雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

虚無感に包まれて

こういうネガティヴなこと、あまり書きたくないのであるが、しかしこの頃あまりに奇妙な精神状態に悩まされ、あまりに生活が味気なく、こうして何か吐き出さずには居られない。ここに記す文章は、健康なる諸氏にとっては、全く益にならぬものであり、そういう人たちは、どうかすぐにでもここを去っていただきたいと思う。というより、そういう人たちが読むことを禁止する。毒薬を撒き散らす訳には参らぬ。多少役に立つことがあるとすれば、私の如き実に情けない罪人への戒めといったところだ。この文は私と同じく、自らの行いの馬鹿らしさ、つまらぬ観念に執着することの愚かしさ、とにかく何であっても自分自身の存在のつまらなさに耐えられぬ者のみが読むことができる。それ以外の人には何が書いてあるかはどうせわからない。


どういう状態か、前に書いた。

https://settandono.hatenadiary.jp/entry/2018/08/14/015649



ただ嘆くばかりなら、いくらでもできる。しかし私は別に嘆くために嘆くということを目的としない。なぜならそれは単純に、無意味だからだ。


私はあくまで立ち直りたいと思うのである。そのためには、とりあえず内省を続けるしかない。なぜ、こうなってしまったのか、いや大体のところ見当は付くが、まさか音楽を音楽として感じられない、こんな状態になるとは思っていなかったのだ。今までいかに憂鬱でも、いかに立ち直り難い精神的苦痛であっても、音楽こそは最後の慰めであった。今私は憂鬱ですらなく、精神的苦痛すらなく、ただ一面の灰色があるばかり、辛いという感じではなく、ひたすら虚無なのだ。精神が完全にパンクしてしまったようである。ほとんど何をする気も起こらぬ。やっていても、普段私の感じでいた、吸い込まれる集中力というものがない、だから途中でつまらなくなってやめてしまう。そのくせ、今、働いたりなどしてない、ニートな、実に気楽な身分である。こんなに馬鹿らしい境遇はないのではないか。さりとて、何とか奮起しよう、自立しよう!という心も起こって来ない。しかも、これではいかぬ、という危機感、焦りすら起こって来ない。全ての感覚と感情が希薄であって、私は、神からも、人からも、肌に触れる空気からも、外から聞こえる音からも、いや自分自身からさえ見放されたような気分だ。しかしこれに対して肯定も否定もする気も起きない。


人間の生活は、どんなに苦しくても、こういうものに直面している時の、独特の情熱というものがあるものだが、今私は全く情熱らしきものがない。人生の苦に立ち向かうという気も起きない。もっとも人生の苦に現に体ごと立ち向かっているような人ならば、こんなつまらん文章を書いているような余裕すらない。彼は確かに、生きている、苦しくても、苦しくても、確かに生きている、生きているのだ。そのこと自体は事実だ。それがいかに尊いものであるか、失って初めて気づく有り難さ。


さて何がいけなかったのかということを考えてみるに、それは宗教的に言えば神を疑ったから、神に対してしつこく穿鑿したから、そして疑惑に囚われることによって、当面為すべきことを怠ったから、ということになろう。つまり私が私自身の心の底の声を無視し続けたのだ。怖いから。私は自ら進んで地獄に突き進むようなことをやってしまったのである。もっとも、人前にできる懺悔など割引した懺悔だ(日月神示に言う)。私もこんなところにつまらぬ文章を書き綴るからといって、懺悔をした気になっているのではない。むしろ単にこの現状ではあまりに味気なさすぎて、私はそのままゆるやかに、、、いやこの先は書くまい。書いたって、回復の役には立たぬ。


それよりも、少しでも前進できるように、少しでも私自身が、足らぬところを改め、吸収すべきことは新たに吸収し、向上進歩の道にまた戻れるために、何かできることをしようというわけである。ところが一体、どうすれば。


人間、いかに耐え難き状況であっても、何か真に愛するもの、心の底から突き動かすものがあれば、そしてそれを感じる心を失っていなければ、何とか乗り切ることができるものだ。ただ愛するものへの欲求が強いほど、それだけ苦しみも真正面から受けることになるが、しかしそれもまた人生の深い味となって、魂に刻まれる。かくして彼は少しずつ生まれ変わって行き、より気高い人格を備えるようになって来る。


さて私はどうであるか。音楽を音楽として感じる心、この最も最終的な拠り所が失われてしまった。私はもはやショックすら感じられない。なぜなら、失望感、絶望感、深い悲しみは、今の私から見ればあまりに豊かな感情であり、それすらも羨ましいものなのだから。もっとも普通羨ましいというときの、あの感情すら今の私にはない。


愛するものが、それ自身失われるとき、彼はなるほど、深く悲しむ、慟哭するかもしれぬ。暫くはあまりに気が落ち、立ち直れないかもしれぬ。彼の心は憂鬱の霧に包まれるかもしれぬ。だが、彼は実に幸いなことに、愛する心を失っていない、確かに愛の心を己の内に深く保持している。だから彼は深く悲しむことができる。絶望感に心を閉ざすことができるのだ。そのことは、我々が思っているよりもずっと尊いことである。なぜなら、彼がこういう状況にあっても、愛の心を持っている、そのこと自体がすでに、宗教的に言えば神の慰めだからだ。彼は、彼からは見えずとも、彼のこの根底に残る愛の心を通して、すでに無数の慰めを受けている。彼が長くとも、数ヶ月、数年の内に立ち直れるのは、実はこの、言って見れば霊的胎盤から知らぬ内に霊的栄養を受けていたからである。かくして彼はこの悲哀をも魂の糧として、新たな段階に進む。人生は一層深みを増すようになる。


問題は愛するものそれ自身ではなく、愛する心の方が失われた時である。胎盤が切られてしまった。私は一体どこから栄養を受ければよいのか。ああしかし、自ら進んで切ってしまったのはこの私なのだ。この二重の馬鹿らしさに包まれ、あまりにやりきれなくなる。宇宙の笑い者とはこのことだ。私は苦しむべきことを正面から苦しまず、ただその苦しみからわずか斜めに逸れた、紙一重の偽の苦しみに自ら突っ込んで行き、ここにおいて何か奮闘しているような素振りを見せることで、自己を欺き、人を欺き、神を欺いたのだ。その結果、私の心には、当然の報いとして、苦しみに立ち向かった深い満足感ではなく、問題を一層こじらせてしまい、しかも訳の分からぬ闇にはまり込んだ虚しさとが残された。全て自分で起こしたことである。もしこういう状況が、仮に悪しき存在の悪しき謀によって、私自身に降りかかったもの、あたかも神の与えた試練のようなものであれば、私は悲劇のヒーローのような意義を持ち得たであろう。それにふさわしい、欺瞞的ではあるが、自己憐憫に浸ることもできたであろう。が、私は完全にただ私自身の愚かさのために、一人で勝手に闇に突っ込んでしまった。今まで大切に蓄積してきたものが、今の私には、、、いや書く気も起こらぬ。


私は何よりも、霊的胎盤そのものを復旧することから始めねばならぬ。どうしても私には愛の心、とにかく何かしらに、深く憧れ、魂の底から激しく求めるような、どんなに辛くともこの心ばかりを杖にして行けるような、そういうものが必要である。


愛の心そのものが失われる不合理、私はこれは本当に理解できない。この心がなくなれば、どんなことが起こっても、それに対して深く苦しことも、深く悲しむことも、無論喜ぶこともできない。だから自己を必死に改めようという気も起こって来ないのだ。こんな理解できない精神状態があろうとは。


しかし少なからず居るみたいだ。なるほど、無気力とは、本当に気力なのだ。それ以上でもない、それ以下でもない。本当の意味で無気力であるというとき、彼らの心にあるのは、焦りでも危機感でも、失望感ですらもない。

いやもしかしたら自分ではわからないだけで、魂の奥底では、また新たに愛の芽のようなものが潜在して、冬が明け春が来るのを待っているのかもしれない。冬にあるときは、いくらもがいても、冬の明けるのをじっと待つしかない。冬の間にいくら知識を摂取しようとしたとしても、何も進歩は感じられないかもしれない、本当に虚しさばかりがあるかもしれない。しかし、本当はこういうことも、魂の奥底では、再び愛の芽の出てくるための糧となっているのかもしれない。今私はそればかりが頼りである。ここにすがるしかない。だから私は今まで通りに、いや常に意識が朦朧としているから今まで通りというわけにはいかぬができるだけ、勉強を続けるようにしている。


有難くもこの世界に生を受けることができた。その有難さを感じる心が失われてしまっている。こんなに情けないことはない。しかし、有難さを感じることのできる有難さそのものを今私は理解できる。早く有難さを感じられる心が戻って欲しい。せっかく生を受けて何も世界に還元できないのでは、あまりに虚しくて仕方ない。