雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

西田幾多郎の「矛盾的自己同一」について。「形」を手掛かりに。

ここでは、西田幾多郎の意味不ワード筆頭と目される、矛盾的自己同一というものについて、私なりの理解の仕方として、「形」というものを手掛かりにして説明を試みてみたい。形とは形成されるものだ。形成とは基本的に主体が環境を作る、という構図から考えられる。アリストテレス的に、形相が質料を形成する、などというのも、むしろ「主体が環境を形成する」の内に考えられるのだ。この主体と環境との関係の本質を見極めることが、形というものの本質を見極めることになり、ひいては矛盾的自己同一という論理が理解されることになる、というわけだ。無論矛盾的自己同一というものは、極めて豊かな含蓄を持った概念であり、こんなところで語り尽くされるようなものではないのであるが。

 

 

 
さっき、主体と環境というものの関係の、更にわかりやすい説明を思い付いた(人からしてそれがわかりやすいかは甚だ疑問であるが)。これは、同じ「形」、同じ内容が、その自己自身の内の二極において、すなわち主体と環境において共有されている、ということだ。だから世界の内容自身、すなわち形は、それ自身主体でも環境でもない。
 
では主体とか環境それ自身の独立性、つまりそれ自身もまたある形的なものである、ということはどういうことであるか。それはまず主体は単に主体ではなく、それ自身が形成されるべきもの、文字通り形的な意義を持つもいうことである。それ自身がまた環境であり、内に主体を持つのだ。そして同時に環境も単に環境ではなく、それ自身形成するもの、それ自身もまた形であるもの、外に環境を持つものである。
 
主体も環境も、何かここが最終的の立場として実体的に考えられるものではない。しかしどこまでも実体的に考えられねばならない。そうでなければ、この今、この場所からの行為というものが、世界における絶対の事実という意味を持つこともない。従って真に行為というものがあることはできない。つまり、これらはどこまでも理念的形式的なものとして実体的なのだ。真の実体性とは実体性そのもののの否定こそを本質とするものだ。真に否定がそのまま肯定であるもの、これが現実的形式としての実体、すなわち理念的形式的な意味での実体であり、我々が普通に実体と言っている意味でのそれではない。
 
この時、とりあえず環境を一の方に、主体を多の方に考えて問題ないであろう。一とは主体的なものであり、多とは環境的なものであるが、しかし主体を形として見、環境において働く客観的存在と見るならば主体は多である。なぜなら、この時真の主体性は環境の側にあるものであり、環境が環境自身を形成する個として、主体は働くのだから、正確に言えば、主体性そのものの主体ではなく、「環境における主体」、すなわち「形としての主体」として働くのだから。この場合主体と環境とは内在的な関係となる、実体的な一者「形」の自己発展というのが世界の相となるであろう。そして今少し言ったように、環境を、環境性そのものの環境としてではなく、「主体的な環境」、「形としての環境」として見るならば、つまり自己自身を作るということ自体が内に見られるならば、主体性が内在的ならば、環境は一、ということになる。
 
 
 
 
以下もう少し詳しく論じよう。
 
西田幾多郎が良く言う「全体的一と個物的多の矛盾的自己同一」ということと、「主体と環境との矛盾的自己同一」というのは一見矛盾しているようである(矛盾的自己同一とはいうものの笑)。なぜなら主体性とは一的なものであるのに、「個物的多」と言われ、環境性とは多的なものなのに、「全体的一」と言われるのである。何故であろうか?これについても私の呈示する「形」というものの考え方からして理解できるであろう。
まず主体と主体性、環境と環境性とは区別されねばならない。先に言ったように、現実の形を形成する形の内の形としての主体は、多的なものである。なぜなら彼は身体を持ったものであり、他の人格に対し、社会的に行為するものだからである。彼は「環境における主体」なのだ。しかしその主体性そのものにおいては、彼は自己そのものを根底に置く。彼の前にはただ一面の働きがあるばかりであり、この行為的尖端においては自己が世界を包んでいるからだ。こういう行為的尖端的に見られた極限の相において見たもの、その本質そのものにおいて見たものが、主体「性」である。まとめて言えば、主体とは、形において多でありながら、存在の根底において(主体性)一であるものである。そして環境に対して主体はなるほど一面に超越的であり、こういう超越的な主体的一に対する、超越的なものとしての環境はやはり多的なものである。が、現実の形を形成するその働きそのものというところから見れば、主体性は環境自身の内にあるもの、環境自身が持っているものであり、やはりここには主体即環境の一面の働きが見られるのみである。それは「主体的な環境」なのだ。しかしやはり環境性そのものにおいてはそれはどこまでも多であることが根底になければならない。なぜなら環境とは、生命に対する死の面でなければならぬのだから。例えば生物的身体が死しても、その抜け殻が残る。これを受ける何かそういうところ、これが環境なのである。重要なのは、その生物的身体に、生命があろうとなかろうと、環境にとっては初めから関係なかった、ということである。生命の宿る生物的身体も、生命の抜けた生物的身体も、始めからいずれも等しく扱うからこそ、環境というものは死体を自己の内に回収し、分解し、また別の有機体の材料として活用させる、といったことを為すことができるのである。ここから見れば環境は常に多へ開かれたもの、死の面である必要がある。それはいかなる大なる生もまた(ヘーゲルの絶対的精神であっても)一つの相対的な何かと為さしめるもの、全く生を「知らぬ」ものである必要がある。環境はその環境性そのものにおいては、どこまでも多でなければならないのだ。まとめて言えば、環境は形において一でありながら、その根底において(環境性)多であるものである。
 
以上からして、全体的一とは、「形として」見られた環境であり、個物的多とは、「形として」見られた主体である。個物と言えば、プラトンが実在を超越的イデアと考えたのに反して、「実在は個物的実体である」と言ったアリストテレスが想起される。ギリシャ哲学では、私が説明する概念とは意味が少し違うが、やはり「形」を中心に世界を見ていた。イデアも形であるし、個物的実体もまた形なのだ。個物とは「形」に即して見られたものなのであり、純粋に主体的な働きそのもの、エロス的なものそのものに即して見られたものではないのであるが、しかし「形」というもの自体、その両方面を内に含むことの可能なものなのだ。そもそも、プラトンイデアというものを、アリストテレスが正反対に転換して個物的実体の形相と見ることができた、ということ自体が、「形」というものの本質を物語っているのである。
 
 
 
さて一番初めに説明した事柄に戻ろう。「形」とは、主体と環境の両極において、共有されている内容であると言った。しかしこの形というものは、両者に共有されるからといって、単に第三者的なものであり、ある一つのものなのであろうか?否、実は二つなのである。主体と環境とは、その形成の働きそのものにおいて、どこまでも一である。行為において、我と物とは一なのであり、そこにあるのは直線的即円環的なただ一面の働き、と言うべきもののみである。これが我々の最も根源的な経験的事実であろう。しかしやはり主体と環境とには区別がなければならないし、そもそもこれらは断絶するものと考えられねばならない。そうであってこそ、主体の主体としての、環境の環境としての働き、役割、機能が可能になるのだ。が、そうであっても、どこまでも現実の事実としては、すなわち現実的形式において、現実の「形」においては、二つあるのではなく、一つの円の働きとしか言うほかないものである。これはいかに考えるべきか。それは形というものを、一でありながら、すでにニであると考えれば良いのである。形は単に自己同一的なものとして、客観的実在的なものとしてあるのではない。自己同一であることの条件は、それが自己矛盾的であることである、すなわち自己同一的でないということである。自己同一的でないものなどあり得ようか。しかし自己同一的でないものは全ての物のことである。常に物は、単に「その物」であるというだけでなく、その物が置かれた独特の関係的なもの、脈絡的なもの、こういったものが奥行きとしてそこに含まれていなければならない。仏教思想的には、全ての物は全ての物との関係において、その都度その都度成り立つのであり、その物自体の本性というものはない、とも考えられる。これは一面の真実であるが、単にこういう考え方をするのみでは、現に我々の世界に自己同一的な何かそういうものが何らかの意味であるように見えること、無論全ての物が畢竟幻想であったとしても、観念的なものであったとしても、何かそういうもの自体を覆い、それを可能ならしめている、根源的な実体的なものがあるらしいということを説明できない。全てをただその時の関係において見る、などと言っても、その物をその物、そのある一つの独立した物として規定しているのは、単に関係などといった中立的なものそれ自身ではないであろう。関係は物とは異なるものとして初めて関係なのであり、それ自身物であってはならない。独立した物とは、(キルケゴール的であるが)むしろ関係が関係自身を措定するところに考えられる、関係が関係自身に関係するとき、関係が関係自身の主体となるとき、この交差点に物と言うべきものが見られる。物は自己自身によって在るものでありながら、他者との関係において在る。無論この二つは矛盾するものだが、矛盾を矛盾でなくするのは、絶えざる創造的更新である。関係と関係自身への関係とは、所詮結び付くのではない、質的に異なるものだ。しかし質的に異なるものが同居していなければならないのである!こういうことがあるからこそ、自己同一的である物は常に自己同一的ではあり得ないのである。この矛盾的自己同一の形式において、初めて創造的ということが考えられるのである。
重要なのは、矛盾とは所詮結び付き得ないものということである。しかしそれは、どこまでも絶対に一なるこの場所において同居するものなのだ。しかも同居するといっても、両者が行儀良く並存するというのではない。まさしく、この一点、この尖端に同居する矛盾的二者なのだ。こういう意味を込めて西田は「絶対」矛盾的自己同一と言う。これこそが世界そのもののあり得る絶対的立場である。
 
形とは一でありながら、すでにニであるものである。この二者は単に同列的な二者ではない。両者には上下の差がなければならない。しかもこの質的に異なる二者が、全く同一の一点に同居する、つまり結局は同一であるということこそが矛盾なのだ。上下の差とは何であろうか?ここから主体と環境、神と被造物、生命と物、一と多、全体と部分、芸術と学問、様々の「理念的形式」が考えられる。これらは一方が他方の上位と考えられながら、それは自己同一としてあるので、つまり自己自身によって在る一つのものなので、この上下関係はそっくり逆転して見ることも可能である。例えば主体と環境ということを取っても、主体が環境を形成するとともに、環境が主体を形成する、つまり環境が主体の主体となるのである。しかも逆に主体が環境の環境とも見得る。これはいずれもただ形から形へ、つまり「創造」ということを軸にしてのみ可能なことである。創造こそが、真の自己同一、すなわち、自己同一ではあり得ないことを条件とする自己同一、矛盾的自己同一なのだ。何度もくどいようであるが。
 
この矛盾的自己同一の一点は、或る一点なのだろうか?しかしそれを単に或る一点、つまり一つの点と言ってしまえば、それはカントの超越的論的統覚のようなものであり、実在そのものはもはや物自体として、不可知として斥けられてしまう。しかし実在は自証するもの、自己自身によって在るものである。自己自身によって在るということが単に自己同一なるものではあり得ないならば、その自己同一というものが実は矛盾的自己同一でなければならないということだ。矛盾的自己同一とは、何度も言うように、創造的ということだ。創造的とはいかなることであるか。これをベルクソンの純粋持続のように、絶えざる持続的、創造的進行という風に考えることもできるであろう。しかしこれでは、まだ実在は単なる一であるもの、という考えを離れない。無論それは実体的なものではない。創造は絶対の異質性であることをよく理解し、実在を流れそのものの内に捉えている(流れから流れそのものを捨象して何か一定不変のものもして考えられる実体とは異なって)。が、ベルクソンにおいては、多というものが、何か連続的なもののバリエーションとして、つまり彼の言葉を使うなら、純粋持続の弛緩したものとして捉えられているのである。しかし多とは、そもそもその一々が絶対の一であるものでなければならない。つまり矛盾的自己同一の一点とは、絶対に結び付くことのない、しかもこの絶対の断絶そのものにおいて全く同一の場所にある無数の多として(しかも数えられる無数でなく、本質的に数えられない真の数)あるものでなければならない。ということは、多の一々は絶対に独我論的な個物のことでなければならない。独我論は真実なのである。無数の多があると言って、我々は本当にその無数の多の存在を証明できるわけではない。我々の存在を深く考えれば考えるほど、独我論は真実とならねばならない。他者というものは、いかに自己の存在そのものに深い意義を持とうとも、それは現れたものである限り、一つのせいぜい意味的なものということに過ぎず、それ自身存在そのものではない。しかし自己の存在そのものが、他者の存在を前提として存在するのである。もし他者が存在せぬというならば、自己も存在せぬ、世界はただこの一面の映像があるばかりである。しかし独我論とは、突き詰めて考えれば、世界がこの一面の映像があるばかりである、ということに対して言われるものである。しかし存在があることは疑い得ない、そもそも何かあるということが存在なのだから。結局世界は矛盾的自己同一的なものと言わねばならない。それは無数の多が(本当に或る一つのものと言われることのできる全てのものがすでにこれに当てはまる。一片の塵でも、つまらぬ妄想でも)独我論的に絶対の一であるような世界でなければならない。しかし所詮これは矛盾である。矛盾が矛盾であって矛盾でないところ、それはただそれが無限の創造的な「形」であるような世界である。だから、パスカルの言うように、世界は至る所が中心となる、無限球と考えられる。そこにここが真の中心だと言える点はない、しかも全ての点が真の中心なのである。
 
世界を、本当にラディカルに考えると以上のようになる。西田の「矛盾的自己同一」とは容易に理解できるものではない。理解できなければ無理して理解する必要はないのだ。理解できないなら、むしろ理解してはならない。私はこれについて、「形」を中心にして考えればわかりやすいと思った。以上はそういう考えに基づいた一つの説明の仕方である。「形」とは、それ自身無限定のものであり、その中にいかなる内容も含むことができる。世界に存在しなかった、新しい意味が創造されたとしても、それはそういう形で、すでに一つの「形」なのだ(言い方が変だが)。形とは概念としては無限に空虚なものでありながら、実際の姿としては無限に充実したものだ。なぜなら、全ての全ては形なのだから。形を越えたものと考えられるものでも、そういう形ですでに一つの「形」なのだ(やっぱり変な言い方だが)。
 
 
こんな変な文章を最後まで読んでくれた人には、大感謝と、猛烈なラブ注入を喰らわす、覚悟せよ。それでは。