雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」から。「表現作用」について。そして身体について。脱線して霊的なことについて

私は前にも書いたように、離人症的な症状に悩まされ、頭が朦朧としているといいながら、なんだか哲学的思考のアイデアはいっぱい出てきて、我ながらよくわからない。精神的に病的な状態である人らしからぬ元気さであるが、しかしこの元気は間違いなく、徹夜明けの空元気といった趣きのもので、実際のところかなり疲弊している。それは仕方ない。

 

 

 

 

以下、哲学ノートである。西田幾多郎の哲学の解説のような体を装っているが、実際のところ西田の論理の上に、自分自身の論理、哲学を語っているというわけであり、西田理解も、あくまで私が理解する限りのそれであることを注記しておく。

 

 

     

 

 

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哲学ノート。

西田幾多郎が「一応私の根本的論理を明らかにした」と言う論文、「絶対矛盾的自己同一」、これを取り上げて、その論理の核心を狙い撃ちすべく、少しばかり解読してみよう。全部読むわけではない。いや、本当にごく一部だけを取り上げよう(実はさっき気まぐれに読んだところ)。一部分だけでも物凄い密度なのだ。西田は間違いなく、全ての箇所を手を抜かず、命懸けの全力で執筆しているので、逆に一箇所だけでも、その全生命のほとばしりがありありと見て取れるような、そんな有様となっているのだ。
 
(この論文は青空文庫で読めます。ありがたい。私はスマホ青空文庫アプリ使って読んでます。このアプリとても良いです。)
 
 
 
❇︎一と多ということ
 
「客観的表現の世界とは、多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界でなければならない。」(青空文庫アプリのテキスト、多分初期設定の字間やフォントサイズ、p78)
 
これが、理念的形式という言葉で私の意味したい論理だ。理念的形式とは、こういう創造的関係のことだ。そしてそれが世界の全ての在り方なのだ。
少し滑稽なモデルで考えてみようか。ある人が、何にも依存しないで、ただ自己自身に依存することによって、存在しようとするとき(いやそれは実は独りよがりなのだ、なぜなら彼は生まれたときすでに世界のお世話になっているのだから)、それは自己自身に他のものを取り込む、それで自己自身は何か超然としたものとして立つ、こういう仕方がとられることになるだろう。が、要するにそういうやり方でしか、彼は自立することはできないのだ。彼は「取り込まれる色々の存在」との共依存の関係においてのみ、自己自身によって在る独立した存在であることができる。さて、共依存の関係に立たされる方は黙っていられるだろうか。当然そんなことはない。だって彼らもまた「自立したい」と実は思っているのだ。本来対等なのだ。それで、自立者、独立者、唯我独尊者の彼から見てみれば、「取り込まれる方」は、それ自身が何か進歩してゆき、自分にとって何か手強い敵となってくるように見える(彼らを、個々としてでなく「取り込まれる方」などと一括りにするところに唯我独尊者の唯我独尊性はあるのだが)。それで、止むを得ず、唯我独尊者の方でも、自己自身が努力して、進歩しなければならない、ということになる。いつの間にか、この世界は進歩から進歩へ、今日より明日へ、日々姿が変わって行くような、そんな様相を呈するであろう(今はモデルとして理想的なものを考えているのだ、要らぬことは考えぬがよい)。ここでは、他者への理解の必要があり、それも段階が進むにつれ、より内面的なそれが必要になってくるので、結局は愛によって結ばれた関係となることだろう。共依存はかえって、創造的な関係と生まれ変わる、これによって両者の関係はどこまでも平和に保たれ、依存的でありながら独立的、独立的でありながら依存的な発展的、建設的な関係となり得るのである。否、全ての存在がそれぞれ「唯我独尊者」でもあり、しかも「取り込まれる方」でもある、という在り方になるのだ。しかし翻って考えれば、そもそも世界は始めからこういう創造的原理でできていたのだ。彼は始めからこういう原理の外に出ることができない。生まれたときからすでに世界のお世話になっているのだから。彼が唯我独尊者になろうと、唯我独尊者に取り込まれる方になろうと、生きようと死のうと、そんなことにはお構いなく、世界は世界であり続ける。真の唯我独尊者は世界なのだ。しかもこういう真の唯我独尊者であって、初めて全ての存在の根源的な生命、全てを育む親、全ての理解者、恩寵の絶対的根拠、すなわち神であり得るのだ。だから彼はかえって、唯我独尊者なる不遜な生き方をしてみることによって、それを通して、この世界に初めから備わっている原理を、新たに「自覚」することができたということになるわけだ。この「自覚」の新しさにおいて世界は創造的になるのであり、唯我独尊者などという一方的な偏った存在になることそれ自体は本質的ではない。しかし彼は唯我独尊者に「なろうとする」ことがなければ、この自覚に達することもなかった。このために、むしろこういう風に、自己自身を一方の偏った立場に置いてみるということは、世界そのものの「自覚」にとっては不可欠である。彼は真にその、ある一方的な立場「そのもの」になることはできないが、理念的にはどこまでもそうであることができる。なぜなら、世界自体がすでに真のその立場「そのもの」なのだから。つまりこれは、西田先生のおっしゃる通り「多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界」でなければならない。世界は全てこういう理屈で成り立っている。真にあるのは、主観か客観か、いずれか一方ではなく、それらのある関係の仕方でもなく、それらが理念的形式として、実はこれらの関係の過程が創造的な発展となること、それによって三者な方向つまり「自覚」そのものが深く広くなって行くということである。これを「形から形へ」などと西田はよく言う。「自覚から自覚へ」はこれと結局は同じ意味である。自覚とは形なのだ。自覚が形であるとはどういうことか。それは「表現的」ということだ。ワケワカメか。よろしい、以下に少しずつ説明されて行くであろう。
 
 
 
❇︎「表現的」ということ
 
さて、西田のこの論文で重要な主題の一つは「表現的」ということである。「表現的」ということは、西田がライプニッツを受けて自己の哲学に取り込んだ重要な考え方である。ただライプニッツモナドジーというものは西田によれば知的なものであり、その真に意味するところがライプニッツ自身によっても理解されていない(だから予定調和なる奇怪な説が登場するのである。思うに哲学に出てくる奇怪な説というのは、だいたいにおいて、哲学者がそれぞれ世界の真理を何がしかの形で深く掴んだにもかかわらず、その真に意味するところをその哲学者自身が理解できていなかったということに起因するのではないか、と思う。そして後続の哲学者は、先賢哲学者のこういう「創造的隙間」をきっかけにして、自己自身の哲学論理を新たに発見して行くのである。西田は色々な哲学者のこういう「創造的隙間」をよく掴んだ素晴らしい哲学者である。私はこれが日本人の最も日本人的な才覚と思う。いやしくも誇り高き日本人を自認するものは、彼に見習わねばならぬ。)
それで西田は、これを創造的世界の自己限定の論理として理解する。つまり世界そのものの在り方、根本原理ということだ。もっと具体的には、以下に引用したところを参照すれば分かりやすいであろう。
(いや西田の文章そのものが決して分かりやすくないので、実際そうでもないのだが。ちんぷんかんぷんでも、やはりちゃんと意味のあることを言っているので、とにかく私とともに、解読してみませうよ。)
 
 
「歴史的世界は意識的である。表現作用というものを考えなければ、形から形へということは単に無媒介と考えられる、作用と形というものが無関係と考えられる。しかし働くということは、全世界との関係において、全世界の形において成立するのである。物理現象においても爾いわなければならない(ロッチェはその『形而上学』においてこの点を明にしていると思う)。全世界の有つ形、私のいわゆる生産様式と作用とは離して考えることはできない。人は多く作用というものを全世界との関係から離して抽象的に考えている。物理作用とか、生物的作用とかいうものでも、爾考えることができる。しかし表現的作用というものは、爾考えることはできない。」(同p85-86)
なぜか?それは、表現作用とは、他の作用の在り方とは異なるからだ。それは、「質の絶対に異なるもの」の同一から考えられねばならない。ここから初めて、無限に創造的な世界、真に自己自身によって在り、自己自身によって動いて行く世界というものが考えられるのだ。
 
 
❇︎❇︎作用について
 
ここでは作用ということが話題になっている。なぜ表現作用は、他の作用とは本質的に異なるもの、世界そのものの現実的な在り方として考えられるのだろうか?これについて考えることによって、表現作用というものについて考えてみよう。
 
作用とは普通、質の異なるものどうしの関係だ。例えばを考えよう。気圧に疎密があれば、自ずから空気は密から疎へと流れる。疎と密、この両者を一応別個のものとみて、本来一つのものであるところの風を、こういう両要素の関係として、何か科学的に、人工的に、抽象的に再構成して、現実そのものをドット絵などのように、「複数のものの間の関係」というところから見たとき、この関係自体に名付けたのが作用というものだ。それは関係でありながら、すなわちある静的なもの、対等な二者のある定まった位置付けでありながら、一方が他方に従属するという意味、すなわちはっきりとした上下の関係があり、そこに動的な連続があるという意味を持つ。この時これを作用と言うのだ。つまり先に言った、質の異なるものの関係ということだ。ただそこには、依然として、質の異なるものとその関係が、全体として引っくるめて、一つの「形」として一なるものであるという意味は持たされていない。なぜなら、作用とは、作用するもの、されるもの、この二者の区別があって、そしてさらにこれと作用自体が区別されることによって設定される概念なのだから。しかし現実にあるのは、「風」なる一つの「形」なのである。
 
この上下の関係にあるもの、質的に異なるものの関係ということ、これについて、今度はもっと本質的な例を挙げてみよう。それは意識作用というものである。意識と意識対象というものには、絶対の区別がなければならない。つまり両者がどこまで関係を持ったとしても、どこかの時点で同化してしまうもの(例えば形相が質料を形成すると考えるとき、その完成態において、両者は区別のない一なるものとなってしまうように)ではない、意識というものは、関係する対象がいかに変わるとも、対象そのものから完全に離れて自己同一性を何らかの意味で保っているものと考えられねばならない※。つまり意識と意識対象には質的な差がある、というわけで、これは作用ということについて例を挙げるのに最もふさわしいものなのである。さて、何度も同じことを確かめるようであるが、こういう「質的に異なるもの」同士の関係は、目的的に、一方が他方を完全に回収してしまうものでもなく、機械的に互いが偶然的に結合し、離れ行くもの、偶然的に関係するのでもない。両者の関係というのは、必然的な関係、原因なる一つのものがすでに把握された関係でありながら、目的的なものなどと違って絶対に同化しないような関係、つまり「作用」と考えられねばならない。これが作用と考えられるものの、最も純粋と考えられるものである。他の全ての作用は、こういう意識作用的な意味での作用を、他のレベルでも類推によって見たときに現れるもの、ということになるわけである(だから、一見対等のものどうしの関係に見える、物体どうしの作用においても、冷静に見ればこういう上下の関係であることがわかる。やはり一から他へ、という主従の関係が一時的に出てくることによって、それは作用、と呼べるものになるのだ。だが、物体どうしの作用といっても、物体どうしは本来対等なものなので、一時的な主従の関係の揺り戻しとして、そこには必ず「反作用」が伴わねばならない!いや揺り戻しというより、それは同時にあるものなのだ。更に目的的な作用を考えるならば、それは目的、完成が実現仕切ってしまうその過程の中途段階にのみ見られるのが作用であり、目的が実現してしまえば作用は立ち消えになる、という指摘で十分であろう。しかも目的的なものの本質は目的、完成それ自身なのだから、これはその本質において無作用なのだ!)。
 
今度は意識作用、すなわち作用なるものの抽象的な姿として最も純粋なものと考えられるもの、これに焦点を当てて、作用それ自体の具体的な姿に迫ってみよう。
 
作用というのは動即静、つまり現実の世界の働きそのものを表現したものとして見ることができる。現実の世界の働きとは、常に世界の根底に結び付かねばならぬ。なぜなら、現実とは、常に世界ごとから世界ごとへ、と動き行くものなのだから。だから我々の経験的事実においても、やはり意識とはある根本的なもの、それ以上外に出ることができないもの、と考えられる。が、しかし意識がそういうものだからといって、それ自身が本当に即世界の根底となるか、と言うとそういうことにはならない。なぜなら、意識とは、意識、意識対象、意識作用という風に、現実の働きを構成する三要素を設定した上で、意識対象、意識作用の二者を捨象することによって得られるものなのだから。「いや、意識というものはこれら二者も含めた一なるものだ」というならば、すでに意識ということの意味そのものが変わって来なければならない。このとき、意識というものは単なる意識ではなく、実在そのもののことを言わねばならない。
 
そこで、まずフィヒテ哲学のような、物自体を、自我として実体化してしまうような方向が考えられるのだ。しかしそれでは実在というものを、意識、意識対象の二者内の意識の方に偏らせて見たものとなってしまう。こういう立場があるということは、逆に、実在を、意識対象の方に突き抜けた方向に考えることもできるというわけである。これがスピノザ哲学における、神という唯一実体であろう(こういう哲学の位置付けの仕方については西田「デカルト哲学について」参照)。しかし本来実在とは、つまり現実の世界そのものとは、絶対の第三者であるべきで、いずれにも偏っではならぬはずだ。もし突き抜ける方向を考えるとするなら、意識作用そのものの方向に突き抜けるべきではないか?ではこういう立場から見られるのは何であろうか?
 
意識作用そのものに突き抜けるという方向、つまり意識それ自身でもなく、意識される対象それ自身でもなく、事象そのものへ突き抜ける方向、こういう立場はまず、フッサール現象学が挙げられるであろう。が、意識作用なるものは、現実の相として見るならば、単なる関係的なものではない。意識作用というものが積極的なものという意味を持つことができるのは、意識作用が意識も意識対象もそこに含まれたような立場だ、と理解される時である。いや、意識と意識対象が絶対に結び付かないと考えられることによって意識作用というものが考えられるのだ、ということであってみれば、要はこの絶対に結び付かないという規定そのものを保存した高次の立場が考えられねばならない。それは意識を、そして意識対象をも飛び出る立場でなければならない。絶対に超越的でなければならない。しかもそういう絶対の第三者的な立場自体が、意識にも、意識対象にも、内在的でなければ、そもそも意識と意識対象を前提とする意識作用なるものも考えられようがない(意識の外にも意識対象の外にも我々は出ることができないのだ)。つまり西田がよく言う「内在的なものが超越的であり、超越的なものが内在的である」ということがなければならない。私はちゃんと勉強したわけではないから、本当に確かなことは言えないのであるが、フッサール現象学は、どうも、本当の意味でこういうことを考えているわけではないらしい。なぜなら、私の今問題にしているところ、内在的即超越的なるもの、これを本当の意味で見、その姿を語るならば、それは何か宙ぶらりんの第三者的なもの、つまり事象的なものではなく、無数の唯一なる形が形自身を限定、というか形成して行く、無限に創造的な世界を考えねばならないからである。なぜか?
 
先に、実在そのものを考える考え方として、意識、意識対象、意識作用の三者から、意識の方へ突き抜けるフィヒテ、意識対象(いやこの言い方はふさわしくないのだが仕方ない)の方へ突き抜けるスピノザ、こういう相反する二つの立場について言及した。つまり真の実在というものは、意識の方にも、対象の方にも、突き抜けていると考えねばならないのである。意識の方に突き抜けたものが実在と考えるならば、それは何か世界そのものが無限の自己実現の創造的過程と考えられるものである。それは結局自己から自己へと無限に動き行く世界だ。しかし、逆に対象の方に突き抜けたものが実在だと考えるならば、意識に現れる全ての物が神そのものの表現、全てに神が内在している、しかもそれらは結局同じ唯一の神の、何か仮の姿と考えられる、意識それ自身も神の仮の姿である、そういうような世界が現れるであろう。これらは両方とも真実なのだ。事象そのものへ突き抜ける第三者的方向からはこういう立場が出てこねばならない(もっともフッサールはこれらの相反する立場の綜合から出てくるヘーゲル哲学などとは違って、そもそも世界の根底なるものを考えてしまう、化け物の世界みたいに肥大化してしまった西洋哲学の伝統を一旦リセットして、改めて「事象そのものへ」として出発する立場なのであるから、西田のそれとは全く違う)。これらは一見、どこまでも相反するように、見える。が、よくよく、よくよく、本当によくよく考えてみるなら、「これら両方が真実である」とは、単純に現実世界そのものの在り方を言っているだけであることが理解されるであろう。つまり、世界は、形と形との世界であり、これらが関わり合うことによって、形を変じたり、深まっていったりするような、そういうものなのだ。世界はどこまでも姿を変えて行くもの、しかもその時々にその時々の、その所々にその所々の神があるものということになる。全ての形は、いずれも自己自身を持つもの、自己自身であるもの、つまり自己自身によって自己を成立させるものだ。一片の塵は、自己自身によって自己を成立させる自立的なものではないと考えられるかもしれぬ。しかし、一片の塵もやはり、一つの「形」なのだ。形であるとは、自己自身によって自己を成立させるもの、自己自身によって在るものでなければならぬ。そうでなければ、そもそもこの世界において、一つの物として現れることもできない。何であっても、世界において何らかの形で(ああ「形」だ)一つの物として現れるものは、それは観念的なものであっても、あるいは自立的でないと考えられるものであっても、取るに足りないものと考えられるものであっても、必ず言わば神の許しがあってそこに存在しているのだ。世界そのものの根底に許可されたものでなければ、世界に何らの形でも現れてくることはできないであろう。当然のことだ。
 
 
❇︎❇︎「表現作用」というものの本質
 
お、ここで、この稿のテーマ「表現的」ということを考えるのに、キーとなる捉え方が出現した。全ての物は神の許しがあって、存在しているのだ。そこでは全ての物が神そのものの表現と考えられるとともに、絶対に自己自身によって在るもの、つまり神そのものと考えられねばならない。全てに神が内在する、というよりも、全てが神そのものであると考えられねばならない。表現されるものが表現するものである。絶対に上下の差のあるものが、そもそも同一である、こういう関係が表現的関係なのである。しかしそれは、単に「関係」すなわち両要素の静的な位置付けではなくして、連続的、動的な関係、つまり作用的な関係でなければならない。しかし作用的と言っても、これは作用するものとされるものから切り離して見られるところの作用そのものではない。それは現実の形を含んだものでなければならない。いや形そのものが作用を含むのだ。つまり現実は形から形へと、無限に動き行く。世界には無数の形があるばかりである。さて、意識の外に我々の自己は出ることができない、と言う。しかし我々の自己とは、「身体」ではないか。身体には外側がある。我々の意識というものも、実は身体的ということを離れて存在できない。「いや、我々の身体が世界の内にある一つの限定された形であり、『外側を持つ』ものであるとしても、そういうこと自体も引っくるめて内在的に見るのが意識なのだ」と言ったとしても、そもそも意識をそう規定するなら、それは身体的ということを完全に越える立場である。身体があってもなくても自存する、デカルトの言う「精神」なる実体の如きものである。しかし身体的ということを離してしまったら、そもそも我々の存在というもの自体がなくなる。強いてそこに存在を求めるならば、精神が「実体」視されねばならない。しかし精神というものは、実体的なるものにも依存しないからこそ意味があるのではないか。実体と言ってしまえばそこまでである。が、世界は無限に創造的であることを忘れてはならぬ。実体的でありながら、実体的なものを突き抜け、実体そのものが創造的に変じられるものである、というところに世界の創造性の本質がある。そういう実体的なものを突き抜ける、こういうことを担う理念的形式として、精神なるものが考えられるのだ。実体的なものを否定するからこそ、逆にそれは優れて実体的であると言えるのだ。精神を実体と見るのも、そういう意味においてでなければならないのであり、それは端的に実体であるのではない。
 
少し脱線しかけている。主題は「表現的」ということである。それを考えるには、我々の自己が「身体」である、ということ、これについて深く考えねばならないのである。表現的とは単にモナドジー的な知的なものではないであろう。それでは表現「作用」などと称しても、作用それ自身はやはり、一と多とは別に考えられてしまう。だからライプニッツは予定調和という考えを持ち出して来なければならない。つまりこれは、ライプニッツが本当に良いところまで行ったのに、一と多の関係自体を、形から形へとして、真に創造的に考えなかったから、つまり、作用というものが、一と多、神と個多との外に出てしまったから(あるいは深く反省されていなかったから)、その矛盾的な間隙を埋めるものとして予定調和なるものが考え出されることになるのである。西田がここに「創造的隙間」を捉え、乗り越えることになった所以である。それで現実の世界は、真に自己自身によって在るものである。形とは真に自己自身によって在るものである。形は無数にある。つまり、世界は、無数の世界と世界との無限に創造的な関係として理解されねばならない。予定調和ではなく、一々の瞬間が世界の創めである、創造的ということだ。一つの世界そのものの中に、すでに無数の世界と世界との関係そのものが含まれていなければならない。それはキルケゴールによる自己の定義、「関係が関係それ自身に関係するという関係」であるもの、あるいはまたそれは西田自身の表現で言えば、やはり「多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界」でなければならない。世界と世界との関係が、形と形との関係である、つまり一々の形が世界である、というのは、一々の形が己自身の視点を持って世界を包み世界に働くとともに、それ自身が一つの「形」としてすでに世界の内に具体的な姿を持って含まれているということである。それは要するに「身体的」ということなのだ。意識的として世界そのものから超然としたものでありながら、身体として世界の内で働くもの、これは我々がそれであるところの人間的存在というものを考えればわかりやすいであろう。が、これは単に人間的存在に限られた話ではない、実は世界においてある物の全ての全てがそういう存在なのだ。なぜなら物はなのだから。一片の塵でも、世界の根底を把握し、自己自身によって自己自身を存在させるものなのだ。全ての物は意識的であり、かつ対象的であり、つまり第三者である作用そのものにおいて自己を持つ、つまりそれは身体的である、「形」である、ということになるのだ。
 
かくして、身体的ということによって、「表現作用」というものの本質が理解されるであろう。それは要するに先に言ったように、絶対に質的に異なるものが同一であるということそれ自体、これなのである。結び付き得ないものの自己同一、矛盾的自己同一、これなのである。西田がよく言うように「表現されるものが表現するもの」なのだ。そこには動即静というものが見られる、その限り作用的である。空気の疎密の作用としての風である。ただ動即静といっても、意識作用のように、作用それ自身を抽象して考えられるものではなく、それは形そのものを含んだものでなければならない。形は一つの全体として我々がそこの中に含まれるものでありながら、しかもそれ自身が含まれたものによって変じられて行くもの、形成されるものである。形から形へ、である。どこまでも創造的なものでなければならない。つまり含むものが含まれたものであることそれ自体(含むものと含まれるものとの間の関係ではなく)、これが身体的ということであり、表現作用というものなのである。が、身体的ということを、こういうラディカルなところから考えないで、単に有機体的な我々の身体とか動物の身体とか、そういうものを考えても理解できない。身体的ということは直ちに表現的ということを意味せねばならない。つまり逆に表現的であるものは、全てすでに身体的なものでなければならない。身体的ということの意味が、我々の常識的理解よりも、とてつもなく広く理解される必要があるのだ。つまり何度も繰り返すが、世界の全ては身体的でなければならない、「形」でなければならない。そして形とは、身体とは、常に自己自身の視点から世界全体を掴んでいるもの、意識的なものである。自己が世界に含まれたものでありながら、世界が自己の内に含まれているのである。これが一即多、多即一、ということだ。これが表現的関係なのだ。つまり、質的に異なるものが同一ということだ。しかもこれは作用的関係として、動即静なのだ。
(こういう順を踏んだ説明を抜かして、西田の晩年の論文には、途中途中で思い出したように、何か決まり文句のように、「世界というものは一即多、多即一であり、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的として、主体と環境との矛盾的自己同一的に、形から形へと無限に自己自身を創造的に形成して行く歴史的世界でなければならない。」みたいな、定型句的なものが、バリエーションはあるが、いっぱい出てくる。そしておそらく、読者はこういうワケワカメなシリウス語が突如出現することによって、未知との遭遇といった事態に陥り、完全に面食らって、静かに書を閉じることになる。不親切な西田先生であるが、先生は何と言っても、闘うのに必死で、あんまり親切に順を踏んだ説明をしてくれないのである。先生が望んでいるのは、こういう、色々な文脈に定型的に何度も現れるというところから、全体として何を言わんとしているのか、掴んで欲しい、ということだ。そもそもそれの詳しい説明は、以前の論文で論じてあるというわけだ。でも、読者を代弁するならば、全部を読むような根性はねーよ、といったところである。しかし、根っこにあるのは、非常に、シンプルで力強い、魂の底から突き上げてくるような論理であり、何が何だかわからなくても、読んでいると魂がものすごく高揚して来るという現象が起こる。これが西田先生の魅力である。はっきり言ってわからなくても良いのである。わからないのにわかったふりさえしなければいいのだ(残念ながら、学者には知ったかぶりも多いようなので、まして一般の人たちにおいては、なので警告しておく)。え?私の文章も不親切でワケワカメだって?いや、私実はシリウス人ですので、地球語に不慣れなもので……)
 
 
 
 
 
 
❇︎結論と更なる見通し
 
さて、結論として、いや、結論はすでに上の段落で出ているが、更なる見通しとして、尚一、二点述べて置かねばならぬ。それは、「表現作用」ということが身体的であり、創造的である、として、それがいかなることを意味するのか、ということだ。正直、全てを抜かしていきなりこういうラディカルな問題を考えても、大抵の人は付いていけないものだ。私だって、「絶対矛盾的自己同一」なる論文、いや西田の論文のワケワカメさには随分付いていけない思いをした。とにかく後続の者たちがそういう痛い思いをすることを防ぐにも、もう少し、現実的で分かりやすいと思えるところとの連絡を、この稿においても示して置きたいのだ。
 
それで、表現は身体的である、形である、とはいかなることか。それは「行為的である」ということだ。世界は行為的に形成されるものである。全ての物が表現的であり、身体的と言うならば、実は全ての物が行為的存在だ、ということだ。何度も例に出すが、一片の塵でも行為的存在なのだ。行為とは、形式的には、ただ社会という場、少なくとも何らかの意味で社会的な意義を持つ場でのみ可能なものと考えられる。社会がなければ行為はない、どうがんばってもそれは身体的動作というものに過ぎない。行為とは、言語的に(ロゴス的に)把握され、一般化されるものなのだから。社会とは何であるか。それは行為的である自己が個としてそこに含まれているような場、従って行為者すなわち「形」すなわち「世界そのもの」がそこに個として、一般化されて含まれているような場、である。社会とは、本質的には、世界が世界とぶつかる、そういうこと自体が一般化された場なのだ。だから社会とは、人と人とが何らかの意味で対話的に関わり合うことによって、自己自身の内から自己自身をどこまでも創造的に形成して行く形式と考えられる。重要なのは、社会というものが「形式」である、ということである。社会といって、単に我々が普通に社会と呼んでいるようなものそれ自体を考えていてもわからぬ。全ての全ては、自己自身によって自己自身を形成して行く形なのだから、全ての全ては「社会」であると考えられねばならぬのである。我々のこの自己である、一つの身体もまた、それ自身一つの社会である。しかも社会というものがそれ自身また一つの身体である。社会と身体、それは全体と個との関係と考えられる。しかし全体はそれ自身また個なのであり、個はそれ自身また全体なのだ。また、個には全体が含まれる、個は全体よりもむしろ全体的なものであり、内に深まるほど実は外に広がるものだ。我々が自己の存在を、単に地域社会のレベルで考えるならば、自己はこの今目で見ているヒトの身体だ、これが私の全部だ、という認識で構わないだろう。が我々の自己は、どこまでも自己反省するものだ。そして我々の行為というものは、それが真に行為的であればあるほど、真の自己反省から生まれて来るのだ。自己の存在をどこまでも掘り下げると、我々は地域社会よりも更に広い社会に出る。それはまず民族的社会であろう。我々がよく自己のアイデンティティーなどと言ってるのは、これだ。しかし更に深く進めば、それは国家的社会というところに至り、更に地球的というレベルに至るであろう。そして更に宇宙的に拡がって行くのである。さて、ここまで自己のアイデンティティーが深めて理解されるとき、我々の身体は、内に内に深めて理解されるものとなる。我々の身体というものは、この大宇宙において、他ならぬこの時、この場所、すなわち絶対的座標を持ったものということになる。それはと言って良いであろう。どこまでも外へ外へとは、内へ内へという方向である。
 
この稿では、とにかくこの辺でこの話については切り上げて置こう。要するに、表現的であるとは、身体的ということであり、それは行為的、社会的だということである。だから西田は世界は「歴史的」だと言うのだ。作り作られる、ということだ。そして唐突であるようだが、私はこういう論理の延長に、結構真面目に、霊魂の問題について考えている。霊魂もまた、私の言う一つの「形」、つまり西田的な意味での「形」として考えれば、現実の事実として考えられるのだ。
私はシルバーバーチが好きである。シルバーバーチは「高級霊」つまり、高い階層にいて、人間にとっては、そして霊界の霊にとっても、指導的な立場にある、非常に優れた霊であると言われる。それが本当であるかどうかは実はそんなに重要ではない、シルバーバーチも、信じなくても良いと言う、むしろ己の理性によって吟味し、受け付けないものならば容赦なく拒否せよ、私に対しても全く同様の態度で対せよ、と言う。重要なのは、メッセージの質、なのだ。だが、私の理性は、とにかく一旦、彼が高級霊であるとかそういう事実は保留にして置いたのであるが、だんだん、こういう問題は、純粋にロジカルに考えることができる!と気付いてからは、こういう事柄についても思い切って考え、論じてみる気になった。西田幾多郎の哲学に、そういう論理の糸口があるのだ。実は私の西田理解においても、シルバーバーチその他スピリチュアリズムにおいて有名な霊的存在のメッセージ、というのが非常に役に立った。これが何よりも、シルバーバーチなどの、メッセージの本質的な高さ、普遍性、論理性を物語っていると思う。とはいえ、別に私もそれを信じよなどと言うのではない(個人的には信じているが)。仮に高級霊がどうのこうのとかそういうことが真っ赤な嘘であるとしても、これを一つの思想として読む価値は、万人にとってあるのだ、ということだ。
こんな話になる予定はなかったのだが、余談に余談を重ね、こんな感じになってしまった。それはそれで良いだろう。以上である。
 
 
 
註。
 
 ※ちなみに、我々が普通に考える、客観的世界なるもの、つまり我々の主観的なもの一切から独立して超然と自己同一を保つかに考えられるものも、実はこの意識と意識対象とのこういう作用的関係から類推して考えられるのだ。意識「作用」を中立ちにして、この意識と意識対象の上下関係(この場合は「意識」が上位に立つわけだが)をひっくり返して、意識対象の方を主の座に据えれば、あら簡単、客観的世界の出来上がり。そうなると、中島義道的に言うと、「意識」の方は、無数のパースペクティブの内の一つとして、客観的実在からは捨象される、つまり「不在」の身分に降格する(中島『不在の哲学』)。カントのコペルニクス的転回は、客観的世界と意識とは切り離して別々に考えられる(すなわちこれが常識的な理解なのだが)ものではなく、こういう客観的世界と意識というものは、実は同じものの二側面であり、本当は一つのところから考えられる、ということを示したというわけである。無論カントはあくまで誠実であり、この「一つのもの」それ自体が何であるかは、わからない、規定仕切れないということをはっきりさせた。ここから出てくるのが「物自体」の問題なのだ。超越論的統覚なるものも、中島によれば、実体化させるのは誤りで、それ自身は何であるかわからない、何か空虚な「あるもの」だ、それ以上のことは言えない、というカント哲学の文脈における根本的規定をまず押さえねばならない、とする(中島『カントの読み方』)。ところがフィヒテは実体化させてしまった。本当は物自体の問題は、第三者的なものを深く考えて行くことによって解決されねばならないのだが(これはヘーゲルなのだが、しかしヘーゲルは解決してしまった。絶対知とは俺様の哲学のことだ、と言ってしまった。しかし真に第三者なるものにおいては、解決そのものが課題を生まねばならぬ。西田のよく言うことだ。あれ、しかしこういう論理こそがそもそもヘーゲル弁証法ではなかったか?ヘーゲルは自己自身の論理を完全には理解していなかったのではないか?この「創造的隙間」から更に進んだのが西田の立場なのである)。
 
さて話を戻して、なぜこんな面白い、意識と客観的世界との転換ができるかと言うと、そもそも真に現実的なのは、第三者なもの、「形」それ自体なのであり、作用するものでも作用されるものでもないからだ。第三者ということを抽象的に切り取って、固定して見たのが、作用だが、しかし現実の作用の現実の姿そのもの、すなわち作用するもの作用されるもの作用そのものを引っくるめて一つの働きと見たもの、これが「形」なのである。そして作用するもの、作用されるもの、むしろこれらの二者は私の言う理念的形式と考えられるものなのだ。

 

 

さて、最後まで読めたかどうかわからないが、分かりにくい文章を読んでくれてありがたうございやす!