雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

形の論理について 2

さて前回は、2月頃の「形の論理」をなんとなく掴んだ頃に書いたものを晒した。今回はそれと同時期の、同じような主題を扱ったものを晒そうと思う。


この文章は、西田幾多郎の「個物が環境を限定し、環境が個物を限定する」などという言葉を考えて行く内に、やはりこれも「形の論理だ!」ということになって、またこういうテーマについてくどくどと論じているのである。そしてやはり問題は、身体的なもの、身体性というところに行き着く。真に現実的な世界、すなわち創造的な世界はやはりそういう風に考えられねばならないのだ。




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哲学ノート。


よく個物が環境を限定し、環境が個物を限定するというが、限定するとは形が作られることである。全て有るものは形である。一つの形は内に矛盾的自己同一の構造を備えていなければならない、すなわち一の方面と多の方面がその形において統一されていなければならない(社会を一つの形として見てみれば理解されると思う)。しかし実在としての矛盾的自己同一はいつも自己自身を越えている。すなわち形は形となる時点ですでに矛盾的自己同一そのものではない、しかしこの形というものによってのみ表現されるのが矛盾的自己同一である。現実の世界は常に、具体的な我々の自己というものによって把握される他ない。自己は常に世界においてあるのみならず、それを自覚するものである。自覚するとはすでに世界を越え出ることである。しかし世界を越え出るというのは、世界の内にあることの自覚によってのみである、そもそも自覚というのは世界の内に自己を見ることである。形というのはそこにおいて自己があるところ、自己の働きが含まれたものと考えられる。働きは他に対してのものでなければならない、すなわち多の統一として一つの形が考えられるのである。しかし単に多による相互作用の消極的統一が形なのではなく、むしろ形自身の生命の自己表現として、実際に形作られた形というものが考えられねばならない。つまり、一つの形は一つの個物の内から一つの個物が他を包むという意味をも持っていなければならない。主体の自己表現という意義を持たねばならない。形というのは一つの個物の視点からすれば、そこにおいて自己が他者とともにその働きが含まれる一つの場所であるとともに、それは唯一の自己の表現としての意味を持たねばならない。形によってしか自己は含まれることはできないのであるが、そのように含まれるということにはその自覚が伴わねばならない、その自覚こそは、自己がすでにその形を越え出ているということを示している。したがって形は常に形成途上であるということと完成形であるということを同時に含まねばならない。形は完成形としてみれば、さしあたって一と多の統一であり、これが個物が環境を限定し環境が個物を限定するというときの限定ということのとりあえずの意味であるが、この句にはさらに、同時に形成途上であるということ、すなわち一方の他方への限定という一方的なものに還元することが決してできないということ、しかもそれは矛盾的に自己同一であるという意味があるのである。個物が環境を限定することと、環境が個物を限定することとは、現実の世界の事実として、そこに何か実在的な区別があるのではない、それは事実から事実へという動きとして絶対に一である、しかも個物が環境を限定することと環境が個物を限定することは絶対に交わることはないのである。絶対に交わることがないからこそ、個物が生きるということは、常に死を意味しなければならないのである。


以上は形の論理であるから、形ということについてもっと深めて考える必要がある。形というのは論理の写しなどではなく、形自身の生命を持つものである。具体的に見られる形というのは、例えば認識の対象として考えるならば、認識の素材というような消極的な意味をのみ持つのであろう。つまり単に非合理的なものと考えられ、合理化されることが終局であるような消極的なものである。しかし形は形としてそれ自身に合理性を持っている。形の内に認識主体そのものが含まれると考えられてこそ、形は形という意義をそもそも持ち得るのである。認識もそもそも自己がその形の内に含まれることの自覚から始まるのではなかろうか。認識というものの始まりを想像力たくましくして考えてみれば良い。生理学的な説明などは一切持ち出さず、ただ虚心に、赤子になった心持ちでそれを想像してみれば、まず確かな像を結ばない何か漠然とした一面の世界というものがあり、しかし世界全体がある一点に集中することの自覚が次いで起こるのではないか。それは身体的なものである。身体とは一面の世界の全体がこの一点に集中するということから考えられるのである。この一点から一面の世界の全体が動く、この一点に世界の表現を見出すところから認識の活動ははじまるのではなかろうか。それは自己が身体として世界に含まれる自覚である。認識とははじめから世界全体をある一点に掴むということである。すなわち根本的には世界と個物的我との動的な統一から考えられる形自身の生命ということから認識も考えねばならない。世界が縁を持たない単に漠然としたものでなく、まずある一つの形として認識されるのは、そもそもこの一点に世界が集中するということからである。点によって縁が生じるのである。認識というのは、はじめから多と一の統一の自覚すなわち形の自己表現というところから始まる。もちろん形は一の方面にも多の方面にも還元できないということは忘れてはならない。また点は単に点であるだけでは世界を集中させるものということはできない。点は動きによってはじめて世界を集中させるものなのである。動くということは、その点がある一般的なものとして捉えられているということでなければならない、すなわち多である。多であるとともに、一つの連続的なものという意味を持たねば動くものとはいえない。ともかく形を認識するものが形に含まれるというところから認識は始まるのである。形に含まれたものが形を包むものであるということが、形自身の生命から形が作られるということである。形に外的なものは形に内的なものである。我々の身体は見る眼であるとともに働く手である。

我々が認識するものは、全て形である。ある形がその形とみなされるのは、何らかの意味でそれが形成の途上にあるからである。自己の一点は一点として形に含まれるものでありながらも、形の一性を支える根拠として、他を包む一点として常に自覚されている。形が形として見られるのは、包まれたものが包むものを包んでいるからである。形は必ず我々の現在の自己そのものであるところの中心点を持たねばならない。形とは根本的にはその都度の汝として捉えられねばならない。我は汝に包まれ、その汝に包まれた我が汝を包むものであるところに存在するのである。形というのを現在の一点的自己限定そのものから捉えるとき、それは自己の身体への全世界の集中ということである。全世界や自己の身体がまずあって、そこから全世界が身体に集中するのではなく、世界も身体もこの集中というところから存在するのである、したがって身体は世界を越えたところにおいて本質を持ち、世界は身体的一点に本質を持つのである。私が今ここに書くとき、まさに書く動的一点が私の身体であり、この一点に凝集して表現される思想が全世界である。また私が頭で何かを考えつつあるとき、そこにも何か身体的中心、動的焦点があって、それによって思想が凝集されて表現されているのでなければならない。この一点とは無限に無限である多の内の一つとして、完全に非合理的に限定されたものという意義を持つ、完全に現れない一点であり、瞬間そのものと考えられる。瞬間そのものとはこの動的焦点としても考えられるとともに、この現在にある世界の全体とも考えられるのであるが、それはつまりこの現れない一点が現在を包むものであり、包まれたものが包むものを包むということがあるからである。完全に非合理的に限定されるということは、その自覚においてのみ可能である、すなわちそれが完全に合理的となることによってのみ完全に非合理的に限定されることが可能である、環境を限定することによってのみ個物は個物として真に限定されることが可能である。なんとなれば、環境を限定するとき、個物は環境を越え、しかもその環境を越えた環境より限定されるからである。縁の拡がりの外へ出る方向はかえって、内面の深い尖端へと潜って行く方向なのである。私はこの行為的尖端というところに、形というものの最も深い規定を求めようと思うのである。しかしこのように形がないものの現れない一点的な自己限定ということを考えても、それはそのままでは我々が普通に形といって意味するところの形ではない。現れない一点として決して掴まれない動的焦点はいかにして実在的な「身体」であることができようか。ある「形」を持った身体であって、しかも同時に全世界をそれにおいて包むという意義を持つというためには、いかに考えればよいであろうか。

自己をどんなに現れない一点として、完全に非合理的な限定から捉えたとしてもそれは我々が普通に意味する身体ではない。我々が自己というとき、それはいかに抽象的で非空間的に考えられたとしても、何らかの実在的一点というところにその在り処を求めているのであり、それがなければそもそも自己というものは考えようがない。紙面上に鉛筆で点を描いたとしても、それは厳密に数学的には点というものではないのはいうまでもないが、このとき厳密に数学的な点を規定しようとしても、頭の中で何らかの意味で紙面上にあると同じように厳密でない点というものを描かざるを得ない。それを避けて単に論理によって点を規定するなどしても、単に論理によって定義されるものはそもそも実在としての点などではない、点はやはり点として何らかの意味で、それが精神空間上であっても、現れるものでなければならない。ここで発想を変えるべきである。点はむしろそれ自身一つの全体的形であることによって一つの点という意義を持ち得るのである。点が点として存在できるのは、かえってそれが内に無数の点を含むものという意義を持つことによってである。そこから進めて、さらに逆転して考えれば、そもそも我々がいかに大なる方向へ全体的世界ということを考えても、仮に神であったとしても、それがある一つのものであるといえるならば、それ自身一つの点という意義を持たねばならないということである。全てあるものは形であるが、形は一と多との開かれた両方向を必ず備えていなければならないというようなことをいった。今そこから進んで、さらにこの一つの形が備えた一も多もまた、それぞれが一つの形という意義を持つということをいわねばならない。一つの形に含まれた両方向の内、一はまたそれ自身一つの点としてそれより大なる全体から限定されるという意義を持ち、また多のそれぞれもそれ自身一つの一として内に無数に点を包むという意義を持たねばならない。さて、ここで一つの形に含まれた一の方向を、さらに一点として捉え、それより大なる一を考えたのであるが、その一より大なる一とはどこにあるものであろうか。それは単に大なる方向に求められるのではない、大なるものより大なるものを自覚するのは、そもそも我々の自己であり、つまり一の下にある多が一より大なる一を掴むのである。一の下の多が一より大なる一を掴むからこそ、形の含む一と多との両方向はどこまでも開かれたものでなければならないのである。この極小の方向から掴まれた真の全体というのは、現在から現在へと世界を廻転させる意義を持つ。時間は空間の自己否定の底から生まれるのである。自己は全体的世界即現れない一点として考えられ、その廻転は創造的行為として考えられるものでなければならない。しかし抽象的な議論はここまでにして、そこから実際にある具体的形を持った我々の身体というものがどのように考えられるかということについて論じなければならない。

一つの形において、一はより一へ開かれ、多はより多へ開かれ、しかも一より一は多より多に存在するということを考えるために、具体的な形を持った我々の身体と身体とが、具体的に働き合い、一つの形が形成されるということを考えてみよう。我々の普通の日常生活においては、実際に身体をつかって活動しながら、他者と何か一つの形を形成するということがある。社会的生活はそもそもそのように成り立つものであろう。さて、我々の身体は生物的身体であり、歴史的身体であるものである。身体も一つの全体として考えるならば、身体の中に身体があり、身体の外に身体があり、それが無限に重なっていると考えねばならない。しかも外へ外へは内へ内へであることを忘れてはならない。身体は必ずそれ自身の視点を持つのである。すなわち身体は必ず現れない一点的に中心を持つことによって身体なのである。我々はその全ての活動において、見るという立場を離れることはない。見るということには必ず一点からということが伴わねばならない。見るということは見られたものを包むことであるとともに、見られたものが一点に表現されるということである。しかし純粋な抽象的一点が見るものであるとはいわれない。見るものは身体を持ったものでなければならない。すなわち見るものもまた見られるものの中になければならない。真に見るものは見られるものに自己同一であり、そこには見るということすらない。故に現実の活動としては、見るということは、見るものは見られたものとして考えられる他ない。しかし見られたものが見るといっても、それは見られたものが見られたものを見るのであるから真に見ることではない。