愛く鳴き、身をすり寄せてくる、というぐらいである。人の方でも、そういう様子を見て、つい可愛いと思い、「要求に応えて」エサをやってしまう。


「要求に応える」というのが危険である。これは、猫による際限のない、エサ要求行為の始まりである。猫からすれば、「これをすれば思い通りエサをくれる」と心得る。だから、同じことを際限なくやれば、いい、と思ってしまうのだ。

(してみると、猫にも「ロゴス的世界」つまり、「口」の独立した領域の萌芽は見られるらしい。が、これは恐らくペットなど、人間生活に密接に関わる中で生まれる習性と言うべきものであろう。)


しかしエサは、人からすれば、単に客観的必要性から、猫の生体維持、健康維持の必要から与えたということに過ぎない、本質的には猫が可愛く鳴いたから、などという理由には基づかない。ここを猫の方では混同してしまう、区別が付かない。だから、しつこくしつこく、依存的行動が行われ、主人としてはとても後悔することになる。


こういうとき、どうするか。やはりエサは客観的必要から客観的に与えるもの、という態度を貫き、猫の要求に軽々しく応じないようにせねばならない。猫に話しかけて、教え諭そうとしても無駄である、言葉が通じない。対等に対話できないとなれば、行いによって、徐々に不自然な状態を改善して行くほかはない。元はと言えば、深く考えず軽々しく要求に応じてしまったことに問題があるのだ。よく考えるべきであった。


さて、翻って考えるに、神は我々に対して同じように思っているのではないか、ということだ。そもそも我々が神を「神」と一括りにしてしまうこと自体もそれを物語っている。我々からすれば、何だか偉い存在として、一つの「神」としか思えないものなのだが、実際のところは、個性を持った、沢山の霊たちである。沢山の霊たちが、人間を陰ながら支えているのであり、その時々の必要に応じて、適度に援助を与えてくれているのであり、骨を折ってくれているのである。無論人間の目には見えない、彼らは、なんとなく霊的に感じる高揚感によって存在を知ることができるというのみだ。つまり「神」と一括りにしてしまう以上に人間からは感じられない。


私も、この「神」に、日々色々の願い事や祈りをする。私自身大いに思い悩み、是非ともそうあって欲しい願望、私自身の自我の急所に関わる願望は、ついしつこく祈り続けてしまう。いくら神に感謝していても、このしつこさがあるという時点で、いくら立派な理屈でつくろってみたところで、この態度そのものが誤りなのだ。しかし私自身は正しい態度と思ってしまっているので、この祈り地獄の深みに嵌ってしまうというわけである。


祈られる方の神は、どういう風に思うか、ということが、実家の猫の様子を見て、分かったのだ。祈られる方からすれば、しつこく迷惑千万なものも、祈る方は正しいと信じ込んでしまっているのだから、なかなか始末に負えない。


「神様済まねえ、猫を見てよくわかった」


「わかりゃいいんだ、気を付けなさい。お主の願い事、知らないわけではない、が、態度が援助を受け付けないのだ。」


そんなわけで、ちょっとした償いの意もこめて、こんな文章を書いてみたというわけである。



お読みくださり、誠にありがたうゴゼエヤス。