雪丹が哲学ノートを晒しますの巻

哲学ノートや内省の記や雑感などをさらしていこうと思います。西田幾多郎が好きです。

形の論理について

今回晒そうと思うのは、2月ごろの哲学ノートであり、私自身の論理である。この辺りで、私が「形の論理」と呼んでいるものが、なんとなく自分自身掴めてきたように思われ、思い切って、そういう論理として打ち出してみることにしたのだ。


私は別に私自身の哲学を打ち立てるなどという畏れ多い野望は元々なかったが、西田幾多郎のワケワカメのシリウス語を必死に解読して行く内に、「私ならこういう風にもっとわかりやすく定式化できる!」などと思えて来てしまったのであった。しかし現実はそう甘くないのである。


まず、この明らかに浅学の私が、いかばかり西田の論理、哲学というものを理解していると言うのか。私は基本的な哲学的タームの理解すら怪しい。だから西田のシリウス語を解読するというのは、シリウス語を解読することによって、同時に哲学的タームを勉強するという作業でもある。


基本的には、西田自身が使用しているその文脈とか、使い方、対比されている語の把握などといったことから、自分なりにそのタームの意味を理解する、という作業であり、どうしてもわからなければ、適当にネットで検索して調べていた。英文などを読みながら、わからない言葉、概念が出てきても、その文に述べられていることから、なんとなくその意味を察して、やり過ごすようなやり方だ。


ところがそういう理解の仕方は、往々にして中途半端にして、自分勝手な理解に陥りがちである。あるところでは、このタームをこう理解した。そしてその理解の仕方に従って、ほかのところも読み進めて行く。しかし、そういう風に読み進めて行くと、さっきの理解の仕方では明らかに、ここの文脈にそぐわない、というようなところに出くわす。仕方ねえ、ネットで検索。あるいは辞書で検索。なるほど私が理解している意味とはどうも少し違うようである。しかしそうであったとしても、やはり私がその言葉をそう理解してしまうだけの何かはあったのだ、とわかる。


こんな風に試行錯誤しながら理解しようとして行くと、単に教科書的なタームの理解の仕方ではわからないような、独特の意味を常にそのタームに感じることができる。無味乾燥な概念としてではなく、タームのそれぞれが、自己自身の独特の「色」を表現するようなものとして、私の目に映るようになる。


ここまで来れば、すでに哲学病とも言うべき精神疾患にかかってしまっていることになるだろう。あの、気の遠くなるような、無味乾燥の文字列が、オシャレなインテリアの陳列に見えてしまうというわけだ。


さて、次に私がすることは、これらのオシャレなインテリアを使って、自分なりに、自分の部屋をアレンジすることだ!


私はそんな感覚で哲学をしている。これなど、専門の研究者からすれば、鼻で笑われるようなものであると思うし、私は専門の研究者の先生方のような、厳密な研究のやり方はとてもできない。単純にすごいと思う(これを小並感と言うのか)。本当に専門家は専門家であって、中にはそうでない人もいるかもわからないが、基本的に恐ろしく頭の良い人たちであり、単に自己の研究領域にとどまらないで、色んな概念、そしてその歴史的脈絡といったことをよく知っていて、自分なりの見解を持っているものだ。そして質問をすれば、正確に答えが返ってくる。「私はここまでは言えると思うが、ここからはこれこれではない。ここまでわかるが、ここからはわからない」などと。これはまことに、真面目で地道な長年の専門研究の賜物と言うべきものであるし、それにふさわしい敬意を払うべきことと思う。


ソーカル事件などというものがあった。哲学なんて、文系なんて、所詮学問ではない、などという冷たい声も聞こえた。しかし単純に思うが、哲学研究は立派な学問であり、大抵の研究者はおそらく、学者として誠実そのものであり、立派な人たちであろうと思う。アカデミックな世界は知らないからわからないが、私が接することのできた数少ないそういう人たちを見てもそう思えるものだ。


が、私にこういう頭の良さはない。しかもカント、ヘーゲルすらろくに読んでいないのだ。私は哲学をしたくてたまらないし、哲学研究の道にも進もうと思ったことがあったのだが、どうも、そういうやり方は私には合わないんじゃないかと思う。所詮私は自分勝手な人間だ。私は西田幾多郎が好きであるから、読みながら、自分なりに言えばこうじゃないかな?の延長線上に、自分自身の論理を打ち立てようとしているのである。実に不遜、恥知らずである。不勉強である。しかしやはり、自分なりに自分の部屋をアレンジするという楽しさがあるのだ。




さて、以下に哲学ノートを晒そうと思う。先にも言った通り、これは2月頃のものだ。西田が後期辺りの論文で色々に論じている「主語」「述語」の関係について、これを踏まえながら、自分なりに、この歴史的世界の論理を明らかにしようとした。西田はこの主述の論理的関係に、アリストテレスの論理やカント、フッサールの論理などを読み込み、さらにヘーゲル弁証法を念頭に置き、その上で、これらを乗り越えようとして、自己自身の論理、すなわち「場所的論理」を打ち立てたわけである。なかなかこの場所的論理なるものは理解しにくいものであるが、ぶち当たって行く内に、自分なりのオリジナルの理解の仕方というものも出てくる。つまり西田の真意はわからないけれども、自分自身のアイデアが出てきて、それが自発的に展開して来出したという感じだ。


私は西田の「一と多の矛盾的自己同一」とか「世界は形から形へであり、形が形自身を限定する」「事実が事実自身を限定する」とよく言っていること、その根本的なところにある論理を「形の論理」と言って、私なりに捉え直してみているのだ。「形」がようするに全ての鍵なのである。だから問題は身体ということに行き着かざるを得ない。がここでは、まだ議論は抽象的であり、後に私自身が考えた色々のことが縮図の形(これも形だ!)で詰まっているに過ぎない。そしてやはり自分で読み直してワケワカメなところがあるのだ。


特に参考文献などは掲げない。なぜなら自分でも何を参照しているか、一々覚えていないからだ。つまり西田の後期あたりの色々の論文、ということになるだろう。二次文献は使っていない。あまり参考にならないものが多いようだし、私自身そういうのにあまり興味がないからだ。




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哲学ノート。

主語となって述語とならないという。存在するものは、存在としては繰り返し得ない唯一のものでなければならない。主語となって述語となるものを考えれば、それは一般の特殊、一般の例と考えられるものであり、真に存在ではない、尚その奥に一般が前提されている。この今、この場所に、この身体を持って存在するものが存在である。それはいわゆる非生物というものでも同じである。そもそも本質的な非生物というものは存在するのであろうか。一つの物、一つの形として捉えられる以上は、それはそれ自身の視点を持たねばならない。自己自身のみの視点というのは、常に新しいものであり、常に汝に対するものである。それ自身の視点を持たないものは、それは何らかの意味において他によって存在を与えられているものであり、純粋に特殊的な存在ではない、ある一般的な立場のレベルにおいて一般的なものとして還元されてしまうであろう。しかしいかなるものも、存在である限り、絶対に他に換えられない自己自身の座標というものを持たねばならない。絶対の自己自身の座標を持たないと何らかの意味で考えられるならばはじめから存在ではなかったのである。自己自身の座標というのは、ある空間における一点ということではない、空間が何らかの意味において限定されてしまうものならば、その時点でそこにおいてある他に換えられない座標といっても、それは事実的に他に換えられないということに過ぎず、本質的に他に換えられないのではない。本質的に他に換えられないというには、空間ということだけでなく、時間ということがまた空間に含めて考えられねばならない。しかし時間が空間に含められても、そのような時空というものがまた何らかの意味において限定されてしまうのならばやはり本質的に他に換えられない座標を持つことはできない。本質的に他に換えられない座標を持つためには、その存在が背後にそれを包むいかなる一般者も持たないのでなければならない。しかし単に背後にいかなる一般者も持たないのであれば、それは存在するといえるのであろうか。存在するとは照らされることである。究極に特殊なるものが根底にあったとするならば、そこから「それでないもの」、「それに対するもの」は考えようがない。そもそも存在とは、この今、この場所、この身体を持つものであり、すでにこの現在というものに包まれた何かしらである。問題はこの究極に包むものをいかに考えるかである。それはいかなる一般者をも背後に持たないものである、なぜならそれ自身が究極の一般者という他ないからである。それは自己の内奥の究極の一点というようにも考えられる。この一点とは全てを包む一点である。しかし一点というが、なぜそれは全てを包む無限の拡がりを持つ空間としてでなく、敢えて一点、すなわち観念的にせよ何らかの意味である空間に「おいてある」ものとして捉えられる必要があるのであろうか(観念的空間も究極には実在的空間の中に含めて考えられねばならないことも忘れてはならぬ)。一点とは包むものというより包まれたものの極み、限定されたものの極みではなかろうか。世界を構造としてではなく、行為として把握する立場が必要であろう。ここで包む一点は即包む円であるということが考えられねばならない。一点がどこまでも現れ得ないものであるように、包む円もまたどこまでも縁を持つことはない。全てを包むものはかえって包まれるものの極みであることによって全てを包むものであることができる。認識も行為から考えられねばならないのではないか。行為においては一点と全体が動的に結びつく、というよりも同一である、存在は表現である。主語となって述語とならないというとき、それが述語となるのはその当のもののみであろう、その述語は主語と内的に一体となっている、観念的に取り外し可能でない。これはそもそも判断というもののアルファでありオメガであるところのものではないか。なぜなら判断活動に終局があるとすれば、外延が唯一になるまで徹底的に一般的方向へ深まる他ないからである。それで包まれたものの内奥に真に包むものがあるということからこの句の真の意義を理解することができるのではなかろうか。ただそれは客観的な実体として考えられるものではない(そのように考えられれば何らかの意味でそれをさらに包む一般者がまた考えられる、そうなれば真に特殊的なものではない)、しかし客観的なものとしても考えられねばならないという点、すなわち単に物体ではなく、身体的な存在として、それ自身の視点を持つものとして考えられねばならない点は真実である。それ自身の視点を持つとは、そこから全てを(単にこの自己をでなく)包む一点であるということと、それは他に照らされることによって存在であることができるということをともに意味するのである。この一点とは現れない一点として、どこまでも掴まれることのないものでなければならない。しかしそれは身体が自己自身の核をどこまでも掴もうとする働きとして、汝として、いかなる現在においても存在に常に新しいものとして対するものでなければならない。内の内は外の外である。全て存在は、或る自己である。自己でないような存在は存在しない。しかも自己の存在は常に掴まれないものであるから、自己はその都度一般的に限定されているものでなければならない。しかも一般的な限定といっても、それは究極に一般的なものを突き抜けた一般的な限定であり、背後に包むものを持たない、創造によってのみ包むものを生むことのできる一般的限定である。自己は自己自身を包むものを常に創造し続けるのである、西田のいうように汝において私がある。それ故に存在は無限の多として、しかも同時にそれ自身の視点を持って自己から他を包むもの、自己自身の世界の神としてあるものでなければならない。点は包むものであり、掴まれることのない自己の核心であり、具体的には汝として常に新しいものである。汝は彼と彼とを包み、汝において私は彼から彼に、つまり私から私に移りゆくのではないか、昨日の私と今日の私も彼から彼へと考えられる。汝は包む一点であり、それが掴むことのできない自己の核心であるから、私は彼から彼へと移りゆくのである。彼は背後に汝と私ということを伴って、はじめて存在なのである、存在は全て自己自身の視点を持つのである。現実の世界の存在としては、私は彼から彼へと考えられねばならない。私は一面どこまでも環境においての存在、身体を持った存在である。唯物論にも一面の真理はあるのである。そして汝は行為における唯一の主語ではなかろうか。それは全てを包むものとして逆に述語となって主語とならないということができる。絶対の主語であるときすでに絶対の述語であり、絶対の述語であるときすでに絶対の主語となっている。廻転し続けるのである。汝の一点は現れない一点である。このように交わらないものの同一ということが考えられる必要があると思う。無限に立体的な構造として考えられる三人称の体系的な世界も、要するに私と汝の同一的な断絶の埋めることのできない間から考えられるのではなかろうか。三人称の体系的な世界が形から形へであり、無限に創造され続け、変化し続けるということ、しかも形に外的に創造者を考えることができないということは、私と汝の同一からではなかろうか。私が世界内にある連続的なものと考えられ、汝はその都度その都度の一期一会のものと考えられるということは、私が彼から彼へであり、しかも単に彼から彼へでなく、それが汝によって彼から彼へであるということではないか。私にとっては私は世界内に連続的なものとしてあると考えられている、しかし連続的なものと考えられる限りの私は彼に過ぎない、すなわち身体である。汝は、私にとってはその都度その都度新しい形で現れる、常に変わり続けるものであり、瞬間的なものであるが、しかし実在としては汝こそ真に連続的に存在するものと考えられねばならない。神に私はない、私がないことによって永遠の命である。私は神に与り続けることによって永遠の命の影を与えられ続ける、すなわち私の連続性は彼の世界の一員として、一般的なものとしてのみあり得る。


《無と多について》

概念ということから考えてみよう。観念、イデアといえども、単に現実を超越するもの、時間的でないものではなく、あくまでその現実化、表現から捉えられねばならない。観念論もここから成り立つはずである。概念というのを、包む方面、一般を包む一般の方面、外延が少なくなってゆく方面へと深めてゆくと、根本には外延が唯一であるような概念がなければならない、すなわちその物以上に特殊的であるものがなく、それが実在的に全てを包むようなものがなければならない。しかし単にそのような外延を実体的に唯一のものとして考えるならば、独我論になったり汎神論になったりするわけである。それはどのような理屈を付け加えようとも閉じた世界である。唯一の外延ということをもう少し深めて考えねばならない。唯一の外延というのは、交わることのない無限の多がそれぞれ唯一の外延であるということであり、根本的な概念というのは唯一のものであるだけでなく無限の多というべきものでなければならない、すなわちいかなる意味においても一として限定できないものであるとともに、常に一として限定されるもの、すなわち西田のいう無の限定ということである。無とは多の方面に考えられるものだが、それが或る多として考えられるうちは、それは有の影を持った無である。それ故に無は包むものとも考えられるのである。しかし包むものとして考えられる無というのは、要は包まれたものから見たときに無なのであって、本質的にはそれは無ではない、有である。無とは多の方面に考えられるものであるから、ある限定された立場からは、それより高次の包むものは、非合理的なものとして考えられる、つまりその限定された一般的な立場が、相対化され、多の内の一つという意義を持つようになる。しかし多として考えられる無というのも、要するにそれが包むものである、有である、というように考えられねば、そもそも限定された一般的な立場を相対化するものとしてすら捉えることができない。無はかえって有であることによって無なのである。全体が全体としてあるのは、かえってそれが部分という意義を持つからである。それは部分といっても、単にその全体と考えられるものの中の部分と同じ意味においてではない、かえってそのような部分のさらに部分と直接に結びつくものとして、部分の内奥に部分を越えた部分として、その全体は部分という意義を持つのである。無は有を有の方へ突き抜けることによって無である。内より内と外より外は直ちに同一のものとして結びつくと考えられねばならない、また同一とはそのようなあり方以外に考えられない。すなわち同一とはそれが絶対に結びつかないものであることによって同一なのである、単に事実として絶対に結びつかないのではなく、本質的に結びつかないのである、その存在において結びつかないのである。存在において結びつかないものが同一であるから、創造とか行為というものが考えられる。具体的現在というものもここから考えることができる。そして行為とか具体的現在に与らない同一というのはあり得ない。認識ということを離れて同一は存在しないとともに、認識は行為を離れて存在しない。認識するものも認識されているものである以上、認識するもの認識されるものいずれも包む高次の第三の立場がなければならない。それが絶対に交わらないものの同一である、内より内と外より外の同一である。内より内と外より外の同一の第三の立場は、形から形へであり、内と外は無限に廻転しながら、あくまで形から形へ、ここからここへである。


このように無は、単に否定的無としてでなく、つまり裏に有が見えるものとしてでなく、むしろ積極的に有として捉えるような捉え方、すなわち多ということから考えてみる必要がある。それは無限の多というべきものであるが、この無限ということは、自然数を無限に延長していったような無限ではない。無限に無限である無限である。無限に無限とはいかにして考えることができようか。それは有限の有限としても考えられるものである。全ての根底として無限を考えるとき、それはすでに有限そのものとなっている。そして無限とはそのようにしか考えようがないものである。ここから進まねばならない。全ての根底として考えられる無限がそのまま有限そのものであるというが、そのように有限そのものであると考えられるのは、それがそれより大なるものにおいてあるからである。すなわち無限においてあることによって有限は有限だという当たり前の事実にまた立ち返ってくるのである。ここにはすでに有限でもない無限でもない第三の立場がなければならない。それは有限でもあり無限でもなければならないとともに、有限か無限かいずれかでなければならない、しかもいずれかである時点でそれはすでに他方のものなのである。廻転し続け、形から形へ、ここからここへである。したがって、真の無限とは、交わらぬそれぞれの存在が自己から他を包むもの、独我論が一面に絶対の真実であるようなものでなければならない。自己に対する他者は、抽象的には、自然数を延長していったような数のものとして考えることができるが、しかし実際にはそもそも自己に対する無限の多とは、多を越えた多、多が一であるような次元における多、それすらまた一である次元の多、さらにその無限の先の多、という意味を持たねばならない。ではなぜ自己に対する他者を、自然数を延長していったような数のものとして、すなわち本質的でなく事実的な無限、有限の無限の数のものとして捉える立場から我々は離れられないのであろうか。それは無限が無限である時点ですでに有限であるからである。無限が有限であるということによって、本質的に無限である自己は、ある一つのものとしても存在するのである。すなわち身体を持ったものとして存在するのである。全体を照らし、全体に照らされる、現れた現れない点として存在するのである。したがって身体とは無限に階層的なものとして捉えられねばならない。我々が普通自己の身体と呼んでいる生物的身体もまた身体である。しかし精神世界においていうような霊体というのもまた身体である。しかしさらに霊体を越えた霊体というべきものがなければならない。根底には一であり多であるところの無身体的身体がなければならない。今はここまで考える必要はないであろう。我々が世界と呼んでいるものも、それが一つの世界と認識される限り、現れない一点としての同一ということからそれは私の身体であるという意義を持たねばならない、すなわちその一つの世界はすでにそれを越えたより大なる世界において捉えられているものに過ぎない。無限の多がこのように或る有として捉えられる必要があるということは、現実の世界は具体的な形を持つものとしてあるということである、世界は身体的であり、身体に身体が無限に重なるのである。しかし形は核を持つものである。中心核によって形は形である。縁は中心核があることによって生まれるものである。




《結》
形は、形から形へとして捉えられねばならない。形は一と多の統一であるが、一つの形として一と多が合理的に統合される時点ですでに真の一と多はそれを越え出ている。三木清が主体的方面と客体的方面との二重の超越を考えるように、一と多は形に統一されながら、常に形を越えたものでなければならない。それは単に二重の超越なのではなく、第三の方向へ深まってゆくのである。故に形から形へという他ないのである。