雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

異質性と同一性について

以下は結局矛盾的自己同一なる論理がいかなるものか、ということを論じてみたものであるが、今度は異質性と同一性という切り口から考えてみた。私は矛盾的自己同一に魅入られてしまった。


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異質ということは色々に考えられる。人間と動物とは異質であり、口語と文語とは異質であり、霊と肉体とは異質である。そして質的な区別とは量的な区別に対比されるであろう。量的な差というのは、それらが同一の質であるけれども、あくまでその範囲内において差があるに過ぎない、本質的には同一の一般者においての特殊であるという意味を持つ。質的差異というのは、そういうものではなく、文字通り質が異なる、両者は同じところにない、完全に領域違いのもの、断絶したものと考えられる。ここでは量的なものは完全に意味を持たない、1か0かということになる。純粋な意味での量は横並びにおいて、純粋な意味での質は縦並びにおいて理解されるものと考えられる。


が、質的差異といえども、それら二者のそういう差異が実際にそういう差異として見られるということがあるからには、それらが本質的にある一つの場所において見られているということが、そこにすでにあるのであり、この場所というものを更に意識に入れるならば、それらの質的差異は直ちに量的差異となってしまう。AとBとは紙面上には縦並びに見えていていても、紙面そのものが机上にあることに気づけば、それは直ちに横並びということになってしまう。我々がそれらを見る「場所」が広がったからである。


では質的差異と量的差異とはいかに考えられるものであるか。否、質的差異と量的差異との「質的差異」というのはいかに考えることが可能であろうか。いかなる質的差異というものを考えても、そういう質的差異を、ある差異たらしめている根底的な一般者が主題化されてしまうならば(そしてこの主題化は止むを得ないものであり、必ず行われねばならぬ)、直ちにそれは量的差異の一種ということになってしまうのである。


質的差異というのは、普通には量的差異と比べて、何か一段と「位の高いもの」とでも言うべき地位を持たされている。それはそうである。量は連続、しかし質とは断絶なのだ。量がどこまで行っても質には辿り着けない。アキレスは亀に追いつけない。ところが今、少し考えたように、質的差異を差異たらしめている根底的な一般者それ自体をその都度主題化し続けるということ自体を、この思索のプロセスに組み込んでみるならば、かえって量的差異は質的差異の上位に立つものと考えられるであろう。なぜなら、一般者はここでは無限に深まり続けるとともに、一般者は根底に潜れば潜るほど、それは「原初からあったもの」という意義を強く持つものとなるからである。一般者から更に深い一般者へ、と潜って行く過程は、なるほど普通に過去から未来へという直線的な時系列の上に考えられる。しかし一般者とは、そもそも一般であるものであり、一般的であればあるほど、超時間的なもの、時間を包むもの、時間の始と終とを押さえるものの意味を持つものである。ここから考えれば、一般者から一般者へ、というのはかえって円環的な運動と考えられる。しかも常にその都度の自己の一点が、円環の始点であり、終点であると考えられねばならない。現在は常に静止したものでなければならない。なぜなら一般者は始点であり終点であるものなのだから。ここから考えれば、全てのものは、この唯一なる一般者において包まれた、何か本質的に量的なものということになる。


こういう風に、無限に深い一般者というものを根底に置くならば、そしてそれを実在そのものの自己形成、自己発展の論理として見るならばどうなるであろうか。それは世界はある絶対的一者の自己発展であり、自己分化の無限の営みである、という風な立場である。質的にどんどん断絶の壁を越えて深まって行くように見える一般者のトンネルは、単に元々始点にして終局である「根源的一般者」への自覚の道に過ぎない。その過程に見られる様々の質的変化は、実はこの根源的立場から見て、量的変化ということに過ぎない、すなわち「自己発展、自己分化」に過ぎないのだ。

(世界を単に対象的方向に量的と考えるならばそれは目的的世界であるが、これに質的変化を加味し、ノエシス的方向に世界を捉え、この質的変化そのものが本質的には量的変化なのだ、量的変化そのものが創造的なのだ、とするとき、これがドイツ観念論的な立場となるであろう。質即量が量の方へ突き抜けてしまうのは、自己意識あるいは内面的精神を何らかの意味で実体化しているからである。ヘーゲルもまたこれを逃れ得なかった。主観的なものは、いかに客観的な相貌をしていようと、実体化してはならない。絶対精神は、絶対精神というよりむしろ尖端的なものである。ここからベルクソンなどの立場に入って行くことができる。)



が、始点であり終点であるはずの一般者というものは、同時により大きな円環的過程の始点に過ぎないものであり、より大なる終点は彼方に見られるものということになってしまう。そもそも始であり終である一点において、円環はすでに円環というより一点なのであり、円環が一点に縮小したとき、すでにこの一点はもっと大きい円の円周上にあるということにならねばならないのだ。この円と円、というより点と円周との関係性から、直線的過程(と見えるもの)が考えられるのである。だから常に彼方には何かが見られねばならない。始点であり終点であるはずのこの根源的な一点においても、更に彼方に蜃気楼のように見られるものとは何であろうか?ここにロマンティックなものの全てが詰まっている。それはどこまでも理想的、理念的なものであって、無限に近づき得るが、絶対に、「質的に」近づき得ないものでなければならない。もしこの彼方に見られる終点を、それ自身実体化してしまえば、それまでである。そこにはスピノザの神が現れるだけである。世界は無味乾燥な、しかし幾何学的に完全無欠なる秩序ということになる。我々の自己は単なる神の様相である。あるいはこの彼方の一点に、何か超越的人格のようなものを想像したとすれば?それこそがユダヤ一神教の神であろう。が、それは想像に過ぎないのである!いずれもこれを「実体化」して見てしまったのだ。だが、彼方の終点は実体ではない、ただ理念的に、理想的に、すなわち行為的尖端的に見られるものである。否、無限に理想的なものの陰に、これに与って自己の方を(不遜なことに!)肥大化してしまう哲学によってもそれは語り尽くされない。それはただ汝であるものである。汝である一切である。眼前の紙屑は汝である。自己を忘るるは万法に証せらるるなり、である。汝とは一切の異質性ではなかろうか。ここでは量的と考えられるものすらも、その「中身」を切り刻まれ、そこから全く新しい「質」が誕生するのである。量は質となる。紙屑が神の宣託となる。それはどこまでも尖端的なものにおいてのみ把握される世界である。すなわち自己の一点、最も此方なる場所そのものが、存在の根底からの死より蘇ることによって、内に超越的に更生することによって、把握される世界である。どこまでも彼方に見られるものは、我々の自身の此方の更なる此方において見られるのである。


さて、上に論じたところから明らかなように、量的なものが質的なものを内に自己発展の契機として包み持つということは、そのまま裏側で、純粋な異質性的なものが量そのものを質化する、質そのものが創造的に更生するということを意味する。質と量とを、単に同じ土俵で対比するならば、つまり両者を「量的に」対比するならば、質は量に絶対的優位に立つ。が、ひとたび世界そのものの上に論じたような創造性というものを考えるならば、質と量との関係は逆転し、しかも質はそれそのものが質的に更生することになるのである。この関係の逆転は単なる逆転ではない。逆転でありながら、本来の質と量との上下関係はそのまま保たれているのである。言って見れば、質と量が「量的に」対比されるのに対し、ここでは質と量が「質的に」対比されているのである。質と量が「質的に」対比されるとき、質とは創造性、更新性に於いて、量とは自己発展、自己分化に於いて理解される。質は実在の姿としては、量と一体であり、量は実在の姿としては質と一体であり、互いが互いを伸ばし合うことによって、結局は世界の形をどこまでも創造して行くということになるだろう。しかも両者は「質的」な関係として、断絶したもの、超越的関係なのである。互いは互いに超越的でありながら、互いに内在的であり、両者は一つの、しかも二つの「創造的な循環」ということになる。このモデルから、各人が各人の視点を持つとともに、しかも客観的形として唯一のものである、多であり一である世界というものが考えられる。

こういうイメージがふと浮かんだ。水面に指を浸して、少し前方へ動かして見る。その進行方向の両脇には、右回りと左回りとの水流が生まれる。この二つの水流は、指によって描かれる一つの方向そのものが内に含んでいるものだ。二つの循環が補い合って、一つの方向へと力を働かせる、とも見ることができる。

銀河系とアンドロメダとはこれにそっくりではないか。

(ちなみに、かく質即量、量即質、と考えられるとき、こういう風な二者を私は「理念的形式」と呼ぶ。イザナギイザナミのあのまぐわいの話などは、哲学的に言えば、この理念的形式の論理そのものを描き出したものである。神話には時に恐ろしく深い哲理が隠れている。特に謎多き日本神話などはそういう傾向が強いのではないかと思う。日本って結構素質的には哲学王国なのだ。国民が自覚していないが。)


以上から、結局は質と量とは、「実在」というところから考えられる必要があることはわかる。実在の問題は同一性の問題である。それは単なる自己同一的な実体ということではない。実在そのものの姿をまず自己の存在そのものの底深くに潜って、偽りなき目で見つめてみる必要がある。




さて、我々は自己の存在の根底において、いかなる質的差異も越えて、全てを一つの量たらしめる、何か純粋な一なるものを見る。ベルクソンはこれを純粋持続と呼んだ。純粋持続というものはベルクソンによれば純粋の異質性であり、絶えざる創造的進行である。我々はここに、面白いジレンマを見る。すなわち、全ての質を、一つの量としてしまう、その当のものが、ほかならぬ純粋の異質性である、ということである。思うに同一とは、こういうジレンマにおいてのみ見られるものではあるまいか。同一とは、「自己同一なるものは自己自身に矛盾することによって自己同一である」ということではあるまいか。


我々は端的な自己同一というものがあるように、抽象的には考える。AはA自身に同一であるに決まっているのである。しかしそれは文字通り「抽象的に」考えられたものであるからこそ、真に具体的で実在的なものではない。Aは常に非Aを前提とすることによってのみ「実在」し得る。くどいが、端的にA自身であるに過ぎないものは、そういうものとして抽象的に考えられるものに過ぎないのであって、実在の姿ではない。Aは実体であるとしよう。つまりいかに変化するとも、外形的に凹もうとも、粉砕されようとも、分裂しようとも、常に(いかに苦し紛れの言い訳のごときものでも、鹿の絵を馬と呼ぶようなものであったとしても、観念的であったとしても、とにかく理念的には)自己同一を保つ、ある持続的なものである。いっそのこと世界の原初から終末までAは同一のAなのだとしよう。実体とはともかく理念的にはそういう概念なのだ。さてAについてこう説明するとき、そもそもなぜ、Aはわざわざ「同一だ」と確認せねばならないのだろうか。AがA自身であることは当たり前のことであるはずであり、わざわざ確認するまでもないのではないか?いやいや、そんなことはない。なぜなら、「何があろうと、どんなに形が変わろうとAはA自身である」と言ったではないか。つまりAには、あらかじめ様々な形での、否無限の仕方での変化が前提されているからこそ、わざわざ「Aは変化しても、それでもA自身なのだ」と言わねばならないのである。以上を簡潔にまとめれば、「AがA自身である、Aが自己同一である、というのはAが常に同一でないためである」ということになる。Aの自己同一は、常に何らかの主体性に与って、維持、保護、いやいや「発見」されねばならない。


実体Aの自己同一性は、常に「発見」されねばならない。それは端的な自己同一ではなく、常に自己同一性として、その都度その都度現在において確認されるものである。つまり、ここに、実体的なるものは、行為的尖端的なものに結び付かねばならない。必ずその都度発見される必要がある、とは、いかなるモデルも、その説明として不完全となる、ということである。背後に何ものもないもの、が常にそこになければならない。背後に何ものもないものが常に背後にあることによってのみ自己同一である。現在においてあることによってのみ自己同一たり得る。現在はそれぞれ世界の根底そのものと考えられねばならない。最もはかないもの、最も小さいものこそが、世界そのものなのである。現在は他の現在を前提にする。すなわち同一現在が、すでに無限の多数の現在ということになる。しかし無限の多数の現在というのが、単に同一現在においてある、と言うのみでは、それは単なる量的な見方である。しかし現在とは、質そのもののはずである。ベルクソンの純粋持続においてそう考えられるように。質そのものが、純粋な質であるが故に、かえって量の一部となる、この矛盾に創造というものの秘密があるのである。さて、自己同一なるものは、同一でないことを前提にしてのみ自己同一である、というのは、質が純粋に質であることが直ちにそれが量の最も部分的なものであるということを意味する、ということである。現在ということを考えるならば、質は更生的に、量は自己分化的に、すなわち創造的になることが直ちに理解されるであろう。


我々は空間と時間と物とを別々に考える。だから、精神と物とを、根底的には一つのものであるとして、精神を物のバリエーションのように考えたり、物を精神のバリエーションのように考えても、それは対象的な考え方を離れ得ない、真に実在的ではないのである。空間や時間とは、ともかく精神とか物といったこととは別個に考えられるのであるが、そのこと自体が誤りである。そもそも精神とか物といったものが、空間と時間との関係に基づいて初めて成るものと考えねばならない。自己同一なるものがある、なるほど世界は一面そのように考えられるのである。ところが、そもそも自己同一は自己同一であって、すでに自己同一ではないものである。一が一である時点ですでにニである。精神とか物といった、何か単にそれ自身は単一なるもの、というものが先立つのではない。単一なるものはすでにニでなければならない。普通に空間と時間とはどこまでも交わり得ない、ただ両者は純粋に関係的なものと考えられるのであるが、これら絶対に交わり得ないものがそもそも単に現実的事実そのものであるというのが、世界の実相である。では絶対に交わり得ないものがすでに一である所とはなんであるか。それは現在である。現在とはそれ自身全く無規定なものと考えられる。現在といったばかりでは、それはいかなる空間的内容も、時間的内容も持たない。そうであるが故に、現在というものはいかなる空間にもいかなる時間にもなり得る。いかなる範囲の空間にも、いかなる範囲の時間にもなり得ると考えられる。例えばある現在は、大宇宙そのものの誕生から終焉までの全過程のことである。この現在というものが、自己同一というもののモデルなのである。だが、モデルといっても、いま言ったように、現在とは、無規定そのものに他ならないので、自己同一のモデルとは、あらゆるモデル的なものを否定したもの、ということになるのである。


単なる無規定は無規定ということに過ぎない。何ものでもない、内容を持たない。ところが現在は内容を持たねばならない。現在は形でなければならない。形というものもまた、それ自身無規定なものと考えられる。形はしかし内容ということを前提にする概念である。が、形という言葉には現在という意味が忘れられがちである。しかし形は常に創造的でなければならない。形は常に形自身を越えたものでなければならない。形は内側から刷新され続けるものである。つまるところ形とは自己同一なるものである。が、それは自己同一でないという仕方で自己同一なるもの、つまり創造的なものである。ここに行為というものが来なければならない。行為というものは身体的である。身体は形である。作るということも形を作るということである。身体という形が物という形を作る環境もまた形である。形と形との無限に重なる世界、これが我々の実在的世界である。


そういうわけで、この世界はどこまでも行為的で、創造的な世界であり、無限に尖端的で、エロス的と言わねばならない。