雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

教祖について

これは6月頃の哲学ノートであり、ちょっとした小品といったところである。



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哲学ノート。


教祖は形式的に讃えられるだけである。実体化した中心は、全て、教祖的なものである。そこには愛がない。愛とは、現れない一点から現れない一点へという、無限の発展のことである。全て存在はここにおいて自己を持つ。だから形式的に讃えられるに過ぎない教祖といえども、この現れない一点、というものを一応まねする、その名残を残す。つまり、教祖は奥に控え、取り次ぎに囲まれることによって、一般の信者からはなかなかお目にかかることのできない存在として立つことができるのである。


ところが単に見られないものならば、我々はそれにおいて自己を持つと言うことはできるであろうか。無論それは自己とは言えないであろう。しかも単に形式的に、見られないもの、と言っても、それは要するに形式的にということであり、そのように形式的に規定される限り、実はすでにそれは見られたものである。見られないものとしての見られたものである。しかし真に現れない一点とは、見られたものでありながら見られないものでなければならない。それは形式的規定におけるようなものであってはならぬ。真に矛盾が一でなければならぬ。したがってそれにはエロス的なものがなければならない。我々の存在を底から動かすものでなければならない。これは規定することのできないものである。真に尖端的であり、現在的であり、純粋に存在そのものの根底のレベルにおいてのみ見られるものである。存在の根底が見られないとすれば、それはすなわち見られないということによってのみ見られるものでなければならない。形式的規定によって、見られるものと見られないものが一であると言ったとしても、そこから直ちに、それが見られないことによってのみ見られるということは出てこない。


形式的規定は、無内容なものをあたかも内容あるかのごとく見せかけるときに有効である。形式的規定は一方的な規定である。内容よりも形式が先立つというのが形式的規定である。これに反して内容的規定とは、内容が形式に先立ち、形式は内容自身の表現として、必然的に導き出されるものを言う。形式的規定によっては、本来単一なるものが、あたかも複数のもののより集めによって成っているかのように見せかけることができる。だから教祖には信者が必要であり、教団が必要である。なぜなら、これらの複数のものがより集まり、そしてこれらが形式的に現れない一点によって統べられるという構図になるとき、そこではじめて教祖の存在意義が保証されるからである。それは教祖それ自身の生命から、必然的に形を取ったものではない。形が先にあって、その形を固定することによって、内容があるかのように見せかけているだけである。


生命が形に先立つとき、形式とはあくまで選択されるものであり、本質的なものではない。真に、その生命において教祖と言うべきものは、いわゆる教団という形をとって現れるかもしれないし、そうでもないかもしれない。しかしそれらは本質的に同じである。したがって、歴史における、様々な偉人の内には、その内実において教祖と呼べるような人が数多く居るが、彼らは彼ら自身の置かれた環境に即して、それぞれの仕方で己の使命を全うしたのであり、必ずしも教祖という形をとっていたのではなかった、むしろそうでない方が多いであろう。